60話〜79話



― 60 ―


 佐々木達は突然の事にどうしていいかわからず、ただ、震えた。
 今、目の前にしているものが、どうしても信じられないでいる。

 須藤が口を出す。今は人間として生きている、須藤のドッペルゲンガーだ。
 「……ほら、もう高速道路に乗ってしまったから、車からは飛び降りたりしない方がいいね。大怪我するよ?」
 佐々木達は言われるままに、窓の外を見る。飛ばしている車の流れが目につく。確かに、飛び降りようとは思わない。

 「ごめんなさいね。こんな会い方はどうか、と思ったんですけど、お二人に無駄な時間をとらせても仕方ないと思いまして。……それにしてもお久しぶりね? ……よくは覚えていませんけど」
 メリーは乾いた笑いをあげる。それが二人の胸を突いた。
 ――真っ白な、人形のような化け物。それが今、手を伸ばせば届く、傍にいる……。
 いや、手を伸ばされれば……為すすべなく殺されるところに、自分達はいるのだ……。

 ……あろう事か、これから数時間かけて会おうとしていたメリー達と、突然の対峙(たいじ)を迎えている。
 しかも、車の狭い室内だ。動きがとれないし、逃げる事もできない……。
 二人は荷物を胸に抱え、縮こまってよりそうしかなかった。 

 そんな佐々木達を見て、須藤が笑いをあげる。
 「……いやぁ、ちょっとしたお遊びのつもりだったけど、そんなに驚いてもらえるとは思わなかったよ。……それにしても、よく僕らに会おうなどと思ったものだ。君らにあるのは行動力だけで、先行きはあまり見えていないのかな?」
 「……何よ。ちょっと、須藤さん! 裏切ったの?!」
 佐々木がやっと顔を上げ、声を張り上げる。
 「……いいや。裏切るなんてとんでもない。僕は君らとは初対面だよ? ……どういう事か、まだわからないのかい?」
 そこでまた、背後から鈍く、ドンドンという音が聞こえてきた。
 ……トランクの中からだ。
 「気付いたかい? 君らと会った須藤、ってのはそのトランクの中だ。もっともひどく痛めつけてはいない。僕にも関わる事だからね。手足の自由を奪って、眠らせていただけだ。今、目を覚ましたようだけどね」

 ――頼みの須藤は、既に捕らわれていたのだ。
 「もう、ダメなの……?」
 児玉はなお一層、縮こまった。

 「いや、そうでもない。僕らは君らをどうこうしようとはあまり思っていないんだ。……それより、メリーさんが君らに頼みたい事があるんだよ。話を聞いてやってくれないか?」
 「頼みたい事……?」
 佐々木は怪訝(けげん)な顔になる。
 
 メリーがまた、にこやかな顔を見せてくる。
 「……佐々木さん、貴女の持っていた麻薬があったでしょう? 私、あれが気に入ってしまったんです」
 「麻薬……?」

 そう言われ、すぐに思い当たった。以前、メリーにあげたペンダントの中にあった、エンジェルダストだ。自殺用として、自分の胸に下げていたのだ。一息に飲めば頭が沸騰して死ねる、と売人から聞いた記憶がある。数万円で買った。……もっとも、効果は期待しておらず、お守り程度のつもりだったが、メリーが舐めた時、異常な行動を見せたのでそれは本物だったのかもしれない。
 「そんなもの……どうするのよ?」
 多少、意気が戻ってくる。佐々木は強気で聞き返した。
 「舐めるんです。あの幻覚作用がとても気に入ってしまったのね」
 そしてメリーは口元に手をやり、指を遊ばせる。アワを噴いた事を覚えていて、それを模しているのだろう。

 佐々木は呆れてしまった。
 「麻薬ね……? 話ってのはソレなの?」
 「そうよ。佐々木さんにとって、それは簡単な事なのかしら? だったらぜひ、お願いしたいんですけど……?」
 「忘れちゃったわね、そんな物。どこで入手したかなんてさ……。どっかのクラブで声かけられて……そんなところだったかしらね」
 そう聞き、メリーの顔は一瞬にして曇った。
 「……佐々木さん。もっと真剣に思い出した方がいいんじゃないかしら? 貴女の強気は、全く意味をなさないものよ? だって、人間の強気だなんて、形だけなんですもの。……あっさりと、死ぬでしょう? 貴女達は」 
 メリーの脅し。だが、佐々木は落ち着いてその目を見つめ返した。
 「……何度か、アタシの記憶を消したわよね? まず初めに、高校の時。そして、数年前……。だからさ、重要なところをアンタに消されちゃったのよ、多分……」

 メリーは口を閉ざしたまま、やや冷ややかに、佐々木を見つめ続ける。
 場の空気を壊すように、須藤が笑いをあげた。
 「それは残念だな。君らが麻薬を探し出して来てくれれば、事は済んだかもしれないのにな」
 「何で化け物のお使いなんかしなきゃならないのよ……」
 佐々木は目を細め、険悪な顔を見せた。

 変わって、メリーが表情をやわらげる。
 「……覚えていないものは仕方ないわね。でも、努力もして下さらないのかしら? 化け物のお使いは、死んでも嫌?」
 そうよ、と言いかけ、ここで命がかかっているのが自分だけではない事を思い出し、佐々木は口をつぐんだ。
 ……自分だけであったら、こんな話は呑まなかったし、元々、メリーなどには会いに来なかっただろう。でも今は事情が違うのだ……。

 「……私の運……?」
 そこで児玉が小さく呟(つぶや)いた。
 佐々木が聞き返す間もなく、車は速度を緩めた。……緩めざるを得なかったのだ。

 ――車の渋滞。
 この先で事故でもあったのか。
 帰省の時勢でもないこの今。高速道路という特異な場所で、車を停めねばならないほど渋滞するのは奇跡に近い。
 交通整理員が数人、前方で旗を振っているのが見える。確かに、この先で何か起きたのだ。

 「佐々木さん!」
 車が停止したのを見計らい、児玉は叫んだ。……逃げるなら、今を逃して、後はない。
 二人はお互いの荷物を手早く掴み、ドアを開けて迷わず車から出た。
 「誰が化け物の言う事なんか聞くってのよッ!」
 佐々木は開け放ったドアを乱暴に蹴る。勢いで止め具部分が破損し、そこはガタガタになった。

 「佐々木さん! トランクに須藤さんが!!」
 「あ、そうだね!」
 佐々木は自分の怪力を信じて、トランクを思い切り殴りつけた。
 ベシャリとへこみ、フックが壊れて一発でそれは開いた。
 「痛てて……」

 確かに、トランクの中に須藤がいた。ロープで腕や足を巻き固められ、口にタオルでさるぐつわをされている。
 「……須藤さん……」
 児玉は身を乗り出し、急いでロープなどを外しにかかる。……でも、硬すぎてほどけない。
 「アタシがやるから!」
 佐々木は無造作にロープを引きちぎる。
 その横に、メリーが音もなく、立った。

 「佐々木さん! メリーさんが……!」
 そんな児玉の叫びも、後続の車からのクラクションにより、かき消される。罵声も飛んでくる。
 幸いな事にメリーはまず、そちらに反応を見せた。涼やかな顔でゆっくりと歩み寄って行く……。
 ――止めなきゃいけない。でも、須藤を助け出すのが先決だ、と佐々木は急いだ。

 「あんまり、乱暴はしたくないんだがね……」
 運転をしていた須藤の影も、車を降りてくる。ナイフを手にし、児玉を狙ってくる。
 「いやっ! 来ないで……!」
 児玉はナップザックを振り回し、必死の抵抗を見せる。
 「ははは。いい反応だ……」
 須藤の影はいやらしく笑った。久々に得る、殺しの感覚を思い起こしたのだ。

 「下がっていてくれ」
 児玉の肩を引き、その前に須藤が立った。口元のタオルを外し、縛られていた体をもみほぐす。
 「……我ながら情けなかったな」
 須藤の影は更に楽しげに笑い、自分のオリジナルを見つめた。

 須藤は苦笑いし、首を振る。言い訳できない、としたところだ。
 「……ここで話しあいもないだろう? ここはお互い、一旦引き上げないか?」
 後続車が詰まっている。明らかに自分達は、交通の妨(さまた)げになっている。
 「……だろうな。いいだろう」
 須藤の影はにこやかに笑い、須藤は変わって険悪に睨み返した。どうあっても、いずれは決着を付けねば、自分自身と家族は取り戻せない。

 改めて前方を見ると、やはり事故のようだった。
 大型トラックが中央分離帯に突っ込み、フェンスを無残に潰している。その周囲に交通整理員が立ち、懸命に旗を振っている。車は徐々に、トラックの脇をすり抜けて流れていく。


 一方、佐々木は、メリーがここで人を殺したりするんじゃないか、と思って後を追ったが、その心配はどうやら要らなかったようだ。
 メリーはただ、後続車の並ぶ最中をゆっくりと歩いて行く。
 メリーの姿を見て、クラクションを鳴らす者が徐々にいなくなる。何事かと目を見張ったり、運転席で縮こまる姿も見える。

 その最中。ふいに、メリーは振り向いた。佐々木は真っ直ぐに見つめられる。
 「……佐々木さん。貴女の失った記憶というのは、もうどこにも無いものなの。そんなものを保存しておく場所なんてないんですから。……そして、一旦失った記憶を取り戻す、なんていう事も、私には出来ないの。……そんなデジタルなものじゃないでしょ、人間というものは……?」
 そう言われ、佐々木は「そうね」と短く返す。
 メリーは、自分達が会いに行こうとした目的を知っていて、それが果たせない事を、言っているのだ。

 「一回変えてしまったものは、戻せないという事ね。……その辺、児玉さんとも充分に話し合ってみて下さいませんか? それでもなお、私に話があるというのなら聞かせて戴きますけど?」
 「そうね……」
 ふいに襲ってくる寒気。……記憶は戻せない、とはっきり言われてしまったのだ。自分と児玉の望みは断たれてしまったワケだ……。
 「……ねぇ。貴女を殺しても? やっぱり戻せない?」
 そう聞いてみる。
 メリーは顔を輝かせて笑った後、頷いた。
 「……そうね。私を殺したところで、貴女達はきっと、何も変わらないわ」
 「そうなんだ……」
 佐々木は静かに受け入れる。

 「じゃあ、こんな落ち着かない所じゃなく、また改めて会いましょう? もっとも今後、そちらに用事があるかどうかはわかりませんけど?」
 「そうね……」
 また会うかどうかはわからない。でも、何らかの決着がつかないまま、このままメリーを野放しにはできないと思った。

 「……あぁ、そうね。もし私を殺したら、人間には戻して差し上げます。……じゃないと、貴女達も張り合いがないでしょう? 私も少しは張り合いが欲しいような気がしますからね……」
 ……殺されてみたい。メリーはそう、微かに願っているのか……。

 そしてメリーは消え去った。

 「おい。これ以上ここに居てもしょうがないだろう? せめてインターまで送っていくよ。さぁ乗ってくれ」
 須藤の影はお互いの立場を無視して、そんな提案をしてくる。
 「……冗談じゃない。誰がお前の車になんか乗るか」
 須藤は影を見据え、拒絶する。
 「じゃあ好きにするんだな」
 そう言い捨てたが、壊れたトランクと後部左ドアが歪んで閉まらなくなったのを確認して、須藤の影は顔色を悪くした。
 「……やってくれたよ。まいった……」
 影は車に乗り込んだかと思うと早々にあきらめ、車を路肩に停めて乗り捨てた。そしてその先を徒歩で歩いていった。

 後続車も流れ出す。
 須藤と佐々木達は道路脇の路肩に避け、そこで一息ついた。
 「……すまない。助けてもらってしまったな……」
 須藤は、佐々木と児玉に申し訳なさそうに詫びる。
 「すごく頼りにしてたんですけどね〜?」
 佐々木は意地悪くそう言い、声を上げて笑った。

 「佐々木さん。さっき、メリーさんに何か言われました?」
 ふいに児玉にそう聞かれ、佐々木は思わず嘘をついた。
 「……あ。麻薬見つけて来いってうるさいから……、小麦粉でも舐めてろって言ってやった」
 「え〜……?」
 児玉は素直に信じて感嘆の声を上げる。

 「ところで、僕らも歩いて行くしかないね。その辺に緊急用の電話でもあるだろうから。迎えに来てもらおう」
 「ヒッチハイクはどう? アタシが太もも見せるから」
 そうおどけるが、佐々木はズボン姿だった。
 「高速道路でヒッチハイクか。危険すぎるな」
 苦笑した後、「急ごう」と須藤は先を指差す。佐々木と児玉も荷物を手について行く。
 「あ、あの交通整理のおじさん達に、近くのインターまで乗せてってもらわない?」
 「仕事の邪魔をしちゃいけないな」
 佐々木の自己中心的なアイディアに、須藤は首を振る。

 児玉は不思議な気持ちで、事故を起こしたトラックを眺める。
 これが自分の運で引き起こされた事故だ、と思うのは傲慢(ごうまん)かもしれない。でもお蔭で、こうしてこの場はうまく乗り切る事ができたのだ。不運な運転手には悪いが、感謝しなくてはいけない。せめて、怪我がありませんように、と祈るのだった。

 そんな中、佐々木はぼんやりと、しかし真顔で考え続けた。
 ――変えてしまった記憶は元には戻せない。
 そうメリーに言われてしまったのだ。
 言われたばかりで実感が湧かないが、もしかすると最悪の言葉を言われたんじゃないか、と頭を悩ませるのだった。


― 61 ―


 幸いにも、さほど歩かない内に案内板が見えた。次のサービスエリアまで数キロ。とりあえず佐々木達はそこまで歩いて行く事にした。

 「一時はどうなる事かと思ったけどね〜。何? あれって、児玉ちゃんの運なの?」
 佐々木は、高速道路で渋滞を引き起こしていた、事故の事を言っている。トラックが中央分離帯のフェンスに突っ込んでいた事故だ。渋滞を見て児玉は思わず、「私の運?」と呟いた。それを佐々木は耳にしていたのだ。
 「いえ! ちょっとだけそんな気がしただけです……。あれが私の引き起こした事故だ、なんてやっぱり考えたくもないですから……」
 「あはは〜、そうよね〜。そう思いたいよね〜。……でもさぁ、こんなにタイミング良く、事故なんか起こると思う? ましてやさぁ、あの事故無かったら、アタシらメリーとかにどっか連れてかれてたよ? それこそ、逃げらんなかったと思うなぁ……」
 「いいえ。私の運じゃありません、あれは。多分、運転手の居眠り運転か何かです」
 児玉は一転して、拒絶にかかる。
 須藤は何か言うでもなく、そんな二人の会話を苦笑しながら聞いている。
 そして自分のドッペルゲンガーが離れた前方にいる事を確認しながら歩いてきたが、今気付いてみるとその姿は掻き消えていたのだった。

 そうこうしている内に、目的のサービスエリアに到着した。
 徒歩となると、高速道路からサービスエリアへの分岐路ですら、やたら長い。数キロ、の判断が甘かったようで、そこに辿り着くまでに三人はへとへとになっていた。
 
 やたら広い駐車場を抜け、小高い階段を上る。そして休憩所のドアをくぐり、椅子に着いて一息ついた。
 「疲れたぁ〜……」
 須藤が差し出してきた缶コーヒーをありがたく受けとり、佐々木と児玉はほとんど一息で飲み干した。外は寒く、体がやや温まっている今、ぬるめが丁度良かった。
 「タクシーでも呼ぶかい?」
 そんな須藤に、佐々木は「お金もったいなぁい」と返す。そしてちょっとした提案を切り出した。
 「この休憩所の裏、森になってるみたいだけど……、抜ければ公道に出られるかもよ?」
 「え? あはは。場所によっては抜けられるかもねぇ……」
 須藤は軽く聞き流す。

 「ね〜、お昼ご飯にはまだ早いよね〜……。お菓子でも買ってこ?」
 そして佐々木は売店に身を乗り出した。佐々木はバッグを椅子に置きっ放しにしたので、児玉は腰を落ち着ける事にした。リュックを背から降ろし、ぼんやりとする。

 「……頼りなかったねぇ、僕……」
 ふいに須藤が話しかけてくる。児玉はその苦笑を見、自分も笑みを返す。
 「須藤さん、ご自分のドッペルゲンガーをやっと見つけたんですよね……。これからやっぱり、追いかけて行くんですか?」
 「うん。そうなるね……」
 須藤は少し目を伏せる。

 児玉は、あの晩聞いた須藤の身の上話を思い出す。
 夜の空に飛び出した佐々木の蝶の後を追い、須藤と初めてあった時の事だ。廃倉庫の奥で、明け方まで話をした。そしてお互いが似た境遇にある事を理解しあった。
 須藤はある時、メリーを呼び出してしまった事により、その家族全員がドッペルゲンガーに入れ替えられてしまった。そして同時に、家族らの所在がわからなくなってしまった。……だから須藤は、時折見える自分のドッペルゲンガーの視点を追い、メリーらを捜し続けて来たのだと言う。

 「……ホント、歯が立たなかったね。来るのは事前に何となく分かってたんだよ。でもメリーが一緒に来る事までは予測出来なかった」
 「それに、会えば会えたで何とかなる、と今まで思ってたんだな。……全くして甘かったよ。話なんか何一つ通じない。それに、あんなのはとても殺せる相手じゃなかった。化け物だもんな。僕が今、こうして生かされているのが不思議なくらいだよ……。それも、ちょっとした気まぐれにすぎないような気もしたね。その気になれば、僕のドッペルゲンガーもろとも、僕なんか殺すだろう……」
 溜まっているものを吐き出すようにそう言った後、ため息をついて顔をしかめた。メリーとやりあわねば家族を取り戻せないのだとしたら、須藤にとっては絶望的だ。

 児玉としても、メリーとこの先戦わねばならないのだ、という考えは持ちたくなかった。
 今はそんな必然性は全く無い。でもいずれはそんな必然に迫られるのだとしたら、一体どうすればいいのだろう……?
 でも、その時は戦うのではなく、全てをあきらめる時なんじゃないか、と思うのだった。

 「ねー、ちょっと〜……何暗い顔して深刻な話してんの〜? 誰かの葬式でもあった?」
 佐々木は袋いっぱいに、お菓子からおつまみやらを買い込んでいた。早くもその一つを開け、細切りのするめを噛んでいた。児玉と須藤も手渡される。
 「ホラ! これとかも、おいしそうでしょう〜? 牛タンだよ、牛タン。お酒のおつまみ〜」
 「お?! いいね〜……僕も買って来ようかな? でも高かったろ」
 須藤もおどけて身を乗り出す。
 「まぁね〜……。で今晩さ、宴会でもやりましょうか? 無事の生還を祝って! 須藤さんもアタシ達と一緒に泊まります?」
 「え?! ……いや、何言ってんの。別に僕はいいよ……」
 一転して逃げ腰になる須藤に、佐々木はなおも食いかかる。
 「また〜……どうせ行くトコ無いんでしょ? 一応アタシら、仲間みたいなもんじゃないのかな〜って思うんですけど。ねぇ、児玉ちゃん?」
 「え?」
 急に話のほこ先を向けられても、どう言っていいか児玉はわからない。するめを手にしたまま、真剣に悩み始める。

 「いや! ホントにいいって。遠慮しとく。一応、僕は妻子持ちなんだよ? まぁそれはともかく……じゃ早いトコ、裏から出よう。で、公道に出てから、お互いタクシーを呼ぼうか。その方が安く済むよ?」
 別行動する、と須藤は遠回しに言う。
 「アレ? 須藤さん妻子持ち? あらぁ、そうですかぁ……。まぁいいですけどねー……。でも何かあったら、すぐ助けに来て欲しいですね〜。女二人じゃとっても心細いもんですから」
 「まぁそう言う事ならね……、わかった。何とかするから」
 そして三人は休憩所を出て、人目につかないように裏の方へと周り、林の中を歩いて行こうとした。

 「ところであの……この近くのタクシー会社の電話番号ってわかるんですか?」
 そんな児玉の一言で、また三人はサービスエリアの休憩所に戻り、電話ボックスの電話帳を調べるハメになった。
 そして調べている内に、この場の地名の事や、どこまで迎えに来てもらうか、などの必要事項も浮き彫りになってきた。 
 そして結局は、名前がわかっているそのサービスエリアまで、タクシーを呼んだのだった。





 阿部はその日、会社を休んだ。
 数年勤めて、初めてのサボリだった。

 何をするでもなく、車を飛ばしている。夜半明けから昼にかけて、そのあてのないドライブは続いていた。
 だがいつまで経っても、気持ちが晴れる事はなかった。
 そもそも、自分が何を苦にしているのかも、まるで見えていない気がしていた。

 見知らぬ土地の、国道沿いの開けた休憩場に車を停め、一息つく。他の車はまばらだった。
 熱い缶コーヒーを、寒い外のベンチで飲む。
 そしてしばらく、無心で呆けた。

 ――自分がドッペルゲンガーである、という事の苦悩。
 それに、自分が今、こうして苦しめられているのか、と気付いた。苦悩の本質はやはり、自分の中にある。

 過去。ワケがわからなくなるくらいに、人を理不尽に殺してきた。
 その懺悔、後悔を自分はしたいのか。しなくてはならないのか、と思った。

 この寒さの中、死ねるのならいつまででもこうしていたい。
 そう。もしかすると自分は、死にたいのかもしれない。
 このまま、一人で寂しく……。

 
 でも結局は車に戻り、軽くヒーターを点けたりする。
 このまま、全てを投げ出して死ぬのもいい。……でも、それではあまりに中途半端すぎるのではないだろうか?
 ――死ぬ事などたやすい。いつでもできる。
 そうじゃない。自分は今置かれている状況をちゃんと把握して、自分にできる最大限の事を、しなくてはいけないんじゃないだろうか……?

