第1話 この世は地獄



 1 


「お前さー、そろそろ死んでくんない? キモいからさぁ。見てるだけで、不愉快でしょうがねーんだよ」
 高校の女子トイレの中。1人の女が、数人の女に囲まれている。
 囲まれている女――安斉(あんざい)さゆりは、彼女達の執拗(しつよう)なイジメに耐えかねていた。もう3年ほどの間、毎日のようにイジメられていた。

 イジメのキッカケはささいな事だった。「ツンとしていて、お高くとまっている」と思われた程度の事だったハズだ。
 イジメが始まるとすぐに、さゆりは先生に相談した。……だが、それがマズかった。余計にイジメをエスカレートさせる原因になってしまったのだった。

 そして頼みの綱の先生達も、いつしかイジメ側の生徒達と仲良くなってしまい、さゆりの話を受け入れてくれなくなっていた。イジメ側の生徒達は、外面(そとづら)だけは良かったのだ。

 トイレの角にぎゅうぎゅうに押し込められ、さゆりは足や腹に殴る蹴るの暴行を受ける。休憩時間たっぷりイジメられる事もあり、さゆりは小用を済ませる事ができなかったり、昼食を食べられないまま授業を受けなければならない日なども、度々あった。

「……ねぇ。イジメってそんなに楽しいの?」
 ふいに、安斉さゆりは小さな声で言い返す。
「あ?」
 イジメのリーダー格の女は、さゆりの胸倉をつかんだ。
「今、何か言ったかよ? このブス。……聞こえなかったからさー、もう一度でけえ声で言ってくんない?」
 さゆりの腹に一発パンチがめり込む。取り巻き達はへらへらと笑う。

「アナタ達は……悪魔の存在なんて、信じないわよね?」
 さゆりはふいにそう問う。
「……はあッ? あくまぁ? 急に、何言ってんだコイツ。頭おかしいんじゃねーのかぁ? ギャハハハハ!」
 周囲は爆笑にのまれる。
 だが、そこには確実に、不穏な空気が流れ出した。……今までのさゆりとは何かが違う。コイツは今まで、ほとんど言葉をしゃべらなかったし、こんなナメた口を聞いた事など一度もなかったハズだ。

「でしょうね。……笑われると思ったわ」
 さゆりは自分の胸倉をつかむ手を、ゆっくりとつかみ取る。
「……私は長い事、願ったわ。アナタ達にイジメられ始めた頃から、ずっと悪魔に願ったの。……アナタ達を殺してくれ、と。何でも捧げるから、どうかアナタ達が死にますように、とね」


 何か、黒いものが来る。
 どこだ? 何が黒いのか? ……そうだ。さゆりを中心にして、場そのものがドス黒く変色している。
 ざわめく音が、次第にかん高い騒音になって、場に吹き荒れる。
 何が起きているのか、誰にもわからない。……だが、何か異常な現象が起きているのは確かだった。

「……何なんだよ、テメーはよぉおおッ!」
 リーダー格の女が恐怖を振り切り、さゆりを乱暴に壁へ叩きつけた。さゆりは背中と後頭部を派手に打ちつける。
「うわッ!」
 ふいに女は奇声を上げて飛びのいた。
 さゆりの目に、異様なものを見たからだった。

 ――さゆりの眼鏡の奥。そこには黒い穴があるだけで、眼球が見えなくなっていたのだ。

「……私は願ったわ。毎晩、何時間も願った。眠れない日は、朝が来るまで願った。……アナタ達がいる学校になんか行きたくなかったけど……親を心配させたくなくて、私は懸命にガマンし続けたわ……」
 さゆりの口元が歪(ゆが)む。
「限界に次ぐ限界……。私の精神は、ねじ曲がっておかしくなっていった……。悪魔。とにかく、悪魔が来る事を願ったわ。アナタ達を殺す超常的なものが来る事を、ただひたすらに願ったの……」

「でも。そんなものはいつまで経っても、来てはくれなかった。だから……」
 見れば、もはやさゆりそのものが真っ黒くなっていた。

 イジメグループの女達は見ているものが信じられなくて、逃げる事も忘れている。
 黒い霧に包まれたさゆりの腕が、イジメっ子の顔をわしづかみにした。
「だから……私自身が、悪魔になったんだよッ!」


「ぎぃぃぃいいいいっ!」
 イジメっ子の顔が見る間に充血し、ひしゃげていく。

 ベギイッ!
 そのまま頭蓋(ずがい)が割れて、その身体はタイルの床に滑り落ちた。
「ぎゃああああーーッ!」
 せきを切ったように逃げ出す女達。

「……殺してやる。逃がすものか」
 黒い霧をまとい、周囲の空間すらをもねじ曲げながら、さゆりは素早く女達の後を追った。


 2


「白昼の校舎にて、女子生徒4名を何物かの凶器で殺害した安斉さゆり(18)は、いぜん行方をくらませている……ってさ」
 袋菓子を食いながら、柚木伏 亜紀(ゆきぶせ あき)は、リビングに入ってくる。
「あ、そう」
 ソファに座って、姉の亜矢(あや)は映画を観ていた。戦争映画を。

「死体をナマで見たけどさぁ……頭とか胴体とか、ぐっちゃりだった。安斉さゆりは人間じゃないねー」
「あ、そう」
 亜矢はあくまでも興味なさげにする。

「お姉ちゃん以外にも、化け物っているんだね〜?」
「……ちょっと何よ、その言いぐさ」
 亜矢は顔をしかめる。

「まーそれは置いといて」
 亜紀は、亜矢のとなりに腰かける。
「何、戦争映画なんか観てんの? こんな真昼間から」
「いいじゃない、たまには……」
 亜矢もさほど面白そうにはしていない。

