80話〜最終話



― 80 ―


 「はいはぁ〜い! 飲んで食べてぇ、騒ご〜?!」
 コンビニに寄って、盛り沢山のお菓子類を買い込んで、皆に配る。ミユキは場の空気がわかっているのかいないのか。持ち前の明るさを振りまき続ける。
 「ありがとうございます……」
 後部座席の中央に乗った児玉が両手では抱えきれないほどのお菓子やペットボトルなどを受け取り、佐々木に手渡す。そして寝ている阿部を見て、そっと声をかける。気づいた阿部にも菓子類を手渡す。
 「何かちょっと暗いよぉ〜! イエーッ!」
 車の天井に頭や手をぶつけたりしながら、過剰に騒ぐミユキ。児玉達は呆れて苦笑を返すばかりだった。

 「ちょっとアンタ静かにしなさいよ。病人いるんだしさ。それにいちいち天井にぶつかんないでよ。穴あくでしょ!」
 たまりかねたアヤカがミユキをいさめる。
 「了解でーす! ……てか、やっぱり病院寄ろっか、阿部ちゃん?」
 ミユキはすっかり後ろ向きになって、阿部の顔を覗き込む。シートベルトは絶対につけないようだ。

 「……いいから。僕の事は気にしなくていいから。それより、行き先わかってるよね、お姉さん達……?」
 「大丈夫! I県K市だよね〜! ってか、また戻るだけじゃん、ね〜?」
 そこで阿部はごそごそと動き、サイフを取り出した。さっき、影から預かったサイフだ。
 そしてサイフを丸ごと、ミユキに差し出す。
 「いくら入ってるかわかんないけど……、これ使って」

 「え〜? 何それ〜? いらないって〜! アタシら好きでつきまとってんだしさぁ〜!」
 「そういうワケにもいかないしさ。今までだって、高速道路代とかかかりすぎだしさ。こうして車を運転してもらうだけでも、ホントありがたいしさ……」
 阿部は二人に素直な気持ちを伝える。
 気づいて佐々木もバッグの中から金を取り出す。
 「アタシからも。ちょっと早めのお年玉か何か」
 「ちょっとお姉さんまで〜……。いいからいらないって〜! てかアタシら小金持ちだからさ〜! ね〜?」
 「アタシはそうでもないけど?」
 アヤカはそうすます。
 「え〜何言ってんのも〜……。アヤカちゃんの方が、アタシより人気あんじゃあん? お金あるでしょ〜? いっぱぁい!」
 そんな二人の会話を耳にして、児玉達はアヤカ達の仕事が何なのか、漠然とだがわかってくる。
 遅れて児玉もサイフを取り出すが、強引に佐々木に押しとどめられた。

 「あ! 蝶ちょだ!!」
 ミユキが前方を指差す。そして助手席のドアガラスを下げた。
 「蝶ちょさん、蝶ちょさんっ! ちょっと入って来て!」
 そして窓から身を乗り出して、蝶に激しく手招きする。
 その思いが通じたのか。蝶はミユキが開けた窓から、車内に滑り込んできた。

 「うわ! すっごい!! まっぶし〜〜!!」
 ミユキは吹き上がる光の洪水を目の前に、大はしゃぎする。そしてすかさずガラスを閉める。
 「やったやった!!」
 「ちょっとそれ眩しすぎるって!! 事故るってば!!」
 アヤカは速度を緩め、たまらず路肩に車を停める。
 「え〜! アヤカちゃん、ちょっとガマンしてよ〜! この蝶ちょも一緒に連れていきたいじゃぁ〜ん!」
 ミユキは目を輝かせ、満面の笑みを浮かべる。
 後部座席の三人も、さすがに唖然(あぜん)とするばかりだった。まさか蝶を手なづけられるとは、夢にも思っていなかった。


 「あ〜すっごい癒されるね〜……」
 しばらく蝶の光を堪能(たんのう)した後、アヤカに従って、ミユキは蝶を手放した。窓ガラスを開け、外に放ったのだ。
 「あ〜あ……。でもすっごい興奮したー!」
 「まぁね」
 アヤカも満足そうな笑みを浮かべる。
 「じゃ、気を取り直して再出発〜!」
 「お〜!」
 二人の異常とも思える明るさを前に、後ろの三人はすっかり萎縮(いしゅく)してしまっているのだった。





 互いの自己紹介も終え、場もだいぶ和んでくる。
 車は北へ向け、高速道路を軽快に走っている。

 「次のサービスエリア寄らない? ここ、確か大きいハズだから」
 「うん。い〜よぉ。ゴミとかもいっぱい出てきたしね〜」
 ミユキは皆から集めたゴミを一つにまとめる。児玉は袋に空き缶を集めた。

 阿部は目を細め、静かにしている。
 穏やかだが、時折顔をしかめる。傷だらけの顔が痛々しい。
 話しかけない方がいいのかだいぶ迷っていたが、児玉はついに話しかけた。

 「阿部さんは……どうしてメリーを……?」
 何と言っていいのかわからず、そんな中途半端な問いかけになる。
 気づいた阿部は視線を向ける。間近で覗き込まれているのが、少し辛い。
 そしてぼそりと言葉を返す。
 「最初はメリー側の人間だったんだよ、僕は……」
 「え……?」
 「言わなかったっけ? ……須藤さんと……、いや正確に言えば、オリジナルと入れ替わった、須藤さんのドッペルゲンガーと……、メリーの下僕みたいな事をしてたんだ。僕はパソコンを使って、メリーの情報操作みたいなマネをしてたんだけど……まぁ効果があったのかどうかはわからないけどね……」
 その穏やかな表情を、児玉は見つめる。
 「でも……何でだろう? いつからか、メリーさんを裏切りたくなってしまった。いや……、」

 車が脇にそれる。サービスエリアの走路に滑り込んでいく。
 そして広い駐車場に車を停め、皆、車を降りた。

 「あ、アタシ残ってますから」
 児玉はそう告げ、空き缶の入ったビニール袋を佐々木に預ける。
 「トイレ行っといた方がいいんじゃないの〜?」
 そうアヤカに声をかけられるが、大丈夫だ、と断る。
 そして車に阿部と二人で残る。暖気運転されたままの車。児玉は身を乗り出して、オーディオのボリュームをほんの少し、下げる。

 「僕の話を聞くために残ったの? ……そんな大した話じゃないよ」
 阿部は苦笑するが、児玉は真面目になって先をうながす。
 「まぁ……メリーさんを結果的には裏切ってしまった。正直、僕はメリーさんに殺されたかったんだ。この世に、あんな不思議なものがいるだけで奇跡的な事だと思っていたんでね。僕みたいにくだらない人間の最期を、あんな綺麗なお姫さまの手で終えられるんなら……、それもまたいいだろうなぁって……。馬鹿みたいだけどね……」
 「そんな……」
 そう言いかけて、児玉は目を剥(む)いた。
 助手席に見える、白いもの。
 白い長髪。白いドレス……。
 それは静かに、振り向いた。

 「イヤァアアッ!!」
 反射的に阿部を抱きかかえ、右側のドアから転げ出る。
 そして大声で佐々木を呼んだ。

 車からメリーも降りてくる。
 「オホホホホ……。そんなに驚かせてしまってごめんなさいね。ちょっと唐突すぎたかしら?」
 動けない阿部を抱え、地べたに腰をつけた児玉は、足をすっかりすくませてしまっている。

 メリーのハイヒールが一歩近付いてくる。
 「これから皆さんでどこへお出かけするのかしら?」
 ややあって、児玉は答える。
 「あ……アナタに会いに行こうとしていたのよ……!」

 目は細めたままで。メリーは口だけ大仰に笑いを描く。
 「アラ! あらそうなの……。わざわざ? そんな事をしなくても、こうして出て来てあげられるじゃないの……。いつでも、どこへでも……」
 メリーがまた一歩近付いてくる。
 「来ないでッ!!」
 阿部を強く抱きかかえたまま、児玉は拒絶する。
 「あら、どっちなの? 私に会いたかったんでしょう……? 本当にわからない方ね、児玉さんは」

 ――ピリリリリッ!

 どこからか、携帯電話の鳴る音が聞こえた。
 児玉もメリーもギョッとする。

 メリーが後ずさる。
 「……わ、わざわざ来るのなら、待ってるわよ。あんな遠くまで、ご苦労な事ねッ!」
 そしてメリーは逃げるように消え去った。


 それから数分の後。
 地べたに腰を着いた二人を見つけて、佐々木達が駆け寄ってくる。
 蒼白になった児玉から、今あったばかりの出来事を告げられ、佐々木達も騒然となる。

 皆、胸の高鳴りが長く止まなかった。


― 81 ―


 アヤカの運転する車は、北へ向けて軽快に高速道路を飛ばす。
 向かう先は、I県K市だ。阿部やアヤカらにしてみれば、数時間かけて来た道をほぼ戻る事になる。
 そこにメリーがいる。須藤もその近くで待っているという。須藤は須藤の影と決着をつけるつもりでいるのだ。妻と娘を殺されたという恨みを晴らすためだ。

 改めてメリーの元へ向かう事になったのはいいが、児玉には大きな不安があった。
 つい先日、突然現れたメリーは、「自分と関わった者を皆殺しにする」と言っていた気がするのだ。麻薬を持っていったところで、ハッピーエンドは与えない、と言われたような気もする……。
 でも。麻薬を手に入れた須藤が向こうで待っている。だったら、それに賭けてみるしかない。……このままでは遅かれ早かれ、自分達は死ぬのだ。オリジナルを失ったドッペルゲンガーとして。だから何とかして、メリーに人間に戻してもらう以外に、助かる道はない……。
 戦いではなく、ちゃんとした話し合いで決着をつけようと児玉は思っていた。

 佐々木はとにかく、児玉を人間に戻してあげる事だけを考えていた。
 もちろん、自分だって助かりたい。でも人間に戻って、本当に自分が助かるのかどうかはわからない。自分の影が仕出かした、大量猟奇殺人の罪をも被る事になってはしまわないか?
 ……そもそも、戸籍上死んだ人間にまた入れ替わる事など可能なのだろうか? メリーはそんなチカラがあるほど、万能なのか?
 何もかもがわからない。
 殺人者の汚名を着せられずに生きられる、という希望がもしかしたらあるのかもしれない……。逆に、自分も児玉も人間に戻るすべなどハナからないのかもしれない……。
 しかし。この先の可能性を見出すには、メリーを説得するしかない。場合によっては殺す事になるのかもしれない。
 殺しても、やはり助からないのかもしれない……。

 そして阿部はメリーを殺すという事以外にも、新たな目的ができていた。
 今、後部座席を共にしている二人の女性を助けてやる事だ。
 彼女らはメリーによって、ドッペルゲンガーにされてしまった。そして人間に戻りたがっている。だったら、できるだけの事をしてやりたい、と思ったのだ。
 阿部としては、もう自分の命は捨てている。目前にある死を前に、いくらでも納得のいく最期を迎えたいと決意を新たにしているのだった。


 数十分前に、助手席のミユキが寝入ってしまってから、車内はだいぶ静かになっていた。さっきまでのはしゃぎぶりがウソのように、アヤカも黙っている。ネは静かなのかもしれない。

 後部座席の佐々木と児玉は、たまに気遣うようにアヤカに話しかけながら、場をつないでいる。重い話は控えていた。
 児玉の隣の阿部は穏やかな表情で目を閉じているが、眠ってはいない。
 会話に入ってこない阿部を気遣って、児玉は何度か話しかけるが、気のない返事が返ってくるばかりだった。

 「もう一人の阿部さんは、どこに向かったんですか……?」
 児玉は思い出したようにそう問いかける。
 その問いを待っていたかのように、阿部は少し歯を見せた。
 「かなり遠い所だよ……。辿り着けるかわからないけどね……」

 「遠い所……ですか」
 それ以上聞くのも気が引けて、その答えで児玉は納得してしまった。 
 「もしかして、先にメリーの所に向かわせたとか?」
 佐々木も話にのってくる。
 阿部はゆっくりと首を振る。
 「いやいや。そんな事しても意味ないからね。……そうじゃない」
 阿部はこらえきれずに口元をすっかり緩ませる。
 はっきりとは言わないが、阿部は何らかの策をもっているようだ。
 「ん〜……」
 佐々木は更に突っ込もうとしたが、しつこくするのも悪いだろうと思い、やめておいた。
 そして話題を切り替える。
 「ところでさ、須藤さんにまた電話してみない?」

 佐々木にうながされ、児玉は携帯電話を取り出そうとするが、その手を止める。
 「あ……壊されちゃったから……」
 「あ〜、そうだっけ……」
 佐々木も今になって思い出す。
 「え、何? 携帯あるよ」
 聞いていないようで聞いていたらしく、アヤカが素早く助手席側のダッシュボードをガタンと開けて、自分の携帯電話を差し出してくる。
 その拍子に、寝ていたミユキが「うほっ!」などという奇怪な声を発して飛び起きた。

 「いえ! そんな……」
 児玉は遠慮するが、アヤカは「ほい!」と投げてよこす。
 でも、他人の携帯電話を開ける気にもなれず、児玉はすぐにそれを返した。
 「いえ! 次のサービスエリアかどこかの電話ボックスで掛けますから……」

 「そお? 遠慮する事ないのに〜? どーせ、女の電話番号しか入ってないよ?」
 「いえ、ホントに……」

 「あ〜ん、気持ちいい〜……!」
 場のやりとりもおかまいなしに、やや悩ましげな声を上げ、ミユキが大きな伸びをする。
 「……あ、やべ。男いたんだっけ。いやぁ〜ん、阿・部・ちゃん」
 わざわざシートベルトを外して、後ろ向きになり、また愛想を振りまき始める。児玉も佐々木も苦笑する。
 「で、そろそろ着いた〜? 白いメリーさんのお家〜?」
 「まだまだ。……だよね、阿部ちゃん? I県まで戻んなきゃなんないもんね。てか今更だけど、アタシらの近くに住んでたワケだ、白いメリーさんは」
 アヤカが聞く。
 「……まぁそうですね」
 そう言いながら、改めて阿部はアヤカとミユキの事を考える。このままでは本当に、巻き込まれて殺されるだけだろう。自分達は彼女らの好意に甘えすぎている。どこかで切り離す必要があるだろう。

 「それよかさぁ、いいかげんマジで病院行かない? その顔、痛そうで見てらんないんだけど?」
 ミユキはややキツク言う。
 「……いや。今はそれどころじゃないんで。僕らみんな、生きるか死ぬかの瀬戸際にいるんでね」
 何度同じ事を言われても、同じように阿部はそうやんわりと返す。
 「そお? でもそのケガじゃ、瀬戸際どころか、死ぬだけじゃん?」
 「大丈夫ですよ。僕は生き残るつもりはないんで……」
 阿部は半分冗談のつもりだったが、その口ぶりがミユキのカンにさわった。
 「何言ってんのよ! そういうんならさ、メリーさんのトコなんか行かないよ! このまま高速道路降りてさ、病院直行だよ! 緊急入院だよ! ねぇ、アヤカちゃん?!」
 「……うん。ホントにそうした方がいいかもね」
 「冗談じゃない!」
 阿部は目を見開き、声を張り上げた。

 「……向こうが今、決着をつけたがってるんだ! 今しかないんだよ。後はない! ……それに、須藤さんの元オリジナルが、僕らが来るのを向こうで待ってるんだ。……だろ?!」
 急に話をふられ、児玉は思わず「はい!」と即答する。
 「……だから、いいかげん、病院行けとか何度も言わないでくれ。……決着がついたら行くから」
 「何の決着? どんな決着よ?」
 ミユキがやや涙目でまだ突っかかる。
 「……メリーを殺す。それだけだ」

 「そんな決着なんか……いらないじゃん。何とかなんないの? 大体にしてさ、阿部ちゃんってそんなに強いワケ? 今にも死にそうな顔してさぁ」
 ミユキがいじめられたように顔をしかめる。
 「何度も言うけど、僕は殺人鬼なんだよ。もう何十人殺したかわからない。そんな殺人鬼に、ハッピーエンドはないだろ?」
 阿部のそんな言葉に、佐々木は静かな反応をみせる。
 自分と入れ替わって人間になった影も、大量猟奇殺人鬼だったのだ。どんな人をどう殺していったのか。佐々木自身も漠然とだが、知っていた。夢で何度も見せられてきた。受け入れたくはなかったが、両親すらも既に殺されているのだ……。
 そんな自分にも、ハッピーエンドはないだろうと受け入れる。
 やったのは他人ではなく、もう一人の自分自身なのだから……。

 「……メリーを殺せるものなら、殺す。何度も言うけど、それが今の僕の悲願だよ。それだけだ」
 そして阿部はまたシートに深くもたれかかる。反論はもう聞かない、という姿勢がみえ、ミユキももう突っ込むのをやめた。

 そして、影を遠くに向かわせた他、阿部自身にも策があった。できるかどうかわからないが、相方との波長が合えば充分可能だろうと思った。
 要は、自分が<無意識>にいけるかどうかだ。<無意識>とつながれるかどうかだ。思い出せるかどうかだ。
 自分は、元ドッペルゲンガーだったのだ。だから……できるハズなのだ。バケモノじみた事を。


 場に戻った長い沈黙が心地よい。
 阿部はまぶたの裏に、赤い世界を思い描いていた。燃えるような夕焼けに包まれたあのひと時。
 幼い頃、何も知らずに辿ってきたあの長い一本道。どこまでも続く、長いあの道……。
 黄金色に輝く周囲の広大な田んぼを目にする。

 後ろを振り返る。広大な山が見える。
 懐かしさに包まれながら、阿部はゆっくりと、来た道を戻りはじめた。


― 82 ―


 その日の昼過ぎ。
 空は、一面が重い色に染まっている。肌寒い。小雪が今にも見えてきそうだ。

 田舎の、田畑に囲まれた二車線の道路。ぽつぽつと、民家や商店が見える。
 ――I県K市。
 道路沿いにある、住居者の少ない二階建てのアパート。その駐車場に、一台の車が乗りつけた。

 角張った紺色のレトロ車。ジャンバーを着た須藤が、運転席からゆっくりと降りる。
 アパートを前にして、須藤は動かない。
 ……早まった行動ではないか。これでやっと自分自身のケリがつくのか。メリーはいるのか。全てが終わるのか。それとも、失敗に終わるのか……。
 様々な事を考えては自問し、踏み出せない。
 やがて正面の玄関から、須藤の影が姿を見せた。

 「……何だ? 一人で来たのか?」
 須藤の影は気負う風でもなく、セーターにジーンズ姿で出てきた。
 「そうだ」
 須藤は短くそう言うと、車に頭を突っ込み、大きめのナイフを取り出してきた。皮の鞘(さや)を抜き取り、車に戻す。
 「メリーはいるのか?」

 ナイフを手にした須藤を見て、影は笑う。
 「お前一人で戦うつもりか? ……仲間はどうしたんだ、仲間は? 今、こっちに向かっている途中なんだろう?」
 「仲間? そんなものは最初からいない」
 影の軽い挑発を感じとり、須藤は逆に冷静になる。
 「あの子達はただ……助けてやれればいいと思っただけだ」

 「そうか。急に、何を焦りだしたのかは……わからんがね。まぁお前にどれだけの事ができるのかも……、僕にはわからん」
 馬鹿にするつもりはなかったが、影は苦笑するしかなかった。
 須藤の表情は動かない。
 「メリーとは争うつもりはない。僕が殺すのは、お前だけだ。できなくはないだろう」
 そう言われた影は眼鏡の奥の目を細める。笑いと苛立ちと呆れが混じる。
 「……で。メリーさんへのプレゼントは持ってきたのか?」
 「あるさ。浴びるほど持って来た」
 「ははは。そうか。それは律儀(りちぎ)な事だな」
 辺りの寒さが、笑いを長引かせない。

 「……それで。僕とはこんな所でやりあうつもりか?」
 影はわざとらしく周囲を見回す。道路沿いのアパートの駐車場。ひと目にもつく。
 「どこだっていい。でもその前にメリーと話をつけたい。死んでからじゃ話がつけられなくなるからな」
 「わかってるじゃないか。いい覚悟だ。……メリーさんなら、さっき部屋で一緒にお茶を飲んでいた。今に降りて来るよ」
 そこで確かに、カツカツというハイヒールの音が聞こえてきた。
 正面玄関奥の階段を下りて、真っ白なドレスが現れる。

 「あら? 須藤さんのドッペルゲンガーかしら? やっぱりよく似てらっしゃいますね」
 まるで雪の彫像だ。動いているのが不思議だ。改めてその存在に心を奪われ、須藤はメリーの言葉を聞き逃した。

 「いえいえ。僕の方が元ドッペルゲンガーでしてね。ヤツが元オリジナルなんです。まぁドッペルゲンガーになってかなりの年数が経ったハズなのに、全然影らしくなっていないのも不思議なんですがね」
 そう須藤の影は説明する。
 須藤は思い出したように、ナイフの切っ先をメリーらに向ける。それを見てメリーは顔をしかめ、影は笑った。
 「アイツはここでやり合うつもりらしいんですがね……。何年もかけて僕を追ってきたというのに、こんな間に合わせの場所で急いで決着をつけようなんてね……。馬鹿げてる。しかもせっかくの仲間がこっちに向かってるその途中、という中途半端さも……僕には全く理解できない」
 須藤の影は大げさに首を振る。
 メリーは後ろ手に、体をひねっていたずらな顔を覗かせる。
 「須藤さんの元オリジナルね。ご用件は何かしら?」
 「ご用件、だって? ……お前が欲しがる麻薬を持ってきたんだ。それで、あの子達を人間に戻してやってほしいんだよ。そういう約束をしたんだろう?」
 語気を殺し、静かにそう告げる。

 「あぁ……麻薬ね。そんな事も言ったかしら。でも今はいらないわ」
 「何っ!」
 苛立ちを抑えてきたが、ここで思わず須藤は怒鳴った。
 「……あぁごめんなさいね。気が変わっちゃったのよ」
 笑いを取り、メリーは真顔になっていた。
 須藤は言葉をなくし、しばらく呆気にとられてしまった。


 「……ははは。残念だったな。じゃあ、僕との決着をつけてしまおうか?」
 無防備なまま、須藤の影は数歩前に出る。
 須藤はうなだれたまま、メリーに問う。
 「……気が変わっただと? よくもそんな簡単に言えたものだな。……じゃああの子達はどうなるんだ? 佐々木さんと児玉ちゃんは……、人間に戻りたがっているんだぞ? そのために、これから、ここに来るんじゃないか……」
 「知らないわね、そんな事は」
 そんなメリーのセリフに、須藤はとうとう歯を剥いた。
 「知らないわだと?! ふざけるな!!」

 ナイフを握り締め、メリーにはっきりと切っ先を向ける。
 「お前を殺せば、あの子達は人間に戻るのか?! そうじゃないのか?!」
 「戻らないわ」
 メリーは須藤をじっと見つめ返す。
 「じゃあ、どうすれば、人間に戻る?!」
 「……人間になんて戻らないわ。あの子達の片割れが、人間として死んだんだもの」

 「……何だと?!」
 須藤の顔が大きくゆがむ。
 「戻らない……?」

 「佐々木さん達、人間に戻りたがっているようだったから、ちょっと希望をもたせてあげたかったのよ。……希望がないより、あった方がいいでしょう? 人間ってそういうものだと思うから」
 メリーは穏やかに言う。
 須藤は顔をしかめたまま、反論もできなくなっていた。


 「気が済んだか? ……で、僕との決着はどうする? やめておくんなら、それでもいいんだが?」
 須藤の影が話に割って入ってくる。
 「冗談じゃない。お前だけでも殺しておく」

 「……よし、決まった。でもな、場所を変えてくれないか? ここじゃ道路から丸見えだろう?」
 道路を挟んだところに民家が建ち並び、商店の類もある。車も先ほどから立て続けに走り、人通りも皆無ではないのだ。
 須藤は戦う事より、メリーをもっと問いただしたかった。……でも、ムダだとあきらめた。
 「いいだろう」
 須藤は車から皮の鞘を取り、ナイフを収める。

 「じゃ、車を出す。場所はもう決めてあるんだ。準備も整っている。……で、悪いがその前に、上着を取ってくる」
 須藤の影は寒々と肩を縮め、アパート内に戻る。

 場にメリーと須藤が残る。
 嫌な沈黙。そして恐れ。影と戦うまでもなく、一瞬の気の緩みでメリーに殺されないとも限らない。
 「……麻薬は? くれないの? せっかく持ってきてくださったんでしょう?」
 「約束が果たされていない」
 「でも、貴方に必要のないものでしょう?」
 そんな問いを須藤は無視する。
 「……同じ須藤さんでも、貴方は冷たいのね」
 メリーはあきらめたように言った。

 ややあって、須藤が上着を着て戻って来る。厚手のコートだ。
 それを見て須藤が首をひねる。あんな動きにくそうなコートを着て殺しあうつもりなのか、と。

 須藤の影は、車に乗り込む。須藤の車と似たようなレトロ車だ。その助手席にメリーが乗る。アパートの駐車場を出て、路肩に停まる。
 「戦う場所を準備している……か。用意のいい事だ」
 自分と影が殺し合うのはいい。だが、児玉達を巻き込みたくはない。戦うすべなど持っていないだろうから。
 しかし……、児玉達の望みは断たれてしまったのか? せっかく用意した麻薬も、何の役にも立たなかったのか……。

 須藤も車に乗り込む。
 影の車が出る。須藤もその後を追った。





 須藤は運転しながら児玉の携帯電話に電話をかけるが、つながらない。
 「ダメか……」
 あきらめて携帯を閉じる。今朝と昼過ぎに児玉からかかってきた電話も、携帯からではなく、公衆電話からだった。何か事情があるのだろう。

 ――人間に戻れそうもない事を教えてやらないと、児玉達はただ、メリーに殺されるために来る事になってしまう。
 だったら、今は児玉達が来るのを待った方がいいのか? 先に決着をつけて、児玉達が来た時には全てを終わらせているつもりだったが……、それも叶いそうにない。

 しかし……。自分達の戦いがどうなるかもわからない。一緒にいた事が災いして、児玉達を余計な危険にさらしてしまうかもしれないのだ。
 だが……メリーは殺せそうにない。
 そして、児玉達が人間に戻る事も望み薄なようだ。
 遅かれ早かれ、児玉達は死をまぬがれないだろう……。


 橋に出る。やや大きめの川が真下に流れている。影が運転する車は橋を越えた所を左折し、舗装された堤防沿いに走る。
 道の両脇に森が走り、合間からぽつぽつと民家が顔を覗かせる。
 いつしか堤防は砂利道に入る。そこを更に長々と行く。
 どこへ連れて行く気なのか。ひと気がなく、落ち着ける場所であるのは間違いないだろう。

 そしてふいに、影の車は右側の侵入路を降りた。川とは逆側だ。須藤も続く。
 開かれた鉄柵の門。その先は、広い更地(さらち)になっていた。

 一面の砂利と、所々に微かに生えている草。辺りはすっかり背の高い木々に囲まれている。
 更地の中、車が向かった先には、工場らしき建物があった。

 須藤の影は、建物のやや手前で車を停める。もったいぶるように間をおいてからエンジンを切り、車を降りた。メリーも降りる。
 目的地はどうやらここらしい。須藤も従った。
 「ちゃんと準備をしてあるんだよ。中はほどよく暖まっているハズだ」
 そんな説明も案内も、須藤は馬鹿らしく感じた。こんな改まったお膳立てはいいが……、勝負は一瞬で終わるかもしれないのだ。
 工場の壁はトタン製のようだ。鉄筋に貼り付けただけのものだろうか。工場自体、相当古いシロモノだろう。
 数少ない窓ガラスから、光がもれている。

 正面に位置する大きなシャッターが数枚。脇の木製のドアから、影らは中に入る。看板はないが、車の修理工場らしい。
 須藤もつれて入る。
 中はほぼ、がらんどうだった。
 中央にドラム缶が置かれ、火が燃え盛っている。

 「廃工場だよ。この近辺には民家もないし、大きな道路もない。まして、ここで大きな音を出そうが、火が燃え盛ろうが、周囲からはまず見えない。森に囲まれているからな」
 影はコートを脱いで、壁際のダンボール箱の上に置く。そのポケットからナイフを取り出した。須藤が持ってきたナイフより軽そうだ。
 「……さぁ、殺しあおう。長年待たせたな」
 黒く笑っている。

 「長年待ってはいないさ。お前を殺そうと思ったのは、つい最近の事だよ」
 須藤は、妻と娘の行方を聞き出すべく、長年、影を追ってきたのだ。
 そしてこの間会った際に、殺したと告げられたばかりなのだ。長年、恨みを持って追ってきたワケではない。
 それとは裏腹に、須藤には根本的な願いがあった。
 ――自分を殺したい。
 自分の中にあるこの願いはもしや、いつしか頭の中までもがドッペルゲンガーになってしまったという証明なのか……?

