第4話 『地獄』の真相



 1 


「柚木伏さーん」
 学校からの帰り道。駅へ向けて街外れの歩道を歩いていると、後ろからそう声をかけられた。
 走ってくる女の子。自分と同じ制服だ。
 亜矢は待ってみる。……あの子は誰だろう?

「あー、追いついた。……一緒に帰ろ?」
 そばに来るなり、笑顔でそう言われる。
「アナタは……誰?」
 亜矢はそう聞いてみる。自分には、親しい子なんていない。
「えーっ? 本気で言ってるのー?」
 女の子は目を丸くする。
「あんまり話した事ないから、わかんないかー……。クラスメイトの、青木ですぅ」
 その子は顔をしかめ、おおげさに肩を落とす。
「青木さん……」
 クラスに、そんな苗字の子がいただろうか? まぁ自分の記憶は全くアテにならないので、いると言われたらいるんだろう。

 だがおかしい。今までただのエキストラ(部外者)でしかなかったクラスメイトというものが、ここで突然、名を名乗り、個性的な動きを見せたのだ。
 何らかのワナだろうか……? 『地獄』が自分を油断させようとしているのか。
 でも、この子から邪気は感じられない。

 妙な事があるものだ、と思いながらも、駅までの道を並んで歩く。
 大型百貨店沿いの商店街。続く、ひと気のまばらなアーケードを抜ける。青木と話しながら街を歩くと、街が違って見えた。ただの背景だったものが、そこに明るさと生気が感じられた。

 そして行き交う人々も、違って見えた。今までは、自分とは全く無関係の、無機物のようなものだとしか思えなかったが、今は違う。彼らに人格と温かみを感じている。
 さらには青木といる事で、自分もそんな人々の中にすっかりと溶け込んでいるような気がした。
 ……おおげさに言えば、「自分が世界と上手く調和している」という錯覚すら起こしてしまうのだった。

 青木は、今日の授業中にすごく眠かったとか、朝練のキツイ陸上部をやめて面白そうな物理部に入ろうとしているとか、今度テストがあるとか、ケータイのアプリがどうのこうのと、そんなささいな事をしゃべり続けた。
 聞いている内に駅に着き、電車が違うのでそこで別れた。
 電車に乗りながら一人、亜矢は苦笑いする。青木のペースにすっかりと呑まれてしまっていた。他人とこんなに話したのも、かなり久しぶりのような気がした。

 そんなささいな喜びに水を差すかのように、家に帰ってみると、亜紀がいなかった。
 呼んでみたり、家の中を軽く捜してみたが、亜紀はいない。出てくる気配もない。
 そのまま夜になり、食事や風呂を終えて、亜矢はあきらめて寝床についた。


 2


 やけにぐっすりと眠れて、遅めの朝を迎える。
「亜紀ー、いないのー?」
 家の中を呼び回るが、依然として亜紀は姿を現さない。
 そればかりか、亜紀とのつながりも感じられなくなってしまっている。まるで糸がプッツリと切れてしまったかのようだ。

 亜矢にはめずらしく、ややあわただしい朝食を済ませて、急いで家を出る。
 電車はいつもより遅めのものに乗るハメとなり、座る席はなかった。駅から学校まで、少し足早に急ぐ。学校での授業。特に何もなく、のろのろと過ぎていく。
 様々な事が、いつもと食い違っていた。
 しかし、何かに裏切られる事もなく、誰かが突然狂い出す事もなく、日常は平穏に過ぎていった。
 平穏過ぎて、逆にそれが空恐ろしく感じられてくる。まるで別の世界に来てしまったかのようだ。この穏やかすぎる世界はまさか……「現実」なのか?

 そう気づくと、何もかもに納得がいった。
 亜紀がいないのも。突然、誰かが襲いかかってこないのも、先生が授業中に狂い出さないのも……ここが現実だとしたら、当たり前の事なのだ。
 どういうワケか、自分の記憶も妙に途切れない。そして自分の中にあるハズの邪気も、今は静まり返ってしまっている。
 ……だが、答えを出すのはまだ早い。もう少し様子を見てみよう……。

「柚木伏さぁん。お昼、一緒に食べよう?」
 昼になり、青木からそんな申し出を受ける。
 亜矢は少し考える。……友達? 私はこの子と仲良くなりたいの? このままずるずると流されていけば、この子になつかれてしまう。
「悪いけど……遠慮するわ」
 弁当の包みを手に、席を立つ。平穏に流され続けている自分をどこかで切り離し、場を冷静に見つめ直したい。
「え〜……どうしてぇ?」
 青木が大きな声を上げる。亜矢は切り捨てるように足早に教室を出た。

 ●

 校舎を出て、校舎脇にある林に行く。
 林は校舎の裏山の森から続いた形になっていて、校舎脇を包み込み、校門まで続いている。
 林の装飾として、登校路のゆるい坂道に沿って、桜の木がずらりと植えられている。季節柄、今は葉桜となっている。
 林の中は見通しも良く、ベンチがいくつか用意されていて、ちょっとした自然公園めいた造りになっている。学校側も、ここで昼食をとる生徒がいる事を想定しているのだ。

 亜矢は古びた木造りのベンチにハンカチを敷いて腰かけ、弁当の包みを開いた。
(亜紀……)
 いつもはここで亜紀と一緒に昼食を食べているのだが、その亜紀は今はいない。
 消えてしまった、とは思えない。もう出てこないとも思わない。……とにかく今は、待つだけだ。

 ここがもし現実だとして、いつの間にか戻ってこれたのだとしても……素直には喜べなかった。
 『地獄』で何かを成しとげた、という達成感がないからだ。あまりにも中途半端で戻ってきた。こんな終わり方はないだろう。

 それとも元々『地獄』というのは、そういうものなのか。夢のようにあっさりと終わってしまうものなのか。
 意味などないものなのか。ある一定の期間を生き延びればそれでいい、というものなのか。
 大抵の人は小学生の内に『地獄』を終えるという。自分は長くいすぎた方だとは思う。でも明確な達成感が得られないのは、やはりフに落ちなかった。
 頼りの亜紀がそばにいない、というのは心細い。亜紀ならば、今の状況が何であるのか、きっと明確な答えをくれていた事だろう。

 食事を終え、ベンチでゆったりする。
 葉桜の向こう側。登校路をはしゃぎながら下っていく女子生徒達。昼休みを利用して、近くのコンビニにでも行くのだろうか。……ここは本当に、のどかで平和な世界だ。
 青木という子の事を考える。
 あぁいった明るい子はどうも苦手だ。自分のペースをかき乱されてしまう。
 いればいたで、にぎやかでいいのだが……自分が欲するものは、そういうものではない。平穏な日常など、自分は求めていないのだ。

 ――何も異常な事が起こらない世界。悪魔などいない世界。
 こんなぬるま湯のような世界にいるのならば、『地獄』の方がまだマシだ。
 こんなつまらない世界がこの先もずっと続くのならば、死んでしまった方がマシだ……。
 青木なんていう子もいらない。幸せで安息に満ちた現実世界など、自分には無縁のままでいい……。

 苦々しい顔でそこまで思いつめて……亜矢は肩の力をすっと抜いた。どうも自分は普通の人間と同じような考え方ができないようだ。
 『地獄』に長くいすぎたからか? 自分は小学生くらいの頃からずっと、キチガイじみた世界で過ごしてきた。だから普通の人間の感覚に、共感できなくなってしまっているのだろうか?

