第3話 なくした母との新たな思い出



 1 


 庭先で、白くて大きな満月を眺めている。
 涼やかな風。かすかな葉音。遠く聞こえる虫の声。
 亜矢は庭の砂利を踏み、数分前の自分の思いを受け継いでみる。そう。記憶は少しだけ途切れてしまったけど、きっとこうして散歩してみたくなったのだろう。
 いい夜だから。気持ちはわかる。

 でも寝姿のままだから、ほどほどにしておこう。
 笑みを浮かべて家の中に戻ろうとする。でもどうしてか、視線が全く別の方を向く。
(……裏庭?)
 自分の意思なのかどうか。視線は完全に家の角を向いており、そちらへ行けば、裏庭へ出る事になる。
(別に行ってもいいけど……)
 足を向けてみる。

 ひざ下を呑み込む雑草。家の背後から数mほど、草に覆われた平地が伸びており、その先は森になっている。森はそのままなだらかに奥へ奥へと続いていき、やがては背の高い小山へとつながっている。
 亜矢は雑草を踏み分けていく。
(何が気になるの? 私は)
 逆らわず、自分の背を追う。

 森の切り口。ツタが木々から降り注いでいる一角がある。近づくと、その下に構造物を見つけた。
(……井戸。こんなもの、ウチにあったんだ)
 長年この家で過ごしてきたのに、家の裏に井戸がある事すら知らなかったとは。

 裏庭に来た理由はこれだろうか? 亜矢はからみ合ったツタを引き抜いていく。やがて井戸の頭が剥き出しになった。
 半円形の赤い鉄板が2枚、円になるように敷かれている。フタだ。
 井戸の直径は2m程度か。土から1mほど、井戸の頭が突き出ている。周囲の雑草よりは背が高い。
 井戸はコンクリート製だ。大昔のもの、というワケではなさそうだ。
 亜矢は早速、取っ手をつかみ、フタを動かした。そして空いた隙間から、中を覗いてみる……。

 だが暗くて何も見えない。深さは結構ありそうだ。水の反射が感じられないので、井戸の底には水がないのかもしれない。
 ……井戸の底が、何故か無性に気になる。
 亜矢はフタを2枚とも取り払い、身を乗り出して中を覗き込む。
 見えない。見えないけど、底に何かある……。

 ふいに月が天上を大きく動き、井戸の真上に来た。月明かりが井戸の底まで届く。
 5mほど真下。井戸の底には、紺色の着物姿の女性が、丸くなって倒れていた。
「……お母さん!!」
 叫んだ瞬間、目が覚めた。


 2


 朝。目が覚めると、亜矢は居ても立ってもいられなくなり、寝姿のまま家の外に飛び出した。
 ……夢で見たように、裏庭に井戸はあるだろうか?
 家の裏の事なんて、今までほとんど気にかけていなかった。それに自分の記憶はいつもあいまいだ。あるかないかは、確かめてみないとわからない。
 もし井戸がなかったら……それはそれで構わない。今見たのはただの夢だった、としてあきらめるだけの事だ。

 視界に飛び込む雑草の群れ。小山につながる深い森。
(夢で見たままだ……)
 亜矢の鼓動が速まる。
 雑草の奥地に、ツタのからまる一角が見えた。……井戸か? 井戸なのか。

「まさかね……」
 井戸の底には、夢で見た通りに、母親がいるだろうか? ……もしいたとしても、それは白骨死体かもしれない。
 でも亜矢は期待を込めた。自分は今、『地獄』という不可思議な世界に呑まれている。だから、何が起きても不思議ではないのだ!

 ツタの元へ行く。からみ合うツタの下に、確かに井戸があった。
 木々から垂れ下がるツタを、亜矢は引っ張って取り払う。夢のように軽々とはいかない。一本一本、力を込めて引き抜き、丁寧に取り除いていく。
 数分、十数分の苦闘の末、やっと井戸の頭が顔を出した。早速、亜矢は井戸のフタの鉄板を動かして、井戸の底を覗き込んだ。
 ……ある。確かに、何かが底にある!
 亜矢はフタを2枚とも取り外す。今は朝だ。月の光などなくても、よく見える。

「……お母さんッ!!」
 期待は裏切られなかった。
 井戸の底には、夢で見た通り、着物姿の母親が倒れていた。

 ●

「あああ、亜紀ーーッ! 亜紀ぃいいっ!」
 亜矢は叫びながら、バタバタと家に戻る。
「どったの、お姉ちゃん……? めずらしく朝から興奮してるねぇ?」
 亜矢と同じく寝姿の亜紀が、居間から玄関に顔を見せる。
「お母さんが! ……裏庭の井戸の底に、お母さんがいたの!」
「あぁ、井戸の底に。生きてるの?」
 亜紀に驚きはない。
「……生きてるかどうかはわかんないけど! とにかく、助け出そう?!」
「まぁいいけどぉ……」
 亜紀はのろのろとスニーカーをはき、玄関を出る。