 「お前は……、人間になれないままだったようだな」
 須藤もナイフを構える。
 ――殺し合いになど、自信はない。自分をぶつけるのみ、だ。
 だがもし影を殺す事ができて、なおメリーを殺す事ができたとしても……、誰も生き残れないのか?
 自分も、児玉も、佐々木も……。

 ……どうすればいい?
 どうするのが、最善の道なのか。

 場をやや外したメリーが冷ややかに見ている。
 あの少女はやはり、血も涙もない、ただの悪魔なのか。
 下らない嘘に騙されて、これからやってくる児玉達はどうなってしまうのか。
 どこにももう、希望はないのか……?

 「さぁ! 妻と娘を殺された恨みを晴らしてみろ!」
 影が勢いよく、かかってくる。
 須藤もナイフを握り締め、身構えた。


― 83 ―


 予想外に、自分の影の動きはしっかりしている。
 迷いもぎこちなさもなく、ナイフが一線に突き出されてくるさまは感心すらしてしまう。
 それに比べて、須藤はナイフで人と争った事などないのだ。影とは対照的に、動きはのろく、ぎこちない。
 「そのジャンバーを脱いだらどうだ? 待っていてやるぞ」
 影の顔には、自分のような辛辣(しんらつ)さはない。

 やっとの事で、決着をつけられる時が来た。
 自分と入れ替わった影が憎くて殺すのが悲願だったのか。それとも、妻と娘を取り戻したかったのか。どちらだったのか、今の須藤には思い出せないでいた。
 ドラム缶から火が燃え盛っている。メリーがいる。
 そして、自分の影。自分達は互いにナイフを手にし、殺しあっている。
 閑散としたこの廃工場の中、須藤は夢を見ているのではないか、と疑った。
 
 ジャンバーを脱がないまま、須藤はナイフを構え直す。
 ――自分は本気で影を殺すつもりで、この数年間、追って来たのだろうか?
 その割には、戦いがあまりにもお粗末ではないか。
 これではただ、殺されるのが目に見えている。

 そんな須藤の迷いを察して、影が茶化してくる。
 「ドッペルゲンガーとしての覇気(はき)がまるで感じられないな! 今まで何をしてきたんだ、お前は?」
 影はグッと近づいてくる。高々と上げたナイフを叩きつけてくるかと思いきや、素早い勢いでそれが横になぎはらわれる。須藤は危うげに避けてバランスを崩し、後ろ手に転んでしまった。
 「はははっ! ブザマだな!」
 影はそのスキを逃さず、ナイフを逆手にし、襲いかかった!

 「うわあっ!」
 殺気にみなぎった、迫り来る悪鬼の顔を見る。
 遅れて身をひねって避けたが、ナイフは須藤の左肩を切っていた。

 大きく跳ねて、距離をとる。ナイフを足元に置き、ジャンバーを脱いだ。
 「切れていなかったようだな」
 影はつまらなさそうに言う。
 「……で、いつ見せてくれるんだ、あのマジックは?」

 言われた須藤は呼吸を整えながら、しばらく考える。
 「マジック……か。今は無理だな」
 この間の別れ際に見せたものだ。去った後、影の持っていた灰皿を投げ捨て、その額をわしづかみにした……。
 「今は無理だと? じゃあいつ使うつもりだ?」
 呆れて影は笑う。
 「もったいぶっている場合じゃないと思うがね」

 「今は無理なんだよ、本当に」
 須藤はナイフをきつく握り直す。
 ――必ず、殺す。この自分もそれで死ぬのだとしても。
 この命など、まるで惜しくはない。


 「須藤さん? 貴方は人間に戻る気はないの?」
 水をさすように、メリーが須藤に話しかける。
 「今の貴方なら……、戻れるわよね。オリジナルと影の、両方が生きているんですもの」

 「……どうしてそんな事を聞く?」
 メリーを見ずに、須藤は問い返す。
 「麻薬をわざわざ持って来てくださったんでしょう? だから、せめてものお礼に、と思って……」
 須藤は首を振る。
 「残念だけど、僕にはその気がない」

 「あら、どうして?」
 何故、急にメリーが自分に興味を示してきたのか、須藤にはわからず、苛立(いらだ)ちすら覚えた。
 「今更、人間に戻っても無意味だからだよ」
 「奥さんと娘さんを殺されたから?」
 鋭く言われ、思わずメリーの方を見るが、また視線を影の方に戻す。
 「そうだ」

 「……ねぇ、そうなの、須藤さん? 本当に殺したの?」
 メリーは今度、影に問う。
 「えぇ。間違いなく殺しました。オリジナルも影も」
 「どうして殺したの?」
 「……邪魔だったからですよ。僕は一人になりたかった」
 一人になりたかった、というセリフだけ、自分らしいと須藤は思った。

 何を思ったか、メリーは須藤に近寄って来る。警戒して須藤は後ずさる。
 「でも……奥さんの事も、娘さんの事も…何も覚えてらっしゃらないんでしょう? 元オリジナルの須藤さんは」
 どちらも「須藤」と呼ぶのがややこしく感じたのか、メリーはそう言い分けた後、一人でくすくすと笑った。
 「僕から記憶を奪ったのは、お前だろう? ……いいかげん、邪魔をするのはやめてくれ」
 メリーと話をしていると、気が抜けてしまう。
 「どうして、よく知りもしない奥さんと娘さんのために、カタキを討とうなんて思えるのかしら?」
 メリーの蛇眼に見据えられ、須藤は動けなくなった。


 ――よく知りもしない奥さんと娘さん……。
 それは事実だ。自分には、二人の記憶がほとんどない。
 名前すら、知らないのだ。
 確かに、妻と娘がいた事は覚えている。それは事実なハズだ。
 でも……、「カタキ討ち」と称して、恨みに身を焦がすほどの怒りが湧いてこないのも事実だ。
 本当に、よく知りもしないのだから……。

 メリーの言葉をうのみにして、須藤は顔をきつく歪める。
 自分のカタキ討ちには……「心」がこもっていない。形だけのものなのか……?

 ほんの一瞬。須藤は身が固まるほど、ひどく苦しんだ。
 そしてその後、ふいに笑った。

 「本当にな。いたのかいないのかすら、わからないような……家族だけどな。でも確かに、いたハズなんだ」
 須藤は妻と娘の存在を、胸に思い描く。
 「僕は……父親だったんだよ。確かにな」
 影に向かって、一歩進み出る。その顔は今にも泣き出しそうなほど、崩れていた。
 「だから、カタキを討つんだよ。どんな顔か知らなくても。何一つ、思い出がなくてもな……。僕は確かに、父親だったんだから……」
 そして、須藤は咆哮(ほうこう)をあげた。
 メリーがぎょっとする。そのうなる声は工場全体に響き渡った。

 須藤は、影に突進しながら、ナイフを握った右手を引き絞った。腕の筋が張るほど、力を込めた。
 そして影の体に、力いっぱい叩きつける。

 だが。それより一瞬早く、影のナイフが須藤の右手首を叩ききっていた。


 ナイフを握ったままの拳が、血をまとって宙を跳ねる。
 須藤は何が起きたのかわからず、勢いを崩して派手に転げた。
 砂ぼこりが舞う。
 影は軽やかに大きく避ける。

 「うああああっ!!」
 右手を切断されたのに気付き、尋常(じんじょう)ではない痛みが須藤を襲った。
 湧き出る血を、止めようもない。
 どうする事もできず、須藤はわめき、転げ回るしかなかった……。

 「あっけなくて……しかもブザマだな」
 直後、自分の右手首もひどく痛み出す。ナイフを握っていられなくなり、左手に持ち変える。
 須藤は砂ぼこりにまみれながら、転げている。
 「……そんなザマじゃ、もう終わりだろう。とどめをさしてやる。頭がいいか? 心臓か?」
 須藤は切断面の少し下を左手で押さえ、いくらでも出血を防ごうとしている。歯を食いしばり、体を丸めて耐えている。
 「ははは。まだやる気か?」
 しかし、そう言う影の顔色にも余裕がなくなってきた。
 「殺すしかないな。これでは、こっちも痛みで参ってしまう。……まぁカタキ討ちをさせてやる時間もとれなくて恐縮なのだが」
 殺せば、痛みの疎通は途切れるハズだ。

 無防備に背中をさらしたまま、須藤は動けないでいる。
 「……残念だったな。お別れだ」
 逆手に持ち替え、右手も添える。そしてナイフをその背中に深々と突き刺した。

 一際甲高く叫んだ後、須藤は力をなくして崩れ落ちた。





 「終わったようね」
 メリーが近づいてくる。
 「そうですね。さすがにこれでは……終わりでしょう」
 右手首の痛みがひいてくる。
 影は、自分自身のなれの果てを見る。
 右手首を切断され、背中にナイフを突き刺されて絶命している。
 「あまりにも……呆気なかったな」
 もっと殺し合いを楽しむつもりだったし、楽しませてくれると思っていた。だが、そうはいかなかった。
 自分が殺されるのなら、それはそれで構わなかった。

 「……じゃあ、麻薬を探してきますよ。車の中でしょうからね」
 影は違和感の残る右手首をぶらぶらと振りながら、その場を後にした。


 外に出て、冷たい大気に包まれる。
 「寒いな」
 上着を取って来ようかと思ったが、面倒なのでそのまま走った。
 須藤の車を見つけ、ドアを開ける。
 ダッシュボードを開けて中を探るが、麻薬らしき物はない。
 コンソールボックスや小物入れ、灰皿までも探ってみるが……、ムダだった。
 ……後部座席にカバンがあった。
 今度はリヤドアを開け、カバンを開けてみる。だが、期待に反して大した物は入っていなかった。
 「あいつ、本当に持って来たのか……?」
 そう呟いた時、車の振動に気付いた。

 驚いて、車から身を出す。
 見ると、エンジンがかかっているではないか。メーターのランプを不思議な気持ちで眺める。
 ……最初から点けっぱなしだっただろうか?
 「ボケたかな……?」
 気味が悪くなり、エンジンを切る。そして後ろのトランクを開けた。
 そこにもカバンがあった。古臭いアタッシュケースだった。
 開けてみると、白い粉が詰まった袋が3つほど、入っていた。
 「……これか! ……これはすごいな。これがエンジェルダストだとしたら……相当の高値なんじゃないのか?」


 一瞬の空白の後。
 須藤の影は、むせていた。

 口から、白い粉が大量に出てくる。
 「ぼ、僕は……何をしている?!」
 見ると、アタッシュケースの中は粉だらけになっているではないか。
 自分は無意識に、袋を開けたのか? そして、それを口にしたのか……?

 「馬鹿なっ!!」
 咳き込み、粉を吐く。頭の中がぐらりと大きく揺らめき、影はたまらずその場に倒れた。
 泡を吹き、ケイレンしだす。
 体が灼熱に包まれ、宙を飛び回る――凄まじい衝撃。
 頭を右や左から激しく殴られる。だが痛みはなく、それは笑いに変わる。

 果てのない、閃光の渦に巻き込まれる。すべてがきらびやかに美しく輝いている……。
 何もかもを忘れ、須藤の影は高笑いした。
 ……やがて、その意識は闇へと落ちた。


 しばらくして、メリーがその場に歩いてくる。
 そして白目を剥いて絶命してる須藤の影を見て、驚くでもなく、じっと見つめた。
 「私にはわからないけど……恨みは晴らされたようね」
 トランクの中に、開いたままで粉まみれになっているアタッシュケースを見つける。

 粉をつまみ、舌で味わってみる。途端、メリーの顔色が輝いた。
 「あぁ……思い出したわ。これね。確かに麻薬のようね……」
 何度か同じように味わってはうっとりと楽しむ。
 粉を掻き分けると、無傷の袋を2つ見つけた。
 「あら……。当分の間は楽しめそうね……。ありがたいわね……」

 ケースの中にぶちまけられた粉ももったいない、とばかりに何度も口に運ぶ。
 次第にメリーの脳が熱くなっていく。

 「せっかく忘れていたのに……! また思い出しちゃったじゃないの、この感覚!」
 メリーは甲高く笑う。
 粉を両手ですくい、それを口元に流し込む。
 顔じゅう粉だらけにして、咳き込んだ。
 「ゴホッ! ごぼっ! ……キャハハハハッ!」
 腹を抱えて激しく笑った後、メリーは楽しげにくるくると踊りだした。

 「あ〜……雪降らないかなぁ、ゆき……」
 寒空の下。メリーは空と会話しながら、可憐に踊る。
 「素敵だわぁ……。この世界って、ホント、素敵ね……!」

 やがて、その顔色が曇る。足を止め、身を折って大量のアワを吐いた後、ぐったりと倒れ込んだ。
 しかし顔はまた笑いを彩る。
 「楽しい〜……」
 転げて、仰向けになる。
 どんよりとした空を見ながら、メリーは頬を染め、満面の笑みを浮かべた。


― 84 ―


 日もすっかりと落ちた頃。国道を北上している児玉達を乗せた軽自動車は、目的地のI県K市に辿り着いた。
 「ほらぁ、来たよぉ! 着いたよぉ! 戻って来ちゃったよぉ! ……で、これからどこ行くの〜?!」
 今は運転を代わっているミユキがはしゃぐ。
 「まだ、もう少し先ですね……」
 顔に包帯をぐるぐると巻いた阿部が、窮屈(きゅうくつ)そうに応える。

 ……I県に入った時、車は一旦高速道路を降りた。アヤカ達と話がこじれて、阿部は病院へ直行させられそうになったのだ。
 そこで仕方なく、阿部はドラッグストアで薬を買い、応急処置をするという提案を持ち出した。
 その結果が、今の阿部の包帯姿なのであった。

 「……困ったな。アイツ、全然辿り着けてないな……何やってんだろ」
 「え?!」
 阿部の言葉にミユキが反応する。
 「いや……、アイツだよ。僕のオリジナル……じゃなくって、え〜と、とにかくアイツ。今はすっかりドッペルゲンガーになったから使えるかと思ったけど……、まだ見えてないな、アイツ」
 車内の誰もが、阿部の言葉を理解できていない。
 「あの人をどこに行かせたんですか?」
 児玉は改めて聞く。
 「うん? ……さぁどこだろうなぁ?」
 阿部はやや優しく応える。さっき、女達から一斉に治療を受けた事もあり、邪険にできない、というのもあった。
 だが、せっかく準備した自分の心構えが砕けてしまったような気もしていた。
 阿部は、オリジナルをどこかへ向かわせた他、自身の策もあった。その策を成功させるには、以前影だった頃の感覚を掴まなくてはならないのだ……。
 先ほど、長い時間をかけて、その感覚を辿っていた。
 また気を静めてみる……。
 脳裏に夕闇が広がっていく。その中で五指を動かしてみる。……まだ大丈夫だ。感覚を、忘れてはいない。
 黄金色の風景。燃える夕陽。
 だが、<無意識>はこんな美しいばかりの世界ではない。それもわかっている。


 それから20分ほど国道を走る。片側二車線の道路は、やや詰まり気味だ。会社帰りの車も多そうだ。
 「ミユキさん。この次の交差点を左に曲がってもらえますか?」
 阿部は自分でも驚くほど明るい声を出す。
 「りょうか〜い」
 それぇ、などという掛け声とともに、車は左に曲がる。
 車の販売店と大型土木作業機械のレンタル店に挟まれた軽い下り坂。すぐにT字路に突き当たる。正面には森に囲まれた霊園がある。
 「それを右ですね」
 「うぃ〜す」
 曲がった途端、コンビニが見えた。
 「あ! 何か買ってかない? お腹すいたよね?」
 「いえ、今はそれどころじゃないんで……。もうちょっとガマンしてもらえますか?」
 児玉はそんな阿部の言葉を遮って、コンビニで電話をかけたいと言おうとした。須藤との連絡がまるで取れていないままなのだ。
 でもタイミングを失って言いそびれてしまった。

 須藤も心配だが、隣で押し黙っている佐々木も心配だった。
 気難しい表情をしたまま、腕組みをしている。寝ているのか。寝たフリなのか。
 この先に待っているメリーとの事が不安でしょうがないのか。見つめていると、たまに大きく輪郭がゆがんで見えるのが恐ろしかった。
 今の佐々木には、気軽に話しかけられない重さが漂っていた。

 車はその後も細かく右往左往し続ける。工業団地を抜け、さびしい住宅地を抜ける。
 やがて、車は周囲を田んぼに囲まれた、農道に出た。
 広がる視界の中。人の姿や建物どころか、車のライトすらほとんど見えない。
 「ちょっとぉ! ホントにこんなトコにメリーがいるの?!」
 「……もう少しだから。この先を右に……」
 ミユキは騙されていると思いながらも、阿部に従うしかない。

 「ホラ、ここだ……」
 そうして辿り着いた所は、鳥居の見える小山だった。ミユキは車を停める。
 「ありがとう。ここの裏にさ、車を隠してあるんだ」
 「車?!」
 「そう。僕の車だよ。今持ってくるから」
 阿部はドアを開け、足を外に下ろす。
 「ちょっと待ってよ! 車持って来るって、どういう事?!」
 ミユキがわめく。
 「……だからさ。ミユキさん達とはここでお別れしたいんだ。後は、僕の車で行くから」
 「は?! ……ちょっとちょっと! まだそんな事言ってんのおっ?!」 
 阿部はそんなミユキを真っ直ぐに見つめ返す。
 「……この先深入りすると、本当に死ぬから」

 そして阿部は車を降りて、ドアを閉めた。
 「じゃ、アタシ達も出ましょう?」
 佐々木が児玉をうながす。
 「はい……」
 「ちょっと待ってよぉっ! ホラ、アヤカちゃんも何か言ってよおっ!」
 助手席で寝ているアヤカを揺り動かす。だが、アヤカはまだひどい睡魔の中にいて、うるさがる。

 中途半端な別れである気もするが、ミユキとアヤカを巻き込むワケにはいかない。佐々木達も荷物を手にして、車の外へ出た。
 「本当に、ありがとうございました。私達のために、何日も……」
 ミユキはくるりと後ろを向く。
 「いえいえ、いいからいいから。それはいいって……。でもなぁ……ホントにお別れしちゃうのもなぁ……。肝心のメリーさんも見てないしさぁ」
 ミユキは半分あきらめ、悲しそうな顔になる。児玉も寂しげに笑った。
 「うん……。でも、本当に危ないですから……」
 
 「でもさぁ、そんな危ないものに、児玉ちゃん達はこれから会いに行っちゃうんでしょう? ……やめたら?」
 「いえ……私は人間に戻って、家族に会いに行きたいんです……」
 「家族? そりゃいいけどさぁ……。てか、今のままでも充分、人間じゃん?」
 「いえ……。今の私は人間じゃないんです。ドッペルゲンガーっていう、ものなんです。このままだといずれ、消えてしまうみたいなので……」
 「ふぅ〜ん……」
 ミユキはまじまじと児玉の顔を眺める。

 「わかった。じゃあがんばってよ。あ、ちょっと待って……!」
 ミユキは小物入れを開け、ごそごそやる。
 「アタシの電話番号だから。何かの時さ、電話して。……ほら、人間に戻れた時とかさ」
 「……はい」
 メモ用紙を受け取り、児玉は思わず涙ぐんだ。

 「……何かさぁマジで純情そうだよね、児玉ちゃんって。今時めずらしい生き物って感じ」
 「めずらしい……いきもの?」
 そして二人一緒に笑う。
 「あのさ。アヤカちゃん、起こすの可哀相だから、後で教えとくから。……じゃあ、マジで人間になってよね」
 差し出された手を軽く握り返す。
 「はい……ありがとうございました」
 そして深く頭を下げた後、ドアをそっと閉めた。
 「それ、半ドア!」とミユキのツッコミが入り、笑いながらドアを閉め直した。

 佐々木は苦笑しながら児玉の肩を何度か叩く。
 小山の脇から、ヘッドライトを点けたライトバンが出て来る。阿部の車らしい。
 児玉と佐々木は名残惜しそうに、何度もミユキ達の車に頭を下げたり手を振ったりした後、阿部の車に乗り込んだ。


 「運転大丈夫なの?」
 佐々木が包帯顔の阿部に問う。
 「ここからそう遠くない。それより、ミユキさん達、絶対に僕らの後をつけてくると思うから……、少し遠回りして撒(ま)くよ」
 「かもね〜……」
 佐々木も賛成する。

 そして阿部の運転する車は後部座席に児玉と佐々木を乗せ、走り出す。
 やや控えめに、やはりミユキらの車も後をつけてくる。
 「国道に出て、一旦、南の方に戻る形になるから」
 ややスピードを上げる。向かう方向とは逆に走らせてみたりする。視界の広い農道を出て、狭い住宅地を何度か複雑に曲がる。
 阿部なりに遠回りしたつもりだったが、ミユキ達もしっかりと後をつけて来ていた。……だが、こんな事をして遊んでいる暇はない。どうでも良くなって、阿部は国道に出た。
 さすがに車の多い国道に出ると、ミユキらの車も見えなくなった。

 「じゃ、メリー達のいるアパートに向かいますんで」
 「あ、その前に須藤さんに連絡をとらないと!」
 児玉は思い立ったように言うが、車内の誰も携帯電話を持っていない。
 「じゃあ、その辺のコンビニにでも寄りましょう」
 すぐにコンビニが見つかり、早速駐車場に車を入れる。

 佐々木のメモ帳を借り、電話をかける。……だが、須藤は出ない。
 「出ません!」
 車に戻り、児玉はそう告げる。
 「じゃあしょうがないよ。直接行ってみよう。どうせ須藤さんもそこに向かってるハズだろうから」
 「その前に、アタシ、トイレ」
 佐々木がのっそりと外に出る。終えてから児玉も行き、阿部も小用を済ませた。

 後は押し黙って、車は目的地へと向かう。
 国道はまだ、やや渋滞している。
 橋を越え、阿部達が自転車を置いたパチンコ屋を抜ける。ミユキ達と出会った辺りだ。そこで右に曲がった。
 片側一車線の道路に出る。ちょっとした商店や民家などが建ち並ぶ。車の通りは少なくなる。


 ――死が見えてくる。
 阿部は死ぬために向かっている。
 それでも一応、メリーを殺すための策はほどこしてあった。だが、それが上手くいくとは限らない。
 ――みんな、死ぬ。
 という結果が一番容易に想像できた。メリーに救いを求めても、ムダなのだ……。

 そんな暗い思いを断ち切ろうと、阿部は話しかけた。
 「この先、もうすぐです」
 小さい返事が返ってくる。二人も不安なのだろう。
 改めて、覚悟がどうとか聞くのはやめておいた。児玉と佐々木がメリーに会わないと、今後生きられないのは重々承知しているのだから。
 ……だが希望がないワケではない。須藤が用意したという麻薬だ。それで、あの気まぐれなメリーの機嫌が良くなる事を願うしかない……。

 そんな希望すらも断たれている事を知らず、一行は目的地のアパートへ向けて、車を走らせるのだった。


― 85 ―


 阿部のライトバンがアパートの駐車場に入り込む。
 外灯が照らす駐車場に、車がまばらに三台ほど留まっている。

 阿部達は車を降りて、二階建てのアパートを見上げた。部屋数は多そうだが、窓の明かりは寂しいものだ。
 「なんか、あんまり人がいなそうだよね〜?」
 言った後、佐々木は身を震わせる。外はやたら寒い。

 「とにかく、入ってみようか」
 出迎えもないようだからと、阿部はアパートの玄関に向かう。やや無用心かと思ったが、もしいきなりメリーと鉢合わせても、話ぐらいは聞いてくれる余裕があるだろう、と思った。
 無論、児玉達の願いがメリーに聞き届けられない場合も充分に考えられる。その時は、あきらめざるを得ないだろう。どうしてやる事もできそうにない。どの道、自分にとって、児玉達は命を賭けてまで助けてやる義理もないのだから。
 ……ただ、救ってやれそうなら救ってやってもいい。その程度だ。

 ここまで来て、阿部は自分達が何のためにここまで来たのか、わからなくなりそうだった。
 一体、どんな希望があって、わざわざ来たのだろう?
 須藤のオリジナルという者が、メリーのために麻薬を用意したのだという。それで機嫌をとって、児玉と佐々木を人間に戻してもらうという筋書き。
 どうして自分はその話が「馬鹿げている」と、言ってやらなかったのだろう?