 この自分が現世に戻ったとしても、普通には生きられないだろう。戦場で惨劇の日々を送った兵士が、故郷に帰ってからも悪夢にさいなまれるのと同じようなものだ。また人を殺したくてたまらなくなるケースもあると聞く。
 異様な世界を知ってしまった者は、やすやすと平穏な暮らしには戻れないのだ。

 ……もういい。ムダな事を考えるのはよそう。
 充分のんびりできた。そろそろ休み時間の終わりを告げるチャイムが鳴るだろう。
 そして校舎に戻ろうとして……気が変わった。
 ――こんな事をしている場合ではない。手遅れになる前に、亜紀を捜そう。亜紀の痕跡を見つけるんだ。

 ここが現世だなんて、自分は信じない。何もかもが終わってしまっただなんて、思えない。
 亜紀はきっと、どこかにいる。『地獄』はまだ、終わってはいない。

 ●

 教室に戻ってカバンを手に、学校を出る。
「柚木伏さぁ〜ん……!」
 走って追いかけてくる子がいた。青木だ。

 亜矢は校門前で立ち止まり、青木を待つ。
「どうしたの、柚木伏さん? 早退するの? 具合でも悪いの?」
 息を切らせてそうまくし立てる青木を、亜矢は冷ややかな目で見る。無視しようかと思ったが、言葉が出た。
「青木さん。私はアナタとそんなに仲が良かったの? 悪いけど、そういう記憶が全然ないのよ」
「そんなぁ……」
 青木は顔をくしゃりと歪める。
「悪いけど本当に、私には関わらないで欲しいのよ。私は青木さんと仲良くなりたい、だなんて思っていないから」
 亜矢はそう冷たく言い放つ。
「そうなんだ……」
 肩を落とす青木を尻目に、亜矢は校門を出た。

 甘ったるい友情ごっこなど、自分はいらない。『地獄』がどんなつもりで、こんな馬鹿げた事をしてくるのかは知らないが……自分が見つめるものは、「闇」以外にありえない。平穏な日常など、いらないのだ。
 この自分をゆるがす事など、何者にもできはしない。


 3


 電車に乗り、そこから田畑だらけの田舎道を歩いて、家に戻る。
 家の中を一通り捜してみたが、やはり亜紀の姿はなかった。

(でも、消えたワケじゃない。亜紀はきっと、何かの理由で「出てこられない」んだ……)
 ここが現世だとは、やはりどうしても思えない。まだ『地獄』の中にいるような気がしてならない。
 何らかのワナに落ちているのは明白だ。
 あの「青木」という女も気になる。……あの子は突然出てきた。過去に関わった記憶はない。自分が忘れているだけ……という可能性もあるが、そんな気はしない。
 あの子がやたら、この自分にまとわりついてくるのも気にかかる。

「ねぇ、亜紀! いないの?!」
 何度も家の中で叫んでみるが、反応はない。
 どうすれば亜紀が出てきてくれるのか、亜矢には見当もつかない。
 あれは単に「化け物化した妹」というだけではなく、自分自身、自分の片割れでもあったハズだ。
 それが突然いなくなるという事は、決して好ましい事態ではない。自分の力をごっそりと奪われてしまったも同然だ。

 亜紀がもし、この世界での妄想の産物にすぎないのだとしても……この先もずっとそばにいて欲しい。
 亜紀がいてくれるのなら、自分は死ぬまで『地獄』の中にいても構わない。
 亜紀は、この自分の唯一の理解者なのだ。時に誤った方法でこの自分を苦しめたりもするが……結果的には間違っていない事の方が多い。亜紀はこの自分のためを思って、あえて狂気の裁断を下す事があるのを、自分は知っている。

 ……亜紀のいない世界。何もない平穏な世界など、自分は望んでいない。
 ここ2〜3日で、それだけはハッキリとわかった。自分は『地獄』の中で、「苦しんでなどいなかった」のだ。

 ●

 ふすまを開け、亜紀の部屋を覗いてみるが、やはり亜紀はいない。
 あきらめて自室に戻る。すると、机の上に小さなメモ用紙を見つけた。

 ――お姉ちゃん。地獄に戻りたいのなら、地獄を見ないといけないよ? できる?

「……亜紀」
 間違いなく、亜紀からのメッセージだ。
「いるの?! 亜紀?!」
 呼んでみるが、やはり気配はない。……つながりも感じられないままだ。
 でも亜紀は確かにいるのだ。いるのなら何故、出てきてくれないのだろう? こんな書き置きをするだなんて、亜紀らしくない。

「地獄に戻りたいのなら、地獄を見ないといけない……?」
 まるで謎かけだ。恐ろしい事をしでかせ、と言うのだろうか? 例えば……人殺しを。
(馬鹿言わないで……)
 亜矢は首を振る。『地獄』に戻りたいからといって、そう簡単に人殺しなんてできるワケがない。

(……待てよ。「地獄へ戻る」ですって……?)
 その言葉が意味するのは、今いるこの世界が『地獄』ではない、という事なのか。
 じゃあやはり、この世界は「現実」なのか。
 ……ここが現実ならなおさら、人殺しなんてできない。
 この世界で人を殺せば、あっという間に警察に捕まる。牢獄へ入れられて、「人殺し」という馬鹿な行為を、悔やまなければならなくなるだろう。

 でも、亜紀の言葉は信じたい。むやみにテキトウな事を言う子ではない。
 メモ用紙を長く見つめる。……しかし、答えはすぐには出ない。
(地獄を見ないといけない……か)
 亜紀は「人を殺せ」とは言っていない。早とちりはよそう。
 自分における地獄とは何なのか。しばらく考えてみる必要がありそうだ。


 4


「柚木伏さぁ〜ん」
 それから何日か後の朝。駅を出たところで、亜矢は後ろから声をかけられた。
 ……やはり、青木だった。亜矢は顔を曇らせる。
 以前、あれだけハッキリと拒絶を示したのに、まだ自分に話しかけてくるとは恐れ入る。

「何なに、柚木伏さーん? いつもこんなに朝早いのー?」
 ……まるで親友か何かのように。親しげにしてくる青木を、亜矢は静かな気持ちで見つめる。
 こんな子は知らない。きっと『地獄』のワナなんだ。
 自分を「現実もどきの幸せな世界」に、閉じ込めておきたいのだ。だから、こんな子をムリヤリ押しつけてくるのだ。
 押しつけられている内にこの子に情が移り、平穏というものの心地良さを知り、自分はフヌケて力を失い……悪魔と対峙する事もできなくなる。そんな日がくるのを、『地獄』は待っているのか。

 それともやはり、ここはただの現実世界であり、『地獄』などとは全く無縁の状態にあるのかもしれない。平和ボケした世界で、平和ボケした子が自分にまとわりついてきているだけの事なのか。
 ……どちらにせよ、素直に受け入れるワケにはいかない。

 亜矢は無視して歩いていくが、青木は気にした様子もなく、何かをしゃべりながらついてくる。
(こういう楽しそうな夢を……私に与えてくれるなんてね)
 今いる世界そのものに、自分への悪意か好意といった「意思」すら感じてしまう。
 だが、青木の行動には難がある。現実にいる子とは、感覚がかけ離れているように思えるのだ。
 自分はこの前、「アナタと仲良くなろうだなんて思っていない」とハッキリ言ったのだ。なのに、それを忘れたかのようなこの振る舞い。押しつけがましいにも程がある。

 ……しかし。そんな青木の「執着」に、亜矢は自分自身の弱さを見る。
 青木がもし、自分の妄想とどこかでつながっているのだとしたら……青木の存在そのものが、「自分の願望を具現化」したものなのかもしれないと思うのだ。
 ――拒絶しても拒絶しても、やはり他人とつながっていたい。
 そんな願望が、自分の中にあるような気がする。

 こんな子は、どこにも存在しないのかもしれない。こうして一緒に話しているのも、ただの夢のようなものなのかもしれない。
。そう思うと、邪険に振り払う気力もなくなってしまうのだった。

 ●

「亜矢ちゃん、おはよー」
 教室に入るなり、そう声をかけられる。
 見た顔のクラスメイトだ。だが、数日以前の『地獄』の中では、話をした覚えはない。無論、こうやってあいさつを交わす仲でもない。
「おはよう」
 普通に返して、亜矢は席に着く。

 青木がそばの席に来て、またおしゃべりを始める。
 亜矢は聞き流す。だがこうしている内に、悪い気がしなくなってきた。……友達がいて、楽しい会話を交わしあう。それを拒絶する理由はない。
(『地獄』に痛いところを突かれているみたいね)
 何を思って、世界はこんな変化を見せてくれているのか。亜矢は黙って、受け入れてみる事にした。

 何事も起こらない長い授業を受け、昼を迎え、青木に押し切られて一緒に昼食を済ませる。そうして午後も過ぎ、狂い一つないまま、放課後になる。
「柚木伏さぁん、一緒に帰ろう〜?」
 すっかり自分と打ち解けた青木がいる。
 ……打ち解けたと思っているのは、騙されているからか。