「ロープか何か! 亜紀も探して!」
 家の玄関脇は、納屋になっている。何かしらの道具はあると思った。
「あったけどー?」
 亜紀は木棚から、輪になったロープを見つけ出す。
「じゃ、行こう! 裏庭!」
 亜矢に急かされ、亜紀も裏庭へ向かった。

 ●

 2人はロープを手に、家の裏の井戸に来る。
「ホラ! 井戸の底に!」
 亜矢が指差した先に、亜紀も母親を見つける。
「あーそうなんだぁ……」
 亜紀はぼさぼさの頭をかく。
「……で? お姉ちゃんはあれを助け出したいワケだ?」
「当たり前でしょう! 「あれ」って何よ! その言いぐさ!」
 亜矢は本気で怒る。だが亜紀は平然とした顔で首を振った。
「やめといた方がいいと思うけどねー……どう見たって、『地獄』特有のワナだよ、あれは。助け起こしたってさ、結果的にはお姉ちゃんを苦しめるだけだと思うけどねー……。そもそもこの世界ではさー、とっくの昔に死んでる事になってるじゃん? ウチの両親はさぁ」
 そう言う亜紀の言葉にも一理あるが、目の前にいる母親を助け出さないほど、亜矢は冷たくはない。
「……ワナでも何でもいいわ。化け物だっていい。そこにお母さんがいるんだから! 私は助けるわ」
 亜矢の決心は固い。助けるも何も、すでに死んでいるかもしれない。いや、生きている方が不自然だ。でも、このまま放置はできなかった。
「私が井戸に降りるから、亜紀はお母さんを引っ張り上げてくれない?」
「え? 本気で言ってんの?」
 ロープを手渡された亜紀が目を丸くする。
「アタシ、そんなに力もちじゃないんだけど……」
「できるでしょ、アンタなら! じゃあ、頼むわよ」
 亜矢はロープのハシを握り、井戸に足を踏み込む。
「……降りるから。ちゃんと持ってて」

「ちょっとちょっと……ぎゃーーーッ!」
 早速、ひどい重さがかかる。亜紀は必死でロープを両腕にからめ、場にしゃがみ込んだ。


 しばらくして、亜矢の叫び声が地の底から聞こえてきた。
「え〜、何〜? 引き揚げろっての〜?」
 亜紀は井戸の突き出た頭に両足をかけて踏ん張ってみるが、ロープはがんとして動かない。
「……ちょっと無理だって! お姉ちゃあん!」
 そうぼやいても返事はない。
「まったくもぉ……化け物だって、気を抜いている時は力が出ないんだからさー」
 ロープをからめた両腕が痛い。無計画に巻いたものだから両腕の自由が効かず、引っ張り上げるのは困難だ。それでも空いた手でロープをつかみ、じりじりとたぐり寄せていく。
「うぐぐぐ……! 健全な女子高生が、朝っぱらから力仕事って……!」
 亜紀は腰に力を入れ直し、身体全体でロープを引っ張る。いける。そのまま一歩一歩、着実に引っ張っていく……。
 やがて、母親の身体が井戸から顔を出した。
「このやろっ!」
 ……どさっ。
 ロープを腹に巻いた着物姿の母親が、井戸の脇に落ちた。

「お母さん、どう〜?」
 井戸の底から亜矢が叫ぶ。倒れたまま微動だにしない中年女を見下ろしながら、亜紀は腕にからめたロープをほどく。
「どうって……死んでるんじゃないの? 動かないけどね」
「ねー、どうなのー?! お母さん、生きてる〜? ねー!」
 甘えた声。やけにテンションの高い亜矢に、亜紀は渋い顔をする。こういう姉はあまり好きではない。
「登ってきて自分で調べなさいよ」

「亜紀ー、ロープ投げてー? 次は私を引っ張り上げてちょうだーい」
「また〜?」
 亜紀は肩を落とすが、亜矢の言う通り、ちゃんと引っ張り上げてやるのだった。

 ●

「お母さん! お母さん!」
 亜矢は、ぐったりとして動かない母の肩を揺さぶる。
 息はしている。脈もある。ちゃんと生きている。着ている着物にも、さほど汚れはない。いつから井戸の底にいたのかはわからないが、何日も前からではないようだ。

「病院に連れていった方がいいかな?」
 亜矢は亜紀に聞く。
「とっくの昔に死んだ事になってるのに?」
「そんな事関係ないじゃない……。こうして現に、お母さんは生きてるんだし……」

「あのね、お姉ちゃん? これって絶対、ワナだと思うよ。お姉ちゃんはそうは思わないの? どんだけ平和ボケしているワケなの?」
 そう亜紀は諭す。
「何のワナよ……?」
 亜矢は顔を曇らせて聞き返す。
「『地獄』のワナに決まってるでしょうが! ……このお母さんは、絶対に本物じゃあない。今に正体を現して、そこらじゅうの人間を惨殺しまくった後、お姉ちゃんも殺すんだわ、きっと」
 亜紀は意地悪く笑う。
「……いいわよ別に。正体がハッキリするまで、私は本物のお母さんだと思う事にする。……とりあえず、家の中に運びましょ?」
 母は口をぽっかりと空けたまま、眠っている。亜矢は背中に背負い、ゆっくりと家の表に廻った。