「しかしさー安斉さんって、3年生だったでしょう? 受験をフイにしちゃったよねー。殺人鬼なんかになっちゃってさー。4人もいきなり殺すとか、スゴイよね?」
 亜紀は楽しそうに話す。
「いいんじゃないの。殺したかったんだから殺したんでしょうし。何か事情があったんでしょ」
 亜矢は、背伸びする。学校で殺人事件が起きたのは昨日だ。今日は休校になり、朝からヒマなのだった。

「ところでさー……お姉ちゃん、そのおかっぱみたいな髪型似あわないよ〜? いつも表情がとぼしいんだからさー、さらにそんなおとなしい髪型にしちゃったら……優等生みたいじゃん」
「いいじゃないの、優等生で」
 亜矢はツンとして見せる。
「ダメだよそんなの……お姉ちゃんは、もっと活発な髪型がいいの。ショートの方が絶対似あってるって。お姉ちゃんは本来、活動的なんだからさー」

「髪型なんか、どうでもいいでしょ」
 亜矢は亜紀を見やる。肩下まで伸びた髪。髪質が硬いのか、アチコチにボリュームがある。
「アンタこそ、そのダラダラした髪、切りなさいよ」

「やーだ。アタシはボサボサでいーの。性格を表しているんだから」
 そして亜紀は自分で髪をかきむしって、さらにボサボサにするのだった。


「ところで……安斉さゆりさんって、アタシらとは関わりあいがない人なんでしょう?」
 亜矢は亜紀に問う。
「今のところはね。全然関係ないと思う。面識(めんしき)もなかったし」
 亜矢達は、安斉さゆりと同じ高校に通っている。だが亜矢達は1年生で、さゆりは3年生だ。

「でもさー、この世に化け物なんて、そうそうはいないと思うんだよね〜。それがさぁ、同じ高校に2人も3人もいるとか……何か変じゃない?」
 亜紀はそぼくに疑問を感じているらしい。
「さぁね。……アンタが呼んじゃったんじゃないの? <地獄>からさぁ。そういうのって、何かしらの波動で、影響を及ぼしてしまうものだと思うのよね……」
 亜矢は難しい顔をした後、パッと明るい顔になる。
「まぁ、安斉さんが化け物だ、って決まったワケでもないんでしょう?」

「いえいえ」
 亜紀は袋菓子を食い終え、袋を器用に折りたたんでねじって丸め、TV脇のゴミ箱にシュートする。
「さゆりさんはさー、何も凶器を持ってなかったって話だよ? 素手でグシャグシャと殺していったって。殺された子は、頭を潰されたり、手足もぎ取られたり……だもんね。警察も頭をかかえてるでしょうねぇ〜……」

「後先を考えないで、派手にやったものね……」
 亜矢はあきれ顔になる。
「この先、どうするつもりなんだろうね……安斉さゆりさんは」

「さーねー……。化け物として、力の解放の快感に目覚めて、人を殺しまくるとか……。そんな感じになっちゃうんじゃない? 化け物なんて、人を殺す以外にする事ないでしょ?」
 亜紀は涼しい顔で言う。そして手品のように、いつしかその手にコーヒーカップを持っていて、コーヒーをすする。

「でもまぁアタシなら……仲間を探すかな。人殺しに飽きた頃にさ」


 3


「もろいものね、人間なんて……」
 ひと気のない夜の公園のベンチ。安斉さゆりは、足元に転がった警官の死体を眺めながら、パンなどを食う。
 そして静かな気持ちで星のまたたく空を見て、月を眺める。視界にすうっと血が流れる。さゆりは眼鏡を外して、血をふいた。

「この世にもっと、悪魔が大勢いれば……楽しくなるのに」
 自分一人だけでは大した事はできそうにないが、大勢仲間がいれば、世の中の均衡(きんこう)をメチャクチャに崩す事ができるだろう。
 そうすれば毎日がサバイバルだ。この世は地獄絵図と化すに違いない。

 食事を終え、場を立ち去ろうと歩いた先。正面に、一人の少女が立っていた。
 Tシャツにジーンズ姿で、帽子をかぶっている。知った顔ではない。

 さゆりはその少女をじっと眺める。……明らかに、黒い。黒い波動をまとっている。ただの人間ではないのは明らかだ。

「アナタは……お仲間かしら?」
 さゆりは無表情のまま、問う。
「ですねー」
 少女は歩み寄ってくる。さゆりは表情を硬くして、待ち受ける。
 何が起こるかわからない。この女が自分より強い可能性もある。

「こんばんは、安斉さゆりさん。私は同じ高校の後輩の、柚木伏亜紀と言います〜。よろしくー」
 その人なつっこい笑みに、さゆりは呆気にとられてしまった。……心配のいらない相手なのか?