 でもこのまま、騙されてみてもいい。この先に何があるのかを知りたい。
 亜矢は青木と一緒に帰る事にした。


 5


 騙されている先に何が待ち受けているのかと気を抜かずにいたが……本当に何事もなく、平穏な日々が流れていく。
 青木はそばで愛らしく笑い続ける。亜矢もつい、笑顔を返してしまう事が多くなった。

 駅までの道のりをゆっくりと歩きながら、街を眺め、空を眺め、道行く人々を眺める。
 ……本当に、ここは現実なのかもしれない。自分はやはり、『地獄』から無事に帰ってこれたと見るべきなのか。

 幼少の頃に突然始まり、いつしか消え去るように終わるという悪夢――『地獄』。
 『地獄』が終わると、その時に体験したもの全てを、いずれは忘れてしまうのだという。
 だが、恐ろしかったものの全てが、「体験済み」として深層心理に残り、人間的に「あまり怖がりではなくなる」。そうして人は、大人になるのだ。
 そして『地獄』が終わると、子供じみた「妄想」をその目で見たりはしなくなる。狂いの生じない、本当の現実で生きていく事になる。

(私も大人になった……っていう事なのかな)
 急に先生が悪魔になって襲いかかってきたり、学校の先輩が悪魔になって、いじめっ子達を皆殺しにしたとか……そういう妄想めいた出来事は、もうここにはない。
 そう。自分がやっきになって探していた「恐ろしい事」なんて、この世にはそうそう起こり得ない事なのだ。この世界はもっと、喜びと平穏に満ちあふれた世界なのだ。

(亜紀も……もうとっくの昔に死んでいるのに。私はそれを、いつまでも引きずっていただけなんだ……)
 今ならハッキリとわかる。今目にしている平穏な世界こそが、当たり前の現実なのだ、と。
 亜紀は両親と共に、高速道路の交通事故で死んだのだ。自分だけが奇跡的に助かって、一時的に親戚に預けられたりもした。だが居心地が悪くて、中学になると同時に、空家だった実家に移り住んで、一人で暮らしていたのだ。
 長い間一人でいて、自分は過去のトラウマで気を病み続けていた。
 そして自分はいつまで経っても、子供特有の『地獄』という殻にこもり続け、現実を見る事を長く拒絶していたのだろう……。

 それがやっと、晴れたのだ。『地獄』は夢であったかのように消え去り、自分は現実に戻ってこれたのだ。いや元々『地獄』そのものが、自分だけの妄想の産物であったのかもしれない……。
 答えが見えてしまうと、虚しくなる。

「じゃあまたね〜」
 電車に乗る青木を見送り、自分も電車を待つ。
 ほほえましい現実がここにある。どんなに気どっていても、どんなに自分が特別な人間だと思っていても……自分はごく普通の高校生でしかなかったのだ。

 ●

 だが家に戻ると、妙に胸騒ぎがする。
 家そのものが、「まだ終わってはいない」と言っている。屋敷の暗がりの中、息をひそめてこちらの様子をうかがっている何物かの気配が、確かにある。
 ――怖い。家の中がたまらなく怖くなる。
 まだ、亜紀はいる。
 やはり、周囲に騙されているだけなのだ、自分は。

 頭の血をざわつかせながら、亜矢は自室に行く。
 机の上のメモ用紙。……そうだ。これを忘れてはいけない。亜紀は自分に訴えているのだ。『地獄』はある、と。
 見れば、メモの内容が違っていた。

 ――お姉ちゃん。あの子を殺さないと、その世界からは絶対に抜け出せない。

「あの子……?」
 そう言われて思い当たるのは、最近やけに親しげにしてくる、青木しかいない。
「青木さんを殺す……?」
 そんな事などできるワケがない。憎むべきところもないし、あの子には悪意もない。悪魔が化けている、などという事なのかもしれないが……今のところそんな気配はみじんも感じられない。

 前回のメモは、「地獄へ戻りたいのなら、地獄を見ないといけない」という内容だったハズだ。地獄を見るというのはやはり、「人殺し」の事だったらしい。
 だがさすがに今回ばかりは、亜紀の言葉をやすやすと信じて実行に移すワケにはいかない。
 亜紀の言葉が正しいのだとしても……青木が悪魔か化け物だとハッキリしない限りは、殺すだなんてできるワケがない。

 バチッ――

 脳裏に火花が散り、一瞬、記憶が途切れる。
 今、何かが起きた。……ここはやはり『地獄』なのだと、亜紀が教えてくれているのか?
 メモを見ると、亜紀からのメッセージが増えていた。

 ――青木さんを殺して。

「できるワケないでしょう!!」
 亜矢はメモ書きをクシャリと丸め、ゴミ箱に投げ入れた。


 6


「おはよー」
 登校時。電車から降り、駅から出るとすぐに、後ろからそう声をかけられる。
 青木だ。自分の登校時間に、わざわざあわせてきている。
「いい天気だよね〜。見て、この青空!」
 毒気のない笑顔で、そんなどうでもいい事を言われる。
 ……殺せるハズもない。この子を殺すだなんて、狂気の沙汰だ。
 でもそういう狂気こそを、自分は抱えていなかったか? 狂気を別世界のように感じている今こそが、間違っているのではないだろうか?

 亜矢は黙って一緒に登校する。青木の楽しげな話が始まる。押しつけがましい幸せ。でも確かに心地良い。
 ……自分は今、平穏な日常に完全に呑まれてしまっている。
 これを壊さなければ、『地獄』へは戻れないのか。壊せば、『地獄』へ戻れるのか。

 学校に着くと、「おはよー」と声をかけられる。何人にも。
 おしゃべりに囲まれ、亜矢も笑う。冗談を言われ、誰かの背中を押しのけて大笑いする。こんな自分がいたんだと、初めて知る。
 幸せでしょうがない。楽しくて、しょうがない。人間はこの程度の事で、心の底から幸せになれるものなのだ……。

 充足感に満たされながらも、亜矢は冷静に「今」を分析してみる。
 ――さて。自分が今、笑いながら無遠慮に背中を叩いた子の名前は何だろう? ……友達だという事はわかるが、名前がハッキリしない。
 ただ忘れているだけだという可能性もあるだろう。何しろ自分は忘れやすい体質なのだから。それが『地獄』がらみではなく、現実に於いても、事故の後遺症か何かで脳に欠陥が生じているのかもしれない。
 ――じゃあ、この子との他の思い出を思い出してみよう。何かないだろうか? どんな些細な事でもいい……。
 しかし、やはり何も浮かんではこない。
(これでハッキリしたわね……)
 自分は今、思い出一つない子と親しげにしているのだ。逆に、思い出があったとして、その全てを忘れているのだとしたら……自分は今、こんなにも親しくはしていないだろう。親しくしている事自体が、おかしいのだ。
 ――つまり、自分が今目にしているのは、「浅はかな作り事」でしかないという事だ。平穏な日常にすっかりと呑まれた「絵」を、与えられているのだ。自分の言動も含めて。
(呑まれているのか何なのか……私自身ですら、エキストラ化しているようだわ……)
 わかっていても、拒絶できない。この温かな夢に、笑顔で応え続けている。

 青木を交えた数人で、談笑しながらの華やかな昼食。かっこいい男子のウワサ話。この自分を「美人」だの「落ち着いている」だのと持ち上げる友人達。
(私の妄想であり、願望……。こんなにちやほやされたかったんだ、私は……)
 亜紀がいなくても、全然さびしくならない。
 この世界になら、騙されてしまってもいい。このまま何事も起きないまま平穏に暮らしていけて、そして生涯を終える事ができるのなら……それでもいいのではないだろうか?
(でもこれは、現実じゃないんだ。ただの夢なんだ……)


「亜矢ちゃーん、バイバーイ!」
 そんな声に亜矢はふと顔を上げる。駅のホームで青木が手を振り、電車に駆け込んでいく。
(今ハッキリと、記憶が途切れた……)
 亜矢はくしゃりと顔を歪める。
 もうこんなにテキトウな扱いを受けている。騙されたまま、自分はこの世界でこのまま流されていくのだと思われている。

 でも、本当にあらがえないかもしれないと思った。
 亜紀が示す狂気を、受け入れる事はできない。
(青木さんを殺すだなんて……絶対に無理よ。できるワケがない……)