 ●

 玄関を抜けて廊下を左へ行き、ちゃぶ台の置かれた縁側沿いの座敷を抜け、その左奥の座敷に運び込む。ここは日当たりが悪くて昼でも薄暗いが、休むにはいい部屋だ。
 押入れから布団を出し、母を寝かせる。
 2人はしばらく無言で見守るが、母はすぅすぅと寝息を立てるだけで、一向に目を覚ます気配はなかった。

「生きているようだし、苦しそうにもしてないし……このまま寝かせておく?」
 亜矢は亜紀に聞く。
「お好きなように」
 亜紀はこの母親に対して、あまり興味が湧かなかった。

「今日は家にいるわ。あとで学校に連絡しなきゃね」
 亜矢は腰を上げる。
「病院に連れていくかどうかは別として……顔ぐらいは拭いてあげたいよね」
 そして廊下に出る。

 部屋に残された亜紀は、寝ている母親をじっと見る。
「……アンタは何者よ? 何をしに来たの? お姉ちゃんを殺しに来ただけ? そんな害のなさそうな顔をしてさぁ……」

 いずれにせよ、すぐに答えは出るだろう。


 3


 半日経っても、母はまだ眠り続けている。
 亜矢と亜紀は隣の座敷で、昼食を食べる。亜矢ばかりか、亜紀も学校を休んでいる。
 元々、亜紀は学校に何の価値も見出してはおらず、授業なども気まぐれ程度にしか受けていなかった。それでも何の不都合もない。『地獄』で真面目に生きようとしている姉の方が、滑稽だと思っていた。

「ただの化け物なのはわかり切ってるんだからさ、寝首をかかれたりしないように気をつけるんだよ、お姉ちゃん?」
「どうしてそう決めつけるのよ……」
 母に対して、ハナから拒絶反応を見せている亜紀の態度が、亜矢には気に入らない。
 亜紀は冷めた顔でハシを進める。
「本当のお母さんだなんて思わない方がいいよ? 油断させておいて、お姉ちゃんを殺そうとしているだけなんだからさ。単純で見え見えの手口だよね」
「だから、なんで私が殺されなきゃならないのよ……!」
 亜矢は亜紀を睨む。だが亜紀は表情を変えない。
「この『地獄』は、お姉ちゃんの死を願っているからよ。できれば狂い死にさせたい。おとしめて、苦しめて、泣き叫ばせて……絶望の中で殺したい。そういう世界である事を、お姉ちゃんはもうわかってるでしょ? 散々脅されてきたんだからさ」

 姉の返事は得られない。亜紀はなおも続ける。
「この『地獄』で起こる様々な事に、お姉ちゃんは打ち勝っていかなきゃならない。一度でも心を許して負ける事があったなら……その時は死ぬ時よ。『地獄』での死は、現実での死に直結する」
「じゃあ……今までこの『地獄』で殺してきた人達は? もう終わりなの?」
 よく覚えていない。でも、自分達が直接手を下して殺してきた人がいるのを、亜矢は知っている。
「さぁねぇ。他人の事は知らないわ。『地獄』には、人それぞれに重みがあるものだから。現実で深みや業のない人間は、『地獄』も軽い。でもお姉ちゃんは……」
 言いかけて、亜紀はやめる。――でも確実に、命がかかっている。
「……とにかくね。ここで何が起きても、気を抜かない事よ。アタシが言えるのはこのくらい」

「どうしてそう、いつも……何もかもを見てきたように言えるのかしらね」
 亜矢はふんと鼻を鳴らす。母が現れた事に否定的な亜紀の、どんな言葉にも今は賛同する事ができなかった。
 でも今になって急に、母が生きた姿で現れるのも何だかおかしいと思った。
 やはり単純に考えれば、これは亜紀の言うように、「ワナ」だろう。自分を油断させ、殺す。ただそれだけのお芝居。
 しかし、そうではない可能性もある。
 ……それは亜紀にも関わる事だ。
 亜紀の存在。それがこの世界における、「自分の妄想である」という考え。亜紀は、この自分を油断させて殺すような存在ではない。
 つまり。今現れた母も、亜紀のような存在なのだとしたら……?