 そして、自分が用意した策は、メリーを納得させるためのものではない。メリーを殺すための策だ。……児玉達を救うすべにはならないものなのだ。
 (今更だな……)
 だが、焦ってやって来たのもわからなくはない。
 児玉はともかく、佐々木の存在が危ういのだ。かなりドッペルゲンガー化しているのは感じていた。オリジナルは既に死んでいる、との事で、もはや消えるのを待つばかりなのだ。
 だが、生き延びるための頼みの綱が、あのメリーでは望みは薄い。わざわざやって来たのもきっとムダになってしまうだろうと、阿部は思った。

 階段を上り、二階の自分の部屋に行ってみる。鍵は閉まっていた。向かいの須藤の部屋も同じだった。
 「いないな」
 早くも見切りをつけ、またアパートの外に出る。
 「……とりあえず、メリーが出て来るのを待とう。ここを拠点としているのは確かなんだ。……須藤さんのオリジナルもまだ来ていないようだし、待つしかなさそうだ」
 努めて明るく言い、阿部は児玉達を車へとうながす。

 その時、駐車場に滑り込んで来る車があった。
 ミユキ達の軽自動車だった。
 「イエーイ! じゃじゃ〜ん! ついて来ちゃったんだもんね〜!」
 二人とも得意げな顔を窓の外から突き出してくる。
 さっき、互いに別れを惜しんだばかりなのに、また恥ずかしげもなく現れるその神経に、佐々木達は呆れる以外になかった。

 「バカ野郎……。アンタらがついて来たところで、何になるんだよ……?」
 さすがの阿部も驚いたが、嬉しい出来事でないのは確かだった。
 「さっきさー、コンビニ寄ったでしょ〜! 丸見えだったよ〜。阿部ちゃんの車、すっごく個性的だから」
 古臭くて汚いライトバンでは確かに目立ったかもしれない。
 「アタシのせいですね……すみません」
 電話をかけるためにコンビニに寄ってほしい、と言ったのは確かに児玉だったが、今更謝ったところで、何にもならない。

 「いや、とにかくさ……、邪魔だけはしないでほしいんだよ。もう、メリーはその辺にいるんだからさ……」
 怒る気にもなれず、阿部はどう説得すればいいものかと思案に暮れる。
 「で? メリーさんいたの? 須藤さんってのは?」
 ミユキはなぜか気取ってサングラスをしてみせたりする。辺りは夜なので無意味ではある。
 「……いえ。いません」
 児玉はミユキのサングラスを不思議そうに見る。
 「さっき、コンビニで電話かけた? その時、須藤さんってのつかまった?」
 「いいえ……。須藤さん、出ないんです……」
 そんな児玉にミユキは携帯電話を差し出す。
 「出ない? ……じゃあ、ホラ。これでまた、須藤さんってのに連絡とってみてよ?」
 「え? そうですね……。じゃ、すみません。お借りします……」
 いちいち断っても仕方がない。素直に受け取り、児玉はもう覚えてしまった須藤の電話番号を打ち込んだ。

 ほどなくして、児玉が明るい声を出した。
 「あ! もしもし! 須藤さん?!」
 しかし、返ってきた小声は、須藤のものではなかった。
 『……いいえ、残念ね。須藤さんはもう死んだわ』
 メリーの声だった。

 「死んだ……?」
 児玉は表情を落とし、電話にしがみつく。佐々木と阿部も寄ってくる。
 『須藤さんとその影はね、殺しあいの結果、二人とも死んだの。そしてね、今私が……火葬してあげているところ』

 そんな言葉がわからず、児玉は体を硬くする。
 どうして須藤の携帯電話にメリーが出ているのかも、理解できない。
 『今、阿部さんのアパートに着いたところかしら? そこからね、ちょっと離れたところに来ているの。廃工場なんですけど。……あぁ、口で説明するのも面倒だから、今からそちらへ向かうわね』
 電話が切れる。

 児玉は焦点を失った目を佐々木達に向けた。
 「……須藤さんが……死んだそうです」


 場が静まり返る。
 「メリーが……須藤さんを火葬にしたって……」
 目を見開いたまま、児玉はゆがんだ口を塞ぐ。寒さが一息に襲い掛かってくる。足ががくがくと震え出す。……でも事実かどうか、まだわからない。

 「ね〜? どうしたのー?」
 場の空気が何となく読めて、控えめにミユキは聞く。
 児玉は縮こまって立てなくなってしまった。落としそうになった携帯電話を佐々木がミユキに返し、阿部と二人で児玉を抱え、ライトバンに連れていく。
 車のエンジンをかけ、車内でじっとする。震える児玉を、佐々木は抱いてやる。
 児玉は小声をしぼり出す。
 「メリーが……こっちに来るって……」
 そう言ったあと、児玉は頭を抱えて、ヒステリックに叫んだ。
 「……でも、須藤さんがッ!!」

 「わかった。わかったから」
 阿部は軽く児玉をなだめると車を降り、ミユキ達の方に行く。
 「……今から、ここにメリーが来るそうだ。で、死人も出たようだ。だから今すぐ、ここから出てってくれ!」
 「でも……」
 窓ガラスを開けたままの運転席で口ごもるミユキの肩を、阿部は強く掴む。そして包帯だらけの顔をグッと近づける。
 「頼むからさ!!」
 ミユキももう逆らえなくなり、何度も縦に首を振った。
 そしてミユキ達の車はおとなしくその場から退散した。


 それから間もなく。駐車場の入り口からメリーが姿を見せた。
 外灯の薄い光に照らされて、まるで亡霊のようだ。
 「わざわざ死にに来たのかしらね、みなさんは」
 絶対的な力が歩み寄ってくる。阿部は車に戻るべきか迷ったが、動けなかった。
 「須藤さんを……殺したのか?」

 「……誰、貴方? もしかして、阿部さん? 病院にでも行ったのかしら?」
 包帯顔の阿部に、メリーは遠慮なく近づく。
 ――動いても、動かなくても、一瞬で殺される。
 どうする事もできず、阿部は立ちすくんだ。

 「阿部さんッ!」
 ライトバンのスライドドアが開き、児玉が飛び出してくる。途端にメリーの顔色が曇った。
 「……あぁ、児玉さんも来たのね。そうよね、そうでしょうね……」
 メリーは立ち止まり、何故か髪をいじり出した。
 「こういう場合……どうしたらいいのかしらね……? 一人になっちゃったから、わからないわね……」

 佐々木もバンからそっと降りる。そしてメリーの様子がおかしいのに気付いた。
 「あぁ、そう。須藤さんから麻薬を大量に戴いたわ」
 メリーは胸元からロケットを引き出す。以前、佐々木がメリーにあげたものだ。その物持ちの良さに、佐々木は苦笑してしまう。不謹慎な笑いだと気づいたが、今の佐々木にとって須藤の死はまるで他人事に思えた。……人としての感情も忘れかけているのだろうと思った。
 「このくらいの麻薬でも楽しかったんですけど、今度はもっと、比べ物にならないほどたくさんね……、戴いちゃったわ」
 そしてニッとメリーらしからぬ笑いを見せた。

 「でも残念だけど、佐々木さんや児玉さんを人間に戻してあげる事はできそうにないの。ごめんなさいね……?」
 本気かどうか、ペコリと頭を下げる。佐々木達はその姿に呆れ返る。
 「須藤さんは……どこなの?」
 児玉が問いただす。
 うつむいたメリーは、勢いよく顔を上げた。今度は目を見開いて笑っている。その異様な顔に、児玉達はたじろく他なかった。
 「見たい……? そうよね、須藤さんのなれの果てを見せてあげないとね……。車でついて来なさいな?」
 メリーは踊るように駐車場から出る。
 阿部にうながされ、児玉達も車に急いで乗った。





 滑るように道路を飛び跳ねていくメリーを、阿部達は追う。
 ――須藤のなれの果て。
 そんなものを見せられるために、行くのか。だが今はメリーに従う他はない。話がまるでついていないのだ。

 『よぉ、大将。着いたぜぇ? 殺していいのかぁ?』

 急に出た、そんな阿部の独り言。児玉も佐々木もぎょっとした。
 阿部が安堵の溜め息をもらす。
 「……よし。やっと着いたのか。でもタイミングが悪い。殺すのはちょっと待ってろ。こっちはまだ話の途中なんだ」

 「……何なの?」
 佐々木が聞く。
 「僕のオリジナルだよ。今は影になったアイツだけど。向かわせた所に辿り着けたみたいだ」
 「それって……どこに?」
 「今は言えないな。まぁ、すぐにわかる」
 阿部の得意そうな声を聞き、佐々木達はその策が何なのか、思案をめぐらせてみるのだった。


 二車線もなさそうな狭い道。民家がぽつぽつと過ぎ去る。
 やがて橋に出た。川幅は結構ありそうだ。
 橋を過ぎ、メリーは左に曲がる。まだ夢見がちのようで、くるくると踊って見せたりする。麻薬を吸ったんだろう、と阿部は勘ぐる。
 堤防沿いの道を行く。辺りは木々に囲まれる。
 砂利道に入り、その先でメリーは右に消える。
 さびた門を抜けると、広い土地に出た。

 車が二台、停まっている。その先に、明かりのついた工場があった。自動車の整備工場か何かだろうと思った。
 工場正面にある大型シャッターの脇でメリーは待っている。
 阿部は近くまで車を泳がせた。

 「児玉さん達はここで待ってて」
 阿部は車を降りる。
 「そういうワケにもいかないでしょ!」
 佐々木も降りて、児玉も続いた。

 シャッター脇のドアから、メリーはするりと工場内に入る。
 阿部達もそれに続く。

 途端、ムッとする臭いに包まれた。
 工場内はがらんどうだった。中央に置かれたドラム缶から火が燃え盛っている。
 メリーが傍に寄っている。
 「ホラ、近くに来てみなさいよ! 須藤さんを二人とも焼いてるの! キャハハハハ!」
 腹を抱えて笑っている。

 ドラム缶から噴き出している火を見つめる。
 阿部達はドアの傍から、中に踏み出す事ができなかった。


― 86 ―


 人を焼いているのは、臭いでわかった。
 阿部は遠目で、ドラム缶のふちから、足らしきものがはみ出ているのを確認する。

 「……ひどい……」
 児玉は両手で顔を覆い、泣き出した。足元がまたおぼつかなくなる。佐々木は抱きとめて、その背中をさすってやる。
 「ちょっとメリーッ! 何もそんな残酷な事しなくてもいいでしょう?!」
 佐々木がわめく。

 「え〜? 何か言った、お姉さぁん?」
 メリーはまだ上機嫌のようだ。ドラム缶の傍を楽しげに回ったりする。
 「ぶっ殺したいね、アイツ……」
 佐々木は唇を噛む。石でも思い切り投げつけてやりたい。

 ふと視界の左側に、血溜まりを見つける。
 そこに、キラリと何かが光った。

 (ナイフ……?)
 佐々木は児玉を阿部にあずけて、そちらに静かに歩み寄る。
 長々と遠出してきたついでに、いくらでも刃物は揃えられただろうが、あいにく用意していなかった。戦って勝てる相手ではないと思っていたし、戦うつもりもなかった。
 だが今、メリーの残酷さを見せ付けられ、佐々木は湧いて出た怒りを抑えきれなくなった。
 それが人としての正当な怒りなのか、それともドッペルゲンガーとしての黒い感情なのか、佐々木自身にはわからない。
 ……だが、どちらでも良かった。
 目をぎらつかせ、血溜まりに辿り着く。そして落ちているナイフを手にした。

 「そのナイフで私を刺すの?」
 突然顔を押し付けられ、佐々木は飛び退いた。
 「ねぇ、お姉さん? そうなの?」
 メリーは遊ぶように、逃げる佐々木を追いかける。
 「来るなッ!」
 ナイフを振る。それは勢いづいていたメリーの鼻筋をかするところだった。

 ピタリとメリーは足を止める。
 「……ふん。惜しかったわね、お姉さん」
 急に機嫌を害し、メリーは顔をしかめた。
 「何よっ! 来るなら来てみなさいよっ!」
 佐々木は逃げ腰ながら、ナイフを両手で前に構える。
 「あらそう? 私を殺すために、わざわざ遠出して来たの? ……そんなのは無意味でしょう? 佐々木さん達は、助かるために来たんでしょう……? 須藤さんの麻薬をアテにして」

 「何よ今更ッ! アンタには何にもできないクセにっ!」
 佐々木はわめく。
 「……そうね。もうお姉さん達にしてやれる事はなさそうね。……どの道、手遅れみたいですものね。佐々木さんなんて、もうほとんど人間じゃなくなってしまっているようですし?」
 佐々木は答えない。
 「今日にでも明日にでも、消えてしまうんじゃないかしら? ねぇ、佐々木さん」
 メリーはからかう風でもなく、淡々と話す。
 「そんな事はわかってるわよ。……だから、最期にアンタを殺すの」
 メリーを殺しても何にもならない。だが、メリーの機嫌をとって何とかして人間に戻してもらおう……、などという考えは消えうせていた。

 ――ほんのひと時の仲間だった須藤が、目の前で無残に焼かれているのが悔しいのか。
 ――メリーの残虐さに腹が立ったのか。
 ――もう人間には戻れそうもないから、自分を翻弄(ほんろう)し続けたメリーが憎いのか。
 その全てが、メリーへの殺意を湧き上がらせているのか。
 残念だが、児玉にも、人間になる事はあきらめてもらうしかないのかもしれない……。

 「佐々木さんッ!」
 佐々木とメリーが向き合っているのに気付いた児玉が飛び出そうとする。
 その腕を阿部が掴んだ。
 「児玉さん。……落ち着いて聞いてくれ。……今、僕はメリーを殺せる状態にあるんだ。殺してしまって構わないのなら、今、ここでやってしまう」
 「……え?」
 阿部は児玉にぐっと顔を近づけ、小声で続けた。
 「僕の影を、メリーのオリジナルの所に向かわせたんだ。人間の老婆だ。横浜で「白いメリーさん」というウワサを生み出した、その張本人の所へだよ……」

 「メリーの……オリジナル?」
 「そう。そのオリジナルは、ただの人間なんだ。殺そうと思えば、簡単に殺せるんだよ……!」
 阿部の口元が嬉々としている。
 「メリーは以前、<都市伝説>のドッペルゲンガーだった。だけど都市伝説は死んで、メリーも死にかけた。その時、メリーは別の人間をオリジナルにすりかえたんだ。もう一人の……、いや本当の「白いメリーさん」である、西岡さんっていうおばあさんなんだけどさ……」
 「……西岡さん?」
 児玉には初耳だった。
 「……そう。今は老人介護施設にいるおばあさんなんだけどさ……。白いドレスを着て、顔も真っ白に染めて横浜を闊歩(かっぽ)していた「白いメリーさん」その人だ」
 メリーがオリジナルをすりかえたというのは、阿部が須藤の影から聞いた話だった。

 児玉はわからずに顔をしかめる。だが大事な話をされているようなので、無理にでも理解しようと努める。
 「今のメリーのオリジナルが、西岡というおばあさん……?」
 「……そうだ。そのおばあさんを殺してしまえば、メリーも死ぬんだよ。メリーはドッペルゲンガーのままなんだ。オリジナルを殺せば、たちまち消滅するハズなんだ……。ドッペルゲンガーは、オリジナルなしでは生きられないものだからさ」
 阿部は小声で続ける。
 「僕の影を、その西岡さんの所に向かわせたんだよ。いつでも殺せる状態にある。……だから、メリーを殺してしまってもいいのなら……、そうさせる」

 ――メリーを殺してしまってもいいのなら……。
 メリーが死ねば、自分も佐々木も、人間に戻るすべを完全に失ってしまいかねない。取り返しのつかない事になってしまうかもしれないのだ……。
 ……だが、メリーはできない、と言った。自分達を人間に戻す事はできないのだ、と……。
 だとしたら、阿部の策に賛同すべきなのか。
 自分達の事をあきらめるのならば……。


 佐々木を見る。危うげに逃げながら、ナイフを振ってはいるが、メリーを殺すには至らないだろうと思った。
 そして自分にも、メリーを殺す事などできるワケがない。
 ……だったら、阿部に殺してもらうしかないのかもしれない。
 悪意のない、人間の老婆を一人殺す事になるのだとしても……。
 そしてもう、家族の元に戻れなくなるのだとしても……。

 ……もし戻ったとしても、人間ではなく、いつ消えてしまうかわからないドッペルゲンガーのまま、戻る事になる。それではまた家族を悲しませる事になるだろう。いらぬ不安を持ち込む事になるのだろうから……。
 (お母さん……)
 母親の姿が目に浮かぶ。病院で見た、椅子に座って眠りこけているあの姿……。
 そして天国から戻ってくると電話したあの時の事……。父親の声も聞いた……。

 ――あきらめなくてはならないのか。人間に戻る事は。

 メリーを見る。
 あの白い少女は、悪魔なのか。殺さなくてはならないものなのか。
 ドラム缶を見る。その中で、須藤が燃えているのだという……。自分達のために麻薬を用意してくれた須藤が、無残な姿になってしまっている……。
 頭を抱え込むほどの急激な苦しみに襲われる。
 どうすればいいのか? 最善の道はどこにあるのか……? やはりメリーは殺すしかないのか……?

 メリーと戦っている佐々木。危険な思いをさせるのなら、阿部が言った策でメリーを殺してもらった方がいいだろう。
 「お願いします……。メリーを殺してください……」
 児玉はそう呟いた後、きつく唇を噛んだ。
 言った後も悩み続ける。……メリーを殺してしまったら、取り返しがつかない。自分達は、このすぐ先にある、死を待つしかなくなるのだ……。

 「わかった」
 阿部はそう答えると、やや歩を離して目を伏せた。影と会話するためだ。
 「あの! 佐々木さんにも聞いておかないと……」
 まだ迷い続ける児玉に、阿部は首を振る。
 「見たところ、佐々木さんはもう手遅れだ。消えてしまう寸前だよ。……それに佐々木さんは、児玉ちゃんの心配だけをしているようだし。ここで佐々木さんに聞いたら、また話がこじれてしまう」

 だが見ている内に、佐々木の逃げ腰がウソのようになくなった。逆にメリーに切りかかっている。
 激しく、がむしゃらにナイフを振る。まるでケモノのように。

 メリーは大きく飛び跳ね、佐々木との距離をとる。そして遠くから阿部を見据えた。
 「……見えているわよ、阿部さん」
 メリーが突如、消えた。


 「……ちょっと! 何なの?!」
 メリーの姿を見失った佐々木は、周囲を見回す。どこから襲って来るかわからない。
 「消えたり点いたりするバケモノなんか、デタラメすぎるでしょうっ?!」
 佐々木はがむしゃらにナイフを振って、虚空に当り散らす。

 しかしメリーは長く姿を見せない。
 「まさか……? 気付いたのか?」
 阿部は目を閉じ、影と意識をつなげるよう努める。
 「おい! メリーがそっちに行ったかもしれない! 気をつけろっ! ……メリーが行く前にオリジナルを殺せ!!」

 『無理だ! もう来たっ!! うわぁあああっ!!』
 阿部は影の言葉を吐いて、転ばされたようにへたり込む。
 「おいっ! ……じゃあ逃げろっ! 間違ってもメリーに殺されるなよ?!」
 叫んだ後、阿部は呆けた風に虚空を見つめる。

 「大丈夫ですかっ?!」
 児玉が不安げに屈みこむ。表情をなくした阿部の視線が向く。
 「……アイツを、西岡さんの所に向かわせたのが、メリーにバレたんだ。今、メリーがそっちに行ってしまった……」
 ――メリーを殺せるハズのせっかくのチャンスを、また逃してしまうのか。
 阿部は祈るように目をきつくつぶる。

 緊張をほどかれた佐々木も、阿部達の所に戻って来る。
 戦うべき相手を失って、三人はその場で、どうする事もできなくなってしまった。


― 87 ―


 「西岡ってババアはどこだーーっ?!」
 O県。とある老人介護施設内。阿部の影は大声を上げながら廊下を駆け回っている。

 阿部は最初、西岡の知人のフリで中に入った。そしていざ、部屋へ案内されようとした時、忽然(こつぜん)とメリーが現れた。そこで阿部の影はパニックに陥り、突如、奇声を上げて逃げ回る不審者と化してしまったのだった。
 施設は二階建てで、四人部屋と六人部屋が合わせて二十ほどある。
 走りながら各部屋前の名札プレートに目を通すが、肝心の「西岡」はまだ見当たらない。西岡とは、「ハマのメリー」の事だ。

 職員のヘルパー達がその不審者――阿部の影を取り押さえようとする。警察には既に連絡済みだった。
 「何あれっ?!」
 ヘルパー達は、眼前に音もなく現れた白いドレスの亡霊に色めき立つ。それが何なのかわからず、追う足も鈍り出す。

 「おばあさんは殺させないわよ」
 ハイヒールの軽快な音が飛ぶ。
 「このくそがっ!!」
 振り向いて、メリーを殴ってやろうと思ったが、それはかなわない。まともに戦っても勝てる相手ではない。……だからこそ、無防備なオリジナルである、西岡の方を殺そうという案が出たのだ。

 「おーーーいっ!! 西岡さんよおっ!! ……ハマのメリーさんよおぉっ! 頼むから出て来てくれって!!」
 阿部の影のかすれ声が悲痛に響く。
 ……周囲の人間もわかっているハズだ。ここにいる西岡という老婆の事をウワサでも聞いているハズだ。
 だが、今の自分の前におとなしく差し出されるハズもない。すっかり不審者になってしまっているのだから。メリーさえ出て来なければ、身内のフリをして顔をあわせ、簡単に殺せたハズだった。
 老婆は首を締めて殺すつもりだったので、ナイフの一つも持っていない。だから今、無防備な状態でメリーに追いかけられている。
 「西岡さんよぉおおっ! どこだーーーっ!!」


 「何なの……?」
 自分の名を呼ばれた老婆が、ひょっこりと部屋から顔を出す。
 「ちょっと西岡さんっ! 危ないですから!!」
 部屋に一緒にいたヘルパーが、西岡を止めに入る。その言葉を、影は聴き取っていた。ちょうど二部屋ほど前だった。
 「そこかあっ!!」
 まっしぐらに、その部屋に駆け込む。

 「きゃあああっ!!」
 部屋じゅう悲鳴に溢れる。途端、顔を青くしたヘルパーが掴みかかって来たが、阿部の影は横っ面を殴って倒した。
 素早く、両開きのドアを閉じる。カギはない。両手で取っ手を閉じて、部屋内に向かって叫んだ。
 「どいつだ!! 西岡ってババアは!!」
 部屋にベッドは四つ。西岡の顔は知らない。<無意識>を通ってここまで来れたので、西岡本人が誰なのかも感覚としてわかるハズなのだが、今は集中力が著(いちじる)しく低下していて、それもままならない。

 「あ、あ、アタシよ……アタシが西岡よ!」
 恐る恐る、小さな老婆が名乗りを上げてきた。
 「……何なの、アナタは? 一体、何があったっていうの……?」
 途端、ドアが激しく揺れた。取っ手を引き開けられそうになる。影は懸命にこらえる。
 「アンタか! ハマのメリーは?! ……いいか、よく聞いてくれ。アンタが生み出した「白いメリーさん」のウワサはな、化け物を生み出してしまったんだよ。ソイツが今、人を殺しまくっている。……でな、その化け物を殺す手段はただ一つ。……バアさん、アンタを殺す事なんだ!!」
 話を簡略化するためにウソを交えながら、そう説得する。

 「アタシを殺す……?」
 「そうだ。……バアさんには申し訳ないが……うわぁああっ!!」
 メリーがおとなしく部屋の外で待っているハズもなく、いきなり阿部の影の背後に姿を現した。 
 「……人殺しはアナタでしょう? 何の罪もないおばあさんを殺そうとするだなんて」
 メリーは阿部の影の右腕を掴む。
 「うわぁあああっ!!」
 激しく抵抗するが、掴まれた腕は、がんとして動かない。
 「……残念ね、阿部さん。あと一息でしたのに。……本当に運がないのね、貴方達って」
 メリーは威嚇(いかく)するように、ぐわっと歯を剥いて見せた。
 影はそれをまともに見て、一瞬気を失いそうになった。

 妙な音がした。ピーンという張り詰めた高音と、ボキリという鈍い音。
 遅れてくる激痛。影は右腕のヒジを握りつぶされていた。
 「ぎゃあああっ!!」
 凄惨な悲鳴と、鮮血が飛ぶ。ヒジから下が力なく垂れ下がる。影はたまらず倒れ込んで転がった。

 不審者を追って来たヘルパー達も、ドアを開けるなり唖然(あぜん)とする。何が起こったのか、まるで理解できない。
 不審者は血まみれになりながら、床に転がり、苦痛にもだえている。
 「観念なさい」
 メリーは影の頭をわし掴みにして、無理に起こした。そして激痛の最中にいる影の顔を引き寄せた。
 「私のオリジナルを狙うという、目の付け所はとても良かったんですけどね……」

 「やめなさい!!」
 老婆が叫んだ。

 メリーは阿部の頭から手を離さずに、振り向く。
 「お久しぶりね、おばあさん……」
 その上品な笑みに、見ている者は吸い込まれそうになる。
 「アンタ……、わかってるわよ。この前来たオバケ……でしょう? TVでも観たわよ。さんざん人を殺しまくったそうじゃない……? 「白いメリーさん」なんでしょう……? アンタも」
 声を震わせながらも、老婆――西岡はメリーに言葉を突きつける。
 メリーはさも愉快そうに口元をほころばせたが、その笑みはすぐに止んだ。
 「……その通りよ、おばあさん……。今、世でいう「白いメリーさん」はもうアナタではないの。この私の事になりつつあるのよ……」
 そして阿部の頭を握っている手に力を込める。阿部がうめく。
 「だから……、やめなさいって言ってるでしょうっ! やめて頂戴ッ!」
 老婆は震えながらメリーに掴みかかり、その手を無理に引き剥がした。
 メリーは目をしばたいて、素直に従った。だが機嫌を損ねた風でもなく、また軽い笑みが浮かぶ。


 阿部の影はもう意識もなく、その場にぐったりと倒れ込んでしまった。右腕からの出血がひどい。
 あまりの激痛に耐え切れず、涙がぼろぼろと流れていた。
 西岡が傍に寄る。
 「ちょっと、ねぇ、アンタ……! しっかりなさい! 救急車呼ぶから、ね?!」
 気付いたヘルパーが部屋を飛び出ていく。

 「……ねぇ、ちょっと教えて?! さっきアンタが言った事! どういう事なの?! アタシを殺すとか何とか……」
 西岡が阿部に訴える。阿部は涙まみれの顔で、老婆をじっと見た。
 「悪いがバアさん……、死んでくれ。じゃないと、そこにいるメリーは、この先ももっと……人を殺すんだ……」
 途端、メリーが荒々しく近づき、阿部の頭を掴むと、問答無用で握りつぶした。

 ガラスを割ったような音と共に、激しい血が四方に飛んだ。
 「ぎゃああっ!!」
 西岡も鮮血をまともに被る。
 真っ赤に染まったメリーの手の中で、阿部の影の頭は、形をなさない肉片と化してしまったのだった……。

 辺りは大量の血で汚れる。メリーは血溜まりの中に、阿部の死体を落とした。
 メリーもその半身を血に染めている。思い立ったようにゆっくりと辺りを見回し、恐れている表情の一つひとつを眺めては、満足そうに微笑んだ。
 そして西岡に視線を戻す。老婆は悲痛な顔でメリーを睨んだ。
 「アンタ……何て事をしたの……」


 場の静寂を打ち破るように、廊下が騒々しくなった。
 「警察でも来たのかしらね……? どこでもすぐ邪魔しに来るのね……」
 冷ややかに言い、小さな溜め息を吐く。
 メリーはまた西岡を見つめた。名残(なごり)惜しそうに。
 「……おばあさん、私のためにも長生きしてね。……私は、貴女なしでは生きられないと思うから」
 他の誰にも向けた事のない、愛情のこもったまなざしで、メリーは老婆を見る。
 「人間の感覚なんて、ほんのカケラさえも見つからないわ。……目の前にね、どうしても崩せない壁が立ち塞がったままなのよ。……だから私はこの先もずっと、オリジナルにはなれないの。どうあがいてもね」