 ●

 夕焼けの中。田園の奥にある我が家への道のりを、亜矢は静かに歩いていく。
 ……こういった事の繰り返しなのか。現実とは。
 平和な日々さえ続けばいい。面白おかしく笑っていられれば、それでいい。
 黒い感情など持たなくてもいい。笑ったまま一生を過ごし、安らかな笑顔で終える事こそが望ましい……。
 だが。おとなしく周囲に呑まれながらも、亜矢はまだ拒絶の心を失ってはいない。
 家に戻れば、正気に戻れる。恐ろしく底しれぬ闇が、まだそこには凝り固まっている。
 『地獄』が何を企み、いくら自分を騙そうとしても……その場所だけは汚せないのだろう。きっとそこに、自分の「強さ」が秘められている。

 黒い屋敷。我が家を前にする。
 外の世界とは断絶された場所であるかのように、我が家の中だけは、恐ろしい気配を帯びたままだ。
 この闇こそが正しい。外の世界での出来事は、何もかもが馬鹿げていて、意味をなさない。
 平穏には屈しない。自分を見失いはしない。本来のドス黒さを残した『地獄』は、まだ確かにここにある。

 ……でも、青木を殺す事はできそうにない。
 情が移ったなどの問題ではなく、ここが現実に限りなく近い世界なのだとしたら、人殺しは大罪なのだ。間違いは犯せない。

 だが亜紀はいつか、迷いなく先生を殺した。それはその場限りのものとなり、後日また、その先生は知らぬ顔で教壇に立っていたではないか。だから実際には、この世界で人をどれだけ殺そうが、何の問題もないのかもしれない。
 でも、そう割り切れない。少なくとも、何の罪もない子を殺すなどという事はできそうにない……。
 やらなければ絶対に、『地獄』に戻れないのだとしても……まだ別の方法を探る時間が欲しい。

 亜紀からのメッセージがないか、と自室に戻る。机の上を見るが……何もない。
 また亜紀に何か書いてもらおうと、亜矢はメモ用紙とペンを新たに用意した。

 ●

 台所で夕食を作り、畳敷きの座敷で一人で食べる。
 大きなちゃぶ台を前にのろのろと食事をするが、食が進まない。ちゃわん半分のご飯と、小皿の煮つけを少し口にした程度で、やめにする。
(……私はどうしたいの? 『地獄』へ戻りたいの?)
 青木を殺さなくては『地獄』へ戻れない、という亜紀の言葉。でも青木を殺せるハズもない。
 最悪の場合、あのメッセージが亜紀のものではないという可能性もある。青木を殺した後で間違いに気づいても、遅いのだ。
(そもそも、『地獄』へ戻る必要なんて……あるの?)
 そう思ってしまえば、あらがう事など無意味だ。このままこの温かな世界で、笑って生きていけばいい。
 でも、この世界がただ単に「与えられたもの」なのだとしたら……やはりあらがわないワケにはいかない。
 ……だったらどうすればいい?
 色々考えて、頭の中がおかしくなる。

 ――やはり、自分には亜紀が必要だ。
 亜紀なら正しい答えをくれる。やり方が荒っぽくても、亜紀には間違いがない。そう信じている。
 そして亜紀は自分の半身なのだ。亜紀がいない事には、自分は自分になり得ない。亜紀は、死んだ妹の姿をしているが、あれは便宜上そうしているだけであって、亜紀は本来、自分の一部なのだ。
 ……半身である亜紀を、『地獄』に落としてきたままだ。
 これではいけない。だから今の自分は、正常な判断ができないまま、流されてしまっているのだ。

「まやかしなのよ、何もかも」
 そう一人ごち、亜矢は唇を噛む。
 ここは、自分がいる世界ではない。自分は『地獄』を欲している。自分は狂気をたずさえた人間だ。答えなど、初めからゆるぎはしない。自分はどうにかして、『地獄』へ帰るのだ!
 ただ、その方法がまずいから、悩んでいるだけなのだ。

 ●

 自室に戻る。机の上のメモを見ると、新たに何かが書かれていた。

 ――青木さんを殺さないと、お姉ちゃんは『地獄』で生きる力を維持できない。
 ――お姉ちゃんは確実に弱っている。だから、そんな弱い世界にいる。

 亜紀は、どうあっても、自分に青木を殺させたいらしい。
「何の罪もない子を殺して、『地獄』に戻る……。まさに地獄行き、という感じね」
 亜矢はため息をつく。
 でも自分の精神力が弱くなっているのは理解できる。最近、急激に力をなくしてしまったような気がする。
 自分の精神にひどいダメージを与えるような、何か重大な事が最近起こったような気がするが……もう記憶の中には残っていない。考えても、引き出す事は無理そうだ。

「ねぇ。これって本当に亜紀の言葉なの? 『地獄』のワナじゃないよね?」
 メモをいくら見ても真実はわからないが、亜紀の超常めいた力を信じたい。
 以前の自分なら……迷わずに青木を殺せただろうか? 今、自分は狂気を失い、弱っているから、青木を殺せないのか。
 やれそうもない事だからこそ、乗り越えなければならないのか。要は、青木を殺す事は、自分にとって「試練」のようなものなのか。
 キチガイじみた事をしでかさないと、絶対に『地獄』へは戻れないのか? 平穏な世界にいる今の自分を壊す勢いで地獄を作り出してこそ……『地獄』へ戻れるのか。

「狂気を持ったフリをしていても、それは本当にフリでしかない……。狂気を実行に移さないと、本当の狂人にはなれない……という事かしらね」
 亜矢は顔をきつくしかめる。
 ……現世で生きるのならば、狂人になる必要はない。だが『地獄』で生きたいのならば、狂気は絶対に必要なのだ。
「私は『地獄』の中で、中途半端すぎたんだ。だからこうして今、「人を殺せるかどうか」、試練を与えられている……。そうなんでしょ?」
 亜矢は、青木を殺す事についての理由づけをする。無理にでも理由をつけないと、実行には移せそうにない。

「……わかったわ。やるわ。でもその前に、ちょっとだけ確かめたい事があるのよ……」
 亜矢は隣の亜紀の部屋に行った。

 ●

 亜紀の部屋の中も、自分の部屋とさほど内装は変わらない。ベッドに机に本棚にクローゼット、そしてTVにDVDデッキ。これがふすまごしの部屋の中なのだから笑えてしまう。
 本棚には映画のDVDが並ぶ。亜紀は映画が好きだった。これらのDVDは、小学生の頃に集めた物だとは考えにくい。中学、高校に入ってからの物だ。
(あの子は小学生の時に、事故で死んだ。……でもそれは現実世界での話。つい最近まで、『地獄』の中に亜紀はいたんだ……)
 最近までここに亜紀がいた、という痕跡は、確かに部屋内に残されている。
「でも……もっとハッキリとした証拠があるでしょ!」
 亜矢はおもむろに、亜紀の机の引き出しを開けていく。
 その2段目に、びっしりとアーミーナイフ(軍隊用のナイフ)が収められていた。

「これよ、これ!」
 思わず、亜矢は破顔する。
 『地獄』の中で、亜矢は亜紀と一緒に、この世ならざるものと戦ってきた。このナイフは、その名残りなのだ。

 迷いが確信に変わった。
「わかったわ。この平穏な世界は、私がいるべき世界じゃない。『地獄』へ戻るために……青木さんを殺すわ。私に、狂気を宿らせるためにもね」


 7


「おっはよー、亜矢ちゃーん」
 駅を出たところで、息を切らせた青木に呼び止められる。
「アタシがこの時間に来るの、わかってるんだからさー。亜矢ちゃん、その辺で待っててよー」
 昨日までの自分ならば、そんな青木に親しみを感じて笑顔を返しただろう。でも今は違う。心が冷めている。なれなれしいとしか思えない。

 亜矢は神妙な顔で青木を待つ。
 そして作り笑いを浮かべながら、歩き出す。青木の一方的なおしゃべりが始まる。ケータイのアプリを見せてくる。これがこんな風に面白いんだとはしゃいでいる。
(この下らないなれあいも……今日で終わりにしてやる)
 手にしているカバンの中には、ナイフが忍ばせてある。
(どうせこんな子は存在すらしない。私をこのぬるま湯のような世界にしばりつけておくだけの、エキストラなのよ……)
 ――だから、殺す。
 殺して狂気を取り戻し、自分は『地獄』へ戻るのだ。