 無害、なのではないだろうか。
 上手くいけば、今の亜紀と同様に、この先ずっと仲良く暮らしていけるのではないだろうか?
 ふいにそんな希望が湧いてくる。

「あ、あ、あ、ちょっとちょっと!」
 急に亜紀が声を張り上げる。ハシを向けた先に、亜矢も目を向ける。
 母が廊下を歩いていた。

「ちょっとお母さん、大丈夫なの?!」
 亜矢は駆け寄る。
 だが母は亜矢には目もくれず、呆けた顔で廊下をのそのそと歩く。
「お母さん……」
 反応がなかった事に亜矢は傷心する。
「ただの化け物ってワケでもなさそうだけどねー……」
 亜矢の背中から、亜紀が顔を出す。
「お母さーん? 亜紀ですぅ」
 亜紀はフザケて母親を呼ぶ。
 振り向いた母の目が、丸く見開かれた。


「……え? 亜紀に反応した?!」
 母は立ち止まり、亜矢の後ろにいる亜紀をじっと見つめる。
 だが、どうもおかしい。優しい目をしていない。
「……もしかして、何か恨まれてる? アタシ?」
 亜紀は苦笑する。

 どん……ッ!
 ふいに、母の足が廊下を強く叩いた。
「え、え……?」
 母は亜矢を素通りし、亜紀に向かう。
 その両腕が徐々に上がっていき、まっすぐ亜紀につかみかかろうとする。
「ちょっとちょっと!」
 亜紀は後ずさるが、母の勢いは止まらない。母はとうとう歯を剥き出して、怒りの表情になった。
「何でよおおッ!」
 亜紀は廊下を逃げる。母がそれをバタバタと追いかける。

「ちょっとちょっと! ……どうしたの、お母さんッ!」
 亜矢も母を追いかけ、背中から抱きついた。
 母は暴れて抵抗する。亜矢は足を蹴られて、母もろとも激しく転んだ。

「いたたたた……ちょっとお母さん、大丈夫?」
 倒れる時、母を下敷きにしてしまったから、母は顔でもぶつけたかもしれない。
「ひぃぃぃいい……ん」
 母は子供のように泣き出した。

「くわぁ〜……何なのよ、コイツはぁ……!」
 戻ってきた亜紀は顔をしかめて、母を見下ろす。
「まぁアタシには関係ないけどさぁ……。何か恨まれる事でもしたぁ? アタシ」
「わかんないわよ、そんな事……」
 亜矢にも、母の考えている事などわかるハズもなかった。


 4


 夜。亜矢は隣の座敷で寝ている母の様子をうかがおうと、ふすまを少し開けてみる。今夜は自室ではなく、縁側沿いの座敷に床をとっている。
「……あ、あれ?」
 布団がはだけていて、母の姿がなかった。

 亜矢は障子を開けて廊下に出てみる。すると、縁側に腰かけている母がすぐ目についた。
「お母さん……」
 ほっと肩をなで下ろす。
 月明かりもほど良く、庭木も輝いて見える。不用心とはわかっているが、縁側の雨戸はあまり閉めないでいた。どうせ近隣に民家はないし、雨戸を閉め切ると気持ち的に寝苦しくなるからだった。
「ちょっと何してるの、お母さん……? 寒いでしょう?」
 夕方、風呂で身体を洗ってあげて、浴衣も新しいものを着せた。花柄がついた白い浴衣を着た母は、亜矢にそっと振り返る。
 表情は穏やかだ。昼間、亜紀を見た時のように、かんしゃくを起こしたりはしない。

 それでも母の口から、何かしらの言葉が聞ける事はなかった。……記憶をなくしているのか。何故、今になって急に現れたのか。そして本当の母なのかどうか。……今は何もわからない。
 母は顔を庭先に向ける。そして垣根の向こうに見える青白い月を、じっと眺める。
 亜矢もそっと隣に腰かける。そして母とともに、月を眺めた。
 こういう穏やかな日々が、この先も続いてくれるだろうか? でも、いつ消えてなくなってしまうかわからない。伝えておきたい事は、今伝えようと思った。

「お母さんとこうしてまた会えるなんて……夢の中だとしても、私は嬉しいんだ」
 遠い記憶の中にある母の姿。何もかもを忘れていくようでいて、奇跡的に覚えている事もある。
「会いに来てくれて……ありがとう。お母さん」
 こんなに素直で優しい気持ちになれたのは、ずいぶんと久しぶりだった。

「亜矢……」

 ふいに聞こえてきたそんな言葉に驚いて、亜矢は母を見る。
 母も亜矢を見つめていて、優しくほほえんでいた。
「お母さん! 私がわかるの?! 記憶が……戻ったの?!」

 でも、母はそれ以上何も言わなかった。ただじっと、亜矢の事を見つめるだけだった。
 亜矢も母をじっと見つめて、涙目でほほえみを返す。
「お母さん、このままここにいて……。ずっと一緒にいて……! そうじゃないと私、気が狂ってしまいそうなのよ……」
 母の浴衣のそでをつかみ、亜矢は訴える。
「お母さん……助けて。私を助けて……!」
 ぼろぼろと泣き出してしまう。

 この世界の歪みと狂いをまともに受けていたら、精神がもたない。
 時折、ワケもなく牙を剥いてくるクラスメイト達。ひわいな事を言い、授業中に自分を犯そうとする先生達。目を見開いて凝視してきたり、時には「殺すぞ」と脅してくる通行人……。
 現実ではなく、『地獄』という別世界にいるのはわかっている。でもいつまで経っても、ここから逃れる事ができないままなのだ……。
 ……いっそ、死んでしまいたい。こんな狂った世界に居続けるのは、もう嫌だ。
 でも自分を騙し騙し、今日まで生きてきた。いつも隣に亜紀がいるから、生きてこれたようなものだ。一人でこんな世界に放り出されていたら、とても生きてはこれなかっただろう……。