 そして。
 「白いメリーさん」という奇怪な存在の下僕同然に生きている自分が、本当に間違っていないのか、考え直す必要があるのではないだろうか?

 視界がまた、反転し始める。目を閉じて、それを遮った。
 ……何もかもが、まだわからない。
 自分の取るべき道、というものが、今はまるで見えない。
 自分には、何も無い。何の能力もチカラも無い。生きる価値も生きがいも、指針さえも無いのだ……。

 (このまま、くだらなく、生きて行くのか僕は……?)
 今。本当に人間になりかけているからこそ、自分は苦悩しているのだ。今は、自力で乗り越えていくしかない……。耐えていくしかない……。
 一応、今はそう結論づけておく事にした。

 そして阿部はまた無心に、見知らぬ先に、車を走らせて行く。
 ……でも、耐え続けるのが正しいとは限らない。
 阿部は、行けるだけ遠くへ行こう、と思った。昨日までの自分に戻れなくなるくらい遠くへ行けば、きっと戻る事にあきらめがつく。その時、新しい、違った何かが見えてくるんじゃないか、と思った。


― 62 ―


 国道沿いの、そのコンビニの駐車場の隅に、数時間エンジンを噴かしたままの車が停まっていた。
 その車の運転席で寝ているのは、阿部だった。
 室内がヒーターで温まっている。阿部は二時間ほどの短い眠りから覚めた。
 「やっぱり馬鹿だな、僕は……」
 見知らぬ視界を見てつぶやく。
 阿部は、昨日までの自分を切り捨てて、見知らぬ遠くの地へ逃げて来たのだ。それも際立った理由もないまま。

 携帯電話の時刻を見ると、朝の7時を回っていた。普段なら、会社に着こうかという時間だ。
 ……でも、捨てたのだ。もう、会社へなど行かない。人間として普通に生きる事に、疲れてしまったのだ。

 後悔と不安が入り混じる中、阿部は携帯電話の電源を切った。今朝は無断欠勤のため、会社からの連絡があるだろうからだ。壊そうかと思ったが、そこまでする必要もないだろうと思いとどまる。


 そのまましばらく考え込む。
 今から、全く新しい人生が始まる。人生、というのは大げさかもしれないが、昨日までの自分を切り捨ててしまったのは確かだ。
 もう戻る気はない。
 そればかりでなく、阿部は自殺も考えていた。特に大きな失望などがあったワケではないが、生きる意味を、ここで完全に見失っていたのだった。
 ……そう。生きる意味はない。しかし、自分が今まで行ってきた事を見つめ直し、それを「崩壊」させる事は必要だと思っていた。
 そして自分はそれにより、死ぬのかどうか、見届けたかった。
 ――阿部は今、大きな賭けに出ていた。
 数日かけての大きな賭けだった。でもきっと、それの崩壊は無理だと思った。だからせめてひと時の歪みをもって、阿部はそれに自らの死をたくすつもりだった。


 サイフを持ち、コンビニの店内に入る。
 「おはようございますー」
 店員の出迎え。多少気恥ずかしくなる。自分が駐車場の車で寝ていたのを知っているかもしれない。
 トイレに行った後、サンドイッチと缶コーヒーを買い、車に戻った。

 ゆっくりとそれを食べる。
 「何してるの、阿部さん?」
 いきなり背後から声がかかり、阿部は大きく前のめった。

 あわてて後部座席を覗くと、そこに華やかな白いドレスがあった。メリーだ。狭い後部座席なので、メリーは窮屈そうに膝を曲げている。
 「……メリーさん……驚きましたよ……」

 「阿部さん、昨晩帰って来られなかったようですから、須藤さんが心配してらしたんです」
 「それはすみません……」
 今になって阿部は、須藤とメリーの事を完全に無視した行動に出ていた事に気付いた。

 「……それに、私も不安だったんです。阿部さんって他の方と違って、私からは見えにくい方ですから。なおさらね」
 「と言いますと?」
 「阿部さんは人間と入れ替わってから、かなり年月が経っているようですから。今はほとんど人間になりつつありますね?」
 「……まぁ……そうかもしれません」
 自覚はあった。だからこそ、自分は過去の過ちなどを思い起こすと、胸が痛むのだ。

 メリーは抑揚もなく続ける。
 「私は、あまり人間の事が見えないんです。どの辺にいるのか、感じる事ができないんですね。せめて電話を通さないと。……最近の阿部さんは様子がおかしかったし、昨晩出かけたまま戻って来ないのもちょっと不安だったものですから」
 阿部はメリーを見て、改めて自分は化け物の仲間なのだと思った。
 「さっき、ちょっと寝たでしょう? そこで阿部さんが無防備になったから、見えたんです。あまり良くない夢を見たでしょう?」
 「……かもしれません……」

 メリーは、助手席シートの上のサンドイッチの残りを見つめていた。気付いて、阿部はサイフを握る。
 「あの、何か買ってきますか? 美味しそうなもの、という事で?」
 「えぇお願い」
 多少茶化したつもりだったが、メリーは冷ややかな表情を崩さなかった。阿部は、無断であの場を逃げ出した事で、メリーを本気で怒らせてしまったようだと気付いた。

 ……やはり、戻らなくてはならないのか?
 でも戻ったとしても、もう人間と同様の暮らしをするのはご免だった。会社で愛想を振り撒き、懸命に頑張るのはもう、馬鹿らしかった。
 人間に言わせれば、今の自分はただ「勤労意欲を失っただけの無気力人間」にすぎない。……しかし、それは自分には当てはまらない。根本から間違っているのだ。自分は元々、人間ではないのだから。ドッペルゲンガーという、人間とは違った生き物なのだ。

 ――「破滅願望」が、ふつふつと湧いてくる。
 メリーや須藤の言動にも表れていたそれから、やはり自分も逃れられないのかもしれない、と阿部は思った。





 昼近くまで、その不毛なドライブは続いた。
 助手席のメリーはいつしか眠っている。気の利いた話もできずにいた自分のせいだろう、と阿部は自分をなじる。

 CDをまた入れ替え、静かに流す。
 ――夜のようだ、と思った。

 胸の中が冷えすぎていた。阿部は車を停め、自動販売機で暖かい缶コーヒーを買った。メリーに問いかけたが返事は無かった。
 「そろそろ帰ります」
 この場から須藤の待つあのアパートまで帰るのに、どれだけ時間がかかるかを思うと気力が萎えた。しかし行く場所もなく、こうしてメリーについていられたのではどうにもならない。戻る以外にないのだ。

 「……阿部さん。阿部さんは私の事がお嫌いなんですか?」
 ふいにそう聞かれる。
 「どうしてそう思うんです?」
 努めて冷静に、そう答える。

 「サイトを閉じてしまいましたよね? 私の都市伝説を流すためのサイトを。どうしてです?」
 単刀直入に聞かれ、同じように返そうと思ったが、一応言葉を選んだ。
 「……興味が薄れてしまったんですよ。急に」
 「興味? そんなもので私の命を奪うとおっしゃるんですか、阿部さんは?」
 「命を奪う、ですって? まさか。僕のサイトにそこまでの力はありませんよ……」

 少し間を置いて、メリーは丁寧に言う。
 「私は都市伝説なのよ? それは人間の口承で伝わっていくものなのね。私という形をなすのは、人間の噂なのよ。人間が私をどう認知するかで、私は生きも死にもするの。……そうでしょう?」
 「いや、それはきっかけにすぎませんよ。一旦出来上がってしまった都市伝説は、簡単には消せません。「トイレの花子さん」や「口裂け女」、そして貴女、「白いメリーさん」なんていうものは、誰かが消そうと思っても消せるものじゃないんです……」
 「でも、歪(ゆが)める事はできそうね。そうでしょう、阿部さん……?」

 一瞬、視界の色を失う。その後、極めて冷静に言葉を返す。
 「……さぁて。そんなものでしょうか?」

 「殺すわよ」

 そう告げられ、阿部はハンドルを握る力を強めた。肘(ひじ)に、急激な震えが走る。
 「……最近の阿部さんの馬鹿げた良心が、私を殺そうとしているのかしら? 何故私を殺そうとするの? そんなにひどく、人間達に危害を加えた覚えはありませんけど?」
 阿部はメリーを見ずに答える。
 「貴女は……化け物だ。危険すぎる力を持っている。僕が持たせてしまったのかもしれない。……僕は貴女を嫌ってはいない。殺そうともしていない。ただ……」
 阿部はメリーを見る。その顔立ちは人形のように美しいが、死人のようだとも思った。
 「貴女はやはり狂っている。化け物なんだ。人だって、知らぬ間にたくさん殺している……」

 メリーは目を見開き、阿部を直視する。
 「……阿部さん。貴方を殺せば私はどうなるのかしら?」
 この一瞬。阿部は死を、本当に恐れなかった。
 「どうにもなりません。自由になるんじゃないでしょうか? 僕は貴女の産みの親じゃない。貴女の噂をネットで広めた、ただの一人に過ぎませんから」
 「あぁ、そう。でも殺す前にしておいてもらいたいわ。私の力を奪うような噂は流さないで。何を書いたのかはわかりませんけど、私の力は明らかに弱まり続けているの。どうしようもなく、ね……」
 メリーは手の平を見せる。それを弱く握ってみせる。それが精一杯の力なのかもしれなかった。
 「貴方、もしかすると何か、した? サイトを閉じる以外に……?」

 阿部は表情を崩さない。
 「忘れ去られて……消えてしまって下さい。貴女の存在は、世の誰も望んでいません。化け物が現存するというのが、そもそも間違っているんです。化け物なんていうものは、空想の産物の域を出てはいけないんですよ……」
 そう聞き、メリーは顔をしかめた。
 「……よくもまぁそれだけべらべらと言えたものね……! 感心してしまうわ!」
 そして高らかに笑い出した。神経を逆撫でするような笑い。それは阿部が初めて聞いた笑い方だった。

 そしてメリーは両手を突き出し、阿部の首を締めた。
 「もういいわ! 貴方のような方は許せない!! 生きていてもらわなくて結構よッ!!」
 歯を剥き出し、怒りに身をまかせる。
 しかし、阿部は抵抗しなかった。そればかりか、笑いを返すほどの余裕があった。
 ……まるで苦しくなかったからだ。

 「ははは。予想以上だ! そんな力じゃあもう人間を殺す事はおろか、リンゴも握り潰せませんねぇ? ははははは……」
 そしてやんわりとメリーの手を首から外す。
 「信じられませんね。短時間でここまで「崩壊」してくれるとは、思いませんでしたよ……!」
 その言葉の意味を、メリーがわかるハズもない。そして何故、こんなにも五指にチカラが入らないのか、わからない……。本気を出せば、さすがに首くらいはへし折れると思っていたのだ。
 「……この僕が、本当にメリーさんに影響を与える事ができたなんて、夢のようですよ」
 やっと阿部はメリーの方へ顔を向ける。その顔はひどく歪んでいた。悪意の塊のようだった。

 メリーの顔に絶望の色が張り付く。
 「貴方、一体、私に何をしたの?! どんな噂を流したっていうの?! どんな手段を使ったっていうの?! ……私の力を……返しなさい!!」
 そう叫ぶなり、メリーは泣き出した。初めて「無力さ」というものを痛烈に味わい、混乱して、泣き叫ぶ以外の事ができなくなってしまっていた。
 阿部は満足げに笑うだけで、もう取り合う事はしなかった。


― 63 ―


 やがてメリーはそこから消え去った。阿部から逃げたのだ。

 「……ふん。気の早いお姫さまだ」
 そう毒づくが、阿部の顔は沈んでいた。計画が多少、狂ってしまった。自分は激昂したメリーに殺される手はずだったのだ。力を失った、とは言え、殺されるぐらいの覚悟はしていた。だが、それもかなわなかった。

 車を飛ばしながら、また虚しくなる。
 「あんな所に戻っても無意味なんだよな……」
 しかし、行き先など他にはない。阿部は行くにまかせる。
 大分遠乗りして来た。あのアパートに着くまでには、まだ相当な時間がかかる。充分に考える時間もあるだろう。

 まだ生きたいのか。それとも死にたいのか。
 どの道、自分は劇的な何かに呑まれる事を望んでいるような気がした。だからこそ、メリーに殺される手はずを踏んだのだ。メリーに殺されるのなら本望だった。
 「やりすぎてしまったのかは……わかんないね」
 泣いた白い少女を思い起こし、うなだれる。


 阿部はここ数日で、持ち金のほとんどを使い果たしていた。
 数十万円かけての広告活動。それを何度も行った。
 ダイレクトメール、メールマガジン。大手サイトが行っているそういったものに、記事を載せたのだ。

 ――『白いメリーさんの真相』
 それがいかに、かよわくはかないものかを、創作した。


 ここ近日、その「実在」の噂がささやかれている、「白いメリーさん」。
 T県M市M病院での警官十数名殺し。それが発端とされ、白いドレス姿の妖怪、メリーさんは実在する、と各地で様々な噂が持ち上げられてきた。
 確かに、ネットで広まっている写真や動画など、趣味的な創作物だ、とは思えないほどの量に達している。
 僕はそれらの収集に努め、新たにサイトを開拓した。

 それが、『白いメリーさんの真相』。
 以下にURLを記させていただいた。ぜひ、貴方もその不思議な出来事に触れてみていただきたい。現実の崩壊を目のあたりにするかもしれない……。


 その後URLを貼り付け、新たに作ったページへ行けるようにした。
 自分の行っていたサイトは閉じた。そしてメール会員に、以上の報告もした。阿部のサイトのメール会員は5000人ほどだ。

 サイトを閉じた、という事をメリーがどうやって知ったのかはわからないが、それはサイト訪問者へちょっとした刺激を与えるためだった。自分が新しく「白いメリーさん」のみを扱ったサイトを制作したのは、他のサイトから分かってもらえるだろうという算段もあった。リンク仲間も多い。
 その辺はメリーや須藤などには理解が及ばなかったのだろう。

 とにかく、自分は「白いメリーさんの真相」というサイトを完成させた。
 数ページしかないサイトだが、その情報量は特化していると思う。自画自賛ではあるが。だが、ネット中に散らばっている「白いメリーさん」の情報のほとんどをかき集めた、と言っても過言ではないだろう。
 更に、須藤の部屋からメリーの写真を拝借し、それも衝撃的に扱った。

 そして、創作記事。
 病院での警官十数名殺しを発端とし、全国各地で最近起きた怪死事件をメリーと結びつけた。全くの創作も多々ある。この辺は本当に「都市伝説」扱いの記事になっている。ただ、面白おかしく読ませるために工夫は施したつもりだった。
 写真やイラストも多く交えてある。イラストに至っては、以前から頼んでいる者に依頼した。彼女のファンも多い。この新サイトへのアクセスの流れにもつながっている事だろう。

 ……実際、数日でまとめあげたサイトにしては上出来だった。以前から貯めてきた記事も多いので、作る資料には事欠かなかった。
 まだまだ、サイトの内容を膨らませたいとも思う。
 でも、それは贅沢な願いだ。そろそろ全ての切り上げ時になっている。自分にはもう、「今後」というものは要らない。

 そして「白いメリーさん」の死亡記事を書いた。
 自分はいかにしてメリーと知り合ったかを書き、メリーとの再会、メリーの日常などを描いた。
 そして須藤が目のあたりにした、都市伝承との衝突。メリーの死。その辺も創作を交えて、記事にした。無論、そこで息を吹き返した事はカットしている。

 世を一時騒がせた白い妖女は、同種によって、殺された。その同種もまた、そこで死亡した。
 「白いメリーさん」という奇跡は、確かに、この現実にほんの少しだけ存在し、僕たちを湧かせたのだ。
 そんな締めくくり。メリーの死を、確定させた。


 そして、記事の信憑性を少しでも上げるために、自分が何者であったのかも、告白せねばならなかった。
 その辺を信じてもらうために、過去に殺した者達の、わかっている分の実名を挙げ、その時嬉々として撮った写真など数点を掲載した。眉唾ものだと思われようが、多少の衝撃はあっただろう。
 無論、そんなものを載せたサイトなど、すぐに警察の手が入る。だから自分は逃げたのだ。

 でも、サイトの衝撃度はかなりのものだっただろう。メリーうんぬんより、自分の過去の殺戮記事を衝撃に思ってくれた人も多いだろう。
 訪れた者はここ数日で数十万人にのぼる。サイトのアクセス数は日々二万以上。複数の有名メールマガジン等に広告を出した効果は図りしれない。
 ――だから、メリーは劇的に力を無くしたのだ。
 人の噂を糧として存在する、「都市伝説」だから。





 車の流れにまかせ、何度も派手な追突事故を夢みる。
 ハンドルを少し切るだけで、自分は劇的に死ねるかもしれない。それとも街中に繰り出して、縦横無尽に車を飛ばし、できるだけ人間を跳ね飛ばして殺すのも面白い。自分にはそういった、劇的な最期が望ましい。
 ……だが。そんな思いもすぐに消え去る。自分はもう、ドッペルゲンガーではない。半分以上、人間になってしまっている。
 もう、殺戮など自分にとっては無意味なのだ。幼稚な考えでしかない。

 しかして、このまま須藤とメリーの居場所に戻っても歓迎される訳もない。自分は彼らを裏切ったのだ。
 「なんで、裏切ったんだろうなぁ……?」
 今更そんな疑問が湧く。
 ……良心から、だろうか。自分が劇的に死にたかったから、だろうか。

 「仲間、またいなくなっちゃったなぁ。寂しいねぇ?」
 弱く笑う。久しぶりに、独り言が多く出てくる。

 でも。劇的な自分の最期まで、あと一歩だと感じた。
 ……何かがまだ噛みあっていない。それさえ訪れれば、自分は満足して死ねるだろう。
 何が不足しているのかを、考える。

 「メリーを弱くした……。確かに、僕が弱くしたんだ」
 この先に何があるのか。
 自分はメリーに殺されようとした。怒り狂わせ、殺される手はずだった。
 だが、メリーの死亡記事は思った以上の効果をもたらした。メールマガジンへの広告をしすぎたのかもしれない。それに、自分の殺しについての記事にも衝撃度はかなりあっただろう。口コミでも相当、広まっていると予測できる。大手掲示板での広告活動も駆使した。

 ――殺し。殺害。
 あの掲載写真を思い起こす。創作ともとれるようなものを選んだつもりだった。警察に捕まった場合の言い訳も、いくらかは考えている。
 「……違う。僕はこの不測の事態を……より有効的に活用するんだ」
 メリーに殺されなかった。その不測の事態。
 顔をしかめて、悩み込む。

 様々なものが交錯し、やがて思いもしなかった考えに辿り着いた。
 「……もしかすると、メリーさんを殺すのは、僕の役目なのか?」
 そこに行き着いた時、気持ちが一息に晴れた。


― 64 ―


 「なんか気が抜けちゃったねー?」
 リクライニングルームのソファーベッドに寝転びながら、また佐々木はそう呟いた。

 二人は健康ランドに来ていた。沸かし湯の温泉施設だ。
 高速道路での一件の後、二人は須藤と別れ、自転車を預かってもらった温泉宿に一旦戻った。そして気持ちを新たにして、そこからまたどこかへ自転車で移動しようとした。
 ――目的もアテもない旅の再開。
 何かから逃げるように、それとも何かを追うように、二人はじっとしている事ができないでいた。
 そんな中、国道沿いにこの温泉施設の看板を見つけ、ここに数日泊まっているのだった。

 児玉が記憶を無くした当初も、こういった安い施設を利用していた。宿泊料金が、一人素泊まりで2000円。一泊1万円に迫る温泉宿に泊まるより、遥かに安くすむ。
 佐々木がそんな児玉の案を聞き入れたのも、残金が気になりだしていたからだった。

 「……はい?!」
 隣のベッドでウトウトしていた児玉は、目を見開いて半身を起こす。
 その様子を見て、佐々木は苦笑を返した。
 「あらぁ、起こしちゃったんだ? ごめんね〜。せっかく眠れてたのに」
 ここ数日、児玉はよく眠れないとぼやいていた。佐々木は悪い事をした、と軽く顔をしかめる。

 「何か今……夢を見たような気がしました……」
 「夢? どんな?」
 「……覚えてませんけど……何かちょっと悲しいような……」
 悲しい、という単語に佐々木は、児玉の母親を連想する。
 きっと、家族の所に戻りたいだろう。無事な姿を早く見せたいだろう。

 ……でも、それが叶うかどうか、わからない。
 あの場でメリーが言ったように、自分達の過去の記憶というものが、もうどこにも無いのだとしたら……、一体どうなるのか。
 自分達にはもう、ハッピーエンドは残されていないのかもしれない。
 佐々木は児玉をからかいはせず、軽く相づちをうつと、目をつぶって眠るフリをした。


 ――数日前。
 佐々木と児玉は、須藤とともに、メリーらと対峙した。
 死を覚悟して臨んだ。これで自分達の決着がつくと思った。……しかし、結局は何の進展も得られないで終わってしまったのだ。

 児玉は、両親を心配させたままという、煮え切らない気持ちだけが残った。
 佐々木としても、無念だった。生きるにしろ死ぬにしろ、早く全てを終わらせてしまいたかった。
 できる事なら、いくらでもハッピーエンドに近い終わり方で……。

 そしてある事を思い出す。
 ……メリーは麻薬を欲しがっていた。それをまた入手できないか、ともちかけてきたのだ。
 あの時は従うのが嫌で断ったが、もしそれで自分達がまともな人間に戻してもらえるのなら……、考え直してもいいかもしれない。
 でも人間に戻ったところで、自分がどうなってしまうのかはわからない。

 自分のドッペルゲンガーは……、殺人鬼だった。
 大勢の罪もない人を、容赦なく殺した。つながりのある自分は、それを幾度も夢で見せられてきた。

 自分が人間に戻るという事は、その殺人の罪を、負う事になるのだろうか?
 しかも、ヘタなギャンブルで借金まみれだったハズだ。
 ……いやそれより、一旦死んだ事になっているものを、どう書き換えられるというのだろう?
 メリーにどんな芸当ができるかわからないが、少なくとも神サマではないハズだ。やれる事にも限度というものがあるだろう。
 考えれば考えるほど、人間に戻った時の事が、恐ろしく感じられてしまうのだった。

 そして児玉の事もわからない。
 児玉のドッペルゲンガーも死んだ。オリジナルとして、死んだのだ。
 もしかすると自分ばかりでなく、児玉にももう、戻るすべはないのではないだろうか?