 駅前から離れて商店街へ入ると、ひと気はまばらになる。まだ朝の早い時間だからだ。
 学校までのルートはいくつかあるのだが、青木は決まってアーケードを通りたがった。まだどの店も開いてはいないが、そこを通るのが好きなようだった。
 青木の楽しげな話は尽きない。次から次へと、あらかじめ話題を用意してあるかのように、途切れずに続く。
「……今日は機嫌悪いの、亜矢ちゃん?」
 ふいにそんな事を言われてドキリとする。まぁそうね、と軽く返す。この子を殺すと決めた以上、中途半端な態度はとらない事に決めていた。朝からほとんど無視し続けた。

 アーケードの終わりを北へ。大型百貨店に沿った商店街を通り、開けた交差点に出る。いくつかの公共機関や小会社がまばらに並び、その先にある踏切を越えて短い橋を渡ると……もうそこは学校だ。
「青木さん。悪いけど、ちょっと一緒に来てくれる?」
 橋の上で、亜矢は唐突に口を開く。
「え? 何なに? ……急にどうしたの、亜矢ちゃん?!」
 返事がない事で、さっきからしょんぼりしていた青木だったが、そこでびっくりした顔を上げる。
「そこの神社に……お願い事があってね」
 そこから見える、木々におおわれた小山。学校の裏山にあたる。その頂上は開けていて、神社になっているのだ。
「え〜? お願い事〜? 亜矢ちゃん、そういうの好きなんだー? へえ〜? もしかして、ずっと悩み事とかしてたの〜?」
 青木は目を輝かせて、すり寄ってくる。
「行く行く〜! 私もお願い事、好きだもーん!」

 亜矢は顔をしかめ、はしゃぎ出す青木から目を背けた。

 ●

 橋のたもとから左側に砂利道が伸び、50mほど行くと鳥居がある。鳥居から山の斜面に沿って、石段が伸びている。石段は幅3mほどもあり、しっかりとした造りになっている。
 石段を数段登ると、周囲の木々に隠れてしまい、人目にはつかなくなる。山頂の神社も、周囲からは全く見えない。そこまで行ってしまえば、自分達の姿が、付近を登校中の生徒に見られるという心配はない。
 亜矢と青木は神社の境内に上る。見る限り、誰もいない。

「うわー。私、ここに来たの初めてー」
 周囲を見回して、青木ははしゃぐ。砂利の敷かれたやや広めの敷地。境内の周りは、背の高い杉と広葉樹にすっぽりと覆われている。
 敷地の正面奥に、小さな社がある。素人の手造りかと思うほど、粗末なものだ。無論、神主などいない。
「あの神社にお祈りするの? 亜矢ちゃん」
 青木は社を指差して近づいていくが、亜矢は歩をにぶらせる。

 ……誰かに見られる心配はない。風もほどよく吹いていて、森の葉音で、悲鳴も遠くまで届かないだろう。
 だがここに来て、また決心がにぶる。
(亜紀……アンタの言葉を信じていいの? 青木さんを殺せば、私は本当に、『地獄』に戻れるの?)
 自分の狂気のために、何の罪もない子を殺す。それがどれだけ自分勝手で罪深くて、しかも馬鹿げた事なのか。よく考えなくてもわかる。

「亜矢ちゃん……?」
 顔をしかめて突っ立っている亜矢に、青木はけげんそうな顔を向ける。

 思い出す。
 亜紀の机の引き出しの中には、アーミーナイフがごっそりとあった。あれは、この世界がまだ、『地獄』と関連づいている事を示している証拠なんだ。
(狂気。狂気を取り戻さないと、私は『地獄』へ戻れない……。狂気がないと、私は私になり得ないんだ!)
 ここにいる青木は、生きた人間じゃない。どこにも存在しない子だ。『地獄』が、自分をこの場にしばりつけておくために用意した、都合のいいエキストラなんだ。
 だから、もう迷うな! 今できなければ、この先いつまで経ってもできはしない。
(……この子を殺して、私は狂気を取り戻すんだ!)
 亜矢は手にしたカバンを開け、さやのついたナイフを取り出した。


「なぁに、それ?」
 青木は目をしばたかせて、近寄ってくる。
「ナイフよ」
 亜矢は皮のさやからナイフを引き出す。
「……何に使うの、それ? お願い事に?」
 まだ事情を呑み込めていない青木が、亜矢に問う。
「違うわよ」
 亜矢はナイフの刃を、青木に向けた。

「え……? どうしたの、亜矢ちゃん?」
 まっすぐにナイフの刃を向けられた青木は、そこに冗談が混じっていない事に気づき、たじろいだ。
 亜矢は青木を見る目に力を込める。
「ごめんなさいね。アナタを殺さないと、私は元いた世界に戻れないのよ」
「……ええっ? 亜矢ちゃん、怖いよ……何それ?」
 少しずつ後ずさる青木に、亜矢は大きな歩で詰め寄る。
「そうよ。私は元々、怖い人なのよ。アナタ達みたいに、楽しくて明るい子には到底なれない……恐ろしい人間なの」
「やだあッ!」
 青木はふいにカバンを投げ捨て、走り出した。
 亜矢は素早く駆け寄って、青木の腕をつかむ。でも片手では青木を抑え込めない。ナイフをいったん地面に投げ刺し、亜矢は両腕で、青木を力まかせに砂利に引き倒した。

「いやあああーーッ!」
 青木の甲高い悲鳴。亜矢は口元をふさぎ、青木の上に馬乗りになる。
 青木は激しく首を振り、手足をバタつかせる。抑え込めると思ったが、亜矢は突き飛ばされてしまった。
(力が……思ったように出ない)

 こうなったら、いきなりナイフで切りかかった方が早い。
 地面に刺したナイフを急いで拾い上げるが、青木はあっという間に駆け去っていて、石段の方へと逃げていた。もう距離は10m程度離れてしまっている。
(このままじゃ、逃げられる……!)
「亜紀……ッ! 助けてッ!」
 絶望の中、亜矢は祈る。

「アーーーッ!」
 石段の手前で、青木はいきなり転んだ。
 その足から、血しぶきが噴水のように飛び出していた。

 亜矢は不思議な思いで見つめる。……亜紀がやったのか?
 亜矢は倒れた青木に駆け寄り、素早くその腹にひざを乗せる。そして胸元を左腕で押さえ込んだ。
 右手に持ったナイフで、今まさに青木を殺そうとしたが……青木は抵抗し、両手であごをつかんできた。
 ……その抵抗があまりにも生々しくて、亜矢はゾッとする。
(本当に、現実世界で人を殺そうとしているみたいね……)
 狂気を取り戻すための試練だとか、そういう感じがしない。自分がただトチ狂って、友達を殺そうとしているだけのようだ。
 ……でも、もう後戻りはできない。今さら迷っても、どうにもならない。
 亜矢は、青木の腹に乗せたひざを強く押し込んだ。青木はうめいて、あごをつかんでくる手がゆるんだ。
 その一瞬のスキを突いて、亜矢は青木のか細い首すじに、ナイフの刃を突き刺した。

「うーーーっ!」
 青木の顔が悲痛にゆがみ、涙があふれ出る。
「う、う、うぅううーーッ!」
 苦しげに身じろぎする。亜矢はナイフを引き抜き、弾かれるように青木から身を引きはがした。

 亜矢は奥歯を噛みしめ、青木のもだえる姿をじっと見る。
 ……やってしまった。
 この数日間、仲良くしてくれたのに。この子は何一つ、悪い事をしていないのに。

 青木は両手で首元を押さえながら、砂利を蹴る。何度目かの咳で大量に血を吐くと、それを機に青木の動きはのろくなった。
 のどの血が肺に入って、呼吸できなくなっているんだ。
 亜矢はそれを、泣きそうな顔で見つめる。
(……私がやったんだ。私は人殺しだ……。とうとう私は、化け物でも何でもない、普通の子を殺してしまったんだ……)
 殺したんだから、狂気を得なければならない。ここで狂気を得なければ、青木を殺した意味がなくなる。
 亜矢は笑おうとした。……だが、できるハズもなかった。