 ふいに母の手が、亜矢の頭に触れた。
 優しくなでてくる。
 亜矢はされるがままになる。
「お母さん。いつかきっと、記憶を取り戻して……」
 亜矢はそっと母にしがみつく。
「……ううん。やっぱりいい。記憶なんか、いいから……。このまま、そばにいてくれるだけでいいから……!」
 何かを願えば、その欲のために全てを失ってしまう事が怖い。
 今にも消えてなくなってしまいそうな、か細い母の存在。その扱いをほんの少し間違っただけで、取り返しのつかない事になってしまいそうだ。
 ――いてくれるだけでいい。この先もこうして、母がそばにいてくれるのならば、こんな『地獄』の中でも、優しい気持ちで生きていけると思った。
 生きる希望、そして生きる価値、守るべきもの。そういうものが、たくさん得られると思った。

「お母さん! お願いだから、消えてなくならないで……!」

 ●

その頃、亜紀は自室の布団の中で、天井を見つめていた。
「アイツは毒だね。お姉ちゃんを完全に弱くしてしまっている……」
 いまいましい中年女。
「この狂気に満ちた世界で覇気をなくしてしまったら……すぐにでも死ぬのに」

 このままではいけない。
 どうあっても、あの母親は邪魔な存在でしかなかった。


 5


 翌朝。今日は休みなのに、亜矢は朝早くから朝食の準備に取りかかっていた。
 母においしいご飯を食べさせたい。そんな気持ちがこもっている。

「はりきっちゃって、まぁ……」
 座敷のちゃぶ台に、笑顔で食器類を並べる亜矢を、後ろから亜紀は茶化す。
「亜紀。お母さんを起こしてきて? もう7時過ぎてるしさ。充分に寝たでしょ?」
 エプロン姿の亜矢は、寝姿の亜紀にそう頼む。
「やだアタシー……。あの人苦手ー。絶対アタシ、あの人に嫌われてるからさー」
 亜紀は顔をしかめる。
「そんな事あるワケないでしょう? それに「あの人」なんて言わないの。……お母さんがどうして、娘の亜紀の事を嫌うのよ?」
 亜矢は本気でびっくりする。亜矢は、亜紀が母につかみかかられそうになった一件を、すっぽりと忘れてしまっていた。

「あの人さー、アタシが化け物だっていうのを、感づいているのかもねぇ……。それともここが『地獄』だから、あの人の頭の中もカオス……ってだけなのかもしれないけどさー」
 何にせよ、亜紀はあの母親にはあまり関わりたくはない。
「それとも本物の亜紀ちゃんが、何かしでかしたとか……?」
 だが現実での時間は、あの事故で終わっている。亜紀は小学生で死んだのだ。そんな小さい頃に、母親に憎まれるほどの事をしでかした……とは考えにくい。

「……じゃあ私がお母さんを起こしてくるから、亜紀は食器を並べておいてくれる?」
 起こしてくると言っても、隣の座敷だ。ただ、会話もままならないので、素直に起きてくれるかどうかがわからないのだ。多少の手間はかかるだろう。
「はーい……」
 亜紀は言われた通り、従うのだった。

 ●

「はーい、お母さん。顔を洗って、口をゆすいでから、ご飯にしましょうねー?」
 亜矢は母の手を引き、廊下を行く。
「……まるで老人介護ね」
 廊下をのろのろと行く2人を見て、亜紀はそう毒づく。
 ――あの母親が何なのか、未だにわからない。
 化け物ならそれなりの気配が感じられるハズなのだが、それがない。だからこそ一層、亜紀には薄気味悪く感じられるのだった。

「はーい、お母さぁん。ご飯ですよ〜」
 亜矢は母にべったりと寄りそい、居間のちゃぶ台へと導く。ちゃぶ台の向こう側に座っている亜紀は、嫌な予感に身構える。
 亜紀の予想通り、母の目が亜紀に向いた途端、その顔が異様に歪んだ。

「ほぉらきた。……あぁ、もうヤダ!」
 亜紀は腰を上げ、母とすれ違いざまに座敷を出ていこうとする。
「う、わぁあああッ!!」
 途端、母が亜紀に襲いかかった!