 そしてメリーは掻き消えた。


― 88 ―


 「うぅっ……いでででっ……!!」
 右腕を押さえ、阿部はうずくまる。
 その痛みは間を置かず、耐え難いものに変わっていった。歯を食いしばる。冷や汗が吹き出る。阿部はその姿勢のまま、動けなくなってしまった。
 「どうしたんですか? 阿部さん……」
 阿部の異変に気付き、児玉が声をかける。

 途端、阿部の頭の中で、何かが激しく壊れた。
 「ガァアアアーーーッ!!」
 頭蓋骨が割れるイメージを受ける。視界が鋭く明滅し、轟音が脳裏を駆け巡った。
 阿部の体は見えない何かに弾かれた。頭を押さえ込み、阿部は上半身から地面に倒れ込んだ。
 「阿部さんッ!!」
 突然の事に、児玉達はうろたえる以外にない。
 「……阿部さん!! 大丈夫ですかっ?!」
 阿部が急に苦しみ出した原因がわからない。顔の怪我などが突然痛み出したにしては、反応があまりにも妙だ。

 荒い息を沈めつつ、やがて阿部は正気を取り戻した。
 「アイツが……死んだんだ」
 阿部は呆然とした顔を児玉達に向ける。
 「やられたよ。……メリーに殺されちまった」

 「阿部さんの……ドッペルゲンガーが、メリーに殺されたの?」
 佐々木が問う。
 「……そう。たった今、殺されたよ。アイツの意識がすっかりと消えちまったんだ……。右腕を折られて……、頭を潰されて死んだようだ」
 阿部は重い半身を起こし、両手を地につけてしばらくうなだれた。


 その視界に赤い衣の裾(すそ)がふわりと生じ、阿部の思考が停止した。
 メリーだった。突如として全身血まみれの姿で現れ、佐々木達も息を呑んだ。
 「……久しぶりに、おばあさんに会って来たわ。私のオリジナル、「ハマのメリー」にね」

 佐々木達は逃げるでもなく、メリーを見据える。手を伸ばせば届く距離にいる。
 「私のおばあさんを殺そうとした、阿部さんのドッペルゲンガーは私の手で始末したわ」
 そう言うなり、メリーはきつく阿部を睨んだ。
 「……残念だったわねぇ?」
 残忍な笑みが浮かぶ。

 阿部はメリーを真顔で見返した。
 「メリー。アイツが殺されても、僕はそんなに悲しくない。つい最近まで、長年忘れていた片割れだからね」
 阿部はゆっくりと立ち上がる。そして佐々木の手からナイフをやんわりと奪い、そのままメリーの眼前に突きつけた。
 「……それに、お前を殺す策はまだ残っている。僕自身にね」

 「アラ? どんな策かしら? 阿部さんが切りかかってくるの?」
 阿部の手にしたナイフを見て、メリーは馬鹿にした笑いを見せる。
 「……あぁ、その通りだ。こんな風にな」
 途端、阿部の顔が包帯ごと黒ずんだ。そして音もなく、メリーにぶつかった。


 「……あうぅっ!」
 油断していたのか。阿部のナイフは、メリーの腹部にまともに突き刺さった。
 阿部はすぐさまナイフを引き抜き、今度はメリーの顔を狙う。
 「ぁ、アーッ……!」
 危うげにメリーは避けた。そのまま大きく何度か飛び跳ねた後、メリーはふいにバランスを崩して倒れた。

 白いペンキのような血の跡が地面に残る。
 阿部はメリーに向かって歩いて行く。歩く度に、その姿の黒ずみ具合が増していく。
 メリーは無理に立ち上がった。
 「……何だって言うの……? 貴方はまだ……ドッペルゲンガーのままだった、と言いたいワケなの?」
 阿部は足を止めずに答える。メリーはよろよろとした足取りで逃げていく。
 「まぁそんなところだね」
 言葉少なに阿部は笑ってみせる。本当は、ドッペルゲンガーとしての感覚を「取り戻して」いたのだ。それが阿部の策だった。メリーによって入れ替えられたワケではないので、オリジナルと影の同意により、その辺の感覚はやや自在だった。

 阿部はすっかり真っ黒い影と化していった。その輪郭がぼやけて、周囲ににじんでいく。
 「メリー。……とうとう、お前を殺せるようだな」
 阿部はナイフを振り上げ、メリーに猛然と襲いかかった。

 「イヤァアアアーーーッ!!」
 メリーは金切り声を上げた。そして腹を押さえて、走って逃げる。
 阿部は笑いながら追いかける。
 「どうした?! 消え方を忘れたのか?!」

 阿部とメリーの姿が、まだ火が燃え盛っているドラム缶の向こうに消える。
 佐々木達もドラム缶の方に駆ける。

 「ウァァアッ!」
 メリーが転んだ。
 「あはははは! 死ねぇええっ!!」
 悪鬼と化した阿部が、ナイフを逆手に持ち替え、メリーに突き立てんとする。
 佐々木と児玉は足を止め、見守った。

 メリーの上に、阿部が勢いよくのしかかる。
 ナイフが、メリーの顔に迫る。

 一瞬後。
 ナイフは地面のコンクリートをえぐっていた。
 「ぐ……ああっ!」
 ナイフが弾け飛ぶ。
 右腕に衝撃が返り、阿部はうずくまって呻(うめ)いた。

 その背後に音もなく立つメリーの姿を、児玉達は見た。 
 「阿部さんッ! 後ろにメリーがっ!!」
 二人とも、一瞬遅れて駆け寄る。

 振り向いた阿部は、メリーに横っ面を激しく殴られていた。
 阿部の体はドラム缶の方へ飛ばされる。
 二、三度横転した後、阿部はドラム缶に後頭部と背中を打ちつけた。

 ドラム缶が鈍い音を立てて、揺れる。
 顔にぶわりと熱気を浴び、阿部は慌てて身を起こした。
 そこにメリーが迫っていた。避ける間もなく阿部は頭を掴まれ、ドラム缶に後頭部を押し付けられた。
 「うわあ、ああっ!!」
 瞬時に焼けるほどではないが、ドラム缶の表面もかなりの高温になっている。……いや、それ以前にメリーに頭を潰されかねない。
 阿部は手足をバタつかせて必死に抵抗する。だが、メリーの怪力にはかなわない。
 「やめ……なさいッ!!」
 佐々木がメリーの背中に掴みかかる。そして阿部から無理に引き剥がした。
 児玉は阿部を抱え、ドラム缶からいくらでも遠ざける。

 「アァーーッ!!」
 佐々木の叫びに、児玉はぎょっとする。
 見ると、メリーにふっ飛ばされているところだった。
 大きく飛ばされて、地面を何度か転げた後、ぐったりと倒れ込んだ。
 「佐々木さんッ!!」
 阿部を置いて、児玉は佐々木の元に駆け寄ろうとしたが、そこにメリーが立ちはだかった。

 どうする事もできないが、児玉はメリーを睨んだ。
 メリーの顔は冷ややかに、歪んでいた。
 「邪魔よ」
 その一声の後、児玉は左肩に重い衝撃を受けていた。その体は軽々しく飛ばされる。
 数メートル離れた地面に受身もなくぶつかり、児玉は砂まみれになりながら激しく転げ回った。


 ナイフで刺された腹を押さえ、メリーは真顔に戻り、倒れたままの阿部を見据えた。
 「……よくもやってくれたわね。死にぞこないのくせに。……死にたがりのくせに」
 阿部は小さな笑いを浮かべた。メリーの言葉が的を射ていたので、感心してしまったのだ。メリーは自分の事など、何も知らないのだと思っていた。
 表情がくわっと歪み、メリーはまた阿部に襲いかかった。同じように頭を掴み、ドラム缶の方に引きずっていく。潰すのではなく、焼こうとしているのがうかがえた。
 しかし今度は本気なようだ。火が燃え盛っているドラム缶の口の方に、阿部の頭は近づけられていった。

 「……うが、あぁあっ!!」
 猛烈な火が迫る。なすすべなく火に押し付けられ、包帯だらけの阿部の頭に火が燃え移った。
 「ギィイイィァァアアアーーーッ!!」
 生きながら頭を焼かれ、阿部は凄まじい絶叫を上げる。
 メリーの右手も火に包まれている。メリーは顔をきつくしかめて耐えている。
 だが、すぐに熱さに耐え切れなくなり、メリーは阿部の頭を炎の中に放り投げようとした。

 「やめてえええっ!!」
 児玉がメリーに激しく体当たりする。
 そのまま、三人は折り重なるようにして倒れこんだ。
 「阿部さんっ!! ……阿部さんッ!!」
 児玉は泣きながら、着ていたTシャツを脱ぎ、阿部の頭の火を消そうと、懸命に仰(あお)いだりはらったりする。
 だが、なかなか消えない。
 「佐々木さぁああん!!」
 涙をこぼしつつ、佐々木を呼ぶ。傍にいた佐々木も急いで服を脱ぎ、阿部の頭に被(かぶ)せたり仰いだりした。


 やがて、阿部の頭を焼いていた火は消えたが、包帯が崩れて醜い皮膚が顔をのぞかせていた。
 児玉達は、阿部の小さな呻き声を聞く。
 ……だが、それっきりだった。阿部の体はぐったりと弛緩(しかん)して、もう動く事はなかった。

 「阿部さん……」
 児玉は阿部の体を胸に抱き、無念に体を震わせた。
 ほんの数日の間、一緒にいただけの人だったが、自分と佐々木をまた引き合わせてくれた恩人だった。そしてドッペルゲンガーを持つ、仲間だった。現実という舞台の中でも、常人にはわからない感覚を共有できた、仲間だったのだ……。
 ……なのに。あっという間に死んでしまった。あっという間に、殺されてしまったのだ……。

 こうしている「今」が、受け入れられない。まるで夢でも見ているようだ。
 やり直せないのか、と真剣に考える。……だが、そんな自在な夢はありえない。
 失敗し尽くした今を、受け入れるしかない……。
 悔しさと絶望が、児玉の中を駆け巡る。
 何かがほんの少しズレていただけでも、逆にメリーを殺せていたかもしれなかった。須藤も阿部も誰も死なずに、この場だけは生き長らえたかもしれなかったのだ……。
 「でも、メリーを殺したって……もう、どうにもならないのに……」
 阿部の死が呼び水となり、児玉は自分のために、泣いた。

 悲しんでいる間もなく、児玉と佐々木は震え上がった。
 ドレスを赤と白のまだら模様に染めたメリーが、すぐそこに立っていたからだ。


― 89 ―


 襲いかかってくるかと思いきや、メリーは動かない。
 ナイフで刺された腹を両手で抱え込むようにして、身を折っている。だが次第に、腕の火傷(やけど)も苦しくなったようで、右腕を腹から引き剥がし、更なる苦悶の表情を続ける。

 児玉達は恐るおそる腰を上げ、メリーとの距離をとる。
 やがてメリーはがっくりと膝を折り、その場にうずくまった。


 少し様子を見る。
 メリーはその姿勢のまま、長く動かない。

 佐々木は音を立てずに立ち上がり、阿部が落としたナイフを探した。
 メリーとの距離を保ったまま、大きく横に動く。児玉は息を殺して見守る。
 やがて、佐々木はナイフを見つけた。メリーの背後、十数メートル。まだ火が燃えているドラム缶の近くにある。

 「ちょっとーーーっ!! 水持ってきたんだけどーーーっ!!」

 場の緊張感を壊す、突然の叫び声。佐々木はギクリと身を固める。
 入り口のドアに、来客が二人いた。ミユキとアヤカだった。

 「ちょっとアンタ達っ!! まだいたの?!」
 ミユキ達のしつこさに、佐々木はまたも呆れてしまった。しかし笑い事で済まない。たった今、阿部が殺されたばかりなのに加え、傷を負ったメリーもどう来るのか、予想もつかないのだ。
 今はうずくまったまま動かないが、その内情はわからない。突然暴れ出すかもしれない。

 佐々木は思い出したようにナイフを取りに行く。そして無事にそれを拾い上げた。
 ――メリーはまだ、動こうとしない。
 無防備なその背にナイフを突き立てるのは、今しかない……。

 「あのっ! 水ーーーっ!!」
 ミユキ達は視線を児玉の方に移す。阿部もそのすぐ近くにいる。
 水色のポリタンクを手に、ミユキはよろけながら児玉の元へ急ぐ。
 「どうして水を……?」
 言いかけて、児玉の疑問はすぐに氷解する。おそらく二人は、阿部が火で焼かれたのをどこか近くで見ていたのだ。そして、近くを流れる川などで、水を急いで汲んできたのだろう。
 児玉も立ち上がり、出迎える。
 ミユキはポリタンクをどすり、と置く。
 「ホラッ! 用意いいでしょ?! 早く阿部ちゃんにかけて!!」
 一応、真剣な顔をしていた。

 児玉は首を振る。
 「でも……きっと手遅れです」
 「何言ってんのよ! そんなのどうしてわかんの?! ……ホラ、水ぶっかけるよ!!」
 ミユキはポリタンクをまた持ち上げ、阿部の傍に運ぶ。
 その数メートル向こうにメリーと佐々木がいる。メリーは依然動こうとしない。その傍で立ったまま、佐々木は動けないでいるように見える。佐々木の緊張感をそれとなく感じたミユキは、近づく足を鈍らせる。
 「えっと……。そこにいるメリーさんはぁ……死んじゃったの?」

 佐々木はメリーを刺すのを後に回し、ミユキの傍に来る。
 「メリーはまだ死んでないわ。危ないから、水をかけるの向こうでやって」
 児玉が応じ、阿部の体を抱き上げて、引きずっていく。アヤカも手伝う。そして、メリーからいくらでも遠ざけたところに阿部を運んだ後、ミユキはポリタンクの水を阿部の頭にかけ始めた。

 しかし、阿部の反応はない。
 「ちょっと! 嘘でしょ……?」
 ミユキは水をかけながら、阿部の頬を叩いたりする。だが同じ事だった。
 「ちょっと!! 阿部ちゃんッ!!」
 しまいには両肩を持って、激しく揺さぶる。


 佐々木には阿部の死など見えていない。……メリーだ。今、自分の足元でうずくまって背中を見せているメリーを、ナイフで突き刺して殺してしまうか、ここに来てまた迷いはじめていた。
 殺せば全てが終わるのか。……いや、自分達の全てをあきらめなくてはならなくなってしまうのか。
 殺せる時に殺しておいた方がいいに決まっている。でないと後で後悔するハメになる。
 ナイフの一刺しで、自分と児玉の今後をも殺してしまう事になる。
 でももう……あきらめるしかない。

 苦悶の表情を解き、佐々木は真顔でメリーを見つめた。
 ――メリーは死んだように動かない。
 動かないのに、妙な威圧感がある。
 殺そうと決心しかけると、今度は「本当に殺せるのか?」という疑問が湧き上がってくる。
 メリーの背を見つめたまま、佐々木も動けなくなる。奥歯を噛み締めても、湧いた焦りは鎮(しず)まらない。
 この化け物はきっと、ナイフで突き刺した瞬間に、消えてなくなっているのだ。そして背後から……

 「一体、何をやってるの佐々木さん? 馬鹿ね」
 ちらりと見せた苦笑い。次の瞬間には、その笑みは身体ごと消え去っていた。

 「……あ、ちょっと! ……メリーが消えた!! みんな、早く逃げて!!」
 やや遅れて呪縛を解かれた佐々木は、慌てて児玉達の方に駆ける。
 その児玉達の背後に、メリーが浮いて出た。佐々木は我を忘れてわめいた。
 「うしろッ! メリーが後ろにいるっ!!」

 メリーはミユキの腕を掴み上げた。ミユキの体が軽々と宙に浮く。
 「イヤァーーーッ!!」
 そのままミユキは投げ飛ばされる。数メートル飛ばされた後、コンクリートの地面に背中から落ちた。
 一瞬の事に、逃げるでも掴みかかるでもなく、児玉とアヤカは呆然としていた。メリーの手が、どちらともなく伸びる。
 そこに佐々木が踊りこんだ。ナイフでメリーに切りかかるが、一瞬早く避けられてしまった。
 「ミユキッ!!」
 アヤカは遅れて目の焦点を合わせる。そしてミユキの元に駆けて、抱き起こした。
 「ちょっとーーっ!! すんごい痛いよぉ、アヤカちゃぁああん……! うあぁああん……」
 砂まみれになり、体じゅうを痛めたミユキは本気で泣き出した。

 「アヤカさん! ミユキちゃんを病院に連れてって! あと……、阿部さんも!」
 佐々木はアヤカに指示する。
 「うん! わかった」
 アヤカは携帯電話を取り出す。
 「……病院ですって? そうはさせないわ」
 いた場所に関係なく、メリーの手が伸びる。そしてアヤカから携帯電話を奪い取ると、そのままコナゴナに砕いてしまった。

 「アナタ達全員、ここで皆殺しにするわ。キレイさっぱりとね」
 穏やかな口調とは裏腹に、改めてメリーは殺意を剥き出しにしてきた。
 「こんなつまらない刺し傷でも、今の私には致命傷となるかもしれないもの。……ここで私が終わりになるのだとしたら、貴女達をごちゃごちゃと生かしたままでおきたくはないの」
 ただ執拗にズキズキと痛み、血はなかなか止まろうとしない。
 頼みの須藤を失った今、メリーは治療するすべを失っていた。だからこそ、ここで「死」を覚悟したのだった。

 改めてメリーはその場にいる一人ひとりをゆっくりと見据えた。
 「児玉さん……、佐々木さん……、後は、ミユキさんにアヤカさん、と言いましたっけ?」
 ここでやっと、ミユキとアヤカが震えだした。

 「メリー」
 佐々木はナイフを突き出し、同じように改まってメリーを呼んだ。
 今やメリーは笑顔を見せる余裕も失って、佐々木をじっと見つめ返す。
 「……メリー。貴女は肝心の約束を破ったのよね? 須藤さんがちゃんと麻薬を持ってきたにも関わらず、アタシ達の誰一人、助けてはくれないんだもんね」
 「……えぇ、そうね」
 メリーはつまらなさそうに応じる。
 「じゃあせめて、ミユキちゃん達だけは許してあげて頂戴。あと、児玉ちゃんを人間に戻せないにしても、せめて生かして帰してあげてよ……?」
 「できない相談ね」
 メリーは首を振る。

 佐々木もマネをするように首を振った。
 「あのさ、メリー。アタシ達は、貴女に殺されるためにわざわざここまで来たんじゃないんだからさ。……ただ、話し合いをしたかったのよ。ちゃんと決着がつくと思ったから」
 メリーの表情が曇る。
 「佐々木さんは私を何だと思っているの? ……そんなつまらない誤解はされたくないわね」
 佐々木は言いくるめたい衝動をぐっとこらえ、なおも食い下がる。
 「メリー? 貴女にとって、この子達を殺そうが殺すまいが……、大して違わないでしょ? 許してあげてよ。お願いだから」

 しかしメリーは応じない。
 「……ダメね。私に関わった人間をやすやすと生かしておいてばかりじゃ、<都市伝説>として笑いものになるもの」
 話せばわかるという相手ではないのか。それとも自分の言い方がまずいのか。少し悩んだ挙句、佐々木は機嫌取りをするのが馬鹿らしくなり、本音を出した。
 「何が都市伝説よ。そんなもの、世の中の誰も、気にとめてないのよ。価値のないものなの。……それに人を殺すばかりじゃなく、アンタは別の方向性で有名になった方が良かったんじゃないの? 「白いドレスを着た綺麗なお姫さま」って事でさ……? バケモノだからって馬鹿の一つ覚えみたいに、人を殺せばいい、ってものでもないでしょ?」
 黒い笑いが出た。涙が出そうなほど、瞳が熱くたぎっていた。
 佐々木は、自分が喜んでいるのだと感じた。

 「……佐々木さん」
 少し間を置いて、今度はメリーが静かに佐々木の名を呼ぶ。
 「私は穏やかには死なないし、貴女方の言い分を何一つ、聞き入れないわ。……殺すと言ったら、殺すのよ」
 そしてニッと笑って見せた。
 児玉達には悪いと思ったが、佐々木も満足に笑みを返した。
 「あぁそう。そうでしょうね。……じゃあせめて、アタシを殺してから先に進みなさいよ? 中途半端は嫌いそうに見えるから、言わなくてもわかると思うけど」
 「そうね。中途半端は大嫌いよ」
 メリーは両腕を腹から引き剥がし、両の手の平を見せてきた。そして挑発するように、両の五指を躍らせてみせる。
 そして何を思ったか、胸元からペンダントを引き出し、ロケットを開けた。
 白い粉を手の平に乗せると、それを一息にほうばった。
 「景気づけよ」

 「アタシも一回味わってみたかったわね」
 須藤が用意した麻薬が何なのかはわからないが、以前、自分が自殺用に入手した「エンジェル・ダスト」は、メリーにとってただの媚薬(びやく)に過ぎなかった。佐々木は納得がいかずに首を振る。
 「ところでさぁ……ホラッ、アンタ達! いつまでも黙って見物してんじゃないよ!! 早いトコ逃げるか、病院行きなさいって!!」

 ……きっと、自分の顔はもう真っ黒になってしまっている。
 佐々木は児玉達を見ずに、そう命令する。そして「助かって欲しい」という甘さより、今は本気で「邪魔だ」と思った。
 「メリー! いい? アタシの息の根を止めるまで、あの子達を追いかけちゃダメよ?! ……それくらいは約束できるでしょう?! いくらガンコなお姫さまでもさぁ?」
 ナイフを握る自分の手の黒ずみ具合を見て、佐々木の笑みはなお大きくなった。

 「……いちいちうるさい人ねぇ、佐々木さんは」
 メリーは両の五指を引き絞り、佐々木に猛然と襲いかかった。

 児玉達は佐々木を置いて場を離れる事ができず、見守るしかなかった。


― 90 ―


 襲い来るメリーを正面に見据える。
 避けるか、迎え撃つか。その悩む一瞬が命取りになり、血の気が引けて足がすくむ。
 身体が動かず、焦りに身を焦がされる。メリーの手が迫り来る。
 「うわあっ!」
 佐々木はがむしゃらにナイフを振る。手応えはない。メリーが視界から消えていた。

 どこから来るかわからない。
 佐々木は素早く頭上や周囲に目を配らせ、体勢を整える。
 そして、一向に動こうとしない児玉達を見て、佐々木は癇癪(かんしゃく)を起こした。
 「早く行け、ってのにィィイーー!!」
 突然の佐々木の金切り声に、児玉達は目を丸くした。

 ……武器もなく、手助けもできそうにない。児玉達は不安げに顔を見合わせる。
 「やっぱり、逃げた方がいいの……? アタシは病院行くほどじゃないけど……。阿部ちゃんは……、マジで死んじゃってるの?」
 ミユキは阿部の頬を軽く叩いてみたりするが、やはり反応はない。焼け爛(ただ)れたその頭部がひどく痛々しい。悲しみより、恐怖が湧きあがってくる。
 人が死ぬということは、こんなにも残酷で無残なものなのか、と児玉達は思い知った。
 「でもさ、手遅れでも病院に連れて行こうよ! ホント、もしかしたら生きてるかもしれないし!」
 アヤカが焚(た)きつける。

 ミユキとアヤカの焦りの表情とは対照的に、児玉はひどく落ち着いていた。
 「じゃ、すみませんけど……阿部さんをお願いします」
 児玉はそう言いきり、二人を見つめる。自分は行けないのだ、と結んだ口元で訴えた。
 その表情に呑まれ、ミユキとアヤカは反論せずにうなずいてしまった。
 「あと……、警察とか、呼んどく?」
 そんなミユキの問いに軽く悩んだ後、児玉は首を振った。警察が解決してくれるような話ではない。それに、メリーは消えようと思えばいつでも消えてしまえるのだから、警察が来たところで無意味なのだ。

 そしてミユキ達の手で、阿部は運び出されていった。
 湧いて出た足を止め、メリーはそれを許す、とばかりに黙って目を閉じる。
 車の出た気配が構内に届く。
 児玉は無防備ながらも佐々木の傍に行った。そして佐々木と共に、メリーを真っ直ぐ見つめた。
 佐々木は何も言わなかった。
 ただ二人で、メリーを見つめた。


 「佐々木さん……」
 後ろから、児玉は何度か話しかけるが、佐々木は振り向きもしない。
 その髪が静かに揺れている。
 薄茶けていた佐々木の髪とは思えないほど真っ黒だ。その服すらもひどく黒ずんで見える。
 辺りを包む煌々とした明かり。場の静けさ。死んでいる構内。
 このひと時に折り重なった、須藤と阿部の死。彼らは皆、影もろとも死んでしまったようだ。大火傷を負った阿部も、きっと生きてはいないだろう。

 ――メリー。都市伝説「白いメリーさん」がそこにいる。亡霊のように黙って突っ立っている。
 改めて、この場の静けさを身に受ける。児玉は今に「夢」を重ね合わせた。

 ……こんな現実が、あるのだろうか? 今、目にしている全てがまるで幻のようだ。こんな場所にいる事すら、信じられない。
 そして、あまりにももろく危うい、「今」という瞬間。自分達の背中には、「死」がある。死という絶対的な闇が張り付いている。……ほんの少しの誤りで、自分達は呆気なく死ぬのだ。
 ――対峙しているのは、神々しいばかりの美しさを持ちながらも、卑劣で残忍で、きまぐれな……死神。白いメリーさん、というバケモノ。
 こんなものが存在している時点で、何かが狂っているとしか思えない。
 改めて、ここが夢なのではないか、と疑りたくなる。
 この場が夢だとしたら……自分は幸福なのだろうか? それとも、悲しいだろうか。
 懐かしさすら、こみ上げてくる……。


 人知を超えたバケモノを前にして、自分は「死」を迎えようとしている。
 児玉はそういう夢を知っていた。幼い頃に見た、悪夢だ。今、その悪夢の続きを見ているのではないか、と思った。
 幼い自分は……、ここでどうしただろう? 逃げ惑い、泣き喚いただろうか。怯えてしゃがみこんでしまっただろうか……。

 でも今の心の中は、静かだった。
 ここで死んでしまうのなら……それも仕方のない事だと、思った。

 この夢も……、現実だとしても、いずれは覚めるのだろう。
 その時、自分と佐々木はどうなっているのだろう……?