 やがて青木は力尽きて動かなくなった。

 ●

 青木の死体を見つめながら、亜矢は動けずに、苦しむ。
 取り返しのつかない事をしてしまった、としか思えない。狂気など、どこにも湧き上がってはこない。
(これで本当に……『地獄』へ戻れるの?)
 今はまるでそんな感じはしない。時間が経たなければ、世界の変化は感じられないのだろうか。

 青木をどんなに見つめ続けても、その死体が消えるでもなく、悪魔などに変わったりもしない。
(結局……この子は何だったの? 私に殺されるためだけに存在した、エキストラだったの?)
 そうであればいい。そうなら、さほど心が痛まないで済む。
 だが、そうでない場合が怖い。もし青木が本当に実在する子であったのならば……殺したのは完全に間違いだ。
 殺す時、青木が抵抗してきた事が、思いの他ショックだった。
 青木は殺されたくなかった。……つまり、青木にはちゃんとした意思があり、命があったんじゃないだろうか?
 でもそう思うとつらすぎる。
 狂気を得る前に、罪悪感に押し潰されてしまいそうだ……。

 やがて、学校の方からチャイムの音が聞こえてきた。
 ……いつまでも、ここでこうしているワケにはいかない。
 この神社の利用者は、そこそこいるのだ。学校の裏山にあるから、いいサボリの場にもなっている。朝から利用者がいないとも限らない。

 亜矢は青木の死体を引きずって、木々の中に寝かせた。使ったナイフもそこに捨てる。
 境内の砂利に大量の血が残ったが、これはどうしようもない。

 ここで起きた殺人を、念入りに隠すつもりはない。このあとすぐにでも、『地獄』へ戻れるだろう。亜紀の言う通りにしたのだから。
 もう、学校にも用はない。亜矢はその足で家に帰った。


 8


 家に戻り、何をするでもなくぼうっとして一日を終え、続いて眠れない長い夜を過ごした。
 考えても考えても、答えは出ない。自分はただ、結果を待つ事しかできない。
 答えを急かすように、机の上に新しいメモ用紙を用意し、亜紀の返事を待つ。

 青木が実在するかどうかは、大した問題ではなくなっていた。それ以前に、「自分は何の罪もない少女を殺した」という事実は変わらないのだから。
 『地獄』に戻るためとはいえ、あまりにも残酷すぎる事を自分はしてしまったのだ。
(このままじゃ押し潰される……)
 苦しんで悩んで、どうすれば気が楽になるのかを考えて。長すぎる夜を終えて、朝になって迎えた答えは、「罪悪感を感じている限りは、決して狂気というものは得られない」という事だった。

 人間としてのまっとうな心をなくさなければ、狂気など得られはしない。
 ……だが、自分にはそういうのは無理だと思った。
 殺人を犯した事を、笑ってはねのけるだなんて、できやしない。時間が経つにつれ、青木を殺した事に対する後悔が深まるだけだった。
 ……これではダメだ。狂気などというものとはほど遠い。
 あれほど戻りたかった『地獄』に、拒否反応すら感じている。『地獄』というものがどんな魅力にあふれていたのか、今ではさほど思い出せなくなってしまっている……。

 でももう後戻りはできない。
 この世界で人を殺してしまった。この世界から脱却する以外に、助かる道はない。
 ……とにかく今は、精神の圧迫に耐えるのだ。ここを耐えねば、次はない。

 やるだけの事はやった。あとは結果を待つだけだ。
 だが、自室の机の上のメモ用紙に変化はない。亜紀の言う通りにやったのに、亜紀は何も言ってはくれない。
 そして依然として、姿も見せないままだ……。

 ●

 電話が遠くで鳴っていた。玄関にあるダイヤル式の黒電話だ。未だにそんな古い物を使っているのだが、電話を使う機会などめったにないので、昔からあるままにしている。
「はい。柚木伏です」
 電話に出てみる。学校からだった。

「……あぁ、いたのね。昨日はどうしたの?」
 女の声。教頭先生か。
「具合いが悪くて……すみません」
 テキトウに謝っておく。
「ならちゃんと事前に、学校に連絡をくれないと! ……それと、ねぇアナタ、青木さんの事を知らない? 昨日の朝、学校に向かったまま行方がわからなくなっているのよ!」
 ……でしょうね、と亜矢は小さくつぶやく。登校時に自分が殺したのだから。
 青木の死体はまだ発見されていないらしい。昨日はめずらしく、あの神社の利用者がいなかったようだ。利用者がいれば、砂利に残った血で大騒ぎになっていたハズだ。

「さぁ。私にはわかりません……」
 言いながら、嫌な感じがしていた。周囲の反応が、未だに現実めいている。このまま行けば……自分はこの世界で牢獄行きになるだろう。
「じゃあ何かわかったら連絡してちょうだい。……亜矢さん、今日は学校に来るの?」
「えっと……まだ具合いが悪いので、何日か休ませてもらいます」
 学校になど、もう用はない。自分は『地獄』へ行けさえすればいいのだ。
「そう。じゃ、お大事にね」
 電話が切れる。

 自室に戻り、机の上のまっさらなメモ用紙を苦々しい思いで見る。
「亜紀ッ! どうすればいいのよッ! あんたの言う通りにやったのに!」
 そう、かんしゃくを起こす。
 世界に変化がないのなら、青木を殺したのは全くの無意味になってしまう。
 ベッドの上に身を投げ出し、なおも亜紀の言葉を待つ。返事がなければ、動きようもない。

 ――まだ足りないのか、「狂気」が。
(えぇ、確かに足りてないわ。全然狂っていないもの)
 青木を殺しても、罪悪感しか感じなかった。この身を奮い立たせるような狂気など、全く感じられなかった。
 『地獄』に戻れるのなら、何だってやってやる。もう取り返しのつかない事を、やってしまったのだから。
 この世界にこのままいたのでは……自分は破滅してしまう。何としても、『地獄』へ戻るしかない。


 9


 眠れない夜をすごし、朝がすぎ、日が昼に差しかけようとする辺りでやっと眠気がおとずれ、亜矢はまた床についた。
 深い眠りの後、気づけば夕刻を迎えていた。
 机の上を見やる。亜紀からの、新しいメッセージが書かれていた。

 ――お姉ちゃんの狂気、まだ全然足りてないね。もっともっと殺して! 狂うほどに。

 そんな物騒なメモに、亜矢はため息をついた。今さらながら、何かに騙されているような気になってくる。
 確かに、亜紀もこういった物騒な事を平気で言う子だが……自分は、このメモの言葉をうのみにしすぎていたんじゃないだろうか?
 でも、もう引き返せない。
 青木の死体も、すぐに見つかるだろう。このままだんまりを続けたところで、自分が殺したのはいずれ、警察に突き止められる。
 この世界にはもう、絶対にいられないのだ。

「もっともっと殺せ……か」
 嫌でもやるしかない。『地獄』へ戻るために。
「亜紀。あんたの言葉、信じるからね……!」
 これが亜紀からの言葉でないとすれば、何を信じていいのかわからない。だからせめて、このメモだけは信じようと思った。

 町に出向いての無差別殺人などを考えたが……それはどうも違う。
 ――狂気を得るために、人を殺すのだ。
 できるだけ「自分に関わるもの」を殺さなくてはならない。そうじゃないと、自分の胸には響かない。
 『地獄』に行くためには、『地獄』を見なければならない。「自分の居場所」を壊すのだ。徹底的に。

 だから……殺戮を行うのは、学校以外にありえない。
 『地獄』の扉が開かれるまで、殺し尽くすのだ。
 亜矢はそう決めた。


 10


 翌朝。亜矢はまたカバンの中にナイフを忍ばせて、登校する。だが今度は複数だ。亜紀の机の中から、10本ほども拝借してきたのだった。
 駅からの道を、学校へ向けて一人で歩く。道のりがやけに長く感じる。青木や亜紀と一緒にいれば、歩くのが苦痛だなんて思う事もなかった。
 ……まだまだ自分は精神的に弱い。誰かの優しさを受けてしまうと、平凡な子と変わらない笑顔になる。
 乗り越えなければならない事は、まだまだ多い。
 今回の事ももしかすると、『地獄』の中での試練の一つに過ぎなかったのかもしれない。だから今は、力で押し切るしかないのだ。間違いだろうが失敗だろうが、ムリヤリに。