「お母さん!!」
 亜矢の手をすり抜け、母は歯をむき出して、亜紀に飛びかかる。
「ちょっと冗談じゃないわよ!! アタシ、何にもしてないでしょ!!」
 亜紀は母に腕をつかまれ、髪を引っ張られる。
「この……やめろおッ!!」
 亜紀は母の頭をこぶしで殴る。
 母は畳に倒れ込んだ。


「お母さん……どうして……?」
 亜矢は、殴った亜紀を責められない。母が先に、亜紀に襲いかかったからだ。
「……いい? 今度アタシにこんな事をしたら……ソイツ、殺すからね!」
 亜紀は顔を鬼のように歪め、そう言い放つ。そしてぷいと廊下に出ていった。

「ちょっと亜紀! 殺すなんて言わないで! お母さんは……記憶が混乱しているのよ!」
 亜矢はそう叫ぶが、亜紀は振り向かなかった。

 ●

 座敷に2人、取り残される。
 母はめそめそと泣いている。

「痛かった、お母さん……?」
 殴られた頭を、亜矢はさすってやる。
「でもどうして、亜紀にあんな事したの……? 亜紀が怒るのも当たり前だよ? ねぇ、お母さん……」
 母は亜矢を見て口をわななかせるが、言葉は出てこない。

 しばらくして母の様子が落ち着いたので、ちゃぶ台の前に座らせて、亜矢はゆっくりと少しずつ、母にご飯を食べさせた。
 口からぽろぽろこぼしながらも、母は満足そうな笑みを見せるのだった。


 6


 母が現れてからのここ数日、亜矢にとっては楽しい日々が続いたが、逆に亜紀は2人を避けて自室にこもりがちになった。
 亜紀に乱暴しないように母に言い聞かせても、ハッキリとした返事はない。言葉の通じない幼児を相手にしているようなものだった。

 月曜になり、亜矢は学校へ行く事にする。
 朝食を乗せたお盆を、亜紀の部屋に運ぶ。亜紀は表情もなく、受け取る。
「亜紀、悪いけど、お母さんの事をお願いね」
 家に母一人を置いてはいけない。亜紀に頼む事にする。
「冗談じゃないわ」
 だが、亜紀はすっかりと母親を毛嫌いしてしまっていた。いつもの明るさも、ここ数日は見る事ができなくなってしまっていた。

「じゃあさ、アンタお得意のアレをやればいいじゃない? 私の顔に変わるヤツ。そうすればお母さんも、あんな事しないかも……」
 そう言う亜矢を、亜紀はじっと睨んだ。
「……お姉ちゃん。アタシを馬鹿にしてる?」
「そういうワケじゃないんだけど……」
 亜矢は苦笑する。

「あのさー、何だか……傷つくんですけどねぇ?」
「ごめーん……」
 謝るものの、亜矢はどうにも気持ちが浮わついていた。逆に亜紀の方は、いつキレてもおかしくないほど、ピリピリしている。
「じゃあもう、私は学校行くから。亜紀、何とかお願いよ。お昼ごはん、食べさせてあげて。トイレの位置もまだ覚えていないようだし」
 今の母は、一人じゃ何もできない。
「嫌だね。また襲いかかって来られたら、アタシだって何するかわかんないから」
 亜紀は部屋のふすまを閉じる。

「ちょっとォ! ……それじゃあ私、学校に行けないじゃない」
 亜矢は甘えた声を出す。
「介護施設にでも預けてきたらいいのよ。病院でアタマを診てもらうとかさ」
 亜紀はそう答える。
「……ねぇ、ホントに。私の顔に変えてさ、お母さんの世話をお願いよ? ねぇ、亜紀!」
 そうふすまごしに言うが、亜紀の返事はもうなかった。

 ●

 ……大丈夫。亜紀は本当は優しい子だから、何だかんだ言いながらも、ちゃんとお母さんの世話をしてくれている。
 亜矢はそう思いながら、学校での授業を受ける。

 先生が突如、黒板をこぶしで叩き、「柚木伏 亜矢、この問題を解いてみなさい」と言ったが、亜矢は無視した。
 黒板には「すっかりと油断した柚木伏 亜矢チャン! 今こそオマエを犯して殺し、殺しながら犯す時が来た……!!」と書かれていたからだ。
 『地獄』のイタズラにしては、まだソフトな方だ。

「バーカ」
 いつもは無視するところだが、つい声が出た。
「何だと!」
 先生が怒り出す。
「キサマは犯して殺した後……退学だ! 脱げ! 今すぐ脱いで全裸になり、ケツを振りながら先生に土下座しろオオッ! そうしないとキサマは即刻、監獄行きの落第だァアア!!」
 その口が縦に大きく裂けて、血が噴水のように飛び出す。

「……は? 何言ってんだかわかんないわね。いいから真面目に授業をしなさいよ。この馬鹿」
「先生に向かって、馬鹿とは何だァアアアッ!」
 先生は血をまき散らしながら、荒々しく亜矢の席に来る。
「来ないでよッ!」
 亜矢は席を立つ。どう対処していいのかわからない。この今が、現実とどう結びついているのか、予想もつかないからだ。

 ……ここでもし、先生を殺してしまったとする。
 そうしたら、現実にいる自分は、「授業中にトチ狂って先生を殺した」という事になってしまうかもしれないのだ。
 見ているもの全てが、自分の頭の中だけの「妄想」である可能性もあるのだから。……そう。『地獄』というものは、現実と切り離された別世界、というワケではないのかもしれない。今は、現実そのものの中にいるのかもしれないのだ。