 「佐々木さん、どうします? またメリーさんに会うんですか?」
 児玉はふいに身を乗り出して、そう佐々木に聞く。
 佐々木はしかめていた表情を戻し、努めて明るい声で応えた。
 「……どうだろうね〜? また会ったところで、どうなるかわかんないしね。今回は無事に助かったけど、次もそうなるとは限らないしさぁ?」

 メリーの目的もわからず、メリーが自分達をどう思っているのかもわからない。
 ……どうも思っていない、というのが率直な感想かもしれない。
 そのメリーが唯一、こちらに譲歩してきているのが……、「麻薬」か。

 「メリーが麻薬欲しがってたみたいだけど……どうしよっか? まぁ、わざわざ遠出して、当てもなく街をぶらぶらしたからって、すぐ入手できるとは限らないけどさぁ〜……」
 麻薬という単語が会話に混じる度、児玉は難色を示す。麻薬は所持するだけで立派な犯罪なのだから。
 佐々木はおかまいなしに続ける。
 「でも基本的にさぁ、あんな化け物のお使い、なんかしたくないよねぇ? ヒトとして。……そうじゃない?」

 児玉は真剣に悩んだ後、相づちを返す。
 「そうですね……。麻薬なんか探してメリーさんに渡す、だなんて……嫌ですよね」
 でも、それで自分達が本当に助かるのであれば……やるかもしれない。と児玉は内心、苦しい回答を出した。

 「ところで須藤さんからは全然連絡来ない? 向こうの進展もないわけ?」
 「さぁ……どうなんでしょうね。連絡はないですよ」
 連絡がない事には、推測するしかない。そして向こうは携帯電話を持っていないので、こちらから連絡はとれない。

 「とりあえずさぁ、もうメリーなんかほっとこ? どうせまたあんなのと会ったって、今度は殺されるだけだろうからさ?」
 そんな佐々木の結論。児玉は難しい顔で返事を探る。

 結局は、メリーにどうにかしてもらわないと、自分達はこの先、生きていけない。
 先だって、お金の事。お金を稼がない事には、居住食のどれにも、ありつけなくなってしまう。
 しかして過去の記憶もなく戸籍もない今の自分達を、雇ってくれるような所があるとは思えない。……少なくとも、まともな職にはつけないだろう。

 そして、佐々木がドッペルゲンガーという化け物に近づきつつある事も、児玉の不安となっていた。
 その症状は日を追って、顕著(けんちょ)に表れてきている。ある時、忽然と姿を消してしまう。その度合いが、どんどん激しくなってきているように思えるのだ。
 加えて、人間としては考えられないほどの怪力。漬物石を素手で割るような力だ。それも児玉にとっては、不安材料でしかない。
 このまま放っておけば、佐々木は近い将来、「本当のドッペルゲンガー」になってしまうのではないだろうか……?

 ……消えてしまう、という延長線上に、消滅してしまう、という不安もつきまとう。
 自分達と入れ代わってオリジナルとなった影は、死んだ。自分達は今、曲がりなりにもドッペルゲンガーなのだ。だから本当は、自分達も消えてなくなってしまっても不思議ではなかったのだ。

 消えないのは、自分達がまだオリジナルの要素を持っているからだ、と漠然と感じている。
 だから、日々近づいていく「ドッペルゲンガー」に追いついてしまった時。自分達はオリジナルを失っているという現状を受け、その時初めて、消滅してしまうのではないだろうか……、と児玉は思った。
 今、佐々木が何度も消えかかっているのは、その前兆なのではないだろうか……?
 本当に近い将来、佐々木は「オリジナルを失ったドッペルゲンガー」として、この世から消滅してしまうのではないだろうか……?


 「……聞いてる?」
 佐々木の声で妄想から覚める。
 「佐々木さん。やっぱりまた、メリーさんに会わないと。私達このままじゃ、先がありません……」
 「先がないって?」
 「人間としての戸籍とか記憶とか、そういうのが無いと、この先生きていけないじゃないですか。このままずっと、遊んで暮らせるワケでもないでしょうし」
 消えて無くなってしまう、という不安は今、口にするのはやめておく。代わりに何故か、老後の事が頭に浮かんだ。
 「それに老後とか……年金も受けられなくなるじゃないですか……」

 「は?! ……年金?! アハハハッ?! 何よ児玉ちゃん、そんな事考えてたワケぇ〜?」
 思いもしなかった言葉に、佐々木はベッドの上で体をねじまげて、激しく笑った。

 周囲の冷ややかな目を気にして、児玉は佐々木を落ち着かせる。
 「笑い事じゃないですよ……。お金だって、そろそろ底をつくんじゃないですか……?」 
 「だからさ。それは何とでもなるって! 飲み屋街に行けばさ、若いアタシらを雇ってくれるトコ、わんさかあるってば!」
 「戸籍もないのにですか? 年だってはっきりとわかったもんじゃないのに。……私は未成年ですよ?」

 「……そんなくだらない事、児玉ちゃんが心配しなくていいよ。それよかさ、児玉ちゃんがギャンブルしてみりゃいいのよ。……この先、生きるためでしょう? やってちょうだいよ!」
 「……そんな……。嫌です、アタシは……」
 児玉は顔をしかめてそっぽを向く。その話にだけは乗りたくなかった。生死が関わるにせよ、ギャンブルをするだなんて、冗談ではなかった。

 「いいからさぁ……。児玉ちゃん、絶対メリーに、運とか良くされてると思うから。やってみて!」
 「……違います。アタシがもらったのは、ハムエッグの卵を一つ多くしてもらう、という運なんです」
 「アハハハ……!」
 児玉の切り返しに、佐々木は素で笑った。

 「でもホントに、お金無くなってどうにもならなくなったら……どうします?」
 そう問いかけ、児玉は息を呑んだ。
 忽然とまた、佐々木は姿を消していたのだ。


 顔をしかめて脱力する。
 「……ひどい……」

 全身を襲う寒気。呼吸を整えながら、両手で頭を抱えた。
 思わず、涙が出そうになる。でも、どうにもならないのだと言い聞かせる。佐々木だって、消えたくて消えるワケではないのだろうから。

 表情を無理に戻し、何も無かったフリをする。周囲にもまばらだが人がいる。おお事にはしたくない。
 (そうやって何度も消えてるうちに、もう戻って来れなくなったらどうするんですか……?)
 胸の中で佐々木に問いかける。

 佐々木が姿を消し、一人になってしまうと、不安だけがのしかかってきた。
 ……本当は、急ぐべきなのではないだろうか?
 こうしていても、何も進展は得られない。メリーに会うにしろ、麻薬を探してくるにしろ、今は急いで行動すべきなのではないだろうか……?
 でもメリーにまた会ったところで、どうなるのかはわからない。
 素直に人間に戻してもらえるだろうか。メリーが欲しがる麻薬さえ見つけてこれば、自分達は本当に助かるのだろうか……?

 しかし。ひと時の姉――自分のドッペルゲンガーは、死んだのだ。オリジナルとして。
 その事実は、事件に巻き込まれたというニュースとして世に流れたハズだ。自分が死に、両親家族、知人友人らも嘆き悲しんだ事だろう。自分の葬式も行われただろう……。
 メリーは、それも無かった事にしてくれるというのか? メリーはそこまで万能なのだろうか……?

 児玉は長く考え込む。知らずと小さくひとりごちていた。
 「過去を書き換える事なんて……できるの? 本当に、すっかり元の生活に戻れるの……? 世の中のみんなの記憶はどうなるの? 「あの病院の事件で死んだ私」の記憶は、みんなの中から無くなっちゃうの? メリーさんは、そんな事までできちゃうっていうの……?」

 ……そんな事はありえない、と思った。


― 65 ―


 真夜中。そのアパートの駐車場に、一台の車が乗りつけた。
 それはレトロと呼べるほどの古びた型だ。きしむドアを開け、運転席から男が身を乗り出した。

 ――須藤だ。肌寒い今、皮ジャンを羽織っている。四方の外灯の明かりで、自分の眼鏡がほこりまみれなのに気付き、拭き取る。
 改めてアパートを見やる。影に隠れるように、その玄関口に同じ風貌の男が立っていた。

 「来るのはわかってたよ。しかし、何もこんな真夜中に来なくてもいいだろう……?」 
 須藤の影は、手にしたアルミの灰皿でタバコをもみ消す。冷えてはいるが、風の無い晩だった。

 車のドアを閉め、須藤は自らのドッペルゲンガーを見据える。
 「この間はずいぶんと世話になったな。手足を縛られてのトランクの乗り心地の良さ、ってのをお前にも味わわせてやりたいもんだ」
 須藤らしからぬ皮肉のセリフが口をついて出て来る。自分の最期、というものを意識しているのかもしれない。だから自己満足とはいえ、言葉の重みに気を配っているのだ。
 影は返事を返さない。須藤は鼻で笑って、続ける。
 「……自分から呼び出しておいて、メリーとよってたかって襲ってくるんだもんな。まいったよ」
 影に対する憎しみを隠すように。その口調はやわらかだった。

 少しの沈黙の後。やっと影は軽く笑いを返した。そして少しだけ、須藤に歩を寄せる。
 「お前……見ない間にずいぶんと、人間からかけ離れてしまったようだな。もう、人間からは見えていないんじゃないか? こうして見ると、お前がぼやけて見える。だいぶ消えかかっているな」
 「そうか? でもまぁそんな事はどうでもいい……」
 須藤は知らずと胸を抑える。「死」を呼ぶ、自らの影と対峙している事に、体が拒絶を示しているのだと感じた。
 みっともなく足が震えてはいまいか、と何度も心配になる。

 「……で? どうするんだ、そんな手ぶらで。銃の一つも用意していないとは……、まさに無鉄砲じゃないか」
 影は乾いた笑いを上げる。
 「手ぶらで充分だろう。また話をしに来ただけだからな。今、お前をどうこうしようという気はない。お前を殺せば、たぶん僕も死ぬからな。その前に色々と聞いておきたい事があるんだ」
 今は自分がドッペルゲンガーとなっている。目の前にしている自分の偽者は、今はオリジナルとして、世に生きている。
 そんな入れ替えの後、数年が過ぎている。お互いがその立場に、すっかり馴染んでしまっているのだ。
 だから、須藤がオリジナルとなった影を殺す事は、自殺にも等しくなってしまっているかもしれない。
 そして逆に、須藤が自殺したところで、オリジナルとなった影は死なないかもしれない。

 須藤はやや言葉を切った後、重く聞いた。名前さえ思い出せない、大切な者達の事を。
 「……女房と子供は、今、どうなってる?」


 そう聞かれ、影はやや面食らった。
 「……今更、何だ? 殺したよ」
 笑うでもなく、真顔でそう答えた。

 「……何?」
 思わず、影に歩み寄る。
 「殺したんだよ。聞こえたろ?」
 影は面白がる風もなく、淡々とそう答える。
 「馬鹿を言うな。そんな記憶はないぞ……」
 胸の苦しみが、ひときわ増した。

 「思い出したくないだけだろう? 夢だとでも思いたかった、とかな。アイツらを殺されてしまえば、お前も生きる意味ってものを失ってしまうだろうからな。まだ死にたくないために、アイツらを生きているものだと思いたかっただけだろう? 唯一の希望としてな」
 「……違う。馬鹿を言うな……」
 ――死んでいる、だなんて。殺されていた、だなんて。
 もう言葉が出ない。その足取りもどうしようもなく、よろめいてしまう。

 「記憶に無いなら教えてやるよ。お前の女房には、腹と脳天にナイフを突き立ててやった。オリジナルを殺したからな、影も同時に死んだ。そしてお前の娘は、首の骨をへし折っただけで終わった。呆気なかったな」
 「……どうして殺した……?」
 影を見ず、頭を掻きむしる。
 「やっかいだろう? 女房に子供だなんて。はじめは無視して考えないようにしていたが、次第にうっとうしく感じてきてな。眠りを覚えると、夢に見るのはアイツらの事ばかりだったしな。……だからわざわざ探し回って、殺した。そうせずにはいられなかったんでな」
 挑発するようにわざと、須藤の影は笑いを上げた。
 だが須藤は怒るでもなく、みるみる表情を落としていった。

 「やっぱり死んでいたのか……」
 耐え切れず、路面に膝をつく。そのまま両手をつき、うなだれた。
 
 影はまた更に、須藤の元に足を寄せた。
 「……で。お前は何をしに来たんだ? 僕と話あい、だと? 一体どんな話があるというんだ?」
 影は手にした灰皿の灰を、須藤の頭に振りまいた。
 須藤は動かず、灰をはらいもしない。
 その様を見て、須藤の影は気を悪くした。自分で自分を汚したところで、惨めだった。

 「とにかくだ。わざわざこうして、遠路はるばるこちらまでやって来てくれた事だ。……そろそろ死んでおくか? 僕ももう、生き飽きたんでね。一緒に消える事になろうが、僕は一向に構わないんだ」
 「……お前だけ死ねよ」
 須藤は顔を上げないまま、そう小さく言い返す。
 そしてやっと頭の灰をはらい、立ち上がって、影を正面から見据えた。

 「メリーはどこだ?」
 そう鋭く聞かれ、影はまた面食らう。
 「……は? メリーさんだって? お前にどんな用事があるというんだ? 今更、人間に戻してくれ、か?」
 「そうじゃない。アイツが欲しがっていた物を持ってきたんだよ。……メリーは麻薬を欲しがっていたんだろう?」

 思わぬ言葉に、影は虚をつかれる。
 麻薬を探し回る須藤の姿など一度も見なかったし、思い描いた事もなかったからだ。でも確かに、相手の事が一挙一動、すっかりわかってるというワケでもない。
 だが、須藤に入手できる麻薬など、たかが知れていると思った。
 「注射する麻薬はお嫌いという事だが?」
 「……エンジェル・ダストだ。舐めて死ぬ麻薬、と言えば、おそらくそれだろうからな」
 須藤はポケットからペンダントを取り出した。そのロケットの中に、入っているという事なのだろう。

 「嘘じゃあるまいな……?」
 「ヤツが舐めればすぐにわかる事だ」
 須藤としても、わざわざ遠出して、くだらない嘘をつきたかったワケでもない。
 影は思わぬその朗報を、すぐにメリーに知らせたかったが、今は知らせるすべがない。気まぐれに現れるメリーを待つしかない。
 しかもここ数日間、姿を見ていない。加えて、姿を消した阿部の事も多少は気がかりだった。

 「で、もちろん渡すのには条件がある。この麻薬を渡したら、あの子達を元に戻してやってほしいんだ。わかるだろう? ……佐々木と児玉って女の子だ」
 ペンダントをポケットに戻し、影から離れて、頑なな表情を見せる。それだけは絶対にゆずれない条件なのだ。 
 「お前がそこまでお人よしだったとは驚きだ。……だいたい、お前は影になってもう何年になる? ドッペルゲンガーとして、人を殺し歩いていてもおかしくはない頃だ。心の中が、いつも真っ暗だろう?」
 須藤は答えない。

 「……で、交換条件ときたか。そりゃあ結構だ。……まぁメリーさんにしても、そのくらいは呑んでくれるかもしれないな。悪い交換条件ではなかろう」
 「じゃあ問題は無い」
 言葉を切った後、須藤は影を見据え直した。
 「でも、お前は別として、殺す。今じゃない。あの子達が元に戻ってからだ」


 「そうか。そりゃ楽しみだな……」
 影は自分を殺す方法はいくらでもあると承知していた。死は、自分にとってどうでもいい事だ。
 「……まぁせっかくのいい話なんだが、肝心のメリーさんがいない事には話が進まない。悪いがまた出直して来てくれないか? こんな夜中じゃなくてもいいんだからさ」
 「そうだな。で、メリーはいつ戻る?」
 「わからんよ。戻れば、お前にも見えるだろう?」
 「かもな」
 そうして車に戻りかける須藤の背に、影は呟く。
 「条件は一切ヌキで、今お前を殺してそれを奪ってもいい」

 「……やってみろ。メリー抜きなら、お前に殺されるような気はしないよ」
 思わぬ言葉に、影は目を見開いて喜んだ。
 「……ほう? ドッペルゲンガーになって、何か目覚めたか?」
 「そんなところだな」

 だが影は、どの道大した力ではない、と思った。以前、須藤を捕らえた時、あまりにも呆気なかった事を思い出す。
 「……ちょっとした怪力でも得たのか? まぁそんなもので僕を殺せるのなら、殺してほしいものだ」
 影のお喋りに嫌悪を示し、須藤は無言で車に乗り込むと、振り返らずにエンジンをかけた。

 「言っておくが。お前は僕だ。殺しあおうが、そんなものは自殺でしかない」
 そんな影の言葉が聞こえ、須藤は軽く目を伏せる。
 「そうでもないさ」

 駐車場から須藤の車が出る。影はそれを見送った後、玄関口へと足を向ける。
 そして足を止めた。
 「灰皿はどうした……?」

 手にしていたハズのそれが、いつの間にか無くなっている。
 ……だが、うろたえる事でもないだろう。影は不審ながらも、考えない事にする。

 だがその直後。両のこめかみが急に痛み出した。
 「……なんだ……これは?」
 その直後、眼前に五指が見えた。それで顔を掴まれている。
 「貴様っ! やめろっ!!」

 そうして荒々しく振りほどいたかと思えば、目の前には何も無かった。
 須藤も車で退散したのを見届けている。

 「……くそ。それがお前の自信か。いいだろう。殺してみせろっ……!」
 歯を剥いて険悪な表情を作った後、それは笑いに変わった。



― 66 ―


 数日間の不毛なドライブを終え、阿部は自宅のアパート近辺まで戻ってきていた。
 スタンドで給油を終え、今はホームセンターの駐車場内に車を停めている。
 不要な物と一緒に購入した、サバイバルナイフ。助手席に置いたそれを眺めつつ、しばらくその場に落ち着いていた。

 ……こんな物でメリーを殺せるのだろうか?
 確か以前、メリーは不死身だと言った。それがもし本当なら、こんなナイフなどは無意味だろう。
 だが、やれる可能性があるとすれば今しかないし、今が最適だと思う。
 今、メリーは劇的に力を無くしているからだ。

 自分は大金をつぎ込んで、メリーに関する情報操作を大々的に行った。
 数日で行った、非常に粗のある作業だったが、世の情報操作は確かに行われ、それは成功を収めた。メリー本人の力を、大きく奪ってしまったのだから。

 だが。その情報操作の効果がいつまで続くかはわからない。
 流行の一種のように、すぐに効果は消え去ってしまうかもしれない。
 いや。もしかするとメリーの存在そのものを消し去ってくれるほど、あれは強烈なものだったのかもしれない。
 メリーはもう、この世から消え去ってしまっている可能性もある……。