 ここ数日、ずっとそばで笑い続けていた青木。
 青木という子がただの「記号」だったのか、それとも血肉ある本当の人間だったのかを未だに考え続けながら、亜矢は歩いていく。
 ……結論としては、やっぱり記号だったのではないか、と思った。自分に対する友好の度合いがあまりにも強すぎたというのが一番の理由だ。
 冷たく言い放ってもじゃれてくる。どうあっても、この自分に関わろうとしてくる。その辺の強引さと神経のズ太さが、やはり現実の子としては不自然だったような気がする。
(他人なんかずっと無視し続けていたけど……心の中では、誰かとじゃれあいたかったのかもしれないわね)
 ここ数日を振り返り、亜矢は自分の弱さというものを、いやというほど教えられた気がした。

 ひと気のないアーケード街を抜ける。右に曲がって百貨店向かいの商店街を通り、開けた交差点を抜けた後、踏み切りを渡り、まばらな家々の前を通って学校前の橋に出る。
 神社への小道に、パトカーが停まっていた。青木の死体は見つかったらしい。
 亜矢は苦笑する。パトカーまで用意とは、恐れ入る。
 この世界が現実世界だとは思わない。自分にそう見抜かれていても、まだこの世界は正常さを保っていたいらしい。

 橋の欄干を叩く。ポォン、という小気味良い音が返ってくる。でもこんな事は、夢の中でも起こり得る。
 見ている世界がどんなにリアルでも、そこが現実である証拠にはならないのだ。

 ●

 校門を抜け、木々に囲まれたアスファルトの坂道を上り、まだほとんどひと気のない校舎に入って、教室へ向かう。
 戸を開ける。いつも通り、まだ誰も来ていない。整然と並んだ机だけがそこにある。

 青木と一緒の時は、2人で机をはさんで、登校時の話の続きをした。青木は異様なほど話好きで、話のタネが尽きる事はなかった。
 だが今は一人きりだ。
 亜矢は静かに教室内を眺める。そして今から、自分が狂気をあらわにして作り出さなければならない『地獄』を思い、気を滅入らせるのだった。

 裏山に続く森が、窓の外一面に見えている。木漏れ日の美しさは神々しく思えるほどだった。
(こんなに凝らなくてもいいのに……)
 この美しさを見せてくれている者は誰だろう? この世界そのものに意思はあるんだろうか? 亜矢はそんなとりとめのない事を考えたりするのだった。

 亜矢はカバンを開き、ナイフを3本ほど取り出して、机の上に並べる。
 物は正直だ。これがある限り、自分は亜紀と一緒にすごした『地獄』を実感する事ができる。
 亜紀が言うように、もっともっと殺して、狂気を得る。そして『地獄』へと戻る。
 今はそれしかない。

 『地獄』を求めるのは……ただの現実逃避ではないハズだ。
 ――その正体を、確かめたい。行きつく所まで行ってみたい。
 自分にとっての『地獄』の最後を、見届けたい。……今のままでは、あまりにも中途半端なのだ。何もかもが。
 だから、力不足の今の自分に与えられている「試練」を、精一杯、乗り越えていきたい。
 それが例え「凶行」であっても、この先の未来が切り開ける可能性があるのならば……やるしかない。

 殺す意味や罪悪感。そして未だに残っている「迷い」などを、心の中から消し去るように努める。
 ――狂気。殺す事だけを考える。
 騙されているのだとしても構わない。殺していく事で、自分が狂気を得られるのは間違いないだろうから。

 ●

 そうして静かに待っていると、やがて戸が開かれた。
「あー、亜矢ちゃんおはよー! ねー、聞いた聞いた? 青木さんさー、殺されたんだってー」
 『地獄』の中では無表情だったハズのクラスメイト。今は生気ある顔で近づいてくる。
 その顔がキョトンとする。
「……亜矢ちゃん、そのナイフ、なあに?」

 亜矢はナイフを握り締め、席を立つ。
「青木さんを殺したのは、私。そしてこのナイフは、アナタ達を殺すための物よ」
 言うやいなや、素早く切りかかる。
「ひああッ!」
 女子生徒は避ける。
 亜矢は強く足を踏み出して女子生徒の腕をつかみ、その子を力まかせに床に叩きつけた。
 すぐさま、その背にナイフの刃を力いっぱい突き立てる。亜紀の自慢のアーミーナイフだ。破壊力が違う。一撃で背骨を砕き割ったような手ごたえが返ってくる。
「ひゅ……ぐううう……ッ!」
 その子は必死で身じろぎするが、どうにもならない。もう逃げる事もできないだろう。
 ……苦しませるのも酷だ。亜矢は背中から心臓を狙い、再度ナイフを突き刺した。
 しぼり上げるような悲鳴を上げ、女子生徒は絶命した。

 気づけば、亜矢は歯を剥き出していた。
「『地獄』へ戻ってやるわ……必ず!」
 殺した子の死体を教室の隅に運び、亜矢は次のエモノを待ち構えた。

 教室の戸が開く。今度は女子が2人来た。
「あれー……机、メチャメチャじゃん」
 教室の中ほど。机の位置が乱雑になっている。
「えっ! 何この血!!」
 開けた床に、血がべっとりとついていた。

 立ち尽くす2人の背後から、亜矢は忍び寄る。そして無防備な背中に、ナイフを振り下ろした。
「ぎゃううーーっ!」
 急に悲鳴を上げた子にびっくりする間もなく、もう一人の子は、血のついたナイフが自分に襲いかかってくるのを見た。
「えええーーっ?!」
 そんな軽い声を上げた瞬間は、自分の凄惨な未来など見えていない。
 亜矢はその子を突き飛ばし、床に転げさせてから、その胸にナイフを突き立てた。

 殺した2人をまた教室の隅へと運ぶ。
 世界はまだ変わらない。でも自分にドス黒い狂気が宿っていくのを、ひしひしと感じている。
 死体を見やる。今殺したばかりの、2人の刺し傷の量が凄い。めった刺しだ。こんなに刺した記憶はない。狂気がこの身に宿り、自分本来の「記憶の欠如」が現れてきている証拠だ。
「もう少しでいけそうね……」
 額の汗をぬぐい、制服の上着を脱ぐ。そしてじっと戸口を睨む。
「何人でも殺してやる」
 亜矢は口元を笑いに歪ませた。

「あれ……開かねえっ」
 続けざま、ガタガタと教室の後ろ側の戸が鳴る。そっちには鍵をかけてある。
 入ってこれるのは、教室の前側の戸だけだ。入ってきた瞬間に殺せるように、亜矢が戸のそばで待ち構えている。

「あー、こっち開くじゃん!」
 男子生徒が3人来る。
 その無防備な後頭部に一撃。もう一人が振り向いた瞬間、その眉間に一撃。
「わ、あああッ! わああああっ!」
 残った一人が異変に気づいて逃げようとするが、机の壁にはばまれて身動きできない。
 亜矢が、逃げ道をあらかじめ塞いだのだ。教室の中に入ったら、もはや袋のねずみになる。
「わあああッ! 嫌だぁあああッ!」
 男子生徒はカバンを盾にして抵抗する。だが、あっという間に亜矢にカバンをむしり取られる。

 バシャーン……
 カバンは15mほど向こうの窓ガラスまで吹っ飛んでいき、ガラスを派手に割った。
(まさか……)
 いくら何でも吹っ飛びすぎだ。
(かなり『地獄』に近づいてきている……?)
 3人目の男子を殺しながら、亜矢はそう確信した。


 11


 来る者来る者をことごとく殺していき、教室内の死体はどんどん増えていく。
 亜矢は窓ガラスを開けて、邪魔な机とイスをいくつか教室の外に放り投げる。

 もう、何人かに逃げられている。すぐにでも警察が来て、取り押さえられるかもしれない。
 その前に、何としてでも……『地獄』へ行くんだ!