 逃げようとしたところ、近くの生徒に腕をつかまれる。
「やめてッ!」
 続いて他の生徒に腰を両腕で捕まれる。後ろから髪を引っ張られ、顔を手でわしづかみにされる。
 動けない……。

「ヒヒヒ……柚木伏 亜矢。みんなの前でたあっぷりと犯してやるから、泣いて喜ぶがいい……」
 後ろから先生が来て、亜矢の尻を両手でなでた。
「あああ亜紀、助けてーーーッ!」

「バカじゃないの。何やってんの?」
 亜紀の声が場に通る。
 周囲の目が檀上に向く。そこに柚木伏 亜紀がいた。
「そんなザコ相手に何遊んでんの? どこまで平和ボケしちゃったワケなの、お姉ちゃんは」
 亜紀はそう亜矢を責める。
「あのお母さんが来てから、お姉ちゃんの邪気や覇気が、すっかりとそげ落ちてしまってるよ?……もう見るもムザンだわ、今のお姉ちゃん」

 亜紀はツカツカと来て、先生の頭を後ろからわしづかみにする。
「おおお俺を殺すと、現実での先生を殺した事になるんだぞッ! お前らは殺人犯として検挙だ! カツ丼の……牢獄行きだ!」
「どんだけ笑わせてくれるのよ、アンタは」
 亜紀はとまどう事なく、先生の頭を握り潰した。

 派手に血が飛び散り、辺りは騒然となる。サイレンの音。パトランプの灯りが四方八方で回り出し、教室じゅうを真っ赤に照らす。
「お姉ちゃん。この『地獄』では鬼にならなきゃ、すぐに死ぬ。あっけなく、すぐに死ぬんだよ!」
 亜紀は亜矢に向かって、そう吠える。

 生徒らに捕まったまま、亜矢は口をわななかせて、涙をこぼした。

 ●

 がくり、と頭が垂れ下がる。
 夕暮れ。電車のシートに腰かけ、亜矢はうたた寝をしていた。
 また記憶が飛んだらしい。

 周囲の人間達の目が注がれている。どれも化け物じみた目だ。亜矢は恐れて目を伏せる。
 制服が血で汚れていた。何があったのか、考える。亜紀に助けてもらった気がする……。
(寒い……)
 早く家に帰って、お母さんに会いたい。おいしいご飯を食べさせて、喜んでもらいたい。一緒にお風呂に入って、身体をキレイに洗ってあげたい……。
 ――癒し。
 そう。やっとの事で、自分はこの『地獄』の中で、癒しを得たんだ。
 それを大事にしていきたい……。

 視界が急に暗くなる。足元を見る。無数のクツ先がこちらを向いていた。
 ふと顔を上げてみると、みんな鳥の頭をしていた。ギョロリとした目が、亜矢を見る。
「ヒィッ!」
 小さい悲鳴を上げ、亜矢は身体を硬くした。
 ――怖い。
 久しぶりに感じた、そんな感情。
 亜紀の言う通り、自分は覇気をなくしてしまっている……。

 手が2、3伸びてくる。
 『地獄』は自分が弱くなったのを敏感に察して、本気で殺しにきているのか……?
「嫌だ、やめて……! お願いだから! もう嫌なのよ、こんなキチガイじみた世界は……」
 頭を抱えて縮こまる。
 そんな鳥頭の集団の後ろから、場を冷ややかに見ている亜紀がいた。


 7


 亜矢は駅から走って、家に戻る。
(お母さん……お母さん……ッ!)
 何もかもを忘れて、笑顔になっている。家に帰るのがこんなにも楽しいだなんて、今まで感じた事があっただろうか?
 ……母がそばにいる。それだけで、自分の日常が鮮やかに彩られたような気がした。

「お母さーんっ!」
 まず縁側沿いの座敷に顔を出してみるが、誰もいない。じゃあ寝床にいるのかな、と隣の座敷のふすまをそっと開けてみるものの……そこにもいない。空の布団が敷かれてあるだけだった。
「あれ……お母さん、どこにいるの?」
 居間を覗き、台所も見てみるが……やはりいない。
 ざっと周囲の座敷も見て回るが、母の姿は見当たらない。だんだんと不安に呑まれてくる。……もしかして、消えてしまったのか? こんなにもあっけなく。
「ウソでしょう?! お母さぁん!」
 亜矢は家の外に出て、庭を見渡してみる。……いない。誰もいない。
 あわててまたすぐ玄関に戻り、廊下を行ったり来たりした後、廊下の奥にある亜紀の部屋に目を向けた。

「ねぇ亜紀、お母さんは?」
 ふすまごしにそう聞くが、返事はない。
「亜紀、いないの……?」
 ふすまを開けると、亜紀は布団の上に寝そべっていた。
「……いるじゃない。ねぇ、亜紀。お母さんは?」
 亜紀は半身を起こし、亜矢を見る。
「邪魔だから殺したよ」