 もしこれが本当に夢だとしたら……、自分はたった一人で目が覚めてしまうんだろうか……。
 知らずと児玉は唇を噛む。
 幼い頃に見た悪夢の中でも、仲間がいた気がする。その仲間達は、夢が覚めると同時に消え去ってしまった。彼らが助かったのかどうか、わかりはしない。

 でも今、ここにある夢の中。佐々木というかけがえのない仲間だけは……、うやむやにされたくはないと思った。
 ――失いたくない。これからもずっと一緒にいたい。
 佐々木に触れたい。その腕を掴んで、ここから一緒に逃げてしまいたい……。
 誰にも理解できないであろう涙が、児玉の頬を伝わっていった。

 夢であろうと現実であろうと。「今」という瞬間は、かけがえのないものなのだ。
 過ぎ去って終わりを迎えてしまうのは……、あまりにも悲しい。
 そしてこれがまぎれもなく現実なのだとしたら……、この先も佐々木と共に生きたい。願うのはそれだけだった。


 パチリと大きく火が弾け、それを合図に佐々木が口を開く。
 「……こんな事になるとはね。夢にも思わなかったわよ」
 佐々木は改めてナイフの刃先を見つめたりする。こんな物騒な物を手にしているのも、不思議に思えた。児玉と似たような感覚を、今に見出している。
 メリーも静かに応じる。
 「殺しあいになるかしら? 一方的な殺戮で終わるんじゃないかしらね」
 「ふん。さあね」
 佐々木はナイフのグリップを、力の限り握り絞める。
 「ところでさ、憎しみも……ましてやくだらない正義感もありゃしないのに……どうしてアンタを退治するハメになっちゃってるのか、自分でもわかんないのよね……」
 佐々木は首をかしげて笑う。
 「佐々木さんは、ここで死にたいだけでしょ」
 メリーがからかう。
 佐々木は首を振る。
 「アタシは死にたくないわよ。死にたがりの気持ちなんて……全然わかんないわね!」
 佐々木は自分を振り切り、メリーに向けて駆け出した。

 身体の動きがひどく軽い。重みを感じない。
 そして胸踊り、五肢に行き渡る躍動感。全身の筋にチカラが行き渡る。
 目がらんらんと輝く。
 「これが……ドッペルゲンガーの闘争心?」
 佐々木は口が裂けるほど、力強く笑った。


 メリーが眼前に迫る。佐々木はその顔を狙って、思いきり切りつけた。
 ……消えるか、避けるだろうと予測していたが、メリーは意外な動きを見せた。
 メリーは手を突き出し、佐々木の腕を掴んできたのだ。

 「うああっ!」
 ナイフを握った手首をがっしりと掴まれてしまう。骨が妙な音を立てる。すぐにでもへし折られそうになる。ナイフだけは落とさないよう、佐々木はしっかりと握り直す。
 左腕が空いているのに気づく前に、メリーはすぐに掴んできた。きつくねじってくる。
 ……足を使おうとした矢先、メリーの顔がすぐそこにあった。

 メリーはぐわっと牙を剥いて見せる。
 噛み殺さんばかりのその獰猛な顔に、佐々木は震え上がった。


 意識の空白の後、佐々木の腰が引けた。両の足にチカラが入らなくなり、へたり込んでしまう。
 「一体何をやってるのよ、お姉さんは!!」
 メリーは佐々木の両腕を解放したかと思うと、強烈なビンタをその顔面に食らわせた。佐々木はまともに食らい、ふっ飛ばされる。
 
 ごろごろと転げて、ぐったりとするが、すぐに身体を起こす。そして落としてしまったナイフを探す。
 ナイフはすぐ傍に落ちていた。慌てて拾い上げる。
 「佐々木さんッ!」
 心配した児玉が駆け寄ってくるが、佐々木は手で追い払った。

 甲高いハイヒールの音を立て、メリーはすぐさま近づいてくる。
 そして腰が引けたままの佐々木を見下ろした。
 「口だけじゃないわよね、お姉さん……? 「殺しあい」にするんでしょう?」

 佐々木はメリーをじっと睨み返す。
 ……だが、飛び出すチカラが湧かない。今更ながら、戦いの経験などない事に気後れする。
 それでも無理に飛び出した。

 「そんなんじゃダメよ」
 メリーはあざ笑うように消えてしまった。
 ナイフは空を切る。よろけた後、佐々木は急いで体勢を立て直す。
 「ちょっと、どこよっ! どこ行ったの?!」


 「ぷるるるる……」
 メリーの声が届く。ドラム缶の向こうか。
 走って行くが、そこにいない。

 「じりりりり……」
 またもふざけたメリーの声。佐々木は声のした天井に目をやるが、メリーの姿はない。

 「ぴりりりり」
 今度はすぐ近くから聞こえた。危険を感じ、まだ燃えているドラム缶から身を離す。火の傍にいれば、阿部のように焼き殺される。
 ――メリーさん電話の都市伝説。
 突如頭の中にひらめき、後ろを見た。

 白を見るやいなや、佐々木は顔面をメリーの手で掴まれていた。
 両のこめかみが押し潰される。まるで万力に頭を挟まれてしまったようだ。
 声のない悲鳴が上がる。
 耐え切れないあまりもの痛みに、手足が抵抗を忘れていた。
 目の脇の骨が音を立てた。

 「佐々木さんッ!」
 児玉の声。
 激しい衝突と共に、佐々木は痛みから開放された。
 真っ黒になった意識と共に、佐々木はその場に崩れ落ちた。

 「佐々木さんッ!!」
 抱きついて両の肩を持って揺さぶるが、佐々木の頭はがくがくとチカラなく動くだけだった。
 その両目から、血が流れた。

 児玉の視界が揺れた。頭を殴られ、児玉は転がされた。
 二人が地べたに這いつくばっているのを横目に、メリーはナイフを拾い上げる。
 「てんでお話にならないわね」
 メリーはうずくまっている佐々木の背を見る。
 容赦なくナイフを突き立てようとした時、佐々木は素早く起き上がった。

 「うわあああっ!!」
 拳を振り上げ、メリーに殴りかかる。
 笑いながら避けようとした時、その腹に痛みが突き刺さった。
 無防備のまま、メリーは佐々木に横っ面を殴られた。 

 ぐしゃり、と崩れ落ちる。
 「ウァぁあ……!」
 メリーは顔をしかめて、殴られた頬を両手で押さえ込む。
 間髪入れず、佐々木はメリーの襟元を掴み上げる。
 その驚いたメリーの顔に、また拳を叩きつけた。

 まるで重さのない布のようにメリーは軽々と飛ばされる。
 足をバタつかせ、激しく横転する。土ぼこりを巻き上げた後、メリーはうつ伏せになって倒れた。

 佐々木はナイフを探す。
 そこに、児玉が差し出してきた。ありがたく受け取る。
 児玉が自分の顔をまじまじと見ていた。きっと、真っ黒いバケモノの顔をしているのだろう、と思った。

 こうしている今にも、意識を無くして消えてしまいそうだった。
 半分、夢から覚める感覚に体を奪われてしまっている。
 完全にドッペルゲンガーとなってしまった今。オリジナルを失った影として、その存在が消えつつあるのだ……。

 自分の最期だと思い、佐々木は児玉を見た。
 「児玉ちゃん……」
 何と声をかけてやろうか考える。優しい言葉か、別れの言葉か。勇気付けてやる言葉がいいか……。
 児玉の顔を見て、何故か泣きそうになった。

 「とにかく……、精一杯生きて。そしてさ、ドッペルゲンガーでもなんでもいいから……、家族の元に帰ってみたら? 児玉ちゃんは、本物の児玉ちゃんなんだしさ……」
 笑顔でその肩を叩いてやる。

 「はい……。でも、佐々木さんも……」
 その後の児玉の言葉は聞かなかった。

 「メリー! 立ちなさいよ!! 殺してあげるから!!」
 ナイフの切っ先を向け、メリーが立ち上がるのを待つ。
 起き上がったメリーの顔は、不敵に笑っていた。
 その口元から泡が流れ落ちた。
 「痛みがね……消えちゃったの。それに、すごく楽しい気分……!」

 佐々木は顔をしかめる。
 「救いようのない麻薬中毒者ね……」
 「とっても……人を殺したい気分……。佐々木さん、貴女だけじゃなく、世の中の人間、全部殺したいわぁ……!」
 メリーはうっとりとしている。
 「そんな夢にまみれて死になさいよ、バケモノ」
 佐々木は鋭く襲いかかる。
 メリーは踊るように軽く避けた。

 両手を伸ばし、メリーは快活に笑ってみせる。
 「貴女達に付き合ってるヒマなんかない! アタシは殺しに行くわ!!」
 メリーは忽然と姿を消した。

 「ちょっと! メリーッ!!」
 辺りを見回すが、メリーの影はない。
 しばらく警戒してみても、メリーが現れる事はなかった。


 「アイツ……どこに消えちゃったのよ……! 中途半端がどうとか言っといて……」
 場にメリーがいないのでは手が出せない。そればかりか、メリーがどこに行ってしまったのかも見当がつかないのだ。
 足で向かえる距離ならばいいが、メリーはどこへでも自在に現れる事ができる。ここから数十、数百キロ離れた所に行っているかもしれないのだ。

 児玉と二人で、佐々木は呆然と立ち尽くす。
 こうしている今にも、自分は消え去ってしまいかねない。佐々木は無念に唇を強く噛む。死ぬにせよ、こんな終わり方だけはしたくない……。

 そこに、車の音がした。
 ドアを開閉する音。工場のドアから、ミユキ達がまた顔を出した。
 「ちょっと大変なの!! 阿部ちゃんが消えちゃった!!」
 足をもつれさせながら、二人は駆け寄ってくる。
 「消えたって……?」
 佐々木が詰め寄ると、ミユキ達の怯えが見えた。ミユキ達の肩を掴む手も、墨のように真っ黒だった。
 「えっと……ホント、急に消えちゃったの! 後ろの座席に乗せてたんだけど、アヤカちゃんが見てる前で、急に消えちゃったって……!!」

 背後から佐々木の肩を叩く手があった。佐々木は振り向いた。
 黒い薄霧がそこにあった。

 ――佐々木さん。今の佐々木さんなら、メリーを追えるハズだ。
 佐々木は、阿部だと気づいた。

 「アタシが……?」
 佐々木は自ずと目を閉じる。広大な闇がそこにある。
 ――ドッペルゲンガーなら、追えるんだ。
 また肩を軽く叩かれる。そして阿部の気配は消えた。

 静けさが胸に降りる。
 「アタシ……メリーを追うから」
 「えッ?!」
 ミユキ達が聞き返す。
 「さよなら」
 佐々木は駆け出した。

 「佐々木さんッ!」
 児玉も佐々木を追う。
 佐々木は工場のドアから出て、闇夜の中に溶けていった。
 児玉も懸命に追ったが、すぐに見失ってしまった。

 遅れてミユキ達も外に来る。
 そして三人は夜空に吸い込まれていく、光の蝶を見た。


― 91 ―


 どこを走っているのか、わからない。
 だが佐々木はとまどう事なく、真っ直ぐ駆けていく。

 自分の存在と、右手に握り締めているナイフだけが、現実感を帯びていた。
 見える全ては、がらんどうだった。そしてそれは気まぐれに、重苦しく濃厚な闇と化した。

 何の前触れもなく闇が晴れ、ささやかに視界が色付いた。
 肌を刺す外気。壁面に並ぶ外灯。線路下をくぐる道路脇の歩道を、佐々木は走っていた。
 のんびりと歩いている若者達を切り裂くように追い越して、佐々木は先へと駆ける。
 線路下を抜けるとまた、夢が覚めたように視界は闇に落ちた。

 空気がまた滞(とどこお)り、空洞の異界に呑み込まれる。
 佐々木は目を閉じた。
 そして無心にメリーを追い求めた。





 あっという間に夜空に消え去った蝶を見送り、児玉達はその場で立ち尽くしていた。
 「……児玉ちゃんさぁ、いいかげん車の中に入ろうよ〜? いつまでもここに突っ立っててもさぁ、寒いだけじゃん……」
 ミユキが児玉を気遣う。
 「そう……ですね」
 傷心した顔を向け、児玉は素直に応じた。

 三人はアヤカの車に乗り込む。暖気運転してあった車内は暖かかった。
 フロントガラスごしに、廃工場を見つめる。赤々と燃えていた工場正面の窓ガラスが、今は色を無くしていた。工場内のドラム缶の火が、消えかけているのだろう。
 場から生気が失われていくように感じた。ここに留まっていても仕方がない。なのに、児玉にはどうする事もできなかった。

 「で? どうなっちゃったワケ? 状況がよくわかんないんだけど」
 アヤカが改めて児玉に聞く。
 「私も……よくわからないんです」
 メリーが消え、佐々木もその後を追うように消えた。いや、確かに佐々木はメリーを追ったのだろう。 
 黒ずんだ佐々木の顔が目に浮かぶ。間近でも、その顔がよく見えなかった。……もう、元の姿に戻る事はないのだろうか?

 「どこ行ったのかわかんないんじゃあ……捜しようがないよね〜? 阿部ちゃんも消えちゃうしさぁ……」
 ミユキはすねた顔で、シートにふんぞり返る。
 ふいにミユキの携帯電話が鳴った。


 「ん? 誰からだろ……。あれ? 何か変……番号見えない……」
 ミユキは携帯電話の液晶画面を、運転席のアヤカに見せる。アヤカも顔を近づけるが、掛かってきた電話番号がぼやけて読めなかった。
 「何、この不思議さ〜? もしかして、メリーさんからなんじゃないの〜?」
 アヤカは顔をしかめる。ミユキも緊張した面持ちで携帯を見つめる。
 「取らない方がいい?」
 ミユキは、アヤカと児玉の顔を交互に見比べる。だが二人の返事を待たず、ミユキは電話に出た。
 「もしもし〜?」

 緊張した面持ちがすぐに解ける。
 「……え? 児玉ちゃんですか? いますよ。あの……どちらさんですかぁ?」
 ミユキの応対を聞いて、児玉はギクリとする。何故ミユキの携帯に、自分への電話がかかってくるのか。
 ミユキは携帯電話を児玉に差し出す。
 「ちょっと児玉ちゃん! お姉ちゃんから……だって」

 「は?! ……お姉ちゃん?!」
 自分には姉はいない、と言いかけて、違うと思い直した。
 片時ながら姉妹の約束を交わしたあの、ドッペルゲンガー。死んだハズの彼女から、電話がかかってきているというのか……。
 震える手で電話を受け取る。
 「もしもし……?」

 『久しぶり〜。元気にしてたぁ?』
 「ちょっと本当に……お姉ちゃん、なんですか?」
 お姉ちゃん、と呼ぶのが多少気恥ずかしい。
 『まぁね』
 そんな軽い返事。場を忘れ、児玉の胸は熱くなった。

 『佐々木さんの後を追いかけたいんだろ? ……アタシにまかせとけよ』
 「できるの?!」
 思わず、児玉は大声を出す。
 『うん。行けると思う。ある意味、残念ではあるんだけどねー……』
 「残念?」
 『そう。アンタもさ、それだけドッペルゲンガーに近づいてしまってるって事だからさ』
 姉の言葉に児玉はひと時、言葉を無くす。
 どこかへ消え去った佐々木達を、「超常的な力で」追う、というのか。……この自分が。


 そんな児玉の恐れを察して、姉は忠告してくる。
 『ドッペルゲンガーになっていくのを病気に例えるとだね……、おかしな事をやってしまうと……おそらく、アンタの発病の進行度合いを急激に高めかねないんだけどねー……』
 「でも……! いいから、お願い! 佐々木さんの所に連れてって!!」
 児玉は電話にすがりつく。迷ったり、悩んでいる暇はない、と思った。

 『……わかったよ。って言うか、わかってるよ。じゃあまずは、外に出て』
 言われるままに、児玉は車外に出る。ミユキとアヤカもつられて車を出る。
 『あとは……もうここには戻って来ないと思うから、電話はその子に返しといて。アタシとはちょっと話しにくくなるだろうけど、仕方ないからさ』
 児玉はミユキに電話を返す。
 「アタシ、佐々木さんの所に行って来ますから。本当にこれでお別れになると思います……」
 「お別れって……どこ行っちゃうの? 荷物とか持った?」
 ミユキは余計な心配をする。荷物、と聞いて児玉は可笑しくなってしまった。
 「あぁ……荷物、阿部さんの車に置いたままになってますよね……。じゃあ私の荷物、良かったら……、あげますから。今までのほんのお礼として」
 「は? あげる??」
 驚くミユキに児玉は笑顔を返す。
 「佐々木さんが戻って来るかどうかもわかりませんけど……もし戻って来ないようでしたら、佐々木さんの荷物も……」
 派手好きで、ブランド品が好きだった佐々木の荷物は、けっこうな値になるだろうと思った。お金も数十万円は入っていると思う。

 「じゃ、本当にさようなら……。今まで、ありがとうございました」
 児玉は二人の手をゆっくりと順に握る。ミユキ達は、そんな児玉の態度に戸惑うばかりだった。
 「あと……工場の中のドラム缶の中に、人の死体が入っているんです。良かったら警察に電話してもらえますか? その携帯電話じゃなく公衆電話か何かで」
 「うん……わかったけどさ」
 二人は不安げに児玉を見つめる。児玉はまるで悟ったかのように、穏やかな顔をしているのが気がかりだった。

 「あと、アタシ……ちょっと向こうの方で、集中してきますから」
 「は?! 集中ぅ??」
 ワケがわからず、二人は気抜けした声を出す。
 「いえ……あの、一人になって、意識を集中させる必要があると思うんです」
 ここを離れたら、もう戻って来れるかわからない。だからいつまでもヒトの携帯電話を借りているワケにもいかない。姉との会話の続きは、手探りに近い状態で行う事になるだろう。
 児玉の真剣な顔を見て、ミユキ達はまた笑顔に戻った。
 「何かワケわかんないけどね。まぁ……、気をつけて。荷物はさ、預かっておくから。……メリー倒したら、電話してよ。どこでも迎えに行くからさ。アタシらどうせ、ヒマしてるんだし」
 そんなアヤカの言葉に、ミユキはすっかり感心した。
 「アヤカちゃん、今の状況すっかりわかってるんだぁ〜? あったまいいねー? 後で教えて?」
 「何でわかんないのよ、ミユキは」
 そんな二人を見て、児玉も笑顔を返した。

 「じゃ、本当にお世話になりました……。ここにメリーが帰って来ないとも限りませんので、ミユキさん達もここから出た方がいいと思います」
 児玉は何度も頭を下げ、二人の元を離れる。そして工場へ足を向けた。
 「ちょっとどこ行くの?!」
 追いかけようとするミユキの肩を、アヤカが引いた。





 児玉は廃工場内に入る。ドラム缶の火はかなり弱まっていた。
 墨と化した足の先が、缶の口からのぞいている。ドラム缶の脇に、焼け焦げた皮靴が落ちていた。
 児玉はドラム缶のそばに行き、それらを見つめた。

 目を閉じ、須藤の顔を思い浮かべる。
 眼鏡をかけパーマ頭の優しそうなおじさんだった。まだお兄さん、と呼んでも差し支えない感じでもあった。
 真夜中。佐々木の蝶を追って初めて出会った時も、こういった廃工場内だった。須藤はタイヤにこしかけ、つまみか何かをかじっていた気がする。
 須藤には家族がいた。須藤はそれを取り戻そうとしていた。
 でも、叶わなかった。須藤はこうして、焼かれて死んでしまったのだ……。

 「メリーが焼き殺したんじゃない。須藤さんはお互いに決着をつけて、そして死んだんだ」
 姉の言葉が、口をついて出る。いきなりだったので半分も聞き取れなかったが、感覚は伝わってきた。
 「じゃあ……、メリーを恨むのは筋違いだね」
 児玉はドラム缶の表面をなでる。
 できる事なら、一緒に人間に戻って、みんなで幸せになりたかった。ちゃんと家族と再会させてあげたかった。
 でももう、その願いは叶う事がない。須藤は死んだのだ。
 そして自分も。家族の元に戻りたいとする願いを果たせずに、終わってしまうのではないかと思った。


 「お姉ちゃん……。アタシはどうしたらいいのかな?」
 目を閉じ、姉の言葉を待つ。
 ――タカコ。もうアタシをお姉ちゃん、だなんて言わなくていい。アタシはお前自身なんだから。
 「そう……?」
 児玉は気のない返事を返す。

 ――今更……感傷に浸っている暇はないだろ?
 「だよね」
 児玉は深くうなだれる。
 「何の役にも立たないかもしれないけどさ……、行こうよ。アタシ達は、メリーと決着をつける必要があるんだから。アタシ達はさ、メリーに不幸にされたんだから……」
 ふいにまた、姉は児玉の口を使って喋る。
 「メリーに、不幸にされた……」
 そう児玉は繰り返す。
 ――そうだよ。だからさ、人間に戻してくれ〜ってメリーに泣きつくんじゃなくてさ……、初めからぶっ殺しにいけば良かったんだよ。その方がさ、気持ちがスッとするだろ、絶対?
 そしてまた、姉は児玉の口を使う。
 「……大体さ、被害者が弱気になってるのが間違いなんだよ」
 そんな姉の言葉に、児玉は小さく笑った。

 「何かわかんないけど、元気出た……」
 出かけた涙を笑顔でぬぐう。
 「じゃ、佐々木さんの所に連れてって」
 ――まかせとけって。だから早いトコ、意識をカラッポにしてくれない?
 「えっと……できるかな……?」
 児玉は苦笑いしつつ、目を閉じた。


 そのまま、児玉はドラム缶を前にして立ち尽くす。
 何処に行ってしまったかわからない、佐々木達を追うのだ。しかし、姉に身体をまかせたところで、果たして追えるのだろうか? 自分の身体が現実ではない所を飛び回って、二人を捜しあてるというのか……?
 にわかには、信じられない。
 それでも意識を無くすよう、努めた。どこに集中して良いものか悩んだが、明かりの消え行くこの廃工場内に、意識を同調させていくようにした。

 黒々とした闇が、背後から迫ってくる。
 中心にあるほのかな明かり。須藤の心が伝わってくるような気がした。
 ドラム缶の表面から、二人の会話が聞きとれる。児玉は耳をすました。

 思いもよらない、温かな会話だった。
 須藤の影は、須藤に家族の名前を教えていた。憎みあいながらも、細い糸のつながりがあるのを、児玉は知った。


 途端。強めの風が顔をなでた。
 驚いて目を開ける。
 目の前のドラム缶が消えていた。
 代わりに、果てまで薄い闇が広がっていた。

 「うそでしょ……?」
 こんなに簡単に、自分は異世界に来てしまったというのか?
 自分はそれほどまでに、ドッペルゲンガーに近づいていたというのか……?

 両手ががくがくと震え出した。そして叫びだす寸前……、視界が元に戻った。
 すっかりと闇に包まれた廃工場内。火の消えたドラム缶が目の前にある。
 ほんの一瞬、意識を無くしただけかと思ったが、だいぶ時間が過ぎていたようだ。

 ――目を開けるの早すぎ。
 姉の叱咤(しった)の声。児玉は素直に謝った。
 手の震えが止まらない。児玉は両手を握り合わせる。本当に自分は、超常的な世界をかい間見てしまったようだ……。
 ――もう一回、ちゃんとやって。
 「うん……」
 手の震えを無理に押さえると、今度は歯ががちがちと鳴り出した。それでも児玉はまた、意識を無くすよう、努めた。
 ほんの一瞬、別の何かを考えるだけでいい。その隙間を突いて、姉は自分に入ってくる……。


 しばらくすると、また風を感じた。
 動じないつもりだったが、児玉の瞼(まぶた)に力がこもってしまう。
 「走って!」
 姉が叫ぶ。児玉は思わず目を開けた。
 「……ええっ?!」

 見知らぬ所にいた。
 暗さは変わらないが、曲がりくねった車道が足元に伸びている。峠道か。児玉はその中央に佇んでいた。
 慌てて脇によける。

 二車線の道路。右手はコンクリートで塗り固められた切り立った崖。左手にはガードレール。その下は背の高い木々に覆われている。向こうに山の影が見える。
 冷たい外気に身をさらされ、児玉は言葉を失ったまま、しばらく辺りをつぶさに眺めた。
 車の通りはなく、眼下の木々が静かにざわめいている。

 「どうしてこんな所に……?」
 まるで置き去りにされてしまったかのように、姉の言葉は聞こえてこない。
 「走ればいいの……?」
 児玉はガードレール沿いに走り出す。
 「全然、ワケわかんない……」

 それから数分も走り続けただろうか。
 気づくと児玉は真っ暗闇の中を走っていた。
 外気が消え去る。周囲はまるでがらんどうだった。自分の息づいている感覚すらもわからなくなる。

 やがて、また足元が見えてきた。今度は狭い歩道を走っている。
 児玉はすぐに息を荒くして、歩を緩めた。背にしっとりと汗がにじむ。


 今度は、やや寂れた街並みの中にいた。
 この夜遅く、見えるほとんどの店が閉まっている。そんな中、コンビニの明かりが遠くに見えている。

 ふいに、鮮烈な光が視界を横切った。
 ……佐々木の、あの光の蝶だ。見える街並みの中、奥へと飛んでいく。
 「佐々木さんッ!」
 児玉は弾かれたように、また駆け出す。

 児玉を待つように幾度か羽ばたいた後、蝶はひと気のない路地裏に滑り込んだ。だが児玉を置き去りにするつもりはないらしく、児玉の走る速度に合わせて、丁寧に導いていく。
 ――とうとう、来た。
 鼓動が急激に跳ね上がる。佐々木とメリーはこの近くにいるのだ!
 拳を握り締め、児玉は蝶を懸命に追いかけた。


― 92 ―


 ネオンや看板の群れ。
 児玉は繁華街に出た。居酒屋やバーなどが視界いっぱいに建ち並んでいる。車の往来と人の群れに呑まれる。いつしか蝶を見失ってしまっていた。
 
 気を休める間もなく、異様なざわめきを感じた。奇声を上げながら、走っている人の姿を見つける。
 ざわめきは次第に周囲を巻き込み、人の流れが大幅に変化する。
 確かに、この近くで何かが起きているらしい。

 ――この場で、人々を巻き込んで、メリーと佐々木は戦っているのか?
 そればかりでなく、メリーは道行く人を殺しているかもしれない……。

 児玉は手ぶらなのを今更ながら気負う。何も持たなくては、せっかく来たところで何の役にも立てそうにない。
 「どうしよう……」
 見える周囲には、武器になりそうな物など、売っている店はなさそうだ。


 一際高い、女性の悲鳴が聞こえた。
 児玉は身を凍らせる。たった今、誰かがメリーに殺されたのか……?