「ゆきぶせ……さん? 知らないわね」
「じゃあ、これからよろしくして下さい〜? 同じ、化け物同士なんでー」

 ……同じ化け物同士。相手はそうわかっている。この自分が悪魔だという事を、すでに見抜いているのだ。
 なのに、この女の余裕の態度は何なのだろう? よほど自分の力に自信がないと、こうはいかないだろう。

 さゆりは目を細める。……ゆきぶせ、あき。気に入らない女だ。


「アナタ、何者? まさか……私を追ってきたの?」
 追われるだなんて、ほとんどありえないような話だ。この場所は、地元から電車を乗り継いできた、全くの見知らぬ地だからだ。こんな所に逃げた自分を、探せるワケがない。
 この女は何者で、何を目的としているのか。さゆりにはサッパリわからない。

「アタシの趣味は、神出鬼没(しんしゅつきぼつ)ですからね〜」
 亜紀は冗談めかしてそう言うが、さゆりが納得するハズもなかった。
 さゆりはグッと奥歯を噛む。いよいよきつい表情になり、亜紀に鋭く問う。
「それで。アナタは私に殺されに来たの? ……それとも私を殺しに来たの? どっち?!」

「え〜っ? アタシそんなつもりで来たんじゃないですぅ〜。殺人鬼になった安斉さゆりさんがぁ、今どこで何をしてるのかなぁ〜って思って、興味本位で来ただけなんですぅ〜」
 ……興味本位。
 ただの興味本位で、この自分を遠路はるばる追ってきたというのか。フザケた答えだ。

「で? アタシを見つけて、満足したワケなの?」
 さゆりは亜紀をにらんだまま、口元を笑いに歪ませる。

「まぁ、そんなトコですかね〜。でもお元気そうで良かったですー。まだ殺しを続けてらっしゃるようでー」
 亜紀は、さゆりの背後のベンチ前に転がっている警官の死体を見やる。
「さゆりさーん、まだまだ殺しちゃうおつもりですかー?」

(何なの、このフザケた女は……?)
 さゆりは表情を歪ませ、不快をあらわにした。
「あー、まだまだ殺すわよ。アンタも含めてねー」
 言うが早いか、さゆりは瞬時に真っ黒な獣と化し、亜紀に襲いかかった。

「えーっ! ちょっとちょっとー!」
 亜紀は身をひるがえして、さゆりの突進を避ける。
「アタシはぁ、仲間になろうと思ってですねー……!」

「フゥザケんなあ、この野郎ッ!」
 さゆりの獣の腕が鋭い牙となり、何度目かの咆哮(ほうこう)が、亜紀の顔にぶち当たった。

 ガシャアアアーーー……ッ!

 ハッキリとした手ごたえの後、割れるガラスの音。
 さゆりは何が起こったのかわからず、異様な感覚に恐れをなし、すぐに飛び退いた。


「いーたたたた……」
 ふっ飛んで転げた亜紀。
「急に何すんですかーッ! ひどぉい……!」

 上げた顔が外灯に照らされる。
 ――まるでガラス細工のような、透明がかった顔。
 少しの血も流れていない。
 大破して半分になった顔が、うらめしげにさゆりを見るのだった。


「人間じゃない……?」
 さゆりは目を見開いて、亜紀を見る。言っていたように、確かに化け物だ。
 ……でも、コイツの力は並みのものではない。顔を半分失ったら、自分なら多分、死んでいるだろう。悪魔になったとは言え、そこまで万能とは思わない。
 なのに、コイツは何なのか? 間違いなく、コイツは自分以上の化け物だ……。

「だからさっきから言ってるじゃないですかー。アタシも化け物ですよーって」
 立ち上がった亜紀。見るとその顔はすでに、ガラスではなくなっていた。無傷の人間の顔だ。

 ……ダメだ。
 コイツの力は計り知れない。もしかすると、不死身なのかもしれない。
 戦っても、勝ち目はない。

 安斉さゆりはかなわないと見るや、急いでその場から逃げ去った。

 ●

「え〜とですね。……そんな感じでぇ、安斉先輩は遠くの町で、元気に殺人鬼をやってましたぁー」
 警官の帽子をかぶった亜紀は、今朝の朝食の席で、姉の亜矢にそう報告するのだった。
「捨ててきなさい、そんな物……」
「かっこいいからもらっとく」
 亜紀は敬礼をキメる。

「さゆりさんと……何か話はしたの?」
 亜矢はさゆりの事は知らないが、この先どうするのか、少しだけ気になった。
「大した話はしてないけどねー。まぁ当分はあのまま、殺人鬼を続けるんじゃないかなぁ〜。まだまだ殺しが楽しい時期だと思いますしー」
「あ、そう……」

 同じ学校の上級生が、突然生徒4人を殺して逃走。そして遠くの町で殺人を繰り返す……。
 悪魔じみた殺し方の話は聞いていたし、安斉さゆりは人間以外のものであると考えて、間違いなさそうだ。

「で……何でお姉ちゃんは制服なんか着ちゃってるワケ?」
 亜紀はパジャマ姿でそう問う。
「何でって……学校行くからでしょ?」
 亜矢は顔をしかめる。

「またぁ……! お姉ちゃん? 今日は学校、休みなんですよ? 昨日も今日も明日も、おそらくはあさっても」
「あぁ、そうだっけ……」
 あの殺人事件を受け、学校はここ一週間、臨時休校になっていた。

「何でもかんでもすぐ忘れるし……。どーゆー頭してんの?」
 亜紀はあきれた顔をするが、姉の亜矢のトボケぶりはとうに慣れたものだった。

 ――姉の亜矢は時折、「完全に」記憶を失うのだ。
 数時間前の事を忘れたり、数日間の記憶をすっかりと失ってしまったりするのは、もはやおなじみの事だった。
 こうして高校生活を送っている事も、ある日突然始まったような気もするし、幼少の頃の記憶など、亜矢の中には全然ない。