 「なんだそのナイフ。とうとう……自殺でもするのか?」
 ふいにそんな声がかけられ、阿部は大げさに驚いた。
 助手席の窓ガラスから、覗き込む顔があった。

 それは……懐かしい友人の顔だった。
 ――もう一人の、自分。
 長い間姿を見なかった、オリジナルの自分が、そこにいた……。

 「お前……生きてたのか? どうして今頃……?!」
 信じられない思いに、今が夢ではないか、と疑う。
 「ははは! ずいぶん久しぶりじゃないか! びっくりしたなぁ……!」
 忘れていた笑顔。あまりにも久しぶりに笑ったので、頬が痙攣(けいれん)している。
 助手席のドアを開け、荷物を急いで避ける。そして、入ってくるようにうながした。
 しかし、それは首を振った。

 「僕はもう、すっかりドッペルゲンガーになってしまってるよ。気持ちの方もね、あんまりかんばしくはないね。それに、僕はずっと君の近くにいたさ。君が僕を感じ取れなかっただけだよ」
 霞むその笑顔。阿部は嬉しくて仕方がない。
 彼はたった一人だけの、自分だけの確かな味方なのだから……。

 「やっぱり居てくれたんだな。もうとっくの昔に消えちまったかと思ってたよ……」
 阿部の話を受け、オリジナルはやや寂しそうな面影に変わる。
 「お前さ。すっかり人間らしい顔になってるな。僕の代わりにさ、何かスゲー事をやらかしてくれよ。僕にはできない事とかさ、お前ならできると思うんだよ……」
 オリジナルの顔は、やや黒ずんで見えた。光の加減か、その表情もよく見えない。
 阿部はオリジナルにもどかしさを覚える。彼は唯一、気を許せる仲間なのだ。本当の、親友なのだ。荒々しく助手席に乗って来ようが、叩かれようが、一向に構わないのだ……。

 「あぁ! やるさ。今、やってるよ! 白いメリーさん、知ってるだろ? あれをさ、殺そうとしてるんだよ……」
 「はぁっ?! ……メリーさんてのは、あの化け物だろう? アイツを殺すって? そんなの、できんのかぁ?」
 オリジナルが見せる笑い。阿部も嬉しさをつのらせる。
 「本当にやれそうなんだよ! 見ててくれよ……?!」
 「あぁ、いいさ。見とくよ。くれぐれも注意してくれな。……まぁはっきり言っとくが、お前がそれだけの役者かどうか、僕には疑問だからな。お前はどっちかって言うと、ただの脇役だしなぁ?」
 「ぶははッ! 言ってくれるよな、オリジナルのクセしてよぉ!!」
 顔を真っ赤にして笑った後、オリジナルの姿が掻き消えてしまっているのに気づいた。


 「なんだよ、もう消えちゃったのか……」
 阿部は笑みを沈めて肩を落とす。そして、助手席のドアをゆっくりと閉めた。

 でも、オリジナルの自分は生きていた。自分の代わりに、ほとんどドッペルゲンガーになってしまっているようだが、生きている事がわかっただけで満足だった。
 それに久しぶりに快活に笑った。これ以上の喜びは、もう望まなくていい。

 ナイフをまた、助手席のシートの上に戻す。
 「僕はお前の人生を奪ってしまったんだからな。ちゃんと責任はとるさ」
 実のところ、阿部は自分が元ドッペルゲンガーなのかオリジナルなのか、あやふやなところもあった。
 それだけ、二人の性格は似通っていたし、どちらも影としての醜さを、出会った当時は持っていなかったのだ。
 「……ごめんな。人なんか殺すんじゃなかったよ。お前を苦しめただけ、だったもんな……」
 過去の殺戮劇。今の自分とつながっているとは思えないほど、それらは汚らしく、そしてひどく狂っていた。

 シートに深くもたれかかり、阿部は目を閉じる。
 ……幼少の頃。7つか8つの時、ひと気のない道端で、阿部はもう一人の自分と出会った。
 その時の夕暮れの美しさを忘れる事はない。空も道路も周囲を囲む広々とした田んぼも赤々と、そして輝く金色を帯びて、燃え盛っているようだった。
 今思えば……、まるで夢だ。現実の事とはとても思えない。

 そして出会った自分達は毎日、時を忘れて遊び回った。
 お互いがいれば、寂しくはなかった。そしてお互いが好きでしょうがなかった。楽しくて楽しくて仕方がない日々が、長く続いた……。

 ……それが今は、笑うのですら久しぶりと思えるほど、楽しさからはかけ離れた毎日を送っていた。
 何をしても……虚しさがつきまとう。
 だから、死を望んだ。できるだけ、劇的な死を。しかし、それすらも失敗してしまったのだ……。
 「長年かけて……何を成長してきたんだろうなぁ、僕は……」
 ナイフを見て、また虚しさがこみ上げてきた。

 「……でも、意味はあるだろ。あの化け物を殺す、という事は……そうムダな事でもないだろうしさ……?」
 美しい石膏像を思わせる、白いメリーさん。闇夜に映えるその姿には、思わず息を呑む。
 「僕が、白いメリーさんという都市伝説を殺す。それには、意味がある」
 そう言い聞かせる。意思を固めないと、自分はここから動き出せないままだ。
 中途半端なまま。どこからも逃げ続けて……、終わる事すらできない……。

 車のエンジンをかけ、やや荒々しく発進させた。今、人を轢いたところで、たぶん気にはならない。
 ……今度こそ、自分は終わりを迎えたい。そしてメリーをこの手で殺したい。

 国道に出て、車の流れに身をまかせる。
 ……ひと気のない場所。そこにメリーを呼び出して、殺そう。電話番号はわかっている。自分はいつでも、メリーを呼び出せる。
 「そうだ。あの人殺しの性悪なお姫さまを……、この僕が殺すんだ! ……殺してやるっ!!」
 そう叫ばなければ、自分は意気を保てない。

 「今だ。今しかない……。今日、殺す。今日しかないんだ……!」
 とりつかれたように、狂気を奮(ふる)い起こす。そしてアクセルをきつめに踏み、荒々しく、車線を乗り換え続けた。





 どこをどう来たものか。自分でもよく覚えていない。
 国道を外れ、田畑の広がる農道へ出ていた。車の流れはほとんどない。

 広がる田の向こう。黒々とした山陰に、陽が沈みかけていた。
 ――この秋。夕焼けを初めて、目の当たりにしたような気がしていた。

 「僕の最期と、メリーさんの最期の日だ……」
 路肩に車を停め、静かに場を眺め続けていた。
 やがてそんな感傷を終え、またのろのろと車を走らせる。この辺はあまり来た事がなかったが、どことなく覚えがあった。
 北の方にある小山を見据える。
 「あの辺に確か、神社があったな……」

 田に囲まれた中だと、遠くからでも人目に付くかもしれない。
 メリーを殺すのなら、誰もいない場所がいい。
 阿部は車を小山に向けて走らせる。


 ほどなく、小山を駆け上がる階段と鳥居が見えた。記憶通りだった。
 近くにぽつぽつと民家がある。しかし、森の厚みで声などは届かないだろう。小山の裾のうねりで、車が遠くから目に付く事もなさそうだ。
 ……急がないと、日が落ちてしまう。
 
 携帯電話とナイフを手に、阿部は車から降りた。
 そして鳥居をくぐり、階段を登っていった。木々の背も高い。その姿はすぐに、影に呑まれた。


 古びた石段を上まで上りきる。木々の影に落ちた境内(けいだい)が広がっていた。
 神社の社(やしろ)を前にし、軽く目を伏せる。……拝みにきたんじゃない。この場を借りに来ただけだ、と伝える。

 ナイフを見、メリーに突き刺す場面を想像する。
 その胸元を突き刺すと……赤い血がなみなみと溢れてくるんだろうか……? それとも血も白いのか。血など出ないのか。

 「メリーさんを殺すのなんて、無理だろうな」
 自分が無意識にそう言ったのか、と思いきや、背後に気配があった。

 先ほど会った、オリジナルだった。階段を登りきったところで手を上げ、笑顔を見せてくる。
 「だいたいさぁ、何でナイフなんだ? 拳銃とかにしとけば良かったじゃないか。お前ならそれくらい入手できるだろう? ネットの扱いにもたけているみたいだしな?」
 「バカ。無理だって。それに、メリーさんを殺そうと思ったのはついさっきの事だ。本当は、殺されるために、色々やってたんだよ」
 気の許せる仲間がこの場に来るのは、あまり歓迎できない。でも来てしまったものはしょうがない。見物でもしていてもらおうと思った。

 この日暮れの中。オリジナルは真っ黒にしか見えなかった。もうほとんど、ドッペルゲンガーそのもののようだった。
 「お前のな、サイトは消されていたぞ。警察にだろうな。死体写真なんか載せるからだ」
 「……あぁそうか。消されてたか。じゃあやっぱり急がないとな。またメリーに力が戻ったら、せっかくの苦労が水のアワだ」

 「いいんじゃないのか? メリーさんを殺さなくてもさ。お前だけ死ねば」
 「……は?」
 思わぬオリジナルの言葉に、阿部は面食らった。

 オリジナルが近づいてくる。
 「……だからさ。お前だけ死ねばいいんじゃないのか、って言ったんだ」
 真っ黒なその顔がどんどん近づいてくる……。
 表情がまるで見えない……。


 「この神社をよく覚えていたなぁ。昔、一緒に遊んだよな、ここで。その時のお前は、今の僕くらい、真っ黒かった……」
 阿部はふいに視界を失ったかと思うと、ナイフを奪われていた。
 「……いいや。こんな場所、すっかり忘れてたよ……。無意識に来ただけだ……」
 手を差し出す。ナイフはきっと、返してくれるハズだ……。

 「僕がどうして、こんな面白いタイミングで姿を見せる必要があるんだ? 考えてみろよ……?」
 オリジナルに言われ、阿部は顔を歪める。
 「……メリーか……?」
 オリジナルとメリーは、つながっていた。それ以外に……ない。

 「長くムダに生きたな。この辺で一緒に死のうや」
 ナイフが。腹に突き立てられた。

 「うわぁあああっ!!」
 叫ぶとともにナイフが引き抜かれ、冷たい血が腹を濡らした。
 たまらずよろめいて、膝をつく。

 「お前……、僕を殺すってのか……?! ウソだよな……!! なんでメリーなんか……」
 「メリーさん、とお呼びしろ。お前の後ろにいるぞ?」

 苦悶の表情で背後を見る。
 ドレス姿の真っ白な人形。……メリーだ。
 社の前の賽銭箱に腰を下ろし、こちらを見ていた。
 
 「こんな最期なんて……!」
 阿部は傷付いた腹を押さえたまま、うめく以外にできない。


 メリーが近づいてきた。
 そして阿部を見下ろして言った。
 「……阿部さん。貴方は一体、何をしたかったのかしら? この私を喜ばせておいて、手ひどく裏切るだなんて。理解できないわ……」
 阿部に手を差し伸べたかと思うと、荒々しく腕を引き上げた。

 「阿部さん、さようなら。楽しかったわ、少しだけ」
 まるで無表情のままそう言うと、メリーは阿部の顔を掴み……力まかせに握り潰した。

 メリーの全身が真っ赤に染まる。
 「だいぶ力は戻ったようね。良かったわ、一時的なもので」
 阿部の死体を放り投げ、オリジナルに目をやる。オリジナルも腹を抱え、うめいていた。いずれ頭も激痛に襲われ、死ぬのだろう。

 メリーはその場を後にする。
 夕陽はもう山の背に隠れ、赤々としていた辺りからは、色がほとんど消えかけていた。


 ― 67 ―


 「死んでない……?」
 激痛に襲われたまま、阿部は意識を失う事なく、そこに居続けている。
 顔面をメリーの五指でえぐられた。でも、それは致命傷にはならない程度のものだった。

 顔じゅうが血まみれになっている事だろう。目を開けられない。
 左目の感覚がごろごろしていた。眼球をやられてしまったかもしれない。

 オリジナルにナイフで刺された腹の傷からも、どんどん血があふれ続けている。このままでは失血死も考えられる。
 ……でも。これが自分の死なのかもしれない、と受け入れたい気持ちもあった。
 このまま仰向けに倒れ続けていれば、自分はやがて死ぬ。
 それでもう、いいのではないだろうか……?

 「おい」
 頬を叩かれる。「生きてるか?」
 オリジナルだ。阿部は歯を剥き出して応えた。
 「何だよ、てめえ……。僕を裏切りやがって……痛えよ、この野郎……」
 こんな言葉使いができるのも、オリジナルに対してだけだった。しかし彼は今、手ひどく自分を裏切ったのだ……。

 「お前をな、助けてやる」
 「なに……?」
 今更何を言うのか。阿部の気が治まるハズもない。
 「ははは。ひでえ顔になっちまったな。……でも助かりそうだ。救急車を呼んでやるよ」
 「やめろよ……」
 話もしたくない。殴れるものなら、殴りたかった。

 「まぁそう言うな。腹だって、そんなに深くは刺してないぜ? 助かるって」
 「うるせぇ……」
 荒い息を吐きながら、阿部は拒絶を続ける。

 「せっかく命拾いしたんだ。生きてみろよ。……メリーさんもまだ、全然チカラが戻ってないみたいだしな。まだ殺せるかもしれない」
 「うるせぇ奴だなぁ……。もういいから放っておいてくれ!」
 「……いいや。お前と僕は一心同体なんだ。中途半端にはさせないよ」
 「……だったら刺すんじゃねぇよ、バカ野郎……」
 もはやお互いの関係がメチャクチャになってしまっている。阿部の憎しみも、いつしかごまかされてしまった。

 ただひたすらに痛みにもだえ続ける。
 顔を握り潰されたかと思いきや、そうではなく、腹にナイフを突き立てられたと思いきや、刺した当人は深くは刺していないと言う……。
 痛みは確かなものではあるが、こうしてもだえ続けているのが馬鹿馬鹿しくなってきた。

 阿部は観念し、オリジナルに助けを求める事にした。
 「……病院はやめてくれ。サイトの事で捕まるかもしれない。死体写真を載せたしな。まぁどこからか拾ってきたとか言えばいいんだけど、実名はまずかったかもしれない。殺した奴の名前を挙げたりもしたからな……」
 阿部はポケットを探り、携帯電話をオリジナルに差し出す。
 「須藤さんを……呼んでくれ。あの人は医者なんだ。オリジナルがな。……助けてもらえるかもしれない。……訳は後で話すから、メリーさんには内緒で、と伝えてくれ……」
 「オッケー」
 オリジナルは携帯電話を受け取り、アドレスを探る。

 「僕の人生を奪ったお前に対する憎しみは、今の一刺しで終わりにしてやる。そういうのはどうだ?」
 オリジナルはそう飄々(ひょうひょう)と言ってくる。
 「……そうかよ」
 もはや助かるのであれば、どうでも良かった。本当に死を間近にして、やはり生きたいという気持ちが湧いてきたのだ。

 「あ! もしもし。お世話になります〜。僕はですね、阿部のオリジナルなんですが……」
 早速電話をかけたらしい。
 阿部は安堵に身を沈め、そのまま眠りにつける事を願った。





 駅のコインロッカーに荷物を置いて、近くのレストランで夕食を迎えていた。
 佐々木と児玉はハンバーグ定食を向かい合って食べる。
 「児玉ちゃんのフライドポテト、何か多めじゃない?」
 「また〜……」
 ハムエッグの一件以来、お互いの皿を見比べてのそんな一言が、二人にとって定番のギャグとなりつつあった。

 「そろそろコート買わなきゃね。ゴージャスなの買っちゃおうか?!」
 「安いのでいいですから……」
 事ある毎に、佐々木は金を使いたがる。児玉はそんな佐々木をいさめる役割りになっていた。
 「そう? あぁ、ところでさ宝くじとかどう? ギャンブル嫌ならさ、それがいいと思って」
 「宝くじ……? 私が買って、当てるんですかぁ……?」
 「うん! 児玉ちゃん、運いいから」
 「当たらないと思いますよ……」
 でも、試しに買ってみるのもいいかもしれない。
 ただ。当たった時に、名前や住所などが必要なのではないだろうか……?
 話を先走りするのもイヤで、児玉は黙っておく。

 ……学校へ行く事もなく。毎日好きなように、遊び歩いている。
 これが本当の自由なんだろうか。でも常にお金の心配がつきまとう。佐々木の持っていた大金も、きっともう底をつこうとしている頃だと思う。でも佐々木は一向にそんな気配を見せない。
 児玉もサイフを預けられ、数万円、所持している。でも数十数百円として無駄使いはしたくない。

 「やっぱり……働きたいですね」
 ポツリと児玉が呟く。「アルバイトなら、どこか使ってくれそうな気がしませんか……? 戸籍とかなくても」
 「まぁねぇ〜……。日雇いバイトとかなら……ん〜……」
 佐々木はまともに考えたフリをするが、元々働くつもりは無かった。働くのならギャンブルで、金を何とか増やしたかった。

 煮え切らない話を続けている内に、二人は食べ終える。そして児玉が遠慮するのも聞き入れず、佐々木はコーヒーを注文した。
 笑顔で話しかけてくる佐々木の声が、ふいに聞き取れなくなった。その顔が黒ずみ出して、周囲の背景に溶けていく。
 「また……ですか……」
 何度見ても気持ちのいいものではない。現実感を失ってしまう。まるで映画の中にでも迷い込んでしまったような気持ちになる。
 佐々木が消えた後は、気持ちの沈み方も大きい。いつこうして、本当にひとりぼっちになってしまうかわからないのだ。

 「コーヒーお持ちしましたぁ」
 笑顔のウェイトレスに頭を下げ、児玉はカップを手にする。
 そして佐々木のいた席を静かに眺める。
 色々な出来事を思い出し、コーヒーをゆっくりと飲み終えた後も、黙って佐々木を待ち続ける。

 それから30分が経過し、1時間に迫ろうとしていた。閉店の時間もやがてくるだろう。
 「先、帰ってますから。ごちそうさま」
 そう一人ごち、伝票を手にレジへ行く。

 店を出て、夜空を見上げる。綺麗な満月を見て、少しだけ癒される。
 ゆっくりと駅に戻る。ライトアップされた駅前。広場のベンチに腰掛け、児玉は身を縮めた。本当にコートが必要だ。
 大きな溜め息が出た。
 この先の事は、まるでわからない。……でも、このままでは何にもならない。

 眼前のビルの明かりに混じり……、青白い光が舞い降りてきた。
 突然の事に、児玉は息を呑む。
 それは久しぶりに見る、光の蝶だった。

 蝶は児玉の頭上で、羽ばたきを続ける。児玉はしばらくその美しさに見惚れていたが、やがて表情を硬くした。
 「佐々木さんは……どうなっちゃうんですか……?」
 「これからどうすればいいんですか……?」
 切実に訴えるが、応えはない。

 蝶はどこかへ導こうとしているワケではなさそうだった。
 ただ、児玉の頭上に居続ける。
 次第に、佐々木の事が気がかりになってきた。……今、佐々木さんはどうしているんだろう? 蝶が出て来たという事は、眠っているんだろうか……? この世から、今は完全に消えてしまっているんだろうか……。

 寒さが切実になり始める。
 蝶への訴えをあきらめ、児玉は駅の構内に入った。暖かな待合室に行く。
 空席に座り、そこで佐々木を待ち続ける事にした。あのレストランにいない事がわかれば、きっとこの駅に来るだろう。荷物も駅のコインロッカーにある。
 でも、終電時間になっても来なければ、今夜はどこかに一人で泊まらなくてはならないだろう……。

 メリーとの一件で、見知らぬ土地に来てしまったまま、二人は泊まり歩いている。この駅も今日、初めて降り立った場所だ。
 だからこの辺の地理感はほとんどない。でも多少大きな駅であれば、近くに交番とビジネスホテルぐらいはあるものだ。
 ここ数日、毎日のように見知らぬ場所を渡り歩いているが、やはり無駄な動きだと思った。余計なお金もかかっている。以前のように自転車で移動するのがベストなのだ。ただ、自転車を置いてきた旅館に戻るとなると、また余計な電車代などがかかってしまう……。
 (お金ばっかり掛かるね……)
 自由に生きるには、それなりのお金も必要なのだ。お金が無ければ、働いて稼ぐしかない。だから働く。でもそうすると自由が大幅に無くなってしまう……?
 今、自分達が満喫(まんきつ)している自由は、期間限定ものだ。お金で得られるその残り期間も、もうほとんどない……。

 考え疲れてうとうとし始めている時、児玉の携帯電話が鳴り出した。
 須藤からの電話だった。


― 68 ―


 「はい。もしもし?」
 席を立ち、マナーを気にして待合室を出る。
 『あぁ須藤だけど。今は……どの辺にいるのかな?』
 「どの辺……? 駅です。S駅という所なんですけど……」
 『S駅……? どこだろう、聞いた事ないなぁ。悪いけど、県名を教えてくれるかな?』
 「はい……」
 そして児玉は県名を告げる。
 告げた後に不安になる。この前のように、須藤のドッペルゲンガーに騙されている、という事はないだろうか、と。

 『ん〜……。ちょっとここからは遠すぎるね。新幹線で近くまで来てもらえないかな? T駅まで来てもらえれば、かなり助かるけど』
 「新幹線……ですか?」
 突然の話にとまどう。そんなものを利用しては、お金を大幅に使ってしまう。