 急激に鳴る、パトカーのサイレン。児玉の背後から二台、回転灯を点けながら、人の群がる狭い路地を危なげに進んでくる。
 「道を空けて下さい。道を空けて下さい……」
 拡声器でそう繰り返しながら、児玉の脇をすり抜け、目の前の交差点を左に曲がった。
 それにやじ馬が続く。児玉もその後を追った。


 交差点を曲がってすぐ、そこは路上いっぱいに人でごった返していた。
 パトカーが人の波を掻き分けて道路脇に停まり、警官達が数名出て来て、人込みの中に消える。
 また別のサイレンが近づいてくる。今度は救急車だった。パトカーの背後につくなり、白服の救急隊員が降りてくる。

 そこでまた悲鳴が起きた。
 断末魔のような悲鳴。周囲のやじ馬も、一瞬だけ口をつぐんだ。
 児玉も少しだけ呆けた後、やじ馬と同化している自分に気づき、首を振った。
 「すみません!」
 児玉はざわめく人込みを掻き分け、悲鳴の元を探す。人が多すぎて、どこで何が起きているのか、まだわからない。携帯電話を頭上に掲げている人がやたら多い。


 ふいに、赤い人影が宙に跳ねた。
 ドレス姿。……メリーだ。全身余すところなく、血に塗れている。
 その手から、鮮血が帯をひいた。

 メリーは笑っていた。そして踊るように後ろに跳ねる。人込みがそれを危うげに避ける。何人かがメリーとぶつかり、その度にメリーは笑い声を上げた。
 そのメリーを佐々木が鋭く追っていた。佐々木の姿は影絵のように、黒一色だった。

 見る間に、二人の姿が遠ざかる。
 「佐々木……さんッ!」
 児玉も駆け出し、二人の後を懸命に追った。

 交差点を真っ直ぐ抜けるかと思いきや、そこでメリーの姿が宙に舞った。
 その頭上。乱雑につながる電線にぶつかる寸前で、メリーの姿は掻き消えた。


 「……あぁっ!!」
 佐々木は足を止め、周囲に目を配る。そして周囲の人間を一喝(いっかつ)した。
 「ちょっと、アンタら! 危ないから逃げろって言ってんでしょう!! ……まだわかんないの?! 携帯のカメラなんか構えてる場合じゃないでしょ、バカッ!!」
 気が高ぶっているのか、語気が荒い。でもそれだけ真剣なんだ、と児玉は思った。

 「佐々木さんッ!」
 児玉は佐々木の元に駆け寄る。
 「あ、あ、……あれ? 児玉ちゃん??」
 佐々木は途端に拍子抜けしてしまう。
 「すみません。追いかけて来ちゃいました……」
 佐々木の元にやっと辿り着き、児玉は安堵の笑みをもらす。そして腰を曲げて、荒い息を吐いた。

 「ちょっと、どうやってこんなトコまで追いかけて来ちゃったのよ、児玉ちゃんは……」
 一応、メリーの気配を探りながら、児玉の顔を覗き込む。
 「あ、アタシもドッペルゲンガーになったみたいですから……。それに佐々木さんの蝶が道案内してくれましたし……」
 児玉は満面の笑みを返す。佐々木は肩を落とした。
 「そんな嬉しそうな顔しないで」

 来てしまったものはしょうがない。後はメリーに殺されないのを祈るばかりだ。
 「とにかく……、注意して。もうここで何人殺されたかわかんないんだから。その辺に死体がゴロゴロしてる」
 「そうなんですか……?」
 「あと、手ぶらみたいだから、これ渡しとく」
 佐々木は児玉にナイフを手渡す。
 「でも……佐々木さんは?」
 「ナイフ、邪魔だったからさ。アタシは素手でいけそうだし」
 そしてわざわざ、近くにある道路標識の柱を、片手で軽々と直角に曲げてみせた。元に戻そうとして、柱を折ってしまったりする。
 「……まぁこんなカンジだからさ。メリーふん捕まえてぶん殴ってやりゃあ……、多分死ぬだろうから」
 佐々木の声に、奇妙な金属音が混じって聞こえた。
 もうその顔も、表情はほとんど見えない。焼け焦げたように真っ黒い顔に、白い目と歯だけがらんらんと光っている。

 そこで二人の会話に混ざるように、光の蝶が夜空から垂直に舞い降りてきた。
 そして佐々木の右肩に留まったかと思うと、タトゥとして張り付いた。
 「あ、やっぱりアタシの蝶なんだ……」
 佐々木はそれをなでてみたりする。

 「佐々木さん……。メリーを倒したら、元に戻れるんでしょうか……?」
 今更ながら、児玉はそんな事を聞いてくる。佐々木は影と化した今、気分的に甘い事を言いたくはなかった。
 「無理でしょ。メリーは、アタシらを元には戻せない、って言ってたしさ。記憶も、それはデジタルなものじゃないとか何とか言ってたし、全然戻せないみたいだよ?」
 「そんな……」
 児玉は意気消沈し、佐々木は卑屈(ひくつ)に笑った。

 児玉がまた何か言おうとするのを、佐々木は遮る。そして視線を遠くに向けた。
 「向こうで、悲鳴がした」
 そう言うなり、佐々木は駆け出した。児玉はあっという間に見失ってしまう。
 「佐々木さんッ!!」
 預けられたナイフを手に、児玉も佐々木の向かった方へと走っていった。





 「一体、何なの?! 何が起きてんのよおおっ!!」
 児玉はそんな叫びを聞き、思わず足を止める。スナックの前で、血まみれの男性を抱えた、若い女性がうずくまっていた。メリーによる、被害者なのだろう。
 そして女性は半狂乱になって泣き叫ぶ。辺りの人が救急車を呼ぶ声が乱舞する。
 ――何故今になって、メリーは急に暴れ出したのか。児玉にわかるハズもない。

 こうなってしまったのも、自分達に半分は責任があるのではないか、と思った。
 メリーを殺す機会は、今まで何度かあったハズなのだ。ついさっきも、あの廃工場でメリーを仕留める事ができたかもしれなかった。
 それを逃してしまい、メリーの気を高ぶらせてしまったから、今、余計な被害者を出してしまっているのか……? あの場で事を済ませれば、世間の人達を巻き込まずに、事を静かに終えられたかもしれない。

 「メリィイイイーーーッ!!」
 佐々木のうなるような怒声が届く。繁華街からやや途切れた向こう、アーケード街の入口がある。

 そこに辿り着こうという時、外灯に照らされたアーケード前の路上に、何かが転がったのが見えた。
 ……長い髪の毛。血に塗れたそれは、人の上半身だった。
 児玉はそれをまともに見て、身体をこわばらせた。

 「イヤァアアアッ!!」
 複数の凄惨な悲鳴があがる。半壊した上半身を飛び越えるようにして、若い女が数人、児玉の方に逃げてきた。
 真っ赤なメリーがそのすぐ後ろにいた。

 「……や、やめなさい、メリーッ!」
 児玉はナイフを震える両手で握り締め、駆けてくる女達の方へ急ぐ。
 ――助けなければいけない。この自分が。
 急激に与えられた使命。しかし戸惑っているヒマはない。
 後も先もわからず、児玉はメリーに挑む。
 ……だが、距離が離れすぎていた。

 女が一人、メリーに捕まった。髪を引っ張られ、引き倒される。一緒に逃げた他の二人の足も鈍る。
 「やめ……なさいッ!!」
 児玉はあえぐ。佐々木の姿も近くにはない。

 メリーは悠々とした態度で、児玉に向かって微笑んだ。
 「……あら。児玉さんまでわざわざ、こんな所に来たの?」
 そして掴んだ女の頭を、今にも握りつぶさんとしている。
 「うぅ……ワァああああーーーっ!!」
 児玉は腹の底からうなり声を上げた。全力で駆ける。あと数メートルで手が届く……!
 メリーに頭を掴まれている女と、目が合う。恐怖に顔がこわばっていて、抵抗する事を忘れているようだった。
 どうしても、助けたい……! この自分の手で。児玉は無我夢中で飛びかかる。

 メリーは掴んだ女の頭を、ぐいと前に突き出してきた。児玉はあわててナイフを引っ込める。
 そしてメリーらとぶつかる寸前。……女の顔は破裂した。


 メリーが女の頭を握りつぶしたのだ。
 児玉はその血をまともに浴びた。目を閉じ、何もわからなくなる。
 メリーは身体をひねって、突進してくる児玉を避けるのと同時に、女の死体を児玉にぶつけた。

 児玉は、頭を潰された女の死体と共に、路面へ向けてバランスを崩す。
 「う、ああっ!!」
 とっさに両手をつき、全身の打撲はまぬがれたものの、その衝撃で両肩を強く痛めてしまった。倒れ込んで少しの間、両肩を押さえ込む。
 痛みをこらえてすぐに起き上がる。
 目の前に、頭を血塗れにした女が横たえていた。手足が力なく、放り出されている。
 「あ、あのっ……!」
 女の顔を覗き込もうとして、児玉は甲高い悲鳴を上げた。
 ぐにゃりと変形した頭部と、形が崩れた顔を見てしまったからだ。


 尻もちをついたメリーはその様子を見て、激しく笑い出した。
 「キャハハハハッ!! 児玉さぁ〜ん、残念ねぇ〜! キャハハハハ……!!」
 その笑いは即座に途切れた。メリーはふっ飛ばされて、ブザマに転げた。
 佐々木が蹴り倒したのだ。

 「ウグッ!!」
 仰向けになったメリーに、間髪入れず、佐々木は素早くのしかかる。
 「だいぶフザケ回ったようね……、お姫さま?」
 両手で首を締める。
 「やっと捕まえたわよ。そろそろ、おねんねの……時間だよッ!!」
 佐々木は牙を剥き、渾身の力を込めた。消える前に、殺す必要がある。本当は、一瞬の躊躇(ちゅうちょ)も無駄話もしてはならないのだ。

 妙な音を聞く。
 佐々木は右手の親指を折られていた。遅れて激痛が走り、たまらず佐々木はメリーから手を放して、痛みにうめいた。

 ゆっくりとメリーは起き上がり、すました顔で髪を振った。
 「おねんね、ですって? ……私をバカにしてッ」
 メリーは佐々木の横っ面を拳で殴った。まともに受けた佐々木は、路面を何度かバウンドする。受身も取れず、手足や肩を激しく打ちつけた。
 明かりのない路上に落ち込む。すぐには起き上がれず、佐々木は痛みに身をくねらせる。

 メリーはそんな佐々木を冷ややかに見つめる。そしてそこからやや離れたアーケードの前で、泣いたままの児玉に目を向け、苦笑した。
 「お二人とも、私を殺すには至らないようね。……私はちょっと着替えてきます。「赤いメリー」のウワサを作ってもしょうがありませんから」
 そしてメリーはそこから忽然(こつぜん)と消えた。





 明かりのない一角に溶け込んで倒れている佐々木は、群がってくるやじ馬に危うく踏み潰されそうになり、無理に起き上がった。
 そして右手の親指をさすりながら、児玉のいるアーケードの前に行く。肩なども、転んだ際にかなり痛めてしまった。

 明かりに照らされたアーケード前には、無残な死体が二つ転がっていた。上半身だけの女の死体。そして児玉の目の前で、頭を潰されて殺された女の死体……。
 児玉は路面にへたり込み、その両方を見比べながら、悲痛に泣いている。
 周囲のやじ馬が「死体だ死体だ」と騒ぎ立てる。間もなく、警官が来るだろう。その前にここを離れたい、と佐々木は思った。
 「……またどっかに行く気だよ、メリーは」
 児玉が落としたナイフを拾い上げ、佐々木は児玉に声をかける。

 児玉は顔をしかめて泣いていた。
 ほんの一瞬、自分が早ければ、助けられたかもしれなかった女性が、顔をざくろにして、息絶えている……。
 死体となった女の友人らしき女性が二人、児玉の傍に座り込んで、同じように泣いていた。

 「メリーのきまぐれなんかで……、これ以上犠牲者を出すワケにもいかないでしょ?」
 佐々木は児玉に手を差し伸べる。掴んできた手を引いて、児玉を立たせた。
 「警察とか来ないウチにどっか行っちゃおう? 面倒に巻き込まれてもナンだしさ」
 そして佐々木は児玉の手を引いて、無理に走らせる。


 アーケードから、繁華街の逆方向に真っ直ぐ走る。明かりもまばらにしかなく、人目からすぐに逃れる事ができた。
 住宅地などを抜けると、幅の広い車道に出た。

 歩道で足を止め、ナイフを足元に置いた後、佐々木は児玉の顔を覗き込んでみた。児玉はまだ、さめざめと泣いている。
 その頬を、あやすように軽く叩く。
 「いつまでも泣いてないで。人なんか、いっぱい死んじゃったからさ。……それよかさぁ、児玉ちゃんも血塗れになっちゃったね〜。どっかでおフロ、入ってこうか?」
 そうおどける佐々木に、児玉は首を振る。

 今や、心の中が真っ黒で。何もかもが無意味に思えて、全てに無関心になりながらも……、佐々木は児玉をなぐさめずにはいられなかった。
 「全然、児玉ちゃんのせいなんかじゃないんだからさ。……メリーが悪いんだからさ。アイツはホント、ぶっ殺すしかないよ」
 児玉の肩をやや強めに叩き、大仰に笑ってみせる。
 それでもまるで泣き止む様子のない児玉の頭を撫で、そっと胸に抱いてやった。

 しばらくして、児玉も佐々木の背におずおずと両手をはわせ、二人は抱き合う形になった。
 「あれ? ……何? 甘えんぼ?」
 佐々木は驚くのと同時に嬉しくなり、児玉の頭に頬を寄せる。
 「佐々木さん……アタシの前から、いなくならないで下さい……。絶対に。何があっても……」
 そして抱く腕に力を込めてくる。

 「わかってる。わかってるから……」
 児玉の背を軽く叩いて応じる。
 佐々木は児玉の肩ごしに、そっと自分の手の平を見つめた。
 まるで墨を塗りたくったように、真っ黒だ。そして常に振動しているかのように、輪郭(りんかく)がぼやけている。

 ――自分が消えるのは間近だ。この今にでも、消えてしまって不思議ではないのだ。
 そして、この自分が最期にやれる事は、ただ一つしかない。……メリーを殺す事だ。

 握った拳が、ふいに溶けて見えなくなった。
 一瞬、肝を冷やしたが、また現れる。……自分の意思とは関係なしに今度消える事があったら。自分はもう、戻っては来れないと思った。

 ――アタシがいなくなったら……、
 と言いかけて、佐々木はやめておく。今、児玉に「いなくならないで」と言われたばかりだ。
 でも、自分がいなくなった後の事を、言っておきたかった。

 自分の荷物とお金を、児玉にあげる事。
 メリーを殺す事ができなかったら、自分の代わりにやってほしい、という事。
 そして精一杯最期まで、生きてほしい、という事……。

 そんな事を考えている内に、児玉の方から身を離した。
 「行きましょう、佐々木さん。メリーがどこに行ったか、わかりますか?」
 急に問われてうろたえる。
 「え? ……あ〜、ちょっとまだわかんないかな」
 目を閉じ、意識を闇に向ける。
 だが果てしなく広大なその闇の中。そう簡単に、メリーの姿を見つける事はできない。

 捜すのを一旦切り上げ、ナイフを拾い上げて児玉に渡す。そして別の手を取る。
 「一緒に行けるかな? ……ちょっとその辺、歩いてみよう?」
 「はい……」
 佐々木の言う「その辺」というのは、あいまいだった。今目にしている街中であり、そうではないものも含んでいる。
 児玉も意識を闇に落とすよう、努める。姉のささやきが小さく聞こえる。まだ、まかせた方が良さそうだ。


 当分は見える景色を静かに歩いていたが、ふと気がついてみると、何も見えなくなっていた。
 「走って行こう!」
 闇の中。佐々木の姿はすっかり周囲に溶け失せ、右肩にある蝶のタトゥだけが、青く輝いて見えていた。

 児玉は目を見開き、さっきは姉の意識下で見えなかったものを、今度はその目で見る。
 <無意識>という広大な闇の中。周囲をまとわりついて流れ去る、イメージの数々があった。それは、荒唐無稽(こうとうむけい)な夢の、様々なワンシーンが連なっているのだと思った。
 その夢のほとんどは、悪夢であるようだった。猟奇的で凄惨なシーンが刹那(せつな)的に生まれては消え、悪夢の壁をつむいでいく。
 そんな中、見ただけで卒倒しそうな場面も、一瞬だが目にしてしまった。一瞬の夢は、各々長いストーリーをもっていて、児玉の脳に次々と突き刺さるように侵入してくる。痛めて壊そうという意思すら、感じる。
 ……だが、佐々木とつながった手が、児玉の正気を失わせなかった。

 延々と続く様々な悪夢も、通り過ぎてしまえば、頭の中から消え去っていった。今はまた、がらんどうの闇の中を駆けている。
 その闇もいつしか晴れ、無数の鉄の柱と外灯に包まれていた。……大きな陸橋の歩道を走ってる。夢ではなく、ここは現実であるようだ。
 佐々木の笑みを見て、思わず児玉も笑みを浮かべそうになる。でもまだ、笑えはしない。
 二人で手をつなぎ、不思議な世界を駆ける事になろうとは、一体いつ、想像できただろう?

 この今。急速に急激に、何もかもが終わりへ向けて加速している。
 そしてそれは坂を転げ落ちるかのようだ。もう止める事も、やり直す事もできそうにない……。

 前触れもなく、蝶が跳ねた。
 鋭く舞い飛んで行く。
 「……見つけてくれたかな?」
 佐々木は他人事のように言い、走る速度を速める。児玉も負けじと走る。

 またいつしか見える全てがウソのように消えうせ、完全なる闇に包まれる。
 悪夢がまた息づき、視界いっぱいに開けてくる。
 そのイメージを傍観している別の人影が、ゆらめいた。また白さを帯びた、メリーの姿だった。

 「……んん?」
 佐々木が何かに感づく。
 「そっか……。アイツ、ほんとに死ぬ間際にいるつもりなんだ……。だから、最期にひと暴れしてやろうって……」
 そんな佐々木の呟き。児玉には見えない何かを、佐々木は目にしているらしい。

 「児玉ちゃん、やっぱりメリーを殺せるよ! アイツが腹に受けた刺し傷がさ、そうとう痛んでるみたいだから。充分、殺せるスキはあるよ! ほっといても死ぬかもしれないくらいだもん」
 佐々木は嬉々とした顔を児玉に向ける。
 メリーの腹の刺し傷は、阿部がやったものだ。それは致命傷となりうるほどのものだった、という事らしい。

 「命は……「死」が輝かせるものなのよ。私もそろそろ、終わりを迎えたかったの。劇的な終わりをね」
 佐々木達の話に応じるように、メリーはそんな呟きを放つ。
 <無意識>の悪夢のイメージではなく、メリーは実際に、そこにいる。

 悪夢の全てが裂け飛んで、背景がなくなる。
 メリーはゆっくりと歩み寄ってくる。

 「残念ですけど、次の街で終わりにするわ。人を殺し足りないのは仕方ないけど……、私の余力もそろそろ尽きそうなの。さっきも動き回ったせいで、傷口がまた大きく裂けちゃったのよ……。血も流し過ぎてしまったわ」
 一応、メリーは腹を押さえて見せる。だが、その穏やかな顔を見ると、まるでウソのように聞こえる。
 「今度はさっきのような田舎町じゃなくって、大都市にするわね。……東京がいいかしら? それとも「ハマのメリー」ゆかりの地という事で、横浜にしようかしらね……? 外国に行ってみるのも楽しいかしら? ……まぁどこでもいいんですけど」
 自分の言葉を鼻で笑いながら、メリーは佐々木達の目の前で消え去った。

 「すぐ追えるわ! 行こう!」
 佐々木は離れかけた児玉の手を取り、闇の一方へ駆け出した。


― 93 ―


 その夜もだいぶ終わりに傾いている。
 歩道を照らす街灯やネオンなど、いくつかの光は未だひっそりと灯り続けているが、街から生気は失われていた。見える人影もひどくまばらだった。
 静寂を帯びたビル群の谷間を、メリーは静かに散策していた。

 ――横浜。
 世に「白いメリーさん」の都市伝説を生むきっかけとなった人間の老婆が、晩年を迎える前に好んで出向いた町。白塗りの老婆「ハマのメリー」は、その町の背景の一部と化していた。平成の世も回り始めた頃、横浜市に住む者は、白塗りの老婆を気軽に目に出来たのだ。

 メリーは、横浜駅の西口からの通りを歩いていた。ハマのメリーが毎日のように好んで歩いた通りだった。
 ただ黙々と歩く。時折目を伏せ、意識的に胸に空気を送る。ここにいる、という実感を得たいのだ。

 「高島屋というのは……どこかしら。おばあさん?」
 西岡――ハマのメリーとのつながりはひどく弱い。自分が半ば強引につなげた生命線なのだ。西岡の記憶にある感覚を、メリーは細々と読み取っては、今見ているものと照らし合わせてみる。
 それから周囲を細かに見ていくが、それらしきものを目にする事はできなかった。
 「残念ね……。おばあさんが毎日のように行った場所を、私も見てみたかったのに……」

 ふいに地下街のイメージが浮かび上がる。人でごった返している。
 すれ違う人に奇異な目を向けられながらも、ハマのメリーは気にしない。ただ追い求める姿にだけ、見そめられたいとする思いがあった。
 ――外国人。ハマのメリーはこの街で、外国人の紳士の姿を追い求めていた。
 昔の夢を、まだ見ていたかったから。きらびやかで高貴な夢を、いつまでも追い求めていたかったから。
 自分はいつまでも、夢の中で生き続けたかった……。

 じくじくと波打っていた腹の傷が、ここでふいに、ずきりとハッキリ痛んだ。
 メリーは我に返り、薄く目を開ける。須藤の部屋に戻って新しいドレスに着替えた際、見つけた包帯を腹にテキトウに巻いてはいたが、血止めくらいにはなるにしても、腹の傷を癒すすべにはなるハズもなかった。
 「私にはもう、貴女と同じ夢を見る時間は残されていないのよ……。それだけが残念ね」
 今は物言わぬ光景を眺めながら、メリーは生きた横浜の町を夢想した。

 そうして半時間ほど、あてもなく歩き回った頃。頭上に光輝く蝶の姿を見つけた。
 苦笑して溜め息を漏らす。
 「どうしてかしらね。今度は私が追われる側になっているだなんて……」
 まだ佐々木達には会いたくなかった。メリーは逃げるようにその場から消え去った。

 また別の場を散策する。
 「どこかしらね、ここは……?」
 いきなり頭上に瓦屋根の門が立ちはだかり、メリーは面食らった。
 「まさか外国に来てしまった……ワケじゃないわよね」
 クスクスと笑いながら門をくぐると、飲食店などが建ち並ぶ通りに出た。あと3時間もすれば明け方を迎えようとしている今、開いている店もなく、やはり人影もない。
 ここは横浜中華街だった。見るもの全てが目新しく、メリーは幼い少女のようにくるくると目を動かしては、周囲の奇異さに心を奪われた。
 一つひとつの店を丁寧に眺め、ショーウインドウに薄い明かりが残っていれば、中をしげしげと見つめたりする。
 いつしかメリーは目を輝かせ、無心に見入っていた。

 「あれっ! きんきらさん?!」
 突然、背後から声があがった。振り向くと、五人ほどの中年男女がいた。やせ細った中年男が目をしばたいてメリーに近づいた。
 「あっれぇ〜……? ずいぶんと久しぶりに見たねぇ?! ……久しぶりに見たらぁ、ずいぶんと若返ったんじゃないの? ……きんきらさんてばさぁ、どうしちゃったの?!」
 中年の男女はいずれも酩酊(めいてい)状態らしく、景気良く笑い続けている。中年の女性も楽しそうに「この子、TVのニュースで見た事ある!」と騒ぎ立てる。
 メリーは気分を害した風でもなく、笑顔で聞き返す。
 「きんきらさん……って何かしら? もしかして、ハマのメリーはここではそう呼ばれていたの?」

 別の中年男も身を乗り出してくる。そしてメリーの両手を取ってはしゃぎ出した。
 「うっわぁ〜……。俺、夢見てんのかな?! こんなに美人に生まれ変わっちゃってぇ〜……。おっどろいたなぁ……。これなら俺、買いたいよねぇ、マジで」
 「……え? 買うって?」
 わからず、メリーは問う。
 「……あれ? 今は売ってないの? ほらぁ……きんきらさんて言えばさぁ……ねぇ? 今晩いかが〜って……」
 男は下卑た顔になる。途端、メリーは顔色を曇らせた。
 「知らないわね」
 メリーは荒々しく男の手を引き離し、ぷいと向こうを向いてまた歩き出した。

 「あ〜! メリーさぁん! 俺、買いたぁい! 金ならいっぱい持ってるから!」
 男はまだメリーに言い寄ってくるが、メリーは無視した。
 「メリーさぁ〜ん……お願いだよぉ!」
 猫なで声で腕を掴まれるのを、メリーは邪険にはらった。しかし、敵意を出した表情ではなく、諭(さと)すような表情だった。
 「……私はこの町ではね、人を殺さないつもりでいるの。おばあさんはこの街では、愛されていたようだから。だから……、ありがたく思ってちょうだい」
 一瞬、悲しげな表情を見せ、メリーはおとなしく、その場からすっと姿を消した。





 70階建てのビルの屋上。人が立ち入る事のないその場の、更なる最上段に腰をかけ、メリーは眼下に広がる世界を眺めていた。
 ――横浜ランドマークタワーの屋上。周囲360度、横浜の街並みはおろか、海岸線、世界中までもが見下ろせるような景観の最頂点にいた。

 寒風に身を打たれながらも、メリーは飽きる事なく、眼下の無数のきらめきを眺め続けた。繁華街などが血気盛んな時間帯であったのなら、もっと輝いていただろう。
 深い溜め息を何度もつく。
 「人って……いっぱいいるのよね。数え切れないくらいに。ほぼ無限に……いるのかしらね」
 いつしか膝を抱え、縮こまる。
 「私には、とても殺し切れないわ……」
 阿部や須藤のみならず、数多くの下僕を従えて、メリーは自分の都市伝説をこの世に築こうとしていた。
 だがそれも、徒労に終わってしまったかに思えた。その他大勢の下僕にも、すがる理由はなかった。興味すらなかった。
 今はただ、腹にこびりついた痛みに、傷心していた。

 「死ぬ、って……寂しくて……つまらないものね」
 無数の人間達を殺してきた。笑いながら、血祭りにあげてきた。その人間達の事を、今更どうこうと思う気持ちはない。ただ、こうして自分にも死が訪れようとしているのが、ひどく不思議で他人事のように思えた。

 「死」は……、ひどく不気味だった。
 知りたかった未知。その先にあるのは、暗闇だけなのか。意識も肉体も消えゆくのか。それとも新しい世界が待ち受けているのか。死や夢とつながっているハズの<無意識>ですら、「死」の本質を伝えてはくれなかった。そこで知る事ができる「死」は、夢想の域を出ていないのだ。
 「死」はあらがう事のできない、バケモノのように思えた。
 そんな暗黒のバケモノ、自分を殺すものが……、確かに目前に迫っている。生々しい息吹をあげながら。

 メリーは思い立ったように襲い来た、うねる苦痛に身をよじる。
 数分苦しんだ後、冷や汗をぬぐった。この傷は自然癒治などしない。自分を死へといざなう刻印なのだ……。
 須藤がいれば……、死ななくても済んだかもしれない、わずかばかりの傷跡。今はもう、そこから流せるだけの血を流し尽くした。意識の中にも、大きな空白が生まれ始めていた。
 このままこうして眠りについただけで、終わりを迎えてしまうのではないかと思った。

 胸元のロケットを引き出し、首から外すと思い切り眼下に投げ捨てた。まだ残っている麻薬を取りに戻る気力もなかった。
 「こんな……静かな死は……嫌だわ」
 やがて、海に赤みがさそうとしていた。この冬の、遅い朝の訪れであろう。
 メリーはじっと目を伏せていた。……沈んでいく。眠りの中に身体ごと、ゆったりと沈んでいく……。


 「こんな所で何してんの」
 ふいに声をかけられる。冷めた目で振り向くと、佐々木と児玉の姿があった。佐々木はもはや人間の痕跡を留めていなかった。真っ黒にゆらめく影の姿で、やや全身が透き通って見えた。隣の児玉は血塗れのままだった。
 メリーは座ったまま、表情を変えずに出迎える。
 「横浜の町を見ていたのよ」

 「つい先ほどまでの殺人鬼が呆れたもんね……」
 佐々木はメリーにずいと近づく。
 「アタシさぁ、そろそろ死んじゃうのよ。お願いだからここで決着をつけさせてくれない?」
 「いいわ」
 事もなげに、メリーは応じた。
 「でも、こんなに狭くて落ち着かない所でいいの?」
 70階建てのビルの屋上の、給水タンクと思わしき場の上である。四方十数メートルの余裕もない。寒風も時にひどく、身体があおられかねない。
 「どこでもいいのよ。アンタを殺せれば」
 両肩をいからせ、その両手は殺意を持て余しているように、力強い熊手を形作った。
 メリーも意を決して立ち上がる。白い髪とドレスが風に大きくなびいた。
 佐々木を正面に見据えて、メリーは可憐に微笑んだ。
 「ウレシイわ。貴女方がいてくれて」


 「降りましょう?」
 ここでは狭すぎて足が落ち着かない。メリーは段から屋上に降り立った。そこなら充分に動き回れるスペースがある。佐々木も素直に従い、そこから威勢良く飛び降りた。
 互いに一旦距離を置いた後、改めて歩を進め合う。互いに何の武器も持たず、殺しあおうというのだ。
 児玉が遅れて屋上に降り立ったのを合図に、互いの腕が伸びた。

 拳も熊手も互いの体をかすり抜け、二人は上半身を激しくぶつけあった。
 互いによろめき倒れ、燃えるような視線をぶつけあう。

 佐々木は牙を剥き出して慟哭(どうこく)した。
 メリーが目を剥くほどに、佐々木は変わり果てていた。その姿は悪魔か猛獣を思わせた。
 あれが自分にとっての死神なのか、とメリーはぼんやり思った。

 メリーは大きく跳ねて距離をとる。すぐさま佐々木が追った。右肩の蝶のタトゥが鮮やかな軌跡を描く。
 屋上のへりにだいぶ近づき、身をひねる。メリーとてこの高層ビルから落ちたくはなかった。落下しながらどこかへ飛べるほど、自分に器用さと余力が残っているとは思えなかった。
 今のメリーと佐々木は対照的だった。メリーはか弱い人間に近づき、佐々木はバケモノになっている。
 「しぶといお姉さんね! そろそろ消えたら?!」
 逃げ回りながら、メリーは佐々木に軽口を叩く。
 「アンタをこの手で殺したら、お望みどおり消えてやるから!」

 逃げ回っているだけでは意味がない。メリーは足を止め、佐々木を迎えうった。
 佐々木はたじろがず、真っ直ぐメリーに向かっていく。
 捕まえるか、拳をぶつけるかだ。

 メリーは身構える風でもなく、両手を下げたまま、佇んでいる。
 ――死を受け入れようとしているのか?
 一瞬の驚きを跳ね除け、佐々木は両手を広げてメリーに掴みかかった。

 ――ピリリリリーーーッ!