 両親を亡くした時の記憶すら、亜矢の中にはなかった。両親がいつ、どのようにして死んだのか。亜矢は思い出す事ができない。亜紀に聞いても、知らないと言うだけだ。
 そして実は、亜紀の事もよく知らない。
 どうして自分ばかりでなく、妹まで化け物になってしまっているのか。亜矢にはわからないのだ。

 だが、亜紀が自分と強いつながりがある事はわかっている。時に、意識を共有する事すらめずらしくはない。
 だから亜矢は、亜紀が自分の「分身」のようなものだと理解している。妹ではあるが、「もう一人の自分」のようなものだ。


「じゃあ、せっかくだから出かけてくるかな。図書館にでも」
 どうせ学校に行くつもりでいたんだから、今日は有意義に過ごそうと亜矢は思った。
「真面目ぶっちゃって……」
 亜紀の方は、図書館などに興味はない。警官の帽子をいじりながら、今後のヒマな日々の事を思う。
「じゃあ、アタシは……さゆりさんの様子を見に行ってくるかなぁー?」

「……亜紀。もうやめなさいよ。関わり合いを持たないで」
「そんな事言ってもね〜……。好奇心には勝てませんからねぇ……」
 亜紀は得意げにうなずく。そんな亜紀に、亜矢は鋭い目を向ける。
「やめなさいってのに! ややこしい事になるでしょ。……殺人鬼と関わって、共犯扱いにでもされたらたまらないわ」

「でもさぁ、真面目な話……あの人を止められるのは、アタシ達だけだよ?」
 亜紀はやや、すがる目になる。
「止める?」
「そう。安斉さゆりさんの殺人を止めさせる事ができるのは……アタシ達だけだと思う」
 亜紀はじっと亜矢を見る。

「……よして。どうしてそんな事まで考えなきゃならないの。関わり合いを持たなきゃいいでしょ?」
 亜矢は目をそらす。
「お姉ちゃんは、他人の事なんかどうでもいい?」
「そうは言ってないでしょ。アタシ達は警察じゃないんだから……」

「あの子、警官も殺してたから。警察には止められないよ」
 亜紀は警官の帽子をかぶり直し、勝ちほこった風に笑う。

「……悪いけど、関わり合いたくないわ。やるんならアンタ一人でやって」
 亜矢は席を立ち、食器を片づけるとリビングのソファに座り込む。


 少し間を置いてから、亜紀は亜矢の元に近づく。
「……殺してきてもいい?」
「何が?」
 亜矢は顔をしかめて問う。

「安斉さゆりさん」
 亜紀は事もなげに答える。

「……だめよ。絶対にだめ」
 亜矢は険悪に顔をしかめ、断固として拒絶した。


 4


 夜中。そっと開けられた玄関。
 玄関先に立つ若い女を、母親が出迎えた。

「……さゆり!」
 さゆりの母親は、帰ってきた娘の姿を見るなり、ガタガタと震え出した。そして娘の両肩をつかむ。
「お前、本当に……人を……」
 殺したのか? 娘が本当に、人殺しなどをしてしまったのか?
 さゆりの母は、学校で起きた殺人事件の騒動が、さゆりが引き起こしたものだとは未だに信じられないでいた。

「まだ居てくれてよかったわ。私が事件を起こしたから、どこかに引っ越しちゃったりしたかな、って思ったりしたからね」
 さゆりはにっこりとほほ笑む。
「ねぇお母さん。……お父さんは? 勇太もいる? 皆そろってる?」
「いるけど、寝てるわ、もう……」

 そこでさゆりはかん高い声で笑った。
「キャハハハハ! もう寝てるのぉ〜? ……じゃあ悪いけど、起こしてきてもらえるかなぁ? お母さぁん」
「どうして……?」
 娘の言い方がどうにも娘らしくはない。それにこのヘラヘラした態度は何なのだろう? 顔もどことなく違って見える。でも間違いなく、娘のさゆりだ……。
 母親はさゆりの両肩を強く揺さぶる。
「ねぇさゆり! ウソなんでしょ?! お前が学校で……友達を殺しただなんて……何かの間違いなんでしょ? ねぇ!」

「……友達ぃ? 冗談じゃないわねぇ」
 さゆりはくわっと口の端を釣り上げる。
「とにかくねぇ、ちょっと話があるのよ。お父さんと勇太も呼んで? 早く!」
 さゆりは肩をつかんでいる母の手を払い、ズレた眼鏡をかけ直すと、母親の脇をすり抜けて廊下に上がり、リビングへ行く。

 母親はさゆりの言葉通り、夫と息子の勇太を起こしに行った。


 しばらくして、母と父そしてさゆりの弟の勇太が、そろってパジャマ姿でリビングに来る。

「まぁそこに座って?」
 3人は素直に、さゆりと向かい合ったソファに並んで座る。
 さゆりは3人をじっと眺める。
「……学校で人を殺したわ。私の高校生活をメチャクチャにしてくれたヤツらをね」

「執拗(しつよう)で陰湿(いんしつ)で……エスカレートしていくイジメに耐えられなくなってね。堪忍袋(かんにんぶくろ)の緒が切れたのよ。プッツリとね」
「じゃあ警察に……」
 母親が目をうるませながら弱々しく言う。
「殺したいヤツを殺したんだから、目的は達成できたわ。私は満足よ。……でも現実っていうのは、そこで終わりにはならないのよね。まだ続きがあるんだよね」