 「何かあったんですか……?」
 でも、事次第では行かなくてはならないだろう。須藤の口調がやたら明るいのが、逆に不安になる。
 『あぁごめん。君達の事がさ、決着つきそうなんだよ。……いや、確実とは言えないけど、多分、うまくいくんじゃないかと思う。だからメリーに会いに来てほしいんだ』
 「え……、メリーさんに……?」
 駅の出入り口を前に、立ち止まる。顔が知らずに歪んでいた。

 『メリーはさ、麻薬を欲しがっていたようでね。そんな話、君らもしてなかったっけ? で、その麻薬をさ、入手したんだよ』
 「麻薬を……?」
 犯罪、の文字が頭の中に滑り込んでくる。
 『うん。それでさ、向こうに渡す条件として、君らを人間に戻してもらおうと思ったんだ』
 「人間に……ですか?」
 突然の話に鼓動が反応する。
 でも「人間に戻す」という言葉にちょっとだけショックを受ける。今の自分は、人間ですらないのだと。

 駅を出て、ひと気のない壁を見つけて、それを背にする。
 『だから、こっちに来てほしいんだ。メリーは君らを見つける事ができないようだからね』
 「え?! もうメリーさんに会ったんですか?!」
 『……いやいや。まだだけど。僕の影の知識としては、そうなんだ。メリーは君らの所に飛んで行けない。君らがまだだいぶ、人間っぽいからだろう』
 その言葉を遮るように。児玉の眼前に、蝶がまた姿を見せた。
 
 蝶は、この話が間違いだとでも言いたいのか。それとも行くべきだと言いたいのか。児玉は息を呑む。
 「そっちに行けば……本当に人間にしてもらえるんですか……?」
 『あぁそうだ。メリーの妙な気まぐれに会わなければ、だけど……。まぁ命がけじゃないと言えばウソになるね……。どう転ぶかわからないからね』
 改めて、電話向こうの須藤を疑ってみる。その口調はやわらかだ。以前に会った須藤に間違いないと思う。
 ただ自分に、ドッペルゲンガーとの区別がつくかどうかはわからない。

 とにかく、これは待ち望んでいた機会かもしれない。どの道、またメリーに会わなければ、自分達の決着がつく筈もないのだ。
 この前もメリーに会う決心をしたのだ。今回、渋(しぶ)る理由もない。
 「じゃあ、佐々木さんと……相談してみます。決まったらこちらからお電話しますので」
 『あぁそう? じゃなるべく早く。僕もいつ寝首をかかれるかわからないんでね。条件無視で、麻薬だけ盗られるかもしれない』
 その話は、近くにドッペルゲンガーがいる事を言っているのか。それとも、須藤がかなりドッペルゲンガーの色に染まってしまい、メリーに居場所を察知される事を言っているのか……。
 だとしたら、佐々木がメリーに感知される日もそう遠くはないように思えた。姿を消す頻度(ひんど)も激しく、人間とは思えない怪力まで手にしている。

 そして電話は切れた。
 ――須藤が麻薬を入手した。それにより自分達は人間に戻してもらえるかもしれない。
 急に湧いた、願ってもない話だ。上手くいくかは別として、お礼を言うべきだった、と後悔する。


 蝶はじっと児玉の頭上に居続ける。こちらに人目が向いている。これだけきらびやかに光っていれば、いやでも目立つ。
 蝶に頭を下げて、児玉はまた駅の構内に入る。

 ――佐々木がいない事には、結論は出せない。
 今頃は元に戻って、自分を捜し回っているだろうか?
 お互い捜し歩いてすれ違うのもイヤなので、この駅を動かない事にした。慣れない手つきで携帯を閉じ、また待合室に戻った。





 終電の時間が迫り、児玉は佐々木を待つ事をあきらめた。
 事前に調べておいたビジネスホテルに向かう。駅のすぐ近くなので、充分に歩いて行ける距離だ。
 寒いので、児玉は走っていった。荷物は駅のコインロッカーに置いたままだ。佐々木がキーを持っているので仕方がない。

 立ち並ぶビル群のさなか、ビジネスホテルの看板が目に飛び込み、一応の安堵(あんど)を迎える。
 玄関脇の案内板には、入浴500円、宿泊3500円とあった。随分安い。迷うまでもなく、玄関をくぐった。
 「いらっしゃいませ」
 なるほど、中は狭く、数メートル四方しかない。奥のソファには、数人の中年男性がたむろっていた。
 フロントのおじさんに説明を受け、非常階段のような狭い階段を上り、3階に向かった。そこが女性専用の階、となっているらしい。
 女性客の宿泊は少ないので、1階の風呂を使う事はできないらしい。階に備え付けのシャワールームを使用してほしい、との事だった。

 3階につき、ドアを開ける。
 そこは二段ベッドがずらりと並んでいた。初めての光景に、とまどう。
 渡されたキー番号は304。そのプレートを探し、着くべきベッドとロッカーは見つかった。

 ベッドは全部で12ほどあった。使われているのは、自分もあわせて3つ程度のようだ。
 304のロッカーにサイフと服をあずけ、薄手のローブに着替える。ロッカーのキーとタオルを手に、シャワールームを探す。室内の奥のドアにそう書かれていた。

 そしてシャワーを浴びる。
 こういった宿泊施設の利用にもすっかり慣れてしまっていて、とまどいもあまりない。基本が掴(つか)めたので、かなり応用が利くようになった。
 「すみません……」
 佐々木を捜す事もせず、早々と勝手に宿泊してしまっている事に、今になってやっとためらいを感じた。
 シャワーを早めに切り上げると、児玉はすぐさま床についた。





 「おはよう」
 目覚めるなり、傍から声がかかる。
 阿部が頼りにしていた、須藤の影だった。

 「お〜! 顔痛ぇ〜ってなぁ? そうだろう?」
 やや離れた所から、オリジナルのおどけた声もかかる。
 阿部は布団に寝かされていた。自分の部屋か須藤の部屋だろう。
 「……お前に刺された腹の方が痛え」
 阿部は気力をふりしぼって、そんな悪態をつく。
 そして改めて、生きている事に安堵した。

 顔と腹に包帯を巻かれているようだ。左眼がすっかり覆われている。やはり眼球をやられてしまったようだと気づく。
 「話は大体聞いたよ。メリーさんを殺そうとしたって?」
 須藤だ。やはり自分を助けてくれたのだ……。
 「すみません……」
 謝りはするが、反省はしない。メリーとよりを戻すような気持ちは一切なかった。

 「どうしてそんな気を起こしたのか、君から聞きたいがね?」
 見えない須藤の顔が、急に恐ろしく感じられた。
 どうやら無事に治療はしてもらえたようだが、返答次第ではこのまま生かしてもらえるかはわからない。
 須藤はメリーを慕っている。刺激はできない。

 寝起きで頭が回らない、というのもあるが、阿部はしばらく返答できなかった。
 そしてやっとの事で口を開く。途端、頬に激痛が走った。でも、言わずに済ませられないだろう。
 「僕は……自分の事で悩んでいました。ずっと……昔からですね。……ヒトを殺すのを何とも思わなかった時期が過ぎて……、人間としての何かが見えるようになってきてから……でしょうか……」
 「その何か、というのは、おそらく良心……ですね。僕はヒトを殺した過去を、悔やみました。何であんなに残酷で無慈悲な事をしでかしたんだろう……と。そういう後悔が僕の中で芽生えてきたんですね……」

 オリジナルが乾いた笑いをあげる。阿部は気にせず、続けた。
 「僕はどうすればいいのか、わからなくなっていました。それからずっと……でしょうか。自分は悪魔を演じきればいいのか、それとも過去を清算する道を探した方がいいのか……考え続けてきました」

 なるべく顔の傷に負担がかからないように、とおそるおそる喋ってはいたが、早くも限界がきた。顔じゅうに激痛が戻り、阿部はしばらく口を閉じる。
 ……でも痛みは当分、やわらぐ事はなさそうだ。我慢して話を続ける以外にない。
 「そしてメリーさんと出会って、僕の中の悪魔がまた顔を出してきました。……退屈で何もない毎日より、劇的な生死が背に張り付くような……、そんな刺激的な日々を送りたい……という思いが持ち上がってきました。だから、メリーさんに協力してみたんです……。もっとも、メリーさんという存在そのものが、僕にはやたら刺激的でしたから……」
 「でも結局は悩み続けました。大量殺人に加担しているような自分が、イヤになってきたんですね……。それからもどんどん……人間として変わり続けていったからでしょうか……」


 それが答えだと言わんばかりに、阿部は口を閉ざした。
 「なるほどな……」
 須藤の声が間近にあるのが怖かった。今すぐにでも、ナイフを突き立てられるのではないか、という恐れがあった。
 「人間になっていくと、そんなに弱くなっちまうのか……。困ったな」
 須藤は怒るでもなく、阿部の今を自分に重ねあわせていた。

 「とにかく治療は済ませた。応急処置、と言えなくもないけどね。……それで、だ。命が惜しかったら、早々にここを立ち去るべきだ。メリーさんがいつ、ひょっこり現れるかわかったもんじゃない。……ヘタをすると、僕も殺されかねん」
 須藤は腰を上げる。
 「……阿部くん。悪いが協力できるのはここまでだ。僕はもう帰らせてもらうよ。メリーさんが怖いんでね。……もっとも帰ると言っても、向かいの部屋なんだがね」
 須藤は別れの言葉を一声残し、部屋を出ていった。

 入れ替わりに、オリジナルがすり寄ってくる。
 「良かったな、助かってよお。誰のお蔭だ?」
 「……須藤さんだろ」
 首を向こうにねじ曲げる。途端に腹が痛み、顔をしかめた。そして更に、顔面がまた痛んだ。
 「……他には?」
 「うるせえ……。誰も……いるワケない……」
 いい加減、オリジナルには愛想が尽きた。殺せるものなら殺してやりたい、とさえ思い始めてきた。

 「ひひひ。そろそろ機嫌直してくれよぉ? もうお前を殺そうなんて思わないからさぁ。仲良くやってこうぜぇ?」
 「……黙れ。殺すぞ!」
 阿部は激しい拒絶を見せる。

 「は? 殺すぅ……? 笑わせるじゃないかよ。俺がここで包丁突き立てりゃあ、一発じゃねぇか」
 そんなオリジナルに、阿部は口元をひねる。
 オリジナルはもう、以前のオリジナルではない。自分の代わりに、ドッペルゲンガー化がかなり進んでいるように見える……。
 話をこじらせると本当に殺されかねない。阿部はもう、返事をやめた。

 それから幾度かくだらない話を投げかけてきたが、オリジナルもやがてあきらめ、どこかへ行ってしまった。
 痛みはまだひどいが、いつまでもここにはいられない。いつメリーが顔を出すかわからない。
 阿部は無理に起き上がった。腹筋に負担がかからないよう、身をひねる。

 右目は生きている。部屋を見渡し、吊るしたままの洗濯物から厚手のもの選んで着込む。
 ふと見た枕元に紙袋があった。中を開けると錠剤がかなりの数入っている。説明書きはないが、痛み止めや化膿(かのう)止めかもしれない。ありがたく受け取る。

 顔の包帯も、表を歩いていれば目立つ。サングラスとマスクなどが必要かもしれない。
 パーカーも羽織る。そしてサイフ。あと必要なものはないか……部屋じゅうを見渡すが、思い浮かばない。だが金があれば何とかなるだろう。

 焦ってドアを引き開ける。
 ――眼前に飛び込む、白い人影。
 阿部は悲鳴をあげた。


― 69 ―


 メリーだ。
 その顔が般若のように怒りに歪んでいる。阿部は室内に後ずさった。

 「生きているなんてね。頭に来るわ……。須藤さんに治療してもらったのかしらね。あの人も殺そうかしら……」
 ずい、とハイヒールが向かってくる。
 綺麗だ、美しい、と頭の中が混乱しつつも、阿部は武器を探す。流しにある包丁だ。

 だがそれより早く、メリーの手が阿部の右腕を掴んだ。
 「うわああっ!!」
 ぶざまな悲鳴を上げ、懸命に振りほどこうとする。しかし……、振りほどく事はできなかった。
 爪が食い込んでくる……。昨日からまた一段と、メリーはチカラを取り戻してしまっている。自分が大金をつぎ込んで行った情報操作の威力も、もはや消えかけているのだ。

 「よくも……、私を殺そうとしたわね。阿部さん……」
 初めてみる、メリーの怒りの表情。それはまぎれもなく、自分に向けられている。
 白い美しいその人形は、握った自分の腕をへし折ろうとしているのか。伝わる激痛は、もはやまやかしではない。このままでは、本当に腕を折られてしまう。
 しかしこの期に及んで、抵抗する力が抜け落ちていた。
 その整った顔を殴ってまで、腕を振りほどく気にはなれなかったのだ。


 焦りに顔を歪め、阿部はどうする事もできないでいる。
 メリーの怒りはなおも強まっていった。冷静なイメージはまるで吹き飛んでしまっていた。
 「……汚らしい手を使って……この私を消そうとするだなんてね! 私にどんな恨みがあったって言うの、阿部さんは?! ……言ってごらんなさい!!」

 ……メリーへの恨みはない。
 阿部が返答に詰まっている短い間、メリーの表情がまた劇的に変化した。歯を獰猛(どうもう)に剥き出し、閉じられた両の瞼(まぶた)からは涙が吹き出ていた。
 しかし、阿部がそれに気づく余裕はなかった。握られた右腕に、メリーの親指が深く食い込んだからだ。
 音を立てて穴が開き、血が湧き出した。


 建物全体に響き渡るかのような阿部の絶叫。
 「……どうしたッ!!」
 向かいの部屋のドアが開き、須藤の影が飛び出てきた。

 涙顔のメリーが振り向いて、須藤をも睨む。
 「あああアナタもッ!! 殺すわよッ!! 私を裏切ったんですものねッ!!」
 その紅潮しかけているメリーの顔に恐れをなし、須藤は玄関口で踏みとどまった。
 助けに入れば……、本当に殺されてしまう。

 そんな須藤の肩を軽く叩く、黒い影。……阿部のオリジナルだ。
 「右腕、痛え……」

 阿部のオリジナルを見て、メリーの表情は多少おさまる。
 「何……? アナタも殺されたいの?」
 「え? とんでもない! 殺されるくらいなら、メリーさんを殺しますよぉ、僕は」
 そんな切り返しに、メリーは激しく笑った。

 「キャーハハハハハ! 楽しい方ねぇ。やってごらんなさいな!」
 「いえ、冗談ですから……。ほんの……ね、冗談ですから……」
 その顔の歪み。そして不要に冗長とした返事。何か策があるのか、とメリーは気をとられた。
 直後。メリーのドレスが大きく裂けた。

 背からほとばしる、真っ白な水。
 斜めに切断された髪の端。
 怒りも笑いも忘れ、その目は見開かれている。
 急速に失われた平衡感覚。音もない。
 そしてメリーは、声もなく倒れた。


 メリーの背を包丁で切りつけたのは、阿部だった。
 左手でのぎこちない切り方ではあったが、それはまともにメリーの背を切り裂いた。
 「……まだだ……! 致命傷にならない!」
 阿部は包丁を握り直そうとするが、体の激痛でそれも上手くいかない。
 「おおお、おい! 何とかしてくれッ!」
 オリジナルに助けを求める。

 「そうかよ。俺に主役になれってのかぁ?」
 ずかずかと土足で室内に入り、倒れたメリーをまたいで、阿部から包丁を受け取る。そしてメリーの脳天を見据え、包丁を両手で力強く構えた。
 「じゃあ……この世の見納めだな、キレーなフランス人形さんよ……へへへ」
 「おい、やめろッ!! ……やめてくれッ!」
 須藤が割って入る。

 「ちょっと待ってくれ……。頼む。殺さないでくれ……」
 「は?! おいおい……おっさん、困るよ……」
 オリジナルは、須藤をどう扱っていいのかわからない。ただ、阿部の命を救ったばかりなので、簡単に逆らっていいものとも思えない。
 須藤は全身でメリーをかばう。そして頭を下げた。
 「……メリーさんを殺すだなんて……やめてくれ。それだけはダメだ……! 取り返しがつかないんだ……」

 「こんなに美しいものが……生きているんだぞ? 奇跡だとは思わないか? ……なぁ? だから、頼むから……殺さないでくれ……!」
 須藤は争うでもなく、低姿勢を見せる。上げたその顔は今にも泣きそうだった。
 阿部とオリジナルは顔を見合わせる。二人とも言葉を失っていた。

 「全くよぉ。何だよ、おじさんよぉ……。いい歳してロリコンかぁ? こんなの美しいなんてったらさぁ、少女趣味丸出しじゃねぇかよ……」
 阿部のオリジナルは、すっかり呆れ顔になっていた。
 「何とでも言ってくれ。……でもダメだ。殺さないでくれ……」
 須藤の影は懸命に首を振る。

 「……だとさ。大将どうする?」
 オリジナルは阿部に意見を求める。
 阿部は朦朧(もうろう)としながらも、倒れたメリーをきつく凝視する。今また新たに、右腕に穴を彫られた痛みで、全身が激しく汗ばんでいた。傷口を押さえた左手も、すっかり血まみれになっている。
 「メリーを殺せるチャンスは……もう他にはない……! ここでやらないときっと後悔する……!」
 「やめろっ!! やめてくれ……!」
 須藤の影は一際高く哀願する。


 阿部は唇が千切れるほど、強く噛む。その後、答えを出した。
 「……須藤さん。これで貸し借りなし、としましょう……」
 オリジナルから包丁を受け取り、流し台の上に置く。

 「でも……次の機会には、絶対に殺します。邪魔をするのなら、貴方も含めて」
 「わかった……。覚えておく……」
 須藤も唇を噛んだ。
 「とにかく……止血しておこう。腕を見せてくれ」
 そんな須藤に、阿部は首を振った。

 「痛い……」
 うつ伏せたまま、メリーは小さく呻く。阿部はもうメリーを見向きもせずに、オリジナルと共に部屋を出ていった。


 場が静けさを取り戻す。
 須藤はメリーの背の傷口を見る。
 「……メリーさん。背中を斜めに切られています。縫わないといけません。すぐ、部屋から道具を持って来ますので。……まぁ見た感じ、そんなに深くは切られていないようですので……、大丈夫でしょう。命に別状はないと思います。人間であってもね」
 須藤の顔に明るさが戻る。
 「須藤さん……」
 メリーがか細く呼び止める。
 「さっきはごめんなさいね……。やっぱり須藤さんはお優しいのね……。私の事を真剣に守って下さって……。ありがとう……愛してます……」
 そんなメリーの言葉に須藤は苦笑を浮かべる。
 「え? ははは。そんな事言わなくてもいいですから……」

 部屋に戻りながら、須藤は考える。
 (愛している、だなんて……)
 メリーの口からそんな言葉が出てくるとは、夢にも思わなかった。
 だが、それはあまりにも心地よい響きだった。


― 70 ―


 「そうか……それは困ったね。……じゃあやっぱり、僕が車でそっちに迎えに行った方がいいのかな。そっちでさ、佐々木さんが出て来るのを待つって事にしてさ……」
 その日の昼前。児玉は、佐々木が2日経っても姿を見せない事を、須藤に電話で告げていた。

 「いえ! ……せっかくわざわざ来ていただいても……、佐々木さんがいつ顔を出すかわかりませんし……」
 「そうだねぇ……。じゃあ佐々木さんが戻って来たら、また電話もらえるかな?」
 「はい……。そうします。……どうもすみませんでした……」
 「いやいや! なにも児玉ちゃんが謝る事はないよ……」

 電話を終え、児玉はうらめしそうに駅前の風景を眺める。
 今まで佐々木が姿を消したのは何度も見てきたが、日をまたいで姿を見せないのはこれが初めてだった。
 ……今日は姿を見せてくれるだろうか。何事もなかったかのような明るい顔で、現れるだろうか……?
 今日がダメでも、明日になればどうだろう……? それとも、明日もあさっても……姿を見せないだろうか……。

 「佐々木さぁん……」
 まさかとは思うが、このまま2度と現れないのではないか、という不安も持ち上がってくる。
 いずれにせよ、それは近い未来に起こりうる事だ。
 何しろ、佐々木のオリジナルとなった影は、とうに死んでいるのだ。このまま佐々木のドッペルゲンガー化が進んでいけば、佐々木はオリジナルを失ったドッペルゲンガーとして、消滅しかねない……。
 誰に教えてもらったワケではないが、そういうものなのだとわかっている。自分もドッペルゲンガーとして、それなりの知識を得たのだろう。

 もしここで急激に佐々木を失ったのだとしたら。この先、一人で生きていかなければならないんだろうか……?
 せっかく須藤さんが、麻薬を手に入れたというのに。それをメリーの所へ持って行って、話をつければ、自分達は人間に戻してもらえるかもしれないというのに……!
 ……その喜びは絶対に、3人で分かち合いたい。誰が欠けてもダメなのだ。
 だからこそ、佐々木をここで見殺しにするワケにはいかない……。できる限り、待ち続けるのだ……。