「……え? 何言ってるの。そういう冗談はよして」
 亜矢は顔をしかめる。
「……冗談に聞こえた?」
 亜紀は表情もなくそう言う。

「馬鹿な事を……言わないでッ!」
 亜矢は目元を吊り上げ、大股で亜紀に向かう。
「アンタまさか……本当に?!」
 亜矢は亜紀につかみかかった。
「アハハハハ……!」
 亜紀の笑いに、亜矢は全身の血をざわつかせる。
「ちょっとフザケないで! アンタ本当に……お母さんを殺したって言うの?! ねぇッ!」
「殺したー」
 亜紀はニヤニヤしながらそう言い、狂ったように笑い出した。

「冗談じゃない!! 冗談じゃないわッ!!」
 亜矢は亜紀の胸ぐらを両手でつかみ直し、布団に何度も激しく押しつける。
 だが大した痛手にもなっていない事に腹を立て、その頭をわしづかみにする。渾身の力を込め、本気で潰そうとする。
「やめてよ」
 そんな鋭い声の後、亜矢はわき腹に鈍痛を受ける。
「うぐ……ッ!」
 亜紀から身を離し、腹を押さえて縮こまる。

「ふん。ザコに何度も殺されそうになったくせにさ」
 亜紀は立ち上がって、まっすぐ部屋を出ていこうとする。
 部屋の前に立ち尽くしている黒い人影。亜紀は迷わずその者の首を片手でつかみ、あっと言う間にねじり潰した。
「お姉ちゃんの気のゆるみが、もう知れ渡ってる。家の中までこのアリサマよ」

 廊下を行く亜紀を、亜矢は追いかける。
「待ちなさい! アンタ、本当にお母さんを殺したって言うの?!」
 まだ信じられない。そんな事を亜紀がするとは思えない。
「裏庭の井戸に返してあげたわー。見てくるー?」
 消え去るように先を行く亜紀を、亜矢は必死で追いかけた。

 ●

 裏庭に来る。雑草の海の奥地。井戸のフタが開いていた。
 亜矢はおそるおそる、中を覗き込む。
 ……井戸の底に、母親が倒れていた。手足をいびつな形に曲げたままで。
 井戸の底に突き落とされたのだ。

「お母さん……」
 亜矢はその場にヒザをつく。
 後ろから亜紀が来る。
「お母さんだなんて思わない方がいいわ。アイツは形を変えた、この『地獄』の毒だったのよ。お姉ちゃんを弱らせて殺すための、毒」
 そう言う亜紀に、亜矢は鋭くつかみかかった。
 そのまま草地に引き倒す。
「死に……なさいよ! アンタなんか……!」
 亜矢は両手で亜紀の首を強く絞める。

 だが亜紀は苦しみもしない。されるがままになっている。
「その程度じゃあ、アタシは殺せないわねぇ……」
 亜矢はしつこく亜紀の首を絞め続け、やがて無駄なのを悟ると、泣きながらその顔を何度も殴った。
「お姉ちゃんは『地獄』を甘く見過ぎているのよ。気を抜いたら死ぬだけなのに」
 それでも亜矢は、亜紀の顔を殴り続ける。
「もうよして」
 亜紀は亜矢を押しのける。
「殺してやる! アンタなんか!!」
 亜矢はまた亜紀にのしかかり、今度は両手を組んで、その顔に激しく打ち下ろした。

 亜紀の顔が割れ、ガラスの破片が飛び散った。
 残った口元がまだしゃべる。
「……気が済んだ? でも、またすぐに仲直りできるよねー? どうせお姉ちゃんの頭は、3歩歩けば何もかもを忘れちゃう、ニワトリみたいなものだからさー。キャハハハハ……」

 忘れる。どんな憎しみも、すぐに忘れてしまう……。
 今すぐにでも……。

 亜矢はフタの開いている井戸に目を向ける。
 その途端……


 エピローグ


 気がつくと、夜。裏庭の草地の中で、亜矢は一人、たたずんでいた。
「こんな所で何してたんだろ……?」
 見上げると、いい月夜だった。だから家の周りを散歩でもしていたんだろうか。
 目につく井戸。フタが開いていた。

 亜矢はそっと近づいてみる。フタを閉めようと思った。
「お姉ちゃん、こんな所で何してんのー?」
 後ろから亜紀が来る。呆けた顔で亜矢は振り返る。
「散歩……かな」

「あのさー、そろそろご飯の支度してくれなーい? お腹すいちゃったんだけどー」
 そう亜紀に急かされる。
「うん……ごめん」
 あわてて駆け寄る。

「亜紀、井戸のフタ……閉めておいてくれる? 何だか気になって」
「いいけどぉ」
 亜紀は井戸へ行き、亜矢は家の表に向かった。

 ●

 それから数日後。亜矢は、裏庭の井戸の底で、母親が土砂に埋まっている夢を見た。
 気になって翌朝、裏庭に行ってみるものの、井戸なんてそこにはなかった。

 だが妙に、新しい土くれが敷き詰められている一角があった。
 しかし、そこを掘り起こしてまで確かめる気にはなれなかった。


(第3話 了)



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