「……そう。続けたくないけど、続けなきゃならない。目的を達成して終わり、じゃない。私が人を殺したっていう事実が世間に広がっていく中、私も、家族のアナタ達も、まだまだこの先を生きていかなきゃならない……」
 さゆりの話に、3人はじっと聞き入る。
「でもそんな続き、いらないでしょ? ここで終わりにしてあげられるからさ。受け入れて欲しいのよ。私の慈悲(じひ)をね」

 さゆりはすっと立ち上がり、右腕をぶるん、と振った。黒い霧をまとった腕は、長々と伸びる。
 並んだ3人は何が起きているのかわからず、さゆりの異様な腕を凝視する。

「さようなら」
 黒く伸びた大きなムチは、ソファごと、3人の身体を両断した。


 5


 休校は1週間で解かれ、月曜の今朝は登校の運びとなった。
 柚木伏亜矢と亜紀も、高校に向かう。15分ほど電車に揺られ、そして徒歩で学校へと。

 朝の澄んだ空気の中。2人は静かに、さびれた町並みを歩いていく。ゆっくりと、ゆっくりと……。何かを噛みしめるように。惜しむように。

「さゆり先輩が地元に戻ってきたって事は……ここでまた、何かするつもりなのかな〜?」
「何で楽しそうに言うのよ、アンタは」
 亜矢は亜紀を苦々しい顔で見る。亜紀は、さゆりに関わりたくてしょうがないようだ。

「家族全員を惨殺(ざんさつ)しちゃってさぁ〜……。もう頭の中、完全にぶっ飛んじゃってるよね〜? さゆりさん、学校に来てさぁ、皆殺しとかしちゃうつもりなんじゃないのかな〜?」
 亜紀は目を輝かせて、不謹慎(ふきんしん)な事を言う。

 さゆりが家族を惨殺したのは昨夜の事。それはまだ新聞の記事になっていなかった。……まだ、誰の目にも触れられていないのだ。
 でも亜紀は知っている。そして亜矢も。

 そのくらいの事は、わざわざ目にしなくても亜紀にはわかるのだった。そして亜紀が知っている事は、自動的に亜矢の知識となる。
 ――亜矢と亜紀は、奥底でつながっているのだ。

「家族を殺したのは、さゆりさんの慈悲でしょうね。まだ頭がぶっ飛んじゃってるワケじゃないわ」
 亜矢は、店先の自販機でオレンジジュースを買う。タブを開けて飲むのと同時に、となりで亜紀も同じものを口に運んでいた。

「ねぇお姉ちゃん。安斉さゆりさんは……誰かに殺されたがってるよ?」
 亜紀は笑わないで言う。
「わかってるよ……でも私は……」
 関わりたくないし、殺すのも嫌だ。
 かと言って亜紀にまかせてしまうのも気が引ける。亜紀には「何をしでかすかわからない」ところが多々ある。まかせるときっと、何かをやり過ぎてしまうだろう。

 長くて静かな登校の時間。2人の前には、まだ長い道が続いている。

 ●

 気がつくと、授業中だった。
 亜矢は、泣けるほどの悲しい夢から覚めて、現実を愛おしく見つめる。

 ――いつ、メチャクチャに壊れてしまっても不思議じゃない、自分の現実。
 安定した流れもなく、唐突な出来事が切り貼りされる、作り事を見ているような現実。生きていても、夢を見ているのと大差ない。
 この身体が突然、溶け出して流れ落ちてしまっても……それは受け入れる他にない。

 亜矢の見ている現実は、あまりにも不安定なのだ。
 何もかもが、次の瞬間には突如として狂い出して、壊れ出す。
 この悪夢は覚めない。いつまで経っても。
 歪みと狂いは修正される事がない。いつまで経っても……。

 檀上(だんじょう)の教師がふいに振り向く。
「柚木伏亜矢。ここに来て、脱げ」
 その口には、巨大な牙が生えていた。
 クラス中の目が亜矢に向く。好奇と性欲に満ちた目だった。

「ほら、恥ずかしがらずに来い。先生が、処女のお前に「セックス」というものを教えてやる。さぁ……早くここに来い。皆の前でおマタを広げて、先生にたっぷりと犯されるんだ……。どうだ? セックスというものはなぁ、非常に、気持ちいいものなんだぞぉ……?」
 ドンドンドンドン……。どこかからドラムの音が響き、場を盛り上げる。
 ガシャーーン! 耳元でシンバルが鳴る。もうメチャクチャだ。
「なぁ、亜矢あぁ。お前はいつまで青臭い処女でいるつもりなんだぁ? 男が怖いのかぁ? そんなだから、誰かれにもバカにされるんだぞぉ? お前は本当になぁ、皆にバカにされているんだぞぉ……。だから先生がなぁ、お前を本当の女にしてやるからさぁ……ヒヒヒィッ」

 亜矢は目を伏せ、笑った。……いつもの事だ。こんなものは、ただの幻覚であり、幻聴なのだ。
(脱げだのセックスだの……。今日はおかしいわね)
 この狂いは、自分の中の性欲が芽を出しているという事なんだろうか? 何が起きても、自分の奥底に何らかの原因がある。そう亜矢は思っている。

 しばらくして顔を上げると、場は静かな正常に戻っていた。好奇の目は一つもない。

 ……だがやはり、なかなか慣れるものではない。幻覚や幻聴だとわかっていても、亜矢の目にはそれが「現実そのもの」に見えてしまうのだから。
 亜矢は呼吸を深め、鼓動の乱れが治まるのを待った。