 でも。手持ちの金では、せいぜいあと1週間もつかどうかだ。
 素泊まり3000円弱の安いビジネスホテルが近くになかったら、3日ともたなかったかもしれない。
 今は無駄使いを抑えて、1日でも長くここに居続ける事だ。お金が無くなってどうにもならなくなったら、その時、須藤さんに助けを求めよう……。
 ……とにかく。今は佐々木を捜し歩くか、この場で待つ以外にない。佐々木が現れる事を祈るしかない……。

 ベンチに座ったまま、ただぼうっとし続けるのもいいかげん疲れ果てていた。昼食のパンでも食べたら、またその辺を捜し回ってみようと思った。





 「阿部さんを殺したいわ……」
 眠りから覚めたようで、そうポツリとメリーがつぶやく。
 「……そうですかね」
 傍にいた須藤も、否定はしない。

 「首が痛いわ……すごく」
 「仕方ないですね。丸3日も眠ったままではね」
 背中を縫合したため、メリーはうつ伏せのままなのだ。しかもベッドではなく、床の上にさほど厚くもない布団では、体が痛くなっても仕方ないだろう。阿部の生活感のないこの部屋に、今更ながら須藤は軽い疑問を感じたりする。やはり、あまり睡眠は必要としていなかったのだろうか。

 「ドレスは洗っておきましたから。阿部くんの洗濯機を使わせてもらったんですけどね」
 「……そう」
 阿部、の単語に反応し、メリーはまた表情を曇らせる。しかもここは阿部の部屋なのだ。

 「少し、起き上がりたいんですけど、よろしいかしら? 汗をかいてしまって……」
 「あぁ……大丈夫ですか? 包帯を取り替えましょうか?」
 「……まだいいわ。体が痛いだけですから……」
 掛け布団とシーツをとると、半裸のメリーがゆっくりと起き上がる。包帯を胸から腹にかけて巻かれている。下着の類はつけていない。

 「あぁ、暑いと思ったら……ストーブを?」
 メリーは、部屋の隅で微風をよこしている電気ストーブを、拍子抜けしたように見つめる。
 「あぁ、すみません。少し暑かったですか。でも外はやたら寒いんでね。このくらいが丁度いいと思ったものですから……」
 キッチンの方からシュンシュンという音。須藤はコンロの火を止め、ポットに湯を移す。

 「……ねぇ」
 メリーの元に戻るなり、聞きなれぬ口調がよこされる。須藤はやや、ぎょっとした。
 「ありがとうございますね、須藤さん……。貴方にはもう2度も、命を助けていただいたわね……」
 須藤は首を振る。
 「いえいえ……お気になさらずに。医者の性分というヤツですよ。阿部くんも助けてしまいましたからね……」
 「そうね」
 メリーは苦笑いを見せ、頭をかく。

 「あぁそうだ。僕のオリジナル……いや、今は影となったアイツですが、ちょっと前に顔を見せましてね。……麻薬を持ってきたと言うんですよ……」
 そう聞き、メリーの表情が子供のように輝いた。
 「本当に?! あの麻薬を……?」

 「えぇ。向こうはそれで決着をつけたがっているようです。メリーさんに麻薬を渡して、自分達は人間に戻してもらうというつもりのようですね。……もっとも僕のオリジナルは、それでよしとはしないつもりでしょうけどね……」
 ……必ず自分を殺しにくる。須藤の影はそうわかっている。
 「人間にねぇ……」
 メリーはつまらなさそうに言う。

 「でも注意して下さいよ? 僕が見たところ、メリーさんの体は、か弱いんですよ。人の頭を簡単に握り潰せるくらいの腕力があるのが信じられないほど、メリーさんの体そのものは……もろいんです。まるで人間並みにね……」
 「そうなの……?」
 そう言いつつ体に巻かれた包帯を取ろうとするメリーを、須藤は軽くいさめる。
 「今回阿部くんに切られた傷も、だいぶメリーさんの体力を奪ってしまったように思えます。それにですね、メリーさんは傷が治りにくいような気もするんですよ……。回復力がかなり悪い」
 思った事をそのまま口にしたが、メリーの反応は鈍かった。
 「……そう。ところで、何か食べるものはないかしら……? 阿部さんのものでも戴くわ……」
 「了解……」
 須藤はもう言うのをあきらめて、冷蔵庫のあるキッチンに足を向けた。

 パソコンのデスクに置かれたままの紙袋を見やる。阿部が忘れていったものだ。自分が阿部のために用意した、痛み止めと化膿止めなどの薬だ。
 (あのままでは長くもたない……。どこかで薬を調達して、息をひそめているか。それとも、すぐにまた決着をつけに戻ってくるかだ……)
 どの道。先にメリーが回復したら、阿部を殺しに行くだろうと思った。


― 71 ―


 周囲と同じく、闇に包まれた社(やしろ)の中。阿部達は息をひそめていた。
 二人が幼少の頃に遊んだ、思い出の神社だ。十数年の時を経て、縁があってまたこの場にいる不思議を、阿部はかみ締めているのだった。
 あのアパートを後にして、3日目の夜を迎えている。

 「いつまでここにいるつもりだよ? もっとさ、遠い所に行こうぜ? おい!」
 オリジナル、今は影となった阿部がそう急かす。対して、今はオリジナルとなった阿部は寝転がったまま、首を振る。
 「どこ行ったって同じだろ? メリーさんがその気になれば、どこへ逃げたってお前の居場所がわかるんだろ?」
 「まぁそうだけどさぁ……」
 影はなかなか落ち着かない。逆に阿部の方は落ち着いている。落ち着いている、というより、体の方が動ける状態ではなかった。
 「それにさ、俺はいつ警察に捕まるかわからないからな。うろつくだけ危険だ。……俺のサイトは閉じられたってんだろ? メリーさんもすっかりチカラを取り戻してしまったしな。だったら今頃はもう、警察が俺の事を捜してるだろうからな……」
 俺、という言い方をするのは相手が自分だからだ。普段は僕や私で通してきた。
 車は、ここから離れた林の脇に放置してきた。二人はそこから自転車で来たのだ。駅前で盗んだそれらは、社の裏に置いてある。

 阿部は、額の熱で乾いてしまった濡れタオルを、枕元のバケツに戻し、起き上がる。板の間で寝ているため、体が痛い。毛布の一枚でもあればだいぶ違うだろうと思った。
 ここ数日は風呂にも入っていない。いくら横になっても、疲れがとれたような気はしなかった。
 メリーにやられた顔の傷の痛みは、和らぐことがない。顔を弱火で常にあぶられているかのような凄まじい痛みに、気が狂いそうになる。須藤に治療してもらわなければ、この数日も生きられたかどうかわからない。
 須藤に用意してもらった薬を置いてきたのも痛かった。このままではやはり、長く持たない。せめて鎮痛剤がないと、痛みに耐え続ける疲れで体がまいってしまう。

 阿部の痛みの伝染で、影の方も同様に苦しんでいた。だが多少は軽い。互いへの致命傷となりうる痛みは、伝わり方もあいまいであるようだ。
 ……オリジナルと影の関係として、影が死んでもオリジナルは死なないが、オリジナルが死ねば影も死ぬ。
 今は、オリジナルとなった阿部が、重傷を受けた。もし死ねば、影も死ぬ。元はオリジナルであった影だが、時が経ちすぎて完全にドッペルゲンガー化しているので、死はまぬがれない。

 影はリュックの中を探って、食べ物を取り出す。いわしの缶詰、ソーセージ。それをオリジナルの枕元にも放り投げる。缶詰が、傍にあったバケツの中にぶち込まれて、阿部は少し水をかぶった。
 「何やってんだ、馬鹿!!」
 そんな阿部を見て、影はげらげら笑う。でも顔と腹の痛みが思い出したように突き刺さり、縮こまる。そのままふざけて床をごろごろと転がった。

 「……お前、どっか行けよ。二人でいたら共倒れだ……。それにメリーさんが来れるのはお前の傍だけだろ? お前だけ殺されろよ」
 阿部はそう言った後、メリーが自分の所にも来れる事を思い出した。車で遠くまで逃げた時、確かにメリーは隣に現れたのだ。
 「まぁそう言うなよ……。お前一人になったところで、そんなんじゃ死ぬだけだろ? それとも病院行くか?」
 「意味ねぇだろ、須藤さんにせっかく治療してもらったのがさ……。病院行ったら捕まるだけだってのに」

 痛みをこらえながら、阿部は真っ暗な天井を見つめる。
 ――メリーを殺せるハズだった。
 なのに。泣きつく須藤にいらぬ情けをかけてしまい、その最大の機会を逃してしまった……。
 (何てバカな事をしたんだろうな……)
 今更悔やんでも遅い。あの一瞬はもう、戻ってはこない……。

 (ダメだな……。せっかくの運を自分の手で逃しちまったんだ。……もう殺されて終わりだ。あんなチャンスはもう二度と来ない)
 動くのもおっくうになったこんなザマでは、もはや戦うどころの話ではない。
 今にでもメリーは現れ、今度はしっかりと、自分の頭を握り潰すかもしれない……。
 ――「死」は間近にある。
 今度こそ、自分はそこから逃れられないだろう……。


 奥に控える質素な祭壇をぼんやりと見つめる。幼少の頃に見た面影と確かにダブる気がした。
 「……なぁ。おかしいと思ったんだけどさ……、どうして俺はここを見つけたんだ……? 偶然にしちゃ、あまりにも偶然だしな……。変だと思ってたんだけどな……?」
 阿部の疑問に、影は暗闇から顔を向ける。
 「何の話だ、大将……?」

 「あのホームセンターの駐車場で、お前と久しぶりに会って……、俺はその足でこの神社に来た。その時、車をテキトウに飛ばしたんだ。こんな、思い出の場所に向かおうなんて頭は、全然なかったんだ……」
 「……なんだ、そんな事か。答えはある。偶然じゃないさ」
 影は鼻で笑った。その目がいやらしくぬめって見え、阿部は目を細めた。

 「いいか、よく聞け。俺達ドッペルゲンガーはな、現実じゃあない所とつながっている。……<無意識>って所だ」
 「無意識……?」
 どんな話が出てくるか、と思いきやそんな単語に阿部は面食らった。
 「……子供の頃に通る悪夢に、<地獄>ってあるだろう? ……あれだよ。俺達は、そこと深いつながりがある。……もっとも、お前の方がよく知ってなきゃおかしい話だけどなぁ? お前はそこから来たハズだからな。それともすっかり平和ボケしちまって、忘れたか?」
 影の笑いにひどく黒いものを感じる。
 「優秀な影はな、その<無意識>に行けるんだよ。いや、言い方を変えれば、「戻れる」んだよ。……アホじゃ見えないし、行けない。でな、そこはやたら遠いんだけどな……、そこに行けば、影はオリジナルを操れるって事に気づくんだ」
 「……なに?」
 阿部は、体を硬直させる。

 「……完全にじゃないが、操れる。オリジナルが無防備になった一瞬をついてな、入れ替わる。意識だけな。……そうして、俺はお前さんをここに連れて来たんだよ。この神社にな……」
 「お前……! 俺を……操った、だと……?!」
 阿部は顔の痛みも忘れて、激しく怒鳴った。

 「まぁそう怒んな、大将……。大したこちゃねぇだろ? ソーセージでも食って、落ち着けよ」
 「うるせぇこの野郎ッ!! ……俺を……操れるのか、お前は……?!」
 ソーセージを掴み取り、床に打ち付ける。
 「ははは。まぁ〜な。実は殺す事もできる。簡単なもんだ」

 「ウソだ……」
 阿部は力を失い、呆けた顔で肩を落とした。
 しばらくして顔と腹の痛みが戻ってきて、倒れるように寝転がった。


 「……心配すんなって。ホント、たまぁにしかやれねぇからさ。まぁそうだな……、いい夢を見たいと思っても、そう簡単には見られるもんじゃねぇのと似てる。……あん時はたまたまだよ」
 そう言ってなだめるが、阿部はすっかり放心に至っていた。

 「大将よぉ……。んな事、今は全然重要じゃねぇだろ? 今はメリーなんじゃないの? アイツに殺される前にさ、何か手を打っとかねぇと。次は殺されんぞ? 俺ら二人ともさ……」
 「……わかってる。でも手なんかねぇだろ……」
 阿部は今の話がショックで、それどころではなかった。
 自分は一瞬でも、影に操られていた。そして自分を殺す事もできると言う……。

 「……頭イイのが二人もいるんだからさぁ、何かできるんじゃねぇの?」
 影はそう言うが、阿部は影をチラリと見るなり、考えを打ち消す。
 「無理だな。……それに、パソコンもないしな」
 阿部も腹が減ったのか。床に投げつけたソーセージを取って、食いだした。

 「爆薬でも作ってよぉ……、メリーが来たら爆死するか?」
 影はそう言って笑い出す。
 「……ふん。いいな、それ。お前の役にピッタリだ」
 阿部もそう切り返して苦笑する。


 その時。鋭い光が、木造りの扉の格子から差し込んだ。
 「まさか……メリーが……?」
 二人は跳ね起き、身を隠して様子をうがかう。

 暗闇の境内に舞う、小さな光の塊。
 それは……、光輝く青白い蝶だった。


― 72 ―


 「おい……何だありゃ……?」
 突然現れた不思議な蝶。阿部達は社の中から格子ごしに、それを見つめる。

 それはただひたすらに美しい、光の粒の結晶だった。
 闇夜に映え、光輝くその蝶は、無数のきらめきを周囲に明滅させながら、静かに羽ばたき続けている……。

 静かに扉を開ける。そして二人揃って社の前に踏み出した。
 裸足のまま、二人は蝶の下へ歩み寄る。
 怖がらせないようにゆっくりと。蝶を見据えたまま、呼吸の荒さにも気を配る。

 そして二人の視界いっぱいに、その蝶がおさまる。
 それでも蝶は逃げようとしなかった。
 阿部達はそれから長く、無言で見つめ続けた……。

 今は包帯を脱いで、傷だらけの素顔をその光にさらしている阿部だが、不思議とその光を浴びている事で、傷の痛みが幾分かでも和らいでいくような錯覚にとらわれるのだった。
 「さ、寒ィな……!」
 影が思い出したように身を縮める。
 「夢見てるみたいだよな……」
 阿部は影に相づちを求めて笑みを向ける。影はわかったように、何度も頷きを返す。
 「……まったく、何が起こってんだろうかな……?」

 「奇跡の、新種の蝶の発見ってトコかぁ? それとも……メリーに関係するものかもな? ……って、コイツまさか、メリーじゃねぇよな……?」
 影がそう言うと二人とも急に恐ろしくなり、周囲にも目を配ったりする。
 「大丈夫だろ……。あのお嬢さまなら、そのまま出てくるだろうしさ……」
 影はそう決めつけ、一人で安堵する。

 「まぁ……メリーと匹敵するぐらいの美しさって言うか……不思議さだよな……」
 この蝶はもしや、メリーと対するものなのか。ふと阿部はそう思ったりする。
 影は急に笑いだす。
 「ははは。それにしてもよぉ、花火みたいな蝶だな……! 火の粉が吹き上がって……そして消えてくってなぁ……」
 今度は影が笑顔で同意を求めてくる。阿部も苦笑しつつ、頷きを返した。


 「わかったぞ。こいつは多分……きっと……、<人間の夢>だ」
 そんな阿部の言葉がわからず、影は怪訝(けげん)な顔を向ける。
 「何だよ、人間の夢って……?」

 「そういう都市伝説があるんだ。「現実の夢」を見ている時、その人間は「夢の形」をして、現実に現れる事がある、ってな……」
 「……ハァ? 都市伝説かよ……テキトウくせえなぁ……?」
 影は首を振るが、阿部も別の意味で首を振る。
 「現実と夢は、つながっているんだよ。だから、メリーも存在してるんだ。俺らドッペルゲンガーもな……」
 阿部の顔が輝いている。さっきから顔じゅうの傷が痛んでいたが、心地よさはまるで消えなかった。

 「……おい!」
 ふいに、蝶が真上に高く舞い上がる。二人は動じて、思わず後ずさる。
 境内を覆う周囲の杉の木々よりも高く上がった後、蝶は光をたずさえたまま、二人に見える位置で、大きく旋回し始めた。

 「どっか連れてくって言ってんじゃねぇのか?! ……チャリだ!」
 二人は慌てて社の裏に駆ける。そしてお互いの自転車を取り、境内に戻る。
 蝶は二人の準備が整ったのを知ってか、すい、とそこから泳ぎだす。
 二人は自転車をガタガタ言わせながら、石積みの階段を転げるように下りる。

 階段下の鳥居を抜け、アスファルトの道路に出る。
 広い夜空。輝く蝶はすぐに見つかった。
 「まだいた! あそこだ!」 
 蝶は小山の中際をゆっくりと飛んでいる。それはやがて、道路沿いに下りた。
 「間違いないな……これは。消えないしな。あの蝶、俺らに用があるんだ……!」

 「……ところで大将よ。行けそうか?」
 影がそう気遣ってくる。自転車にまたがり、自分は行く気満々だ。
 「どこまで連れて行かれるかわかんないけどな……」
 ついさっきまで、熱や痛みに呻いていたのだ。今は気分の高揚により、一時的に痛みが和らいでいるようだが、この先どこまで行けるかはわからない。
 「行ける所まで、だな」
 阿部も自転車にまたがる。

 「俺、サイフ持ってるからよ。何かあったらどっかで寝てろや」
 影がジーンズの尻ポケットを叩いてみせる。
 「それよか、包帯巻かねぇか? 痛ぇだろ、それじゃあ……?」

 「大丈夫だ。それに包帯してた方が目立ちそうだからな」
 阿部の顔。縫うところは縫ってあり、皮のめくれたところはガーゼで覆ったり、塗り薬で済ませてあるところもある。包帯をしていないと、つぎはぎだらけの顔だった。

 蝶はそんな二人の様子を見ていたのか。話が決まったと見るや、また宙を滑り出した。
 阿部達も追って、自転車を走らせた。





 それからこの真夜中の数時間。二人は蝶を追って自転車をこぎ続けていた。
 「どこまで行く気だよ……! もういい加減にしてくれや!!」
 始めは夢見心地の二人だったが、今はもう汗だくで、フラフラになりかけている。

 それに、蝶は目立ちすぎるようで、二人の後を面白がって、車でゆっくりとついて来る輩までいた。
 「いつまでついて来んだよ、このクソカップルーーッ!! ぶち殺すぞおおっ!!」
 そんな影のおどしなど、聞こえていない。車内に響き渡るBGMは、前を走る阿部達にも耳障りなほどの高音量だ。
 フロントウインドウから見える若い男女は時折、窓から顔を出し、携帯電話のカメラで蝶を撮ったりしている。時速40キロ以下で走り続けるその車を、後続のどの車も追い越していく……。

 「やべ……もうダメだ……!」
 ブレーキの音。阿部が足を止め、ハンドルにもたれかかる。慌てて影も自転車を止めた。
 「おいおい……こんな所でギブアップかよ……?」
 どこぞとわからぬ、国道の陸橋の最中。阿部はもう、息も切れ切れになっている。

 立ち止まった二人に合わせて、カップルの乗る軽自動車もストップした。
 助手席の女が顔を出す。
 「ねーー! どうしたのーー?!」
 まるで友人に話しかけるように、遠慮がない。

 「うるせぇな! てめえらはどっか行ってろ!」
 影が本気で怒るが、カップルは動じない。
 「あのさぁ! あの蝶、追いかけてるんでしょーー?! だったらさぁ、乗らなぁい? 乗せてあげっからぁ!」

 そんな思わぬ女の言葉に、影は面食らう。
 「あぁ、ありがてぇけどな……。お前らみたいなのは、俺らみたいな殺人鬼乗せて、ブチ殺されて終わりだ……」
 そう小声で毒づき、しばらく渋い顔で悩んだ。

 蝶はその場で羽ばたき続け、明らかに二人を待っている。
 しかし、阿部の今の様子ではこの先も長い事、持ちそうにない。だったら、誰ともわからぬバカなカップルであろうが、車に乗せてもらった方が得策かもしれない……。
 「本当に乗せてくれんのかー?!」
 「う〜ん!」
 二人とも窓から同時に顔を出す。よく見ると、運転席にいるのも女だった。髪を上げ、スーツを着ていたから男に見えていたらしい。
 「……マジかよ……」





 橋を越えたところにパチンコ店があり、二人はその駐車場の隅に自転車を置いた。
 「さぁ、乗ってぇ〜?」
 若い女が二人。阿部達を待っている。
 「夢の上乗せだな、こりゃ……」

 影は上機嫌で阿部を抱えながら、車の後部座席に乗り込む。
 「いやぁ、悪いねぇ! 乗せてもらっちゃって!!」
 「そんな事ないよ〜!」
 女二人、同時に振り向く。その顔を間近で見た途端、影の上機嫌は消えうせた。