 何の前触れもなく、携帯電話の着信音が、佐々木の脳裏に痛烈に走った。
 完全に虚をつかれる。
 気付いた時には、メリーの五指が首に伸びていた。

 「ああっ!!」
 がっしりと掴まれる。途端に握り潰される。
 首が変形するか否かの瀬戸際、佐々木は両手でメリーの腕を掴み、力任せにへし折った。
 骨折を示す甲高い音が鳴り響く。
 「ウアアーーッ!!」
 メリーは悲痛な声をあげ、佐々木を手放して、うずくまった。


 やや距離をとり、佐々木も膝を折る。喉を押さえたまま、しばらく動けないでいた。
 「佐々木さんッ!」
 児玉が駆け寄るが、佐々木は手で追い払った。

 顔を悲痛に歪め、折られた右腕を腹の内にかばいながら、メリーはゆらりと起き上がる。
 「何のチカラもない貴女と……対等に殺し合いだなんてね。馬鹿げてるわ。本当に……」
 佐々木も起き上がる。
 「アタシでも充分……殺せそうね、メリー」
 親指を折られてはいるが、右腕が利き腕だ。最後とばかりに、きつく拳を握る。
 「メリー。アンタの都市伝説はこの横浜で生まれて、ここで終わるのよ。……本望でしょ?」
 メリーは薄く笑った。
 「そうかもしれないわね」

 佐々木はメリーに向けて、猛然と駆ける。
 メリーは逃げもせず、構えもしない。ただじっと佐々木を見据えている。
 また虚を突くつもりなのか。
 「うわぁああああーーーっ!!」
 佐々木は怒号する。
 メリーまで後数歩。佐々木は右腕を引き絞った。

 そして拳をメリーめがけて放とうとする瞬間。
 忽然と、その腕が消えた。


 「うああっ!!」
 突き出したハズの腕がそこにない。佐々木は大きくバランスを崩す。
 メリーは佐々木の変化に気付いたが、突進を避けもせず、体をぶつけられるにまかせた。

 二人とももつれあって激しく倒れ込む。
 ばたばたと転げあった後、メリーは奇声を上げて笑った。
 「アハハハハ! 残念ねぇ、お姉さん! ……ほんのちょっとだけ、殺されてみようかと思ったのに! それなのに!」
 メリーは笑いを崩し、顔をしかめる。そして呻きながら転げまわった。折られた右腕と腹の傷が衝撃を受けて痛んだのだ。
 佐々木も仰向けに倒れたまま、すぐには起き上がれないでいる。右腕を上げて確認すると、ヒジから先がすっかりと消え失せていた。

 「……こんな時に。ちょっと、やめてよッ!」
 叫んでもどうにもならない。力を込めたり、しつこく腕を振ったりするが、右腕の先が現れる気配はなかった。
 「この役立たずっ! 何とかしなさいよ!!」
 今度は右肩の蝶に怒りをぶつけてみるが、どうにもならないようだ。
 ――右腕ばかりではなく、この瞬間に、身体全体が消えてしまうかもしれない。
 佐々木は焦って起き上がる。メリーを仕留めなければ、死んでも死にきれない……。


 メリーは幽鬼のように立っている。折られた腕を抱えながらニッと笑った。
 「……残念ね。佐々木さんとはこれでさよなら、かしら」
 佐々木も起き上がる。そして表情を無くしたまま、メリーを見つめる。
 「アンタだって利き腕使えないでしょ。お互い様よ。……左手一本でも、アンタを殺すわ。アンタを殺さないと、死んでも死にきれないもの」
 「……そう。やってごらんなさいよ」
 メリーはここぞとばかりに佐々木へ向けて駆ける。左手が、熊手を形作る。そこから獰猛なうなりがあがる。
 佐々木の腰が引けた。

 「メリーッ!!」
 意気を失った佐々木をかばうように、児玉が走り込んで来た。
 襲い来るメリーに向けて、ナイフを振り払う。だが、切るには遠く及ばず、それは威嚇(いかく)にしかならなかった。
 メリーは軽々と手前で避ける。

 児玉は歯を食いしばり、またメリーに向けて走る。
 だが、腰が引けている。メリーはこらえきれずに笑い出した。
 「児玉さん! 貴女に人を殺せるのかしら?! 貴女なんて……、ただの泣き虫のくせに!」
 挑発ではなく、メリーは児玉を馬鹿にしている。取るに足らない相手だった。
 「……殺せるわ! だって貴女はヒトじゃないもの」
 言われたメリーは一瞬、本気で顔を歪める。
 児玉はまた、ナイフをメリーに向けて突き出す。

 メリーに切りかかろうとする瞬間。児玉は白目を剥いた。
 ――ピリリリリーーッ!!
 警告音のような、携帯電話の着信音が鳴る。
 だが、メリーはまるで動揺しなかった。自分の痛みで、驚くどころではなかったのだ。

 メリーは左腕で迎えうつ。
 斜め上から切りかかってくる児玉を、メリーはしっかりと見据えていた。
 ドレスをなびかせ、メリーはするりと避ける。
 バランスを失った児玉の背後につき、左腕をその背に叩き込んだ。

 「うあっ!!」
 地面に叩きつけられ、児玉はバウンドする。ナイフが円を描きながら、遠くへ逃げ去った。
 メリーはすかさず、児玉の上に馬乗りになる。
 気付いた佐々木が駆け寄るが、間に合わない。
 メリーは児玉の首を掴み、そのままへし折ろうとした。

 そこでメリーの全身に痛烈な痛みが走る。
 児玉が立てたヒジが、メリーの折れた右腕を直撃したのだ。
 「ウアアーーッ!!」
 たまらずメリーは転げ回る。

 駆け寄った佐々木はそんなメリーを蹴り上げ、児玉の元に膝をついた。
 「大丈夫?! 児玉ちゃん!!」
 児玉はよろよろと半身を起こす。
 「……大丈夫です……。それより、ナイフを……」
 「わかった!」
 佐々木は身をひるがえし、ナイフを取りに行く。飛んだ場所はしっかりと見ていた。

 左手でナイフを持ち、身をひねらせてもがいているメリーの元に行く。
 「アタシがトドメをさしていい? 児玉ちゃん……」
 「えぇ……。お願いします」
 児玉はか細く答える。
 佐々木はナイフを逆手に持ち、メリーの頭を目測する。だが、背中に狙いを変更する。
 「まさか、刺してる間際に、左手まで消えたりしないよね……?」
 そう言った左手から、ナイフが滑り落ちた。


 愕然とする。
 左腕までもが、消えてしまった。
 そしてそれはヒジまでではおさまらず、肩の方へ駆け上がってくる。
 足が震え出す。
 この今。とうとう自分は、消えようとしているのだ……。

 「児玉ちゃん!!」
 佐々木は叫ぶ。
 足も消え行く。全身が震え出す。意識もどこかへ消え去ろうとしている。
 「ゴメン! 間に合わない! アタシ……、今、死のうとしてる!!」

 最期だ。自分というものは、ここで終わりを迎える。そこで自分は、児玉という少女に、何を言ってやれるだろう?
 突然に与えられた死。その間際の一瞬。
 「ねぇ!! ……アタシを、忘れないで!!」
 佐々木は渾身の力を込めて、叫んだ。

 「佐々木さんッ!」
 児玉が駆け寄ってくる。だが、抱き合うにはほど遠い。身体が半分、失われている。
 ――夢が覚める瞬間のようだ、と佐々木は思った。
 これが「死」なのか。
 やはり現実も、夢のようなものなのか……。

 「ほんとゴメン! 児玉ちゃん! メリーの事、絶対倒してさ! 児玉ちゃんもこの先……、精一杯、最期まで生きて!! もし人間に戻れなくてもさ……、自分らしく最期まで生きて!!」
 目の前で、佐々木の姿が掻き消えていく。佐々木の苦悶の叫びが続く。もう、その声は聞こえない。

 以前のように消えるだけではなく、佐々木はもう二度と、現れる事がないのか。
 佐々木は完全なるドッペルゲンガーとなり、オリジナルを失った事による「死」が、この今、ようやく訪れたのか。
 「イヤァアアアーーーッ!! 佐々木さぁあああん!!」
 そして抱きつこうとする瞬間。佐々木のカケラは、はじけ飛んだ。

 同時に、空に向かって真っ直ぐ、光の蝶が飛んだ。
 空に流れた細かな光の帯は、佐々木が最期に見せた涙かもしれなかった。


― 94 ―


 呆然とする児玉のすぐ傍で、メリーがゆらりと起き上がる。そして佐々木が落としたナイフを拾い上げた。
 児玉は反射的に飛び退いた。

 「佐々木さんはどうやら自滅しちゃったようね。……ご愁傷さま」
 右腕の痛みに顔を引きつらせながらも、メリーはそんな軽口をたたく。
 児玉は唇を噛んで、メリーを恨めしげに見つめる。
 たった今、佐々木という大事な人を失ったばかりで、メリーを殺す気力など湧くハズもなかった。

 本当に、佐々木は消滅してしまったのか? 今まで何度も見たように、一時的に消えてしまっただけではないのか? 後になって、ひょっこりとまた姿を現すのではないか……?
 しかし、その消え方は今までとはかなり違っていた。佐々木は、粉々に砕けて弾け飛んだのだ。
 形を失っての消滅。それはやはり、「死」を思わせた。
 佐々木も自らの「死」を感じていたようだった。だからこそ、消える間際に訴えてきたのだ。……自分を忘れないでほしい、と。そしてメリーを倒して、その後も精一杯生きてほしい、と……。

 「佐々木さん……」
 感傷に浸っている間もなく、メリーがよろよろと迫り来る。左手にナイフを握り締め、自分を殺そうとしている……。
 児玉は走って、メリーと距離をとった。メリーはだいぶチカラを失ったようで、瞬間移動のようなマネをしてこない。静かにゆっくりと歩み寄ってくるだけだ。

 児玉は何度も自問する。本当に佐々木は死んだのか、と。
 そう簡単には受け入れられない。佐々木が粉々に砕けて消滅した事に、「死」以外の新たな解釈を探す。
 黙って突っ立っていると、メリーとの距離が縮まる。あわててまた逃げる。

 「……児玉さん? 貴女は何がしたいの? そうやって逃げるために、わざわざこんな所まで来たの?」
 児玉の態度にメリーは苛立ち始めた。だがそんな挑発を受けようが、児玉はメリーに向かっていく気力など湧かなかった。
 「佐々木さんッ!!」
 逃げながら、何度もそう叫ぶ。しかしその度にメリーに苦笑いされるだけだった。
 「ほんと残念ね……。佐々木さんがいないと貴女は何もできないのね」
 そう馬鹿にされても、児玉は言い返せない。
 次第にメリーの足が速まって来た。それに気付き、児玉は悲鳴を上げて手足をバタつかせて逃げる。
 「アハハハハ! ……情けないわねぇ……。それじゃあ佐々木さんも浮かばれないわねぇ〜……」
 ふいに、宙を飛んで来るものがあった。児玉は頭を抱えて縮こまった。

 背後でコンクリートの地面をかする音がした。メリーはナイフを投げたのだ。
 「……拾いなさい?」
 やわらかな口調だったが、その顔は冷ややかに児玉を睨んでいた。
 「嫌よ、もうっ!!」
 児玉はまた泣き出した。

 その姿を見て、メリーは残念そうに首を振った。
 「……そう。わかったわ。じゃあもう死になさいな、臆病者」
 メリーが足早に向かって来る。
 児玉は逃げるのを止め、その場にうずくまったまま、目をきつく閉じた。


 ――ピリリリリーーーッ!
 それは児玉の耳元で鳴り響いた。鼓膜が破れんばかりの轟音だった。
 「あぐうっ!!」
 児玉は両耳を押さえ込んで転げた。

 ――何やってんのよ、馬鹿ッ!!
 姉の叱咤(しった)。身体が勝手に動き、迫り来るメリーとまた距離をとる。
 足元がおぼつかず、児玉は派手に転んだ。手をすりむき、また声を上げて泣く。

 ――何泣いてんの?! 最後に残ったアンタがそんなんでどうするのよっ!!
 「でも……」
 自分には何もできない。メリーと戦う気力がないし、戦う理由もない。この場にいる事すら、間違いなのだ……。
 「アタシはできないから……お姉ちゃんがやって……?」
 そう訴えた後、メリーのドレスのスソが視界の隅に見えて、児玉は短い悲鳴とともに弾かれたように逃げる。

 ――あのさ。アンタはね……、母親を泣かせたままなのよ? 忘れたの?
 そんな姉の言葉が胸に突き刺さる。
 「……お母さん……?」
 ――今みたいに泣きべそかきながら電話したでしょう? いつか帰る、ってさ。帰るつもりなんかないんならさ、そんな事言わなきゃ良かったんじゃないの……?
 「ふぅっ! ……げほっ!! ゴホッ!」
 めちゃくちゃに泣きすぎて、児玉はとうとうむせはじめた。

 首がぐるっと強制的に動き、メリーを正面に捕らえる。
 ――タカコ。あきらめて死ぬんだったら……、死ぬ気でかかっていきなさいよ。それで殺されたんなら、仕方ないよ。アタシも許すし、佐々木さんだって許してくれると思うしさ……。
 身体が引っ張られる。行った先にはナイフが落ちていた。
 ――拾いなさい。アンタがやるの。アタシが手助けする事じゃないから。


 「……できないっ!」
 児玉は首を振って拒絶する。
 そうしている間にも、メリーは何度でも幽鬼のように迫り来る。

 ――アンタがお母さんに会うかどうかだけの問題じゃないでしょ。阿部さんと須藤さんと佐々木さんの悲願を……、アンタが受け継いでるのよ? 最後に残ったアンタが、腰を抜かして責任放棄してどうするのよ……?
 自分の中の姉の口調が、以前より優しい気がした。別人のような気がしない。本当に、自分自身に訴えられているような気すらした。
 児玉は唇を噛んで、じっとナイフを見た。

 背後でメリーのハイヒールの音が近づく。
 児玉は、ゆっくりとナイフを拾い上げ……、素早く背後の気配に切りかかった。

 「……!!……」
 メリーが飛び退く。
 「……やっとやる気になったのかしら?」
 しかして余裕の色はすぐに失い、右手をかばう。
 児玉はそんなメリーをじっと見る。
 「みんながメリーに傷を負わせたから……私でも殺せそうね……」
 児玉はナイフをしっかりと握り締めた。

 メリーが弱い笑いを返す。
 「オホホ……。やってごらんなさいな。でもあいにくと、貴女みたいな泣き虫に殺されたいとは思わないわね……」
 苦しげに言い終え、身を折る。右腕の激痛がふいに耐え切れなくなり、メリーはボロッと涙をこぼした。

 「ア、ハハ! アンタだって泣いてるじゃないの! ……何、人間みたいに泣いてるのよ! バケモノのくせに……!」
 ソデで顔をこすり、児玉はメリーに向けて、力強く歩み寄った。

 「……?!」
 児玉は一瞬、無意識にナイフを持ち替えた。
 自分は左利きではない。どうして姉はそんな真似をするんだろう……?
 そう思う間もなく、右手には厚手のサイフが握られていた。ジーンズの尻ポケットに入れていたものだ。
 右手が、それを勝手に投げた。

 幸運か、それとも狙いが良かったのか。そのサイフは、メリーの右腕の折れた箇所を直撃した。
 「ウギャアアアッ!!」
 メリーの右腕に、落雷を思わせる激痛がほとばしった。

 メリーは意識を無くし、足をもつれさせて、その場に派手に転倒した。凄惨な悲鳴が飛ぶ。
 ナイフを利き手に持ち替え、逆手に握り締める。
 「メリーーッ!!」
 児玉は歯を食いしばった。目を見開き、メリーの胸に狙いを定める。
 丁度メリーが仰向けになった。無防備に胸をさらす。一瞬のタイミングに児玉は神経を集中する。
 ナイフがその胸に届こうとする瞬間。児玉は、メリーの顔をずぶ濡れにしている大量の涙を見た。


 ナイフが止まる。
 美しいばかりの白いお人形が、悲痛に泣いている。
 ……どうして殺さなくてはならないのか、一瞬わからなくなった。

 右腕を弾かれて児玉は目を覚ます。
 ナイフが乾いた音を立てて地面を滑っていった。

 ――馬鹿っ! せっかくのチャンスを!!
 姉の叱咤。児玉は急いでナイフを拾いに行く。
 メリーもやや危うげながら体勢を整え直す。今の激痛が効いて、立っているのもやっと、という感じだった。
 「変わった飛び道具を使うのね……。フザけてるわ」
 そして左の長手袋で涙を拭いた。
 「もういい加減……耐えられないわね」
 自分がこれほどまで痛みに耐えているのは、初めての事だった。いや、これほどの痛みを受けたのも、初めてだと思った。
 右腕の折れた部分を千切りとって投げ捨てたいくらい、そこはひどく痛い。今サイフをぶつけられた衝撃で、折れた骨が完全に離脱したように感じた。
 「ぐうううっ!!」
 ブラついている右腕の先に触れた途端、また新たな激痛がメリーを突き刺す。
 涙とともに、大量の冷や汗をかいていた。
 屋上の地平を見る。人が立ち入る事のできない場所になっているせいか、周囲には柵がない。
 ひと思いに、飛び降りて死のうかと思った。

 「メリーーーッ!!」
 児玉がまたメリーへ向けて駆ける。
 メリーは険悪に睨んだ。
 「……弱虫のくせに、いい加減しつこいわね」
 足を踏ん張って児玉を待つ。
 怒声と共にナイフで切りつけてくる児玉を冷静に目測して、メリーは左腕を思い切り振るった。


 それがまともに児玉の右半身を殴打し、児玉はふっ飛ばされた。
 軽々と宙を飛ばされ、コンクリートの地面に投げ出される。
 「……ウァアアあッ!」
 糸の切れたマネキン人形のようにごろごろと転げ、児玉は仰向けになってやっと止まった。またナイフをどこかへ飛ばしてしまっていた。
 痛みに呻いている間もなく、メリーが掴みかかってきた。上半身を荒々しく持ち上げられ、横っ面を殴られる。
 児玉は悲鳴を上げて、また地面を転げた。

 「はぁ……ハァッ!」
 留まっている暇はない。児玉は無理に素早く起き上がった。殴られた衝撃で頭がふらふらする。
 すぐ眼前にメリーがいた。左手が伸びてくる。
 「うわあッ!」
 児玉は渾身の力でその腕をがむしゃらに叩いた。メリーは大きくバランスを崩す。
 「ギャァアアッ!!」
 肘下の右腕の先が振り子のようにぶらりと揺れ、またメリーは激痛に悶絶した。

 ナイフを探すより……、児玉はこの一瞬を捕らえようとした。
 メリーに飛びかかり、その首を両手で掴んだ。
 ――殺せる。
 そんな確信を得たかと思いきや、力を込める前に、メリーは獰猛(どうもう)に吠えてきた。
 猛り声と猛獣の牙に、児玉は肝を潰した。
 「わわぁああっ!!」
 あわてて身を引き離す。両の手足を大仰にばたつかせ、児玉はへなへなと後ろ手にへたり込んでしまった。


 その様子を見て、メリーは激しく笑った。
 「キャハハハハ! ……児玉さんてば面白いのね。アハハハハ……」
 児玉は唇を噛んで起き上がる。
 メリーは素早く身体を丸め、まるで猫のような俊敏さでその場から飛び去った。思わぬメリーの動きに、児玉は呆気にとられた。

 メリーは右腕をかばいながら危うげに立っている。
 「……児玉さん。私の痛みはもう限界を越してしまっているの。このままじゃ、とても戦いにならないわ」
 「だから、何? あきらめた?」
 児玉は鋭く問う。
 「まさか」
 そしてメリーは掻き消えた。


 「あぁあっ!!」
 思わず叫ぶ。この期に及んで逃げるとは思っていなかったのだ。
 メリーはまた、場を長引かせようというのか……?
 「……ちょっと、何なのよっ!」
 場に一人取り残された児玉は、虚空に吠えた。

 「お姉ちゃん! すぐメリーを追いましょう?」
 児玉は目を閉じ、自分の中にいる姉にコンタクトを試みる。
 「お姉ちゃん……?」

 意識の中。厚い闇のカーテンの向こうに、うっすらと姉の姿が浮かんだ。
 ――消えたんならしょうがないわね。好きにさせとこう? どうせアイツは放っておいても死ぬだろうし。
 「は?! 何言ってるの! そうもいかないわ。ちゃんととどめを刺さないと……」
 ――とどめ? タカコ。本当にアンタにそんなマネができるの?
 そう言われると返答に詰まる。ついさっきも、せっかくの機会をムダにしてしまったのだ。

 「……でも、やらなきゃ。今度こそ、やるわ。佐々木さん達のためにも……」
 そう自分に言い聞かせる。それが「人殺し」という不本意な形であっても、戸惑う事は許されないと思った。
 メリーを殺せるのは、もう自分しかいないのだ。
 放っておいても死ぬ、というのは希望でしかない。傷を、何らかの方法で治療しないとも限らない。
 児玉は周囲に目をやる。しばらくその辺を歩き回り、やっと落ちているナイフを見つけ、拾い上げた。


 ――タカコ。メリーを追う必要はないようだね。アイツは戻って来る。
 「戻って……来る?」
 逃げたのではないのか? 消えかけた緊張感が戻る。
 物音一つ、物影一つ見落とさぬよう、気配に集中する。

 ふわり。

 白い布の揺らめきを眼の端でとらえる。メリーは本当に戻って来た。
 「きまぐれなのね……」
 児玉はナイフをきつく握り直す。呼吸を整えながら、メリーをしっかりと見据える。
 「きまぐれじゃないわ」
 折れた右腕を真横に掲げ、メリーは目を見開いて笑っていた。
 そして、ぶくぶくと泡を吐いた。

 「何なの……?」
 児玉は蒼白となる。メリーは肘の先で折れている腕をわざとブラつかせても、まるで痛がっていない……。
 一体、何が起きたのか。児玉にわかるハズもなかった。
 「わからない? ……あそこに戻って、麻薬を飲んで来たのよ。せっかく大量にあるんだから」
 須藤が用意したという麻薬。メリーはたった今、あの廃工場に戻って来たのか。
 「麻薬を……?」
 メリーが麻薬を飲めばどうなるのか。児玉にはわからない。ただ、ついさっきまでぼろぼろと涙を流しながら痛がっていたハズなのに、今は大口を開けて笑っているのがひどく不気味だった。

 「……児玉さん。貴女を殺せば終わりよ。私も満足して死ねるわ。……いいえ、よく考えれば死ななくてもいいのよね。須藤さんのようなお医者さまを見つけて、下僕にすればいいのよね。……簡単な事よね」
 そんなメリーの言葉に、児玉は呆然とした。鼓動が跳ねる。

 ――メリーがまだ、生きようとしている……?!