 6


「お姉ちゃん。先生にひどいイジメを受けちゃったね。殺したら?」
 校庭の木々の中にあるベンチの1つで、亜矢と亜紀は昼食を取る。

「あれは幻覚だから。わかってるでしょ?」
 亜矢は取り合わず、今朝コンビニで買ったサンドイッチを食べる。亜紀も同じものを食べている。
「いちいち「殺す」とか言わないで。バカ」
 亜矢はいつもより一言余計に返す。先生の言葉が胸に痛かった。慕っていた先生だっただけに、突然の今日の狂いはこたえたのだった。
 でももちろん、あの先生が現実にあんな事を言ったワケではない。全ては歪み。自分の妄想に過ぎないのだ。

「こんにちは」
 木漏れ日の中に現れた少女。……それは安斉さゆりだった。

「えー! さゆりさぁん……。わざわざ休憩時間に来るなんて、律儀(りちぎ)ですねー」
 亜紀は笑顔で返すが、食べるのを止めていた。サンドイッチを脇に置く。
 亜矢も手を止めて、さゆりをじっと見つめる。

「そんな邪険(じゃけん)にしないで」
 さゆりは両手を軽く上げ、敵意のない事を示す。目立たないようにするためか、制服を着ていた。殺人鬼としての逃亡中に、まさか普通に登校してきたワケではないだろう。

「この前は悪かったわね、亜紀さん。おとなりの方は……お友達?」
「姉です。柚木伏亜矢」
 亜矢はぶっきら棒に答える。

「ふぅん……姉妹なの。……ところで、悪魔なのよね、アナタ達も?」
 さゆりは好奇の目で問う。

「悪魔ではないわ」
 亜矢は即答する。
「人間なんだけど、現実とはまた違う場所にいるっていうだけ。……それでアナタ、亜紀が見えているの?」

「見えてるわ。その子は何なの?」
 さゆりは手短に問う。
「簡単に言えば……私の空想の産物よ。妹として、いつも私の傍にいるのね。もう一人の私、みたいなものよ」
 亜矢は、さゆりが同じ化け物仲間だと認めた上で、包み隠さずに言う。
 そんな亜矢の言葉に、亜紀も反論はしない。

「へええ、空想の産物……? そんなものが、こうもハッキリと形造られるものなの?」
 さゆりは感心した様子だ。
「まだ……<地獄>の中にいるからね、私は」
 亜矢はそこで笑いを見せる。

「あぁ、<地獄>ね……。でもそんなもの、小学生の内に誰でも終わっちゃってるでしょう? それを未だに抜けられないワケなの、アナタは?」
 さゆりは驚きの目で亜矢を見る。
「そうよ。未だに、<地獄>の終わり方がわからないままなの。そういう人間、世の中にまだたくさんいるって聞いたけど」
「いないわよ」
 さゆりは吐き捨てる。

「なるほどね。亜紀さんに会いに来たつもりだったけど、お姉さんの亜矢さんの方も面白そうね。……確かに私とは、どこかが違うわね。ただの悪魔じゃないのはわかるわ」
 さゆりはうなずいたりする。
「……で。さゆり先輩はわざわざ、何しに戻って来たんですかあ? やっぱり、生徒皆殺しとかしちゃうおつもりで?」
 亜紀が嬉々として、不謹慎な事を言う。

「柚木伏亜紀さん? 本当はアナタに会いに来たの。アナタの化け物っぷりに感心しちゃってね。できるなら……仲間になれたらどうかなって思って……」
 さゆりはふいに優しい目になる。語尾の方は、木々の葉音がかき消してしまった。
 葉音が止むのを待ち、さゆりは続ける。
「もう私は目的を達成しちゃったから……この先どうすればいいのか、実はわからないの。悪魔になってしまったのはいいけど……その力を持て余している、という感じかしらね……」

「じゃあ、また会いましょ。お昼休みを邪魔しちゃ悪いものね」
 さゆりは足を戻す。
「さゆりさん? もう誰も殺さないでもらえる?」
 亜矢は強めに言う。
「……約束はできないわね。多分、無理だと思うわ」
 そしてさゆりは去った。


「ほぉらお姉ちゃん、早く食べないと! 休憩時間終わっちゃうよー」
 亜紀はガツガツとサンドイッチをほうばる。
「アンタは……。どうせ授業なんて受けてないでしょうに」
 亜矢はあきれ顔で亜紀を見る。
 そしてさゆりの事を思う。関わりたくはなかったけど……関わってしまった。
 さゆりはきっとこの先も悪魔として、人を殺していくのだろう。

 それを……止めなくてはならないのか?
 止める理由なんてない。ただ、慈悲の心があるのならば、やはりさゆりを止めてやるべきなのか……?
 でもそんなもの、狂った世界にいる自分の中にあるとも思えない……。
 自分だって化け物だし、悪魔同然なのだから……。

 ●

 それから数日。
 安斉さゆりは柚木伏姉妹の前に姿を見せなかったが、さゆりの家族が惨殺された事が明るみになったり、近隣の町での無差別な殺戮(さつりく)は続いていた。