 軽い自己紹介などをしあいつつ、四人を乗せた車は依然、国道の最中を突き進む蝶をゆっくりと追い続ける。
 「あの蝶って何なのさあ?」
 助手席の女はミユキ、という。金髪に染め上げたストレートの長髪を終始いじりながら、テンション高く阿部達に話しかける。派手な髪と服に似合わず、まるで化粧を落としたかのように、その顔のつくりはおとなしかった。
 「さぁ……」
 影は返事をする意気もやや失って、ぼんやりとフロントウインドウごしに蝶を眺める。
 「どこまで連れてかれるんだろうかなぁ……」

 「あの蝶って、アンタ達を呼んでるんだ?」
 ハンドルを握る女は、確かに男と見まがうほどの男顔をしていた。もしかすると、女に見えるだけで、本当に男かもしれない、などと思ったりする。でも声は女のものだし、名前もアヤカといった。ミユキもアヤカも、どちらもまるでとってつけたような名前だ、と思った。
 「多分ねぇ……ところでお姉さん達さぁ、こんな真夜中に何やってんの……?」
 「え? 真夜中テンション上がるじゃん?! それだけ〜!」
 「そうなんだ……」
 影は大きな溜め息を吐き、あきらめたようにシートにもたれかかった。

 「そっちのカレさぁ! すッごいケガしてるけど……大丈夫?! 病院連れてく?!」
 ミユキの顔がすっかり後ろを向く。天井に頭をぶつけたりする。シートベルトはしていないらしい。
 「病院行って来たばっかりだから大丈夫……。悪いけど、蝶を見失わないようにだけ、気を付けて下さい……」
 阿部は丁寧にそう告げる。今は休めているので、心底ありがたい。

 「あ、ビールとか飲む? コーラもあるけど……」
 ミユキは足元からつまみとビールを差し出してくる。
 いらない、と言いかけて、影は素直に受け取ってみた。
 「ははは。色々ご迷惑をおかけしちゃって、悪いね……?」
 そして、こんな人間の女を見るのは初めてだ、とぼんやり思った。

 「ほらよ、ビールだってさ」
 阿部の頬に缶を軽くぶつける。阿部は真顔で痛がった後、首を振る。
 「俺……いいから」

 「いいから飲めって。こんな夜、初めてだろ……?」
 影のそんなセリフが、阿部の胸に突き刺さる。
 この二十数年生きてきて、見知らぬ女達の運転する車に乗せられ、正体の知れない蝶を追う……。それは確かに、初めて体験する夜だった。
 「かもな」
 缶を受け取り、別に飲みたくはなかったが、口に含む。影もビールをあおり、つまみも食い出した。
 「ありがとなぁ! お姉ちゃん達!!」
 「ど〜いたしましてぇ!」
 そんな、きゃっきゃとしたはしゃぎ声を、阿部は素直な気持ちで受け入れる。
 さっきから、「止めろ」と言いたかったうるさいBGMも、受け入れてみる……。
 バカみたいに下らない歌詞で。バカみたいに同じフレーズを繰り返すだけのつまらない曲……。
 しかし。この今に、例えようのないほど、「生きている」という実感を覚えるのだった。

 ――今まで殺してきた人間達。
 彼ら彼女らにも、今見ているアヤカ達のような、こういうおかしな一面があったのだろうか。
 話してみると、実はこんなに楽しい人間達であったのだろうか……。

 そして自分は何故、彼らを殺してきたのだろうか……。
 胸が押しつぶされて。この場で発狂して、死にたくなる。

 少しの後。ミユキらの顔が前を向いているのを確認し、阿部は影をひじでこづく。
 そして口だけ動かした。

 ――ぜったいに、ころすなよ。

 「大丈夫だよ、大将……。俺にだって、わかる」
 そして二人は同時に目をつぶり、少しの間、眠らせてもらう事にした。


― 73 ―


 いくつかの安らかな寝息と、時折思い出したように鳴り響くいびきを一晩中聞きながら、児玉は寝そべって本を読んでいた。
 このビジネスホテル内の暖房はまだ効いていないようで、ローブのままでは寒い。うつぶせに寝て、厚手のシーツと毛布を被っている。

 ボックス状に仕切られたこのスペースには、寝床と棚とTVしかない。TVを観るのは別途お金がかかるので、児玉は古本屋から100円で買った推理小説を手にしている。ゆっくり読んだつもりだったが、物語はもうエピローグを迎えていた。
 携帯電話の時刻を見ると、朝の6時。今夜もまた眠れずに過ごしてしまった。

 このホテルは一泊3000円程度で済むのだが、立て続けに6日も利用する事になってしまい、サイフの中身も寂しくなってしまっていた。
 こうして佐々木を待とうにも、もう金が続かない。金が無ければどこにも泊まれなくなり、居場所を失う。それはもう目前に迫っている。
 なのに佐々木は依然として、全く姿を見せないままだった。


 ……しかし、手持ちの金が無くなったとしても、策が全く無いワケではなかった。
 佐々木と自分の荷物がある。それは駅のコインロッカーに預けたままだ。佐々木のバッグの中には、まだ大金が残っているハズなのだ。色々と無駄な散財を目にして来たが、少なくともまだ、数十万円は残っているだろうと思う。
 駅員に事情を話して、ロッカーを開けてもらえばいい。そうすれば、まだこの先当分、このホテルで佐々木を待つ事ができるだろう。
 ……と、わかってはいるが、他人の金を勝手に使う気には、やはりなれなかった。

 本を読み終え、満足げに息をつく。古本屋ですぐに、赤川次郎が目についた。昔好きだったような、かすかな記憶をくすぐられた。読みやすくて、何より、面白い。
 誰かのアラームが鳴り、起き出す気配が感じられた。今日、この女性専用の階に泊まっているのは、全部で5人だ。起きた客を想像してみたりする。
 それから30分の間に、周囲はにぎやかになった。互いに顔見知りでもないのでみんな無言だが、何となくこの場にいるみんなに、愛着のようなものを覚えるのだった。挨拶をするものなのかどうか、ちょっと児玉は迷ったりした。

 数人がシャワールームを使った後、児玉も軽くシャワーを浴びる。
 そして昨晩洗濯した、生乾きのTシャツとジーンズに着替え、一晩世話になった寝床を整理する。読み終えた本をどうするか考えたが、持っていくのも荷物になるし、粗末に捨てるのも気がひけ、「あげます」の意を込め、畳んだシーツの上に置いた。
 フロントに下りて礼を述べ、心を軽くしてビジネスホテルを後にした。

 周囲には大きなビル群が立ち並ぶ。
 まだ朝が早いので、やや閑散として見える。人も車もまばらだ。

 ――あと2〜3日。
 ここで佐々木を待ち、それでも現れなかったら、あきらめよう。

 ……ずっと須藤を待たせたままなのだ。須藤はメリーに会うつもりでいるのだ。
 須藤はメリーが欲しがる麻薬を手にし、その交換条件として、自分と佐々木を人間にしてもらうつもりでいるらしい。
 その重要な場面に佐々木がいないのは残念だが、いないものはどうしようもない。佐々木も人間にしてもらえるよう、メリーに頼むつもりだった。

 ムダだとわかっていながらも、周囲に目を配り、わずかな人影を注視する。
 ここ数日、毎日何時間も歩き回っているので、少し歩いただけでまた、足の痛みがぶり返してきた。ムリをせず、路上脇のベンチに腰掛け、何度も休む。

 「佐々木さん……何やってるんですか、こんな時に……?」
 人間に戻してもらえるかどうかの瀬戸際なのに、佐々木は消えたまま、姿を見せないのだ。
 6日も姿を見せない、というのは今までに無かった。今まではせいぜい、半日や1日足らずだったのだ。

 ――もしかすると、消えてしまったのかもしれない。
 そんな恐れも湧き上がる。何しろ、自分と佐々木のオリジナルとなった影は、死んでいるのだ。だから、片割れのドッペルゲンガーである今の自分達も、本来は消えてしまわねばならないのだ……。
 石を割る、佐々木の影としての怪力。あの辺りが決定的だったのかもしれない。影となってから長い年月を経た佐々木は、ドッペルゲンガーというものに、かなり近づきつつあったのだ。

 ベンチに座り、呆けた顔で虚空を見つめる。
 ――何もかもが、あわただしかった。
 短い間に色々な事がありすぎて、頭の中を整理しきれない。佐々木との思わぬ出会い。それからの温泉めぐりの旅。一緒に自転車をこいだり、おいしい物をたくさん食べたり、オシャレしたり、笑いあったり……。
 そんなたくさんの出来事は、あっという間に、過去のものになってしまった……。
 今は何故かまた、一人になってしまっている……。

 佐々木という優しいお姉さんは、もう二度と姿を見せる事はないのだろうか……? こんなにも、呆気なく……。
 こうしている今にも、肩を叩かれて、笑顔で「おはよう!」などと、お気楽に言われるような気がするのに。
 泣いて、泣き叫べば、心配して、来てくれるだろうか……?

 「佐々木さん……!」

 自分にはもう、何もなく。携帯電話だけ握り締めている。
 まだ会えない母。そして須藤とつながっている、姉がくれた確かなお守り……。

 「ピリリリリリ!」

 電話が突然鳴り出し、思わず児玉は電話を落としてしまった。あわてて拾う。
 見覚えのない電話番号。母でも、須藤でもない。しばらく不思議な気持ちで眺める。
 「間違い電話かな……?」
 
 着信音が周囲に鳴り響いている。児玉は電話を受けた。
 「はい……?」
 『モシモシ? ワタシ、メリーよ? ……児玉さん、お元気でした? 今ワタシ、近くの駅にいるの。今から……』

 「メリーッ!?」
 児玉は絶叫に近い叫びをあげてベンチを離れ、電話をまた足元に落とした。
 だが今度は拾う気にならなかった。
 
 立ったまま、電話を信じられない思いで見つめる。
 「どうしてこんな時に……メリーが……?!」

 「ピリリリリーーーッ!!」

 また携帯電話が鳴り、児玉は身を縮める。
 恐ろしくて取る事などできない。
 何が起こっているのか、わからない。児玉は両手で頭を抱え、その場で震えた。

 「オホホホホ……。何も電話くらいで、そんなに驚く事はないでしょう? 児玉さん……」

 笑った顔で。後ろにメリーがいた。


 ― 74 ―


 しばらくは言葉も忘れ、児玉はメリーを凝視し続けた。

 「私が会いに来たのが、そんなに意外かしら? ……この前だって来たでしょう?」
 メリーは穏やかな顔で児玉に歩み寄る。児玉は携帯を拾い忘れたまま、危なげな足取りで後ずさる。
 朝起きたばかりで、こんな局面に遭遇するとは夢にも思わず、頬をつねろうとすら思った。

 周囲にはぽつぽつとしか人影も無い。不用意に助けを求めても、その人を危険にさらすだけだ。
 かと言って、逃げても逃げ切れるものなのか……わからない。

 メリーの言う、この前、というのがやっと思い出される。――二週間ほど前。自分達はメリーに会う決断をした。しかしその時、メリーの方から、須藤の影とともに現れたのだ。
 車内という閉鎖された空間の中。敵の手中に落ちて、佐々木と共に縮こまっているしかなかったが、高速道路で思わぬ渋滞にあたり、車が止まった時に逃げ出す事ができた。メリーらとはそれっきりになっていた。

 「……私に……、何の用があるんですか……?」
 まるで見当もつかない。今は佐々木もいないので、やけに心細くなっている。
 メリーを前にして、震えしか湧かなかった。

 ――もし、こんな所で殺されたりしたら。
 自分は何もかもを中途半端にしたまま、死んでしまう事になる。
 そんな児玉の恐れを察してか、メリーは冷たい笑いを返した。
 「死ぬのが怖いのね。……それは私も同じだわ」
 それが好意的な言葉なのかどうか、児玉にはわからない。

 「用事、って言いましたわね。……そうね。児玉さんの事が、少しだけ見えたから来てみたの」
 「私が見えた……?」
 「そうね。陰が出来始めてきたって事よ。私はドッペルゲンガーとは相性がいいの。元がドッペルゲンガーだからね」
 ……メリーがドッペルゲンガー?
 初めて耳にした気がしたが、世に言う「白いメリーさん」とは決して妖怪などではなく、化粧をし、着飾った普通の人間の老婆だった事を思い出した。
 「ドッペルゲンガーはお互いが見えやすいのよ」
 まるで見透かすようなその眼を前に、児玉は早くも逃げ場が無い事を悟った。

 「私の都市伝説がね……最近ガタガタぎみになっちゃったのね。だから、また一からやり直す事にしたの」
 またメリーが歩み寄ってくる。児玉はぎこちなく後ずさる。
 「都市……伝説……?」
 そこでやっと、落とした携帯電話に目がいった。メリーの足元にある。
 しかし、拾って須藤にでも助けを求めたところで、何になるのだろう……? 事は、この一瞬後にでも終わるかもしれないのに。

 「……そう。都市伝説……つまり、人々のウワサね。こんな化け物がいるんじゃないかしら、こんな化け物を見ました、とかね。そういうウワサ……。一般的にはね、何の効力も無さそうなお話に見えますけど……実はそうでもないのよ」
 強調するようにメリーは大げさに首を振る。
 「この世の無数の人間には……、つながりがあるのね。人間というものが一人一人、全く違った生き物にならないための、「根本的な意識」っていうものがね。都市伝説っていうウワサ話は、その集団意識の中で根付いていくのね……。そうすると……、どうなってしまうと思います? 児玉さん」
 都市伝説が集団意識の中で根付く。そんな事を言われても、児玉には何も答えられない。

 「ウワサが根付くとね、それは存在として、この世に生まれ出るの。「無意識」という集団意識は、この世そのものとも言えるものだから。それに、世の中のバランスって、あって無いようなものでしょう?」
 児玉はメリーの話を理解しようと必死で頭を働かせる。
 メリーは、自分が人々のウワサ話から生まれ出たものなのだ、と言いたいのか……。でもどうして、そんな話をここでされるのかまではわからない。

 「でも……事情はそんなに単純じゃないんですけどね。人間のメリーがいたでしょう? それに都市伝説としての、メリー。……で、実は私は、そのどちらでもないのね」
 「都市伝説のメリーのドッペルゲンガー……っていう、とても不本意な存在なのね、私は……。そんな存在がある事自体が奇跡なんですけど、恐らくは……、「白いメリー」の老婆のイメージを嫌った、少女趣味の人間達が思い描いた、「理想のメリー」なのかもしれないのね。だから私は消えやすいのよ……。ウワサがどうしても弱いから。どんなにがんばっても、あやふやな存在のままなのね……」
 ――自分達が恐れていた「白いメリーさん」。
 児玉は学生の頃、メリーさんに電話をし、確かにメリーが現れた。……その時想像していた「白いメリーさん」というものはやはり老婆ではなく、今眼の前にしている、こういった美しい白い少女だったのではなかったか。

 「白いメリーに関するウワサを、この私のものにしていくまで、かなりの労力が必要だったわ……。どれだけ人を殺したかわからないし。でも殺す度に確かに、私のチカラが強まっていくのを感じたわね」
 「でも、そんな……ウワサなんかで……生まれるだなんて」
 児玉は、ありえない、と思った。

 「いいえ。何千何万、何十万、何百万人……という人間の記憶に、鮮烈に私の事を刻む事ができれば、私は存在としてあり続ける事ができるのよ。……無意識というのは、「眼にしている現実を理解する基盤」だから。逆に言えば、人間に意識や無意識が無いと、現実を見ても何一つ理解できないと思わない?」
 もはや言われている事がわからず、児玉は首を振った。
 こんな話を聞かされ続けると……狂ってしまう、とさえ感じた。

 「この世のバランスなんて……、無意識が崩れれば終わりでしょ。どの道、明日にでも消えて無くなってしまうかもしれない、というのが、本来の現実の姿でしょうが……? 「この世は神の夢」って言うでしょ? 神さまが眼を覚ましたら、この世は消滅してしまうかもしれない……ってね。そんなほんのひと時の夢の中にある、まやかしの永遠なのかもしれないのよ、今というものは」
 「そうじゃない……」
 児玉はか細く抵抗する。

 「……あぁ、こんな話をしに来たんじゃないのよ。私の都市伝説をまた作り直すつもりで来たのね。何人か殺したんですけど、どうも反応が弱くてね。でも派手にやればいいってものでもないですし。派手にやると警察がうるさいでしょう? あの拳銃だけは……嫌いだから」
 メリーの両目がぐるりと一周した。その笑みの端から、微かによだれが流れた。
 児玉はメリーの様子がおかしいのに、今やっと気付いたのだった。
 あまりにも饒舌(じょうぜつ)すぎていた……。その話も宙に浮いたような話だった。
 話をしているようで……、実は全く話が通用しない状態なのではないか、と空恐ろしくなった。


 メリーは知っていたのか。足元の携帯電話に、ハイヒールのつま先をコツリとあてた。そして拾いあげる。
 顔の辺りに持ってきて、もてあそぶ。
 「この電話は? 児玉さんのよね? それとも神さまの?」
 メリーは自分の冗談に、キーキーと激しく笑い出した。
 児玉は青ざめる。
 「やめて! それを潰さないで……!!」
 メリーの怪力は何度か目にしていたので、とっさにそんな言葉が出た。

 「……え? なんですって? 何か言った?」
 メリーは躊躇(ちゅうちょ)なく、その携帯電話を握り潰した。


 メリーの手の中で。壊れたそれを児玉は呆然と見つめた。その足元にバラバラと破片が散らばる。
 「あ……あ……あぁあ……っ!!」
 ――ありえない。
 夢じみた話をされた後。ほんの一瞬で。あってはいけない事が、起きてしまった。
 この現実で。壊されてはいけないものを、壊されてしまったのだ……。

 両手で頭を抱え、うめく。
 ――母とのつながり。須藤とのつながり。それがたった今、断たれてしまったのか……?

 体の力を失い、児玉はその場にへたり込んだ。
 事は、思った以上に重大かもしれない。本当にこの先、母とも須藤とも連絡が取れないのだとしたら……?
 「そんなっ!! ……そんなッ……!!」
 児玉は顔を覆って、泣き出した。


 無慈悲に。メリーはそんな児玉の髪を掴んで、顔を引き上げた。
 「……児玉さん? 大体ね、私に関わっておいて、ここまでのうのうと生きられたんじゃ……私が何の都市伝説なのか、わからなくなるでしょう? ……もっとね、もっともっと早く、貴女方を殺しておくべきだったのよ。甘すぎたんだと反省してるわ。だから、せっかく築いた私の都市伝説も、簡単に鈍ったり壊されたりしたのよね……」
 メリーの目に悪鬼のような強さが宿っていた。
 「今後、私に関わった人間全てを、容赦なく殺すから。そう決めたのよ」
 メリーは児玉の眼前で歯を剥きだした。
 まともに見た児玉は全身をこわばらせ、なお一層激しく泣きそうになったが、顔をきつくしかめて耐えた。

 「じゃあ、死になさいね、お嬢さん……。どの道ね、麻薬が来たから貴女達を人間に戻して差し上げるとか。そういうハッピーエンドは考えてなかったわ。……馬鹿馬鹿しいものね」
 今度は荒々しく首を掴まれた。全身の震えがなお一層激しくなる。
 ――本当に、死ななくてはならないのか。
 こんなにも急に。
 こんなにも中途半端に。

 大事な。ひと時の姉の形見だった、お守りの携帯電話も壊されて。
 ――死ぬのか。自分は……。なすすべもなく……。


 鮮烈な光の帯。
 ふいに、メリーと児玉の顔の間を、まばゆい光が通りすぎた。
 二人は同時にその光を目で追う。
 それは……蝶だった。この現実を否定せんばかりの幻想をたずさえた、光の結晶だった。

 「……佐々木さん……?」
 頭が冴え渡り、児玉の眼に力が宿った。

 「……ア……」
 逆にメリーは呆けている。その目を異様に輝かせたまま、すっかり心を奪われてしまっている。
 児玉はメリーをじっと見据えた。無邪気なその横顔に、思わず苦笑が出た。
 「死なないわよおっ!!」
 児玉は両腕をがむしゃらに振って、メリーを殴った。
 「イヤァアアーーッ!!」
 メリーは横っ面にまともに打撃を受ける。倒れた先にベンチがあり、頭と腰をひどくぶつけた。

 「アハッ! アハハハハッ!! ……バカッ!! バカァアーーッ!!」
 児玉はひきつった笑いで子供じみた叫びをあげ、後はもう、素早くその場から逃走した。


 だがそこから数十メートルも行かない内に、正面に現れたメリーに激しく平手打ちをされた。
 ハンマーで殴られたような強烈な痛みを横っ面に受け、児玉は遊歩道を越え、道路まで吹き飛ばされた。
 何度か横転し、軽く気を失う。
 休む間もなく、またメリーは児玉の首を掴んできた。あっと言う間に体ごと宙に浮かされる。

 今度は無言で首を引き締めてくる。一瞬後には窒息どころか、首を握りつぶされてもおかしくない。
 声のない悲鳴があがる。
 手足をばたつかせて抵抗しようにも、抗う力にはほど遠い。
 それでも児玉は必死で何とかしようとする。ここで死ぬワケにはいかないのだ。……どうしても。