 返り血を吸い込んでびしょびしょになったシャツ。ナイフは血の油で切れ味がすぐに悪くなり、10本も持ってきたのに、そろそろ使える物も少なくなってきている。
 ……来ない。誰も教室に来なくなった。
 亜矢は廊下に出てみた。遠巻きに、数人の人だかりが見えた。亜矢の姿を見るなり、それらは散り散りに逃げた。
「もう完璧にバレてるわね」
 亜矢は笑いながら、人だかりへ向けて駆ける。
 飛んでいるかのように、素早く動ける。破顔し、高揚感を胸いっぱいに吸い込む。

 ……そうだ。自分はこんな風に、今まで悪魔を殺してきた。自分には、超常的な戦闘能力がある。
(まるで人間じゃないみたいね、私)
 廊下を跳ね飛んで、眼前にいた男子生徒のわき腹を、鋭く切り裂く。
 派手に血が舞い飛ぶ。その血が廊下に落ちる前に、亜矢は別の男子生徒の首を、一撃で跳ね飛ばしていた。
 その頭が回転しながら天井にぶつかり、真っ赤なざくろとなって弾け飛んだ。
「はあッ?! こんな事あるワケないでしょうが! 馬鹿!」
 亜矢は奇声を上げて笑う。またも派手な妄想を見ている。『地獄』は間近だ。

 続けて亜矢は踊るような優雅な足取りで、廊下のはるか向こうにいる、女子生徒の集団に襲いかかった。
 5、6人はいる。彼女達は悲鳴を上げて、必死に逃げ惑う。
「アハハハハ……! 絶対、逃がさないわぁ!」
 恐ろしい速さで女子生徒らに追いつき、そして追い越す。
 威嚇のつもりで、壁を殴る。くぐもった音が響き、場がゆれた。

 ……笑っている。
 震え上がって泣いている少女らを見て、自分は笑っている。

「でも勘違いしないで。殺しを楽しんでいるワケじゃあないの。……肝心な時に誰かを殺せなくなるような弱い心を、ここで打ち砕くために、やっているのよ」
 そう優しく言った後、かん高く笑いを上げる。そこには上品さのかけらもなかった。
「だからお前ら、皆殺しだ!!」
 亜矢は歯を剥き上げ、少女らにナイフを振るった。

「ギャーーッ!」
 ぶつ切りになった腕が跳ね、首が跳ね、胴体がちぎれ、足が飛ぶ。
 血でナイフが滑って、もう握っていられない。邪魔になったので、壁に投げつける。
 それでも殺戮は止まない。黒い豪風が、視界に映る人間全てを、軽々と破壊していく。

 ハッとして自分の両手を見ると、剛毛におおわれた、黒々とした手に変わっていた。
(人間じゃない……。悪魔の手だ……)
 そしてもう、制御が効かなくなっていた。

 悪魔の黒い手が勝手に伸びていき、次々と人間を引きちぎって、切り裂いて、砕いていく。
 視界を真っ赤に染め上げた後は、さらなる殺戮を求めて、踊るように跳ね飛んでいく。

 荒々しく白い戸をぶち開け、中にたむろう人間どもの悲鳴を聞いては、けたたましい笑いを上げる。
 ――悪魔。
 この自分の正体は、悪魔だったのだ……。だからあんなにも、『地獄』ばかりを求めていたんだ……。

 血肉が舞い飛ぶ。人間どもが自分の手の中で崩れ、形を失っていく。
 もの言わぬ残骸へと成り果てていく人間ども。
 もし彼らに、個性や性格そして優れた知能などがあったとしても……それらは全くの無意味だ。ほんの少し砕いてやっただけで、彼らは皆同じ、ただの汚らしい肉片へと成り果ててしまうのだから。

 狂気の殺戮の果てにあるものは……ただひたすらに、見るも無残な、血肉や骨や内臓の残骸ばかり……か。
 人間をいくら殺したところで、歯ごたえなどない。
 ……狂気は得た。だが、その果てはこの先にはない。延々と同じ事を繰り返すばかりだ。

 あぁ。追い求める『地獄』は、まだ開かれないのか……?


 エピローグ


「……もう充分でしょ」
 そんな声に振り向く。すぐそばに、制服姿の亜紀がいた。
「……亜紀」
 亜紀へ向けて、黒い手を伸ばす。
「どうすればいいの……? 悪魔だったの、私?」

「そう悲観する事はないって。卑屈になりすぎなんだよ、お姉ちゃんは」
 亜紀は涼しい顔で笑い、真っ黒な悪魔と化した亜矢の肩を軽く叩く。
「……ただの人間だよ、お姉ちゃんはさ」
 すると魔法が解けるように、亜矢の姿から黒いものが溶け落ちていった。
 元の人間の姿に戻る。

「……じゃあ、帰ろっか」
 亜紀に手を引かれ、無数の人間の残骸が散らばる廊下を抜け、昇降口から校舎の外に出る。
 外は静かで、人の姿はなかった。

「殺した子達は……どうなるの? 明日になれば、生き返ったりするワケなの?」
 亜矢はぽつりと亜紀に聞く。
「死んだままよ」
 そんな答えに、亜矢は「えっ?」と聞き返す。

「この世界は、お姉ちゃんだけのもの。お姉ちゃんだけが知る、『地獄』。……お姉ちゃんだけが、変える事のできる世界。だから、お姉ちゃんが殺した人間は、この世界では死ぬ」
「……どういう事? 結局、この世界は何だったの?」
 亜矢は顔をしかめて亜紀に聞く。
「……『地獄』だよ。お姉ちゃんが今まで生きてきた世界。……お姉ちゃんは一度たりとも、別の世界になんか行っていなかったのよ」
 亜紀はそう答える。

「だってアンタ……消えてたじゃない……」
 ここ数日、亜紀は一切出てこなかったし、つながりすら感じられなかったハズだ。
「お姉ちゃんが自力で乗り越えなきゃならない、重要な節目だったからね。アタシはあんまり出しゃばりたくなくて、おとなしくしてただけ」
「つながり、は? 完全に消す事なんて、できるの?」
「家の中に、とんでもなく奥深い闇があってね。そこに隠れてしまえば……アタシは死ぬ事すらできるの」
「家の中に闇が……?」
 亜矢には初耳だ。

「……あのさ。結局、何だったの? 私が悪魔になる事が、目的だったの?」
「そうだね。あれがお姉ちゃんの「狂気」そのもの。この世界で、見事に花を咲かせたって事よ」
 亜紀は満足そうに言う。
「で? この先どうなるワケなの? 私が、学校で大量殺人を犯したままの状態で……この先も続く?」
「そうだねぇ」
 亜紀はそう軽く返してくるが、亜矢としてはやすやすと受け入れるワケにはいかなかった。

「何よそれ……。じゃあ私は、自分がいるべき世界を、自分の手で壊しちゃったっていうだけなの?」
 亜矢は亜紀に食ってかかる。
「まぁ……そうとも言えるねぇ。でもさ、お姉ちゃん。この『地獄』はもう、終わりに近づいているんだよ。その終わりを迎えるにあたって、お姉ちゃんが強くなる必要があったのよ」
「この世界が終わる……?」

「そう。そのために、アタシが何度かお姉ちゃんを手助けしてきたんだけど……多分もう、充分だと思うんだ。この先何があっても、お姉ちゃんはきっと、自力で乗り越えていく事ができる」
「この先……何があるのか、アンタは知ってるワケなの?」
「ある程度はね」
 亜紀はそう言い、それ以上は言おうとしなかった。

 2人は校門を抜けて、街へと歩を進めていく。
 ゆるい下り坂の向こうに見える広大な世界を、亜矢はじっと見つめる。
「この世界……本当に私だけのものなの? 私だけの『地獄』?」
 亜矢はそう聞いてみる。
「そうだね。まぁ夢を見ているのと同じだよ。夢の中だって、緻密な景色が描かれているでしょ。意識なんかしなくてもさ」
「まぁそうだけどね……」

 今は夢の中。でも覚めない、夢の中。
 何年もこの世界にいる。この夢が覚めないのは、どうしてか。

 ……いや。亜紀はさっき、この『地獄』が終わりに近づいている、と言った。この夢のような世界は、とうとう終わるのだ。
 その迎える終わりとは、どういったものなのだろう? ただ目が覚める、などといった生易しいものでないのは間違いない。
 大量殺人を犯して、本当の「狂気」を得なければならなかった理由が、そこにあるハズだ。きっと想像を絶する、凄惨な終わり方をするのだろう。

 そして全てが終わった後には、何が待っているのだろうか? この自分に、現実世界などというものが、残されているのだろうか……?


(第4話 了)



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