 朝食の席で、柚木伏姉妹はTVのニュースを眺める。安斉さゆりが引き起こした謎の惨殺事件で、話題は持ちきりだった。

「歯止めが効かないようですねぇ〜……。今がさゆり先輩の、殺しの絶頂期かなぁ? 殺すのが楽しくてしょうがない、と言うね」
 亜紀はそう茶化す。
「止めてあげた方が親切なのかしらね」
 亜矢はため息をつく。
「ですねー……」
 ニヤニヤと、亜紀は姉を見る。亜紀は、本気になった姉の姿が見たくてたまらないのだ。

 狂気に彩られた亜矢……。それは何もかもを凌駕(りょうが)する。現実すらをも、変えてしまう。
 常識では計れない凄みが、亜矢の中には潜んでいるのだ。

 ――幼少の頃、現実の中にいながらにして悪夢に堕ちる<地獄>。
 それはどんな人間も必ず体験し、<地獄>から自力で生還しないと、この世から消え去るという。時間の概念(がいねん)も狂っているので、永遠にその<地獄>の中で悪夢を見続け、現実に戻って来れないままの子供も数多くいる。

 <地獄>の中では何でも起こりうる。化け物が急に現れたり、友人や家族が別人になってしまったり。ワケもなく他人に殺されたりする。
 一言で言えば、「悪夢」そのもの。それが<地獄>なのだ。突然その日がやって来て、突然に終わる。

 なお<地獄>の期間は個人差が激しく、数日で終わる子供もいれば、数年経っても終わらない子供もいる。自力で抜け出せる子供がいれば、自力では絶対に抜け出せない悪夢におちいる子供もいる……。


 そんな超常的な<地獄>から、亜矢は未だに抜け出せないでいる。
 半分以上は現実とつながっているままなので、普通に学校に登校し、普通の生活を送っているのではあるが……時折、現実に歪みや狂いが生じて、苦しめられる。
 だが亜矢は<地獄>の中で、化け物としての強い力を得ていた。それが助けとなり、数ある危機を自力で乗り越えてきているのだった。
 しかし。一向に、亜矢の<地獄>が終わる気配はないのだった……。


 亜矢は今朝も普通に、そしてけなげに、登校の支度をする。
 亜紀は成り行きを見守るだけだ。時に助けとなり、姉を支えている。

 さゆりの件で、今また新たに、姉はやる気を起こそうとしている。
 ならば……自分は静観していたい。姉の輝く姿を見るのが、亜紀にとっての最大の楽しみなのだ。

 狂気に染まり、現実をも歪めてしまうほどの強力な力を持っている、亜矢。
 それは何物にも汚す事ができないほど、強く光り輝くのだった。


 7


 夜の繁華街でどよめきと悲鳴が巻き起こる。
 人と車が入り乱れる路地の中、一匹の獣が走っていく。
 また甲高い悲鳴。……人が獣に噛みつかれ、腹をばっくりと裂かれたのだ。

 食い散らかしては走り去る獣。黒い霧をまとったそのオオカミのようなものは、よく見れば人間の姿をしていた。
 続けざまに4〜5人を惨殺した後、獣はひと気のない路地裏に入る。そこで背を丸め、手にした真っ赤な内臓をむしゃむしゃとほうばるのだった。

「もうすっかりと人間じゃなくなったの? 安斉さゆりさん」
 そこに姿を見せるジーンズ姿の若い女。柚木伏亜矢だった。
 短髪が光の粒をまとって揺れる。その瞳も力強く輝いていた。

 さゆりと呼ばれた黒い獣は、亜矢を見る。牙だらけのその口元が、にいっと歪んだ。
「人間でいる意味がもうなくなったのよ。こうしているのがラク」
 人間の内臓をガツガツと食い終え、満足そうな顔で立ち上がる。だがその姿は黒い霧に包まれ、ほとんど見えなかった。

「私の邪魔をするの……? 柚木伏亜矢さん」
「そうするしかないようだから、来たの。どうせアナタはもう、どこにも戻れないしね。……アナタに家族を殺す慈悲があったように、私もアナタを慈悲で殺す事にするわ」
 亜矢の手には一本のナイフが握られている。

「ナイフで! 私を殺そうと? ……ハハハ。アナタにはもっと、凄い力があるかと思っていたんだけど?」
「期待させちゃってごめんなさい」
 言うが早いか、亜矢はさゆりに突進する。

「笑わせないで!」
 強風と化したさゆりが、亜矢に体当たりする。
「うああッ!」
 亜矢は表路地まで弾き飛ばされる。

 すぐさま聞こえてくる悲鳴。
 さゆりはその辺にいる男の腹に噛みついていた。

「ホラぁ。私を止めてみなさいよ、亜矢さぁん?」
 そして数人を引っ掻き、さゆりは逃走する。
「えぇ。止めてやるわよ」
 亜矢はよろけつつも、その後を追った。


「手伝おうか、お姉ちゃん?」
 いつの間にか、亜矢のとなりに亜紀が走っていた。亜矢と同じ姿だが、警官の帽子をかぶっている。ちょっとフザケているのだ。
「さゆりさんの足止めをしてきてちょうだい」
「りょーかいっ」
 言うが早いか、亜紀は亜矢を追い越して、消え去った。

 走る。走る。走る。
 走っている内に、亜矢の気持ちが高ぶってくる。身体の芯からくる喜び。浮き上がるような高揚感。
 ……久しぶりだ。
 記憶をなくしてはいるが、こういった高揚感を、以前にも何度か体験しているような気がする。

 目を閉じて走る。
 亜矢は笑う。目を閉じている方が、何もかも見える。本当に、面白い世界だ。ここは。
「いっそ死ぬまで、この<地獄>の中にいたいものね」
 何もかもをすり抜け、亜矢はさゆりに追いついていた。