 「……オホホホッ! さぁ、そのナイフで切りかかって来なさいよ! アハハハハ! でも、切られても痛くないかもしれないわねぇ?!」
 折れた腕をブラつかせながら、メリーは楽しげに回り始める。麻薬で痛みを感じなくなったらしい。
 ……どうすればいい? ナイフを胸に突き立てたところで、笑って引き抜かれるかもしれない。そして間髪入れずに殺されるのか……?
 麻薬を飲んだメリーは、更なる化け物になってしまったかのようだった。
 一時的なものかもしれないが、今は不死身にすら見えてしまう。

 「……アラ? 怖気づいてしまったのかしら? つまらない方ね」
 メリーは足早に、真っ直ぐ向かって来た。そのメリーの足取りには、迷いも恐れもない。
 しかし。自分とて、ここで弱気になるワケにはいかない。児玉は恐れを噛み潰して、その場にしっかりと足を留める。
 「調子に乗らないで。麻薬中毒のバケモノなんか……、怖くないわッ!」
 ナイフを突き出す。殺される事になろうとも、致命傷を与えればいいのだ。心臓を一突き、もしくは脳天を一突きすればいい。即死せずとも、麻薬が切れれば死ぬだろう。


 「児玉さん? 最期に一つ教えてあげるわね。貴女が最後まで生き残ったのは、ある意味必然なのよ」
 何を言い出すのかといぶかしむが、メリーと共に、互いに向かう足が止まる。
 「……必然?」

 「そうよ。貴女をドッペルゲンガーと入れ替える際に、私はささやかな贈り物をしたわ。佐々木さんに与えたのと同じものをね。……貴女にも「強運」をあげたのよ」
 「……強運?」
 「そうよ。佐々木さんは下らないギャンブルで、その運を使い果たしてしまったようですけど……、貴女はね、強運を使わないで溜め込んでいたようだから。いくらかは小出ししてきたみたいですけど……、でもやっぱり強運はまだ貴女の中にだいぶ宿っているようよ。だから、まだ生きてるのね」

 「運だなんて……」
 児玉は首を振る。メリーに与えられた運で、今まで生かされているとはとても思えない。
 「いいえ。貴女は強運を「生きる」という目的で使っているの。だから、もしかすると……、私でも貴女を殺せないかもしれない」
 そんなメリーの物言いに、児玉は苦笑した。
 「じゃあ……、私のその強運の目的を変えるわ。私の運全てを、貴女を殺す事に使う」
 それを聞いたメリーの口元が大きな笑いを描いた。
 「いいわね、それ。やってごらんなさいよ」
 ドレスが風に大きく揺らめいたかと思いきや、メリーは素早く児玉に襲いかかっていた。

 児玉は真正面から、迫り来るメリーを見る。
 恐れを噛み殺し、狙いをつける。早過ぎても遅過ぎても殺される……。
 これ以上ない、というタイミングで児玉はナイフを鋭く真横に振るった。

 風を切る音すら聞こえた気がした。……だが、手応えは返ってこなかった。
 メリーのドレスが眼前で翻(ひるがえ)る。児玉は後ろに飛び退き、距離をとった。

 すぐさままた眼前にナイフを突き出し、身構える。
 やや離れた位置にいるメリーを確認する。メリーは軽い足取りでくるりと振り向くと、急に狂ったような笑い声を上げた。かと思うと、げぼげぼと泡を吐き出す。そして満面の笑顔を児玉に向けた。
 「ホント、驚くほど楽しいわ! 人間の一生なんて、とてもつまらなさそうですけど……、でも麻薬があれば別ね。児玉さんもどう?」
 「冗談じゃないわ」
 児玉はメリーの態度に腹を立てる。
 「あらそう?」
 その後、メリーの奇声が上がる。折れた右腕を邪魔そうに揺らしながら、メリーは左手を真横に伸ばして勢いよく駆け寄ってくる。
 戦っている、という感覚より、ドレスの少女と戯れているという錯覚におちいる。メリーが笑っているからだろう。

 児玉はメリーの左腕を狙う方向でいく。まず両腕を封じてしまえば、殺せる確率もだいぶ高まるだろうと思った。
 メリーが迫り来る。麻薬で狂っているとは言え、油断はできない。
 かかってくるのは左腕しかない。その瞬間を見極め、ナイフを振るうのだ……!

 ふいに、児玉の視界がブレた。
 左からの衝撃。
 横っ面にまともに殴打を受け、児玉はふっ飛ばされた。
 それでも瞬間的にナイフを持つ手に力を込める。そう何度も落としていられない。
 「あうっ!」
 身をひねって背中から落ちた。

 ……痛がっている間に殺される。児玉はすぐさま身を起こした。
 「アハハハハ! 痛ったぁ〜い!!」
 メリーは妙な鍵型に折れ曲がった右腕を、ぶらぶらとさせてみせる。さっきまで涙をこぼすほど痛がっていた右腕で、殴ってきたのだ。その痛みを瞬間的に、支障のないくらいに和らげるほど、メリーの飲んだ麻薬は強力なものなのか……。

 「ア〜ハハハ、楽しいワァ……。ねぇ児玉さん、一緒に踊らない?」
 メリーは鼻歌まじりに、くるくると踊り出した。折れた右腕が、別の生き物のように勝手な動きをする。いい加減、千切れて落ちそうだ。
 「冗談じゃないわ。馬鹿にしてっ」
 児玉は半ば呆れて、半ば怒りを剥き出した。

 無闇に襲いかかる。だが、メリーは軽く避けた。
 意地になって続けざまに切りかかる。だが、まるで当たらない。
 「そんなんじゃダメね。佐々木さんのような鋭さがないわ」
 急に冷静な口調になったかと思うと、メリーは大きく跳ねて距離を置いた。

 「……児玉さん。貴女を殺したら、私はこの街の人間達を殺す事にしたわ。……わかったのよ。私が新しい都市伝説を築くには、ハマのメリーの都市伝説を、私の色で塗り替える必要があるんだとね」
 「あ、そう。でも私は殺されないわ」
 児玉は汗をぬぐいながら、しっかりと言い返す。
 「いいえ。殺すわ」
 メリーは鼻で笑い、ゆっくりと歩み寄る。
 そしてぶらついて伸びきっている右腕を顔の前に持ってきたかと思うと、それをとうとう自分で引き千切った。

 悲鳴もなく、真っ白な噴水がメリーの眼前に咲く。
 「……もう逃げないでね、児玉さん。これで終わりにしましょう?」
 千切った右腕を放り投げ、メリーは児玉にまっしぐらに駆けた。

 「お姉ちゃんッ! 何とかしてッ!!」
 児玉もメリーに向かって走る。
 ナイフを逆手に持ち、メリーの身体のどこかへでも、突き刺そうとする。
 そこで児玉の意識が途切れた。
 白目が剥き出て、その顔に歪んだ笑いが張りついた。


― 最終話 ―


 「あグッ!」
 眼前で、急にメリーがよろけた。足を折り、力なくひざまずく。

 「えっ?! あははっ?! 何やってんのよ?!」
 メリーの致命的な隙(すき)。何が起きたにせよ、今度こそ、逃すワケにはいかなかった。
 ……狙うのは頭か、胸か。それとも腕か。影は一瞬の判断を迫られる。……ナイフは逆手に握っている。切るのではなく、突き立てるのだ!

 メリーが顔を上げた。その瞬間、影は背を丸めてふところに入り込み、左手でメリーの胸元を掴み上げた。
 歯を食いしばり、ナイフを握る手に渾身の力を込める。児玉は、メリーのか細い声を聞いた。
 「……どうして急に痛みが……?」

 もう迷いはなかった。遮(さえぎ)るものもなかった。
 児玉は右手で握り締めたナイフを、メリーの胸元に深々と突き刺した。


 悲鳴も絶叫もなく、メリーはそのまま後ろに倒れ込んだ。
 離れて、児玉もよろよろと後ずさる。あまりにも一瞬の出来事だったので、自分の意思で刺したのか、姉が刺したのか、わからなかった。

 メリーは動かない。投げ出された右腕の、千切れた肘(ひじ)から白い血が流れ出し、徐々に大きな血溜りを描いていく。
 ナイフは左胸に突き立てられたままだ。そこからも血がとめどなく溢れているのが見えた。
 「本当に……何もかもが真っ白なのね、メリーさんは……」

 メリーはもう動こうとしない。とどめが不安だったら、胸からナイフを引き抜いて、その首を切ればいいだろう。
 だが、その必要はないようだ。流れ出る大量の血が、死を示している。麻薬の効果ももう、役には立たないようだ。指先ひとつ、動こうとはしない。

 世に言う「白いメリーさん」という都市伝説。世を騒がせた殺人鬼。それをこの自分が殺したのだ……。
 だが、それを目にしていてもにわかには信じられず、受け入れる事もできなかった。

 未だ……、夢の中にいるかのようだ。ここにいるのも、佐々木が死んだのも、阿部や須藤が死んだのも……、何もかもが夢の中の出来事のように、現実感が得られなかった。
 ――この世が夢でも、何ら不思議じゃないんだ。死んで初めて、夢だったと気付くのかもしれないんだから……。
 姉が、そんな答えを呟いた。
 児玉は仰向けに倒れたままのメリーを、長い事見つめ続けた。


 警戒しながら、メリーに歩み寄る。
 目が合うと、メリーは弱い笑いを見せてきた。だが、余裕のある顔ではなかった。死は確かに、半ば訪れているようだ。
 「私は……貴女に殺されたんじゃないわ。おばあさんに……殺されたのよ」
 「……おばあさん?」
 「あの人……、自分の足にナイフを刺したのよ。だから、痛くて……。向こうから伝わってくる痛みって、こんなにひどいものなの……?」
 メリーは子供のように顔をしかめて、ボロッと涙をこぼした。オリジナルから来る痛覚の伝達という事で、麻薬では抑えられない痛みだったのだ。事実、胸のナイフは生気を奪うだけのものであって、痛みは左足に強く走っているのだった。

 「ねぇ。もう私は死ぬわ」
 そんなメリーの言葉を受け止める。児玉は憎しみも怒りも忘れ、真顔で見つめる。
 「最期のお願いを……聞いてくれるかしら?」

 「何なの?」
 襲い掛かってくる気配は感じられない。絶え絶えの息も、演技ではないだろう。児玉は顔を近づけた。
 メリーの顔を、初めて静かな気持ちで見つめる。……あまりにも目鼻立ちが整いすぎている。彫像のような顔だと思った。
 しかし、それは生きている。生きているものだからこそ、なおさら美しい、と思った。
 「おばあさん……ハマのメリーが、ここに来てるのよ。このビルの下で待ってるの……」
 「ハマのメリー……? このビルの下?」
 「そう。この世に「白いメリーさん」の都市伝説を築いた……本当の「白いメリーさん」よ……。あの人が私のために、ここに来ているのよ……。だから、そこまで連れてってほしいの……」

 その程度の事なら拒絶する事もないだろう。児玉はうなずいて、周囲を改めて見回した。
 ここはランドマークタワーの屋上だ。周囲に柵やフェンスがない事から、人の出入りを想定して作られた空間ではないのがわかる。よって、出入り口が見当たらなかった。だが、大型の給水タンクのようなものがある事から、出入り口は確かにあるハズだと思った。
 「……出入り口を探してくるから」
 児玉は駆けるが、ふいに足が勝手に止まった。
 「そんな面倒な事をしなくても、すぐ行けるでしょ?」
 そういう姉に従ってみる事にした。

 さっき投げたサイフが落ちているのが目につき、拾い上げる。そしてメリーの元に戻り、膝を折った。
 その胸からナイフを抜き、放り投げる。メリーは少し苦しがり、また身体をぐったりと弛緩(しかん)させた。
 「連れてってあげるから。おとなしくしてなさい?」
 ゆっくりと、両の腕を差し出す。それが憎むべき相手であるのを思い出し、一度腕が止まる。しかし、最期の頼みぐらい聞いてやれないほど、無慈悲な人間にはなりたくなかった。児玉はおずおずと、メリーの背後に腕を這わせた。
 「別に抱きしめたいワケじゃないから。こうしないと、一緒に下に行けないでしょ?」
 後は、姉にまかせたい。気付いた時には、このビルの下にいる事だろう。

 「児玉さん……楽しかったわ。そして……、ごめんなさいね」

 意識が薄れる中、そんなメリーの呟きを聞いたような気がした。





 「大丈夫ですかっ!」
 そんな声をかけられて目を覚ます。見上げると、スーツ姿の中年男がそこにいた。
 路上だった。傍にメリーもいる。
 見える幾つかの建物のさなか、防波堤が見える。ここは海の近くなのだ。後ろを振り返ると、巨大なビルがそこにあった。横浜ランドマークタワー。今までそこの屋上で、人知れず児玉達は戦っていたのだ。

 空はだいぶ白けていた。児玉は回らない頭で、その中年男をしげしげと見つめる。よく見ると、ご老人のようだ。
 バタン、と車のドアを閉じる音。路肩に停まった乗用車から、真っ白な人が降りてきた。

 ――真っ白なドレス。腕には白い長手袋。見える肌も顔も白い。そしてつばのついた真っ白な帽子を被っていた。
 児玉は、眼前に横たわっているメリーと思わず見比べてしまう。二人ともまさしく、「白いメリーさん」だった。

 だがよく見ると、車から降りてきた白いメリーは、背をやや丸めた小柄な老婆だった。そしてどうしてか、左足が真っ赤な血に染まっていた。それがひどく痛いようで、足を引きずるようにひょこひょこと歩いてくる。
 「メリーさん!」
 老紳士は危うげに歩いて来る白い老婆に駆け寄り、両手で支えた。
 「大丈夫だから」
 老婆は紳士に連れられて、児玉達の元に来た。

 「……怪我は? 大丈夫?」
 そう声をかけられても、児玉はすぐに言葉を返せなかった。呆けた顔でその老婆を見つめる。そんな児玉を見て、白い老婆は控えめに笑った。
 「急にこんな……真っ白にお化粧したおばあさんに来られても、そりゃあびっくりしちゃうわよねぇ? ごめんなさいね……」
 遠目にはわからないが、その顔には深い皺(しわ)が刻まれている。目元には紫色の長いアイラインが描かれていた。
 包帯が巻かれた血だらけの左足を押さえながら、やや言葉に詰まっている。呼吸をゆっくりと整え、老婆はまた話し出す。
 「私はね、「ハマのメリー」と呼ばれている者なの。わかるかしら……?」
 児玉は難しい顔になる。状況が呑み込めない。この老婆が何なのか。何をしようとしているのか。そして傍にいる老紳士は?

 老婆は、うつ伏せになって倒れたままのメリーを見る。膝をついて、その横顔をしげしげと見つめた。
 メリーがうっすらと目を開ける。そして老婆の姿を見ると、口元を緩ませた。老婆も微笑みを返した。
 「……足、痛かったでしょう? でもね、アタシもずうっと痛かったの。貴女、何度も無茶したでしょう? 今はね、平気なんだけど。貴女が麻薬を飲んで痛みが伝わってこなくなったからね。でもさっきからずうっと、元次郎さんの車の中で、何度も絶叫を上げたわよ」
 老婆はメリーにそう語りかける。メリーは微笑みで応じたようだ。なお、傍にいる老紳士は元次郎、というらしい。
 「私を止めるために……、ご自分の足を傷つけたの? ……勇敢な……おばあさんね」
 聞き取れないほどか細く、メリーは老婆に呟く。
 「そうよ。本当はナイフで胸を刺そうとしたんだけど……、元次郎さんの車をあんまり汚しちゃ可哀相だから。……元次郎さんの事はわかる?」
 「何となく……ね」
 そんなメリー達の会話を、児玉と老紳士は黙って聞いている。
 「それはいいけど……。よくもまぁ……、ずいぶんと人を殺しちゃってねぇ……。本当にひどい子だよ、アンタは」
 老婆はメリーの顔を撫でるように叩いた。メリーは幸せそうな笑みを見せた。

 「元次郎さん。この子をお願い」
 老婆に従い、老紳士はメリーを両腕で抱き上げた。
 「あのッ! メリーをどこへ……?」
 児玉は引き止めようとする。

 「……大丈夫よ。私はこれから、責任をとりにいくんだから」
 そんな老婆の言葉。
 「責任……?」
 「そう。この子がしでかしてしまった罪は、あまりにも重いから……。私も勇気があれば、それを止められたハズなのよ……」
 この白い老婆が何故、メリーの罪の責任を負わなければならないのか。その姿の中に、児玉は答えを見つけた。
 この老婆こそが、横浜での「白いメリーさん」の都市伝説を描いた、張本人なのだ。そしてこの老婆は、メリーと深いつながりがあったのだ。

 不安な顔のまま、老婆達を見つめる。このまま行かせてしまっていいものかどうか、児玉にはわからない。
 老紳士は傷ついたメリーを後部座席に寝かせ、運転席に着く。老婆も助手席におさまり、児玉に視線を投げかけてくる。
 「待って下さい!」
 やっとの事で言葉が出て、児玉は車の元へ駆ける。
 「メリーは……殺人鬼なんです! とどめを刺しましたけど……、本当に死ぬまでちゃんと見届けなきゃいけないんです! じゃないと、いつまた生き返るか……」
 「大丈夫だから。私が死ねば、メリーはもうオリジナルになる人間がいないから、死ぬわ」
 「貴女が……死ぬ?」
 児玉は耳を疑う。
 「そうよ。この子は私のドッペルゲンガーだから。この子を完全に殺すには、オリジナルである私が死ななきゃいけないの。それが私の責任の取り方よ。そして白いメリーのお話も、そこですっかりおしまいになるわ。この世にはもう……、残らない」

 言葉を失った児玉を見て、老婆はまた控えめな笑みを見せた。
 「……だからこそ、わざわざこんな格好をしてここまで来たんだから。……心配しないで頂戴?」
 「でも、死ぬだなんて……」
 「いいのよ。今まで、私は生きたいように生きて来たんだから。もうすっかり満足なの。楽しい人生だったわよ。本当に……」
 老婆は隣の老紳士に肩をぶつける。老紳士もつられて微笑んだ。


 そうして車は走り去った。
 児玉は長い事その場に立ち尽くした。周囲を不思議な顔で長々と見回した後、よろよろと、近くにあったベンチに腰を下ろした。

 「終わった……よね?」
 傷つき、汗まみれになった身体。両手を見ると、ぼろぼろに皮が擦りむけて、血が滲(にじ)んでいた。服を脱げばきっと、打撲のアザや切り傷などが身体じゅうにあるだろう。
 だが――生きている。
 自分だけが、生き残ってしまった……。

 うなだれて、放心する。
 何もかもが、終わってしまったらしい。
 こうして気付いてみると……、また一人ぼっちになってしまっていた。
 「佐々木さん……」
 信頼できる力強い支えを失ってしまった。児玉は、これから一人でどうやって生きていけばいいのか、わからなかった。

 長い間、その場に居続けた。次第に場はすっかりと朝を迎え、人や車の行き来が多少ながら目につくようになった。
 「これからどこ行けばいいのかな……? すっかり自由になっちゃったのかな……?」
 サイフの中の紙幣は数えるまでもない。数日暮らせば無くなる額だ。
 だが、佐々木にしつこく薦められたギャンブルをしてまで生きていこう、という気力は湧かなかった。そんな卑しい事をして生きていくぐらいなら、死んだ方がマシだと思った。
 しかしこの先、お金が無くては生きていけるハズもない。児玉は新たに湧いた不安に、途方に暮れてしまうのだった。


 ――ビーッ! ビーッ!
 突然のクラクションに児玉は飛び上がった。
 「はいは〜い! いたいた〜! 児玉ちゃ〜ん! ヤッホー!!」
 タワー前の道路をゆるゆると走ってくる軽自動車。車窓から手を振ってくる、見慣れた二人。……ミユキとアヤカだった。
 「……どうして……?」
 立ち上がって、呆然と見つめる。
 ミユキ達の訪れが信じられない。どうしてここにいる事がわかったのか。また蝶の導きがあったのか……?
 しかし実際はそうではなかった。「メリーと言えば横浜」というアヤカの単純な発想で、東北の地からわざわざ夜通しで数時間かけて、ここまで車でやって来たのだ……。

 とにかく。自分にも信頼できそうな仲間が、まだいたようだ。
 二人の笑顔が見えてくるにつれて、児玉はぼろぼろと泣き出した。


― エピローグ ―


 それから数日間、児玉はミユキとアヤカと三人で、近くの温泉などに寝泊りして過ごした。
 その間、酒を飲んで語られた事だが……、ミユキとアヤカはデリバリーの風俗嬢をしていた、という話だった。だから金使いも荒く、出勤などもいい加減で良かったらしい。
 そんな二人を、児玉は真剣に叱った。酒を飲んでの事もあったが、「そんなんじゃダメなんです!」と夜を徹して、説教し続けた。
 そしてついに、二人にその仕事を辞める決心までさせてしまったのだった。

 近辺の温泉をあらかたハシゴし終えた後、児玉は一旦、ミユキ達と別れる事にした。
 家族に会いに行く決心を、やっと固めたのだ。

 近くの駅まで車で送ってもらい、児玉は佐々木の形見となったギヤ・バッグを背負った。ミユキ達が児玉達の荷物も持って来てくれたのだ。廃工場での件も、警察に匿名で通報済みだという。
 「実家まで車で送ってあげるのにさぁ〜……」
 そういうミユキ達に、児玉は笑顔で首を振る。
 「旅行気分で、ゆっくり帰りたいので。大丈夫ですから。終わったらまた連絡します」
 「そ〜お? じゃあ気をつけてね〜……。ホント連絡してよね〜?」
 アヤカがそう念を押す。
 「えぇ。宝くじの事もありますし、お二人にはこれからもお世話になると思いますので……」
 児玉はギャンブルではなく、宝くじで収入を得る事にした。くじが簡単に当たるのは、既に確認済みだった。二人に世話になる、というのは宝くじの当選金を受け取る時の手続きなどだった。免許証や住所等がきっと必要になるからだ。
 「いやいや、アタシらこそ……えっへっへ。おこぼれにあずかりたいものですわぁ」
 ミユキがふざけてもみ手を見せる。だが児玉のヒモになる気はなく、その辺はわきまえていた。まして宝くじなど、そう何度も当たっては不審すぎる。ほどほどにしておかなくてはならないだろう。
 「イヤな感じ〜……?」
 児玉もおどけて顔をしかめる。児玉の活き活きとした顔を見て、アヤカは感心してしまうのだった。

 「メリーを倒しちゃって……ふっきれたのかな?」
 駅の構内に入り、児玉は切符を買う。アヤカがふとその背に問いかける。メリーを倒す以前の児玉は、こんなに明るい感じではなかった、と思ったからだ。
 「……そうですね。そうかもしれません。それに、佐々木さんが最期に言ってくれた言葉をムダにしたくない、って思ったんです。だから……めそめそしてちゃダメだなって思って」
 「何て言ったの? 佐々木さん」
 アヤカは真顔で聞く。児玉は笑顔で答えた。
 「……私を忘れないでって。そして、メリーを倒した後も、精一杯生きてって……」

 この先。消える運命にある、という児玉の事を思い、アヤカとミユキは眼を伏せてしまった。
 「あ。全然、大丈夫ですよ! 佐々木さんと一緒ですから!」
 児玉は佐々木のギヤ・バッグを叩いてみせる。中はちょっとした着替えの他は、ほとんどカラッポだった。不要なブランド品などは、ミユキ達にあげたのだ。
 改札前の電光掲示板を見上げる。乗る線は、この駅にほどなく到着するようだ。
 「じゃ、また」
 「うん!」
 手を振り合うだけにしようと思ったが、アヤカが児玉の手を握ってきた。すぐに会う約束をしても、児玉がいつ消えてしまうか、わからないのだ。ミユキも手を乗せ、三人ではしゃぎながら手を握り合った。周囲の人込みの不審な目に気づき、三人はぱっと離れる。
 児玉は改札をくぐり、二人に手を振って消えた。
 一瞬でその姿を見失い、ミユキとアヤカは思わず息を呑んだ。だが、やや離れた所から児玉がまだ手を振っているのが見えて、二人は改札から身を乗り出して、大仰に手を振り続けた。


 ホームに電車が滑り込んできた。この昼の時間、乗客はかなり少ないようだ。
 寒いのに、何故かコーラが飲みたくなって、近くの自動販売機で買った後、児玉は電車に乗った。
 座席につき、膝に抱えたギヤ・バッグのジッパーを開ける。中に入っていた文庫本。それは佐々木が読んだものらしい。読みかけのままだったのか、終わり近くのページに目印の折り目がついていた。
 電車がゆっくりと動き出す。
 「さて」
 ギヤ・バッグを足元に下ろし、児玉は佐々木になった気分で、文庫本をめくり始めた。
 
 だが数駅を過ぎると、嘘のように乗客が増えてきた。児玉はギヤ・バッグを膝に抱え、窮屈に本を読まざるを得なくなった。
 やがて新しい折り目をつけて、本を閉じた。そして眼を閉じ、佐々木の事を思った。

 優しくて、楽しくて……力強いお姉さんだった。
 この先、短く限られた命であっても、悲嘆に暮れたりはしない。精一杯生きる事は、佐々木との約束だ。

 それからいつしか眠りに入った児玉に、姉はそっと声をかけた。
 ――タカコ。アタシはアンタの中にいる。アタシとアンタは、一つになりつつあるんだ。
 ――だから、アンタは死なせない。消滅なんか、させない。この世の摂理に反していようが、アタシがアンタを絶対に死なせないから……。
 
 児玉を暖かな空気が包み込む。
 児玉は眠りの中、幸せな夢を見始めていた……。



 (白いメリーさん 完)


●あとがき

 2007年9月9日。書き終えました。
 書き始めは2003年7月23日(メモってました)。なんと4年もかかってしまっていたとは……! 自分でも驚きです。……と言いますか、これはかり過ぎだと思います。えぇ。

 途中、やたら苦しいところがあったりしました。後半はもう全然スイスイいかなくて。書き始めるまでが大変でした(難しい宿題をやるような感覚)。一旦書いてもすぐに公開するのが不安で、数日寝かせたりもしました。

 ……でも何とか書き終わるものなんですね。書き終わるまでに事故で死んだらどうしようとか、変な事まで考えたりしていました。メリーの事ばかり考えていた時期もあったような気がします。

 児玉と佐々木とメリー。その三人をうまく書ききれたかどうかはわかりませんが、やっぱり最後は児玉が主役だったんだなぁと自分でも納得してしまいました。
 佐々木についても死なせるかどうか、結構迷ったんですが。でもあんまり甘い物語にはしたくなかったので、あぁなってしまいました。メリーの最期もどうするか、ホント自分でも最後までわからなかったですね。

 なお、ラストシーンのイメージBGMは岡村孝子さんの「電車」です。タカコつながり、は偶然です。
 加えて、本編中のイメージBGMは天野月子さんの「蝶」です。
 良かったら、聴いてみて下さい。もちろん、僕の勝手なオススメなので、誰かにそう認められたとかそういう事ではないんですが……。

 それでは。最後の最後までお読みいただきまして、真にありがとうございました。
 感想などをいただけると非常に嬉しいんですが、未読の方のために、ネタバレにはご注意してくださいね。(掲示板では見えにくい黄色の文字での書き込みは、ネタバレOKです)

 書き終えた今。幸せで胸がいっぱいになってます……。
 ホント、書き切る事ができないのではないか、と思ってましたので。伏線やら何やらがパズルみたいで難しかったですね……。
 次に何か書くとしたら、もう少しわかりやすい物語を書きたい、と思います。ドッペルゲンガーやら何やらが、複雑すぎました。

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