 「お母さん……お父さん……絶対に会うから……ね!」
 そんな児玉の思いも、無言の彫像と化したメリーには何も響かない。

 ぎりぎりときしむ首。痛み以前に、呼吸ができなくなる。
 何とか抵抗しようともがいている内に、早くも限界が来てしまう。
 「死な……ないッ!」
 ブツリ、とした音を聞き、どうする事もできず、児玉の意識は真っ黒になった。


 場に、空白は一瞬しかなかった。児玉の口から、携帯電話の着信音が鳴り響いたのだ。
 さすがのメリーもぎょっとする。
 「……何なの、貴女は……?」

 ピリリリリリリリリ……!
 まるで警告音だ。メリーは硬直し、白目を剥いたまま着信音を鳴り響かせる児玉の口を凝視した。
 ふいに児玉の顔が笑いを形づくった。
 「……あのさぁ。大事な……妹を……あんまりイジメないでくれる?」

 児玉の両手がメリーの腕を掴む。
 それは徐々に激しい力が加わっていき、メリーの腕がきしんだ。
 「イヤアッ!!」
 恐れをなして、メリーは児玉を引き離した。

 「……ちょっと!! 何なのッ?!」
 離れた後、メリーは目を見開いて訴える。
 「さぁねぇ……?」
 そう言いかけると、クラクションが児玉の背後で鳴った。数台の車の列が出来ていた。
 「うるせえよ、馬鹿ッ!!」
 フロントに激しく蹴りを食らわせると、後はおとなしく遊歩道に戻る。

 車を蹴られた男が運転席から出てきて、児玉に睨みをきかせる。
 だが逆に、児玉は男の首根っこを掴んで、車の方へ投げ捨てた。

 「何なのよ、貴女は……? 一体、どういう事なのッ……?」
 メリーは顔を歪めて児玉を見つめる。ドッペルゲンガーとして目覚めたにしては、態度が急変しすぎだ。
 「……わかんないの? だったらいいけどさ」
 その児玉の顔も異常だった。白目を剥いたまま、力なく笑っているのだ。体も無理に引きずっているような動き方だった。
 「とにかく、コイツは殺させないよ。家族の所にちゃんと送り届けるまではね」

 まるで理解できない。
 握られた腕もまだ痛んでいる。相当な力だ。
 ――逃げた方がいいのか。
 一瞬、メリーはそう考えたが、気を取り直した。

 「……あああ、貴女みたいな弱い人間は、すぐに殺されてしまえば良かったのに。どうして私の邪魔をするの? 貴女にハッピーエンドはあげないって言ったでしょ?」
 そう言うメリーに、児玉が強く歩み寄る。今度後ずさるのはメリーの方だった。
 だがメリーはかかとを踏み留める。そして児玉をきつく睨んだ。
 「貴女ごときに怖気づく都市伝説があってたまるものですか……! 貴女みたいな弱々しい……」
 そう言いかけた時、その目の前をまた蝶が行き過ぎた。
 「……ア? アレ? ちょうちょ……」
 華やかな笑みになるメリーの首すじに、児玉の両手が伸びていた。

 「あああ、何をするのッ!! やめなさい!! この下品な女ッ!!」
 白目を剥いたままニヤけているその顔に、メリーははっきりと恐れをなす。
 いや、そればかりか、ヘタをするとこのまま殺されかねない。

 「私を……こ、殺さないでッ!! 殺さないでェーーッ!!」
 途端にメリーは悲鳴を上げる。
 だが、メリーの首を掴むその手の力は、ゆっくりと確実に強くなっていく。
 「イヤァアアアアアッーー!! イヤァアアアアーーッ!!」
 メリーは激しく抵抗し、両の拳を児玉の頭に叩きつける。無論、並の力ではない。
 「ぐわわっ!!」
 たまらず、児玉は手を放さざるを得なかった。
 涙顔になったメリーは荒々しい呼吸を二、三つき、恨みのこもった眼を向けた後、姿を消した。

 「ウア〜……痛ぇなくそ……」
 児玉は頭をなでる。メリーの怪力では、殴られただけでも致命傷になりうる。メリーとの接近戦は安易にするものではない、と悟った。一瞬で頭をざくろにされてしまってもおかしくない。
 「あぁもう……少し……休もうぜ……?」
 フラフラと、歩道脇のベンチに座り込む。
 そして満足げに笑った後、児玉はそこに横になった。

 すいとまた蝶が現れ、児玉を心配そうに見下ろす。
 やがて、近くに一台の軽自動車が停まった。そしてテンションの高い声を放ちながら、華やかな姿の女二人が、車から飛び出てきた。


― 75 ―


 「ふっ! ……きしょん!」
 児玉の勢いよいクシャミ。
 街の路上脇。狭いベンチの上で横たえた体を丸め、バランスを崩して危うく頭から転げ落ちそうになった。
 「あ、危ね!」
 突然頭を抱えてくる腕。間近にある男の顔――。児玉は悲鳴をあげかけた。
 「あああ、ありがとうございます……!」
 目を覚ましたばかりの回らない頭で思わず礼を言ってしまった後、ぽかんとして、眼前の不思議な光景に見入った。
 そこには見知らぬ男女が四人いて、じっと自分を見ているではないか……。

 「あの……」
 四人はニヤけている。もしかすると、こんな所で寝ていた自分を好奇のまなざしでずっと見ていたのか……。恥ずかしくなって、目を伏せる。
 それにしても、いつ寝ていたのか記憶にない。……朝起きて、町に出て、そして……。
 (……メリーに会った)

 首を絞められたり、ふっ飛ばされたり。確かに殺されかけた。
 ……そして今。無傷でこんなベンチの上で眠っていた。辺りにメリーがいるような気配もない。目の前の状況も合わせて考えると……、答えは一つしかなさそうだ。

 「あの……もしかして、助けて下さったんですか……?」
 「何を?」
 ニヤけ顔の男がさらにニヤける。何だか馬鹿にされているようだ。
 「いえ……。あの、すみません……」
 居心地が悪すぎる。この四人が何なのかはわからないが、知り合いであるような気はしない。児玉は腰を上げ、立ち去ろうとした。
 「……蝶、知ってんだろ? 俺らはアレに連れて来られたんだ」
 男のぶっきらぼうな言葉に、児玉は上げかけた腰をまた下ろした。

 「……蝶?」
 反応するなり、すい、とそれが舞い降りてきた。いつか見た時と同じ輝きが、児玉の顔を白く照らした。そしてまた、きまぐれのように空に上っていく。

 「蝶に、連れて来られた……んですか?」
 児玉は四人をまじまじと見る。
 二十代半ば頃の男と、顔をひどく怪我している男。そして二十代か十代かわからない、女が二人……。片方はミュージカルの男役を思わせる風貌だった。スーツ姿で髪も短めに整えられてある。女性二人はやけに眠そうな顔をしていた。
 「あの……佐々木さんのお知り合いですか……? もしかして……」
 そんな児玉の問い。
 「ささき……? はてね……」
 男達は首をかしげる。

 「じゃあ、今度はコッチから質問だ。……メリーさんを知ってるか? 白い、メリーさんだ」
 顔に大怪我をした男がそう聞いてくる。
 児玉は目を丸くした後、素直に返事した。





 互いに名乗りあっている内に、ベンチに女三人が並んで座る格好になっていた。女二人は互いにもたれあうようにして寝入ってしまった。
 児玉の前に阿部の影が軽く腰を下ろし、阿部はやや向こうで、飲みたくもないジュースをちびちびと飲んでいる。傷だらけの顔を気にしているのだ。
 だが、阿部は立っているのが段々辛くなってきていた。顔が焼けるように痛い。それに加えてめまいがし始めている。熱も相当ありそうだ。
 ちゃんとした治療を受けない限り、阿部に残された時間はそう長くはない。だが、病院へ駆け込めば身元がわれて、警察に捕まるのは目に見えている。自分は自作のサイトで殺人者である事を大々的に公表したばかりなのだ。
 ……それが警察の目に触れていない可能性も無くはない。だが自分のサイトは消されている、と影が言っていた。プロバイダの方で自主規制として削除された、という可能性もあるが、警察に捕まらない、という甘い考えはやはり持てなかった。

 「なるほどね……。メリーに殺されかけたのに生きてるってのはラッキーだな。まぁあのお嬢さんの事だからな。ちょっとしたきまぐれで、見逃してもらったのかもしれないけどな」
 「いえ……それはないと思うんですけど。意識を無くしたのは、首を絞められた後なんです。あのまま死んでいてもおかしくなかったんですけど……」
 「だからさ。ぐったりした児玉ちゃんを見て、殺してもしょうがないと思った、とかさ。色々考えられるじゃん」
 そんな議論も、正確な状況がわからないのでは答えの出しようもない。
 阿部の影は終止、児玉の顔を眺めてはニヤけ続けていた。純情そうな児玉の顔が気に入ったのだ。

 「で。児玉チャンは、その佐々木って姉ちゃんを捜してるワケだ。でも一週間近く捜していないんならさ、どっか他の所にでも行っちゃったんじゃないの?」
 そう言った後、阿部の影は首をかしげた。自分の話が何の核心も突いていない、と考え直したのだ。
 「……違うよな。俺らはメリーさんがらみなんだもんな。児玉チャンも今、ドッペルゲンガーか何か、なんだろ?」
 「は……はい!」
 ドッペルゲンガーという単語に児玉は呑まれる。
 「じゃあ、その佐々木って姉ちゃんもそれがらみなワケだ……。いなくなった、ってえのが問題ありそうだな。オリジナルは?」
 「佐々木さんのオリジナル……と言うか、私達の方が人間なんです。入れ替わってしまったんです、ドッペルゲンガーと……」
 「そりゃわかってるよ。今はぶやけた顔してるが、俺も元はオリジナルだ。……それはいいとして、佐々木って姉ちゃんのオリジナルも消えちまったのか?」
 「いえ……死んだんです。一、二ヶ月前……いえ、もっと前でしょうか……」
 「オリジナルが死んだ?! ……そりゃマズイでしょう……? 影も消えるに決まってんじゃん……」
 阿部の影の言葉に、児玉はすっかり青ざめた。

 「じゃあ……もう捜しても見つからないんですか……?」
 児玉はすっかりうなだれてしまう。
 「いや、わかんないけどさ。……でもドッペルゲンガーを捜すってのは無謀に近いものがあるねぇ。メリーならともかくさ。影はお互いに見え易いっては言うけど、児玉チャンは見た感じ、ドッペルゲンガー化があんまり進んでないようだしさ。難しいんじゃないの……?」

 「おならするよ〜?」
 「はい?」
 突然、寝ていた女が喋ったので、児玉は思わず返事をしてしまう。

 すかさず、ブッ、とされる。
 「ちょっと何やってんの、アンタ!」
 隣で寝ていた男形も目を覚まし、おならをした女を両手で押しのける。
 「ちゃんと言ったじゃあん! おならしますーって!!」
 「おならしますじゃ、ねえってえの!」
 突然の妙な漫才に、児玉も阿部の影も呆れてしまった。

 「あ〜、話終わった〜? すっごい眠かったー!! あ〜、アタシ、ミユキっていいますから〜!」
 おならをした金髪女が児玉の両手を取ってくる。
 「はぁ……はい」
 「アタシはアヤカだから。よろしく」
 男形もややきどって挨拶してくる。児玉はまたうなずいた。

 阿部の影はそんな彼女達に口を出す。
 「……いや、姉ちゃん達さ、ここまで送ってもらってナンだけど……、これ以上はあんまり深入りしない方が身のためだと思うんだよね」
 「はあっ?! なにそれぇえっ!!」
 ミユキ達はそろってブーイングを返す。
 「……いやいや、マジな話で。俺らはまぁ……実は、人間じゃねぇんだよ」
 「は?!」
 また二人は声をそろえてくる。非常に息の合う二人だった。
 「いや、マジメな話で。……俺の顔をよぉく見てみな?」
 阿部の影は二人に顔を突き出す。

 ミユキ達はそれにまじまじと見入るが、阿部の影がふざけて唇を前に突き出したところで、二人は嫌な顔をして退いた。
 「まった……。そんな事がしたかっただけぇ? 馬鹿じゃないの?!」
 「いやいや、悪い悪い……。でも、俺の顔、ホントにぼやけて見えねえ?」
 今度はふざけずに、阿部の影はすました顔をする。
 またミユキ達は真面目に見入る。二人は結構素直で、騙されやすいのだった。

 「……あ、どうだろ。ホントにぼやけて見えない? アヤカちゃん?」
 ミユキはアヤカに賛同を求める。
 「え〜……言われてみるとね〜……ホント……かなぁって」

 二人の凝視にやや照れて、影は苦笑を返す。
 「……マジメな話。姉ちゃん達、面白かったからさ。ケガされたくないワケよ。俺らはホントに人間じゃねぇんだわ。……ドッペルゲンガーって聞いた事ない?」
 「知らなぁい!」二人は子供のようにハモって答える。
 「……じゃあしょうがないけどさ。そういうのなのよ、俺らはさ」
 「そこの彼女も?」
 児玉は、ミユキに遠慮なく指さされる。
 「そこの彼女も」
 阿部の影は当然、といった顔をする。

 するとミユキとアヤカは今度は、児玉を凝視し始めた。
 「え……え……?!」
 児玉はうろたえるしかない。
 しばらくした後、アヤカ達は答えを出す。
 「ボヤけてないじゃん、全然……!」

 「いやいや、その子はまだドッペルゲンガー化が進んでないワケで……いてて」
 突然、阿部の影がかっくりと身を縮める。
 「おい、大丈夫か?!」
 影は自分ではなく、オリジナルの方を心配する。見ると、向こうの自動販売機の前で倒れこんでいるではないか……。
 「あぁ、悪い! ちょっと手伝ってくれ!」
 阿部の方へ駆け寄り、児玉とミユキらも合わせて、阿部を抱き上げる。そして近くのベンチに寝かせた。

 「すごい傷……!」
 児玉は阿部の顔をまともに見て、息を呑んだ。
 阿部の影もその場にへたり込んでしまう。
 「俺は、コイツのドッペルゲンガーなんだ。元はオリジナルだけどな。……で、コイツが参れば、俺も参る。コイツが死ねば、俺も死ぬ……」
 阿部達は荒い息を吐き続け、児玉達はじっと見守る。

 「悪いけど……頭痛薬か何か、持ってない?」
 阿部の影の問いに、児玉達は首を振る。児玉は周囲を見回した後、駆け出した。
 「アタシ、買って来ますから!」
 「アタシも!」とアヤカ達も後を追う。
 ……ちょっとまだ薬屋開いてないよ! だったらコンビニ! その前に、車どっかに置いて来ないと! などという声が遠ざかる。


 「……あの子は結局、何だったんだ?」
 阿部がベンチの上から息絶え絶えに問いかける。
 「……さぁな。まだ何もわからねぇな。ただ、あの子はドッペルゲンガーだ。おおかた、メリーにドッペルゲンガーにされちまったんだろ」
 「そうか……なるほどな」
 蝶の導きが、やはりメリーつながりであった事を、阿部も実感する。

 「でも正直な話、可愛いだろ?」
 「まだ見てねぇって……」阿部は憮然とする。
 「お前がそんな顔じゃなかったらなぁ……。いやぁ、残念だねぇ」
 苦しげにうつむきながらも阿部の影は笑いを見せる。
 「うるせえや、バカ……」
 阿部は内心、顔の怪我でだいぶ傷ついてはいた。

 「でもよ。あっちばかりじゃなく、こっちにもお姫さまがいたってワケだ……。だろ?」
 影の言葉に、阿部は虚をつかれる。
 「……かもな」

 二人の胸に、澄んだ空気が入り込む。
 何も無かった今までに。新しい目的が、見えた気がした。


― 76 ―


 近くのコンビニで頭痛鎮痛薬を買った児玉達が戻って来る。車を駐車場に入れたアヤカもやや遅れて走って来る。
 「はい!」
 児玉は、袋からミニペットボトルの水と薬を取り出し、歩道の上であぐらをかいている阿部の影に差し出す。
 「あ、俺はいいから。まずはソイツから」
 阿部の影は、ベンチで横になっている阿部を指差す。
 児玉は言われた通り、阿部の傍にいって、水と薬を差し出した。

 「あぁ……ごめん。ありがとう……」
 なるべく怯えさせないようにと、笑顔を作る。だが、傷だらけのその顔に笑顔が張り付いていたところで、痛々しいだけだった。
 「開けますから」
 児玉はペットボトルのキャップを開け、薬も二錠ほどバラにして、差し出す。
 「悪いね……」
 阿部は素直に受け取り、のろのろとそれを飲み下した。起き上がる時に思い出したように腹のキズを痛め、ぶわりと汗が吹き出た。

 「ちょっとホントにさぁ……阿部ちゃん大丈夫なの?」
 ミユキとアヤカも阿部の傍にいき、顔を覗き込む。前日の夜通しのドライブ中に、阿部の影は「阿部クン」で、阿部は「阿部ちゃん」という呼び方に決まっていたのだった。
 「大丈夫だから……」
 阿部はやんわりと告げ、それとなく向こうに顔を向けて、また少し眠ろうという意思表示をしてみせる。

 「で? 阿部クンの方は大丈夫なの? 一卵性双生児だから一緒に痛くなる、ってんだよね……?」
 アヤカは阿部の影を指でこづく。
 「まぁね。アイツが治れば、俺も治っちゃうから」
 一卵性双生児というのは無論ウソだ。

 「あの……そんな所で寝ないで、ちゃんとした所で休んだ方が……?」
 ベンチで窮屈(きゅうくつ)そうに眠ろうとしている阿部に、児玉は声をかける。
 「いや……そんなに長く寝ないから……。少し、休ませてくれないかな……」
 「……はい……」
 児玉は一応納得して、今度は阿部の影に近づく。

 「あの……薬ですけど……?」
 「あぁ、俺はいいから。ソイツが治れば俺も治るからさ」
 「そうなんですか?」
 「そんなトコ」
 阿部の影は一声上げて起き上がると、もう平気だという素振りを見せた。
 「……何か飲む?」
 自動販売機の前で皆に声をかけるが、誰も「いらない」と言う。阿部の影だけホットの缶コーヒーを落とし、ぐびりと飲んだ。


 児玉は思い立ったようにふらふらと足を運び、路面に落ちている携帯電話の残骸を見つめた。さっきメリーに潰された、自分の携帯電話だった。
 深い溜め息をつき、膝をついて残骸をかき集める。そしてあきらめたように、近くのゴミ箱に投げ入れた。
 まだ落ちていたひとカケラを見つけ、なごり惜しむように、それをジーンズのポケットにしまい込んだ。

 「何やってんの? ゴミ拾いのボランティア活動とか?」
 ミユキがめずらしい物を見る顔で児玉にすり寄ってくる。
 児玉は苦笑して、それとなく告げる。
 「大事なヒト達とつながっていた携帯電話だったんです……」

 「それを壊しちゃったの?」ミユキが訊ねる。
 「いえ、壊されちゃったんです。……メリーさんに」
 「メリーさん……?」
 ミユキは目をしばたく。アヤカも寄ってくる。
 「えぇ。「白いメリーさん」って、聞いた事ないですか……?」

 「白いメリーさん……? あ〜……なんか、あったねぇ〜……。それって一時期流行った、大量殺人鬼でしょう? TVとかで特番とか組まれたよね〜?」
 「そうなんですか?」
 今度は児玉が驚く番だった。
 「うん。どっかの病院で警官が何十人も死んじゃって〜……それから何だっけ? 色んなトコで目撃されてたんだよね〜……。でも最近聞かなくなったな〜って思ってたけど……」
 そのメリーさんに携帯電話を潰された、という児玉を、二人は改めて不思議な気持ちで眺める。
 「何か、恨まれる事でもしたんだ? アハハッ?」ミユキがからかいぎみに聞いてくる。
 「いえ……そういうワケじゃないんですけど……」
 児玉は、ミユキが佐々木に似ているような気がして、少し胸を熱くした。

 「でもさぁ? 携帯売ってるトコ行けばさぁ、電話番号のメモリーとか着信履歴とかわかるんじゃないのー?」
 「……え……?」
 そんな言葉に児玉は希望を見出す。
 「携帯電話の残骸さぁ、捨てないで持ってったら? メモリーとか残ってるかもしんないじゃん?」
 「あ、そうですね……」
 児玉は早速、今捨てたばかりのゴミ箱をあさり、潰された携帯電話を取り上げる。

 「でも……」
 と、児玉は意気消沈する。
 「アタシ、戸籍上は死んだ事になってるんです。だから……」
 「は? ……アンタ何者??」
 ミユキが顔を押し付けてくる。
 「いえ! ……ちょっと色々あって……」
 キッチリ説明した方がいいのか、児玉は迷う。

 そこで阿部の影が割り込んでくる。
 「あーあーあー……お姉さん達さぁ、あんまり詮索(せんさく)しなさんなって。だからさっき言ったでしょ? 俺らと関わると危ないんだ、って」
 「そ〜お? 別に根掘り葉掘り聞くつもりもないけどさ〜……」
 ミユキとアヤカは二人そろって唇をとがらせる。姿形はまるで違えど、この二人もまるで一卵性双生児のようだった。