「お姉ちゃーん。凶悪な逃走犯は、本官がしっかりとつかまえておりまーす!」
 警官の帽子をかぶった亜紀が、さゆりを背後から、はがいじめにしていた。
 8割方シャッターが下りた、ひと気のほとんどないアーケード街の中。さゆりの元に、亜矢は静かに歩み寄る。

 ドス黒い獣の顔が、グワーッと吠える。ヒトの名残りとしての眼鏡が、見え隠れする。
「どれだけ願っても……悪魔に変われる人間なんて、いるワケがないわ。……さゆりさん、アナタもまだ、<地獄>の中にいたんでしょう?」
「……そうかしらね。そうなのかもしれないわね」
 さゆりは観念したのか、抵抗しない。それとも押さえている亜紀の力が強すぎて、抵抗できないのか。

「私がアナタを殺す事で……アナタの悪夢が覚めればいいわね」
 タッと一蹴り。亜矢はさゆりの腹に、身体ごとナイフを突き立てた。
 亜紀が強力な壁となり、亜矢もさゆりも倒れない。

「今さら……ナイフで刺されたくらいでは……死ねないわね」
 さゆりの猛獣の牙が、亜矢の耳元でうなる。
「ぐううッ!」
 避けようとしたが遅かった。
 亜矢は首すじをまともに噛みつかれてしまった。


「あああ、ちょっとお! お姉ちゃんに何すんのよ、この馬鹿あッ!」
 亜紀は、さゆりの背後からその両あごをつかんで、亜矢から引きはがした。そのまま、さゆりの下あごを引きちぎる。
「ドギャアアアアッ!」
 さゆりは身もだえて、転げ回る。

「お姉ちゃんッ!」
 ヒザをついた亜矢の首すじには深い牙の跡が刻まれ、血はとめどなくあふれ出ている。でも亜矢は笑って答えた。
「……全然、平気よ。明日には忘れるぐらいの傷だわ」

 亜矢は立ち上がる。そして、苦しんでいるさゆりを見下ろす。
「死ぬ事で、<地獄>から抜け出せるといいわね、さゆりさん……」

 亜矢は両手でナイフを握り直す。
 そして奥歯を噛みしめて、さゆりの胸を目がけて、ナイフを深々と突き立てた。

「イメージするのよ……。アナタはまだ、きっと子供なんだわ。家族だって普通にいる。目が覚めたら……幸せが待っているわ、きっと」

 さゆりが絶命するまで、亜矢はそのまま動かずに、見守るのだった。


 8


「昨夜午後11時頃、K市繁華街において、死亡者5名、重軽傷者21名の謎の殺傷事件が起き、その場から200mほど離れたアーケードの中でも、死者1名が発見された。死亡者の身元の確認を急ぐとともに、警察では犯人の行方を追って、近隣を捜索中……」

 朝食を終えた柚木伏姉妹は、リビングのソファに並んで座り、コーヒーを手にくつろいでいる。
「……だってさ、お姉ちゃん?」

 包帯を首に巻いた亜矢は、目を閉じて応じる。
「結局、やっちゃったわね……」

「さゆりさんも幸せ者だよねー。お姉ちゃんの手にかかって殺される、だなんてさー。うーらやましいッ」
「よして」
 亜矢は大きなため息をつく。
「あれがさゆりさんにとって、良かったのか悪かったのかはわからないわね……。ヒトは皆、ハッピーエンドばかりを望んでいるワケでもないだろうし……」

 さゆりには、殺人鬼としてあのままどこかで生き延びる、という今後もあったハズだ。それはそれで他人の人生なのだから、自分がとやかく言う事ではない。
 冷たいようだが、やはり関わるべきではなかった。あれじゃ、自分が殺したくて殺したようなものだ。


「アタシもいつか……<地獄>から目が覚める日が来るのかしらね?」
 亜矢はひとり言のように言う。
「……それはつまんないよ。お姉ちゃんがお姉ちゃんでなくなったら……すっごいつまんない! お姉ちゃんがフツーの子なんかになっちゃったら……アタシは見ちゃいらんないわね」
 と、亜紀は理不尽(りふじん)な不満をもらす。
「お姉ちゃんはやっぱり、<地獄>の中で苦しみながら輝いていてほしーのよ。……いいよ、その髪。似合ってる」
 亜矢の短い髪を、亜紀はなでなでする。

「それに、お姉ちゃんがフツーになっちゃったらさー、同時にアタシもいなくなっちゃうだろうからねー……。それはやだよね〜……アタシはまだまだ、こうしていたいしさ〜」
 そう言う亜紀の横顔を、亜矢は盗み見る。

 こうしている今も……何もかもが夢のようなもの。
 今日の事も、昨日の事も、いつか忘れ去ってしまう日が来る。
 不安定な<地獄>の中。自分も、いつまでこうしていられるかはわからない。突然、明日にでも、理由もなく死ぬ可能性だってあるのだから。事故や病気などではなく、「身体が溶け出す」とか「消え去る」とか「バラバラになる」とかいう、異常な死に方で。

 首すじの傷が、知らぬ間に包帯ごと消え去った頃……自分はまた、他の誰かの<地獄>に触れる事になるのかもしれない。
 その時、できるものならば、まだまだ未知である<地獄>というものを、少しずつでもつかんでいこうと思うのだった。


(第1話 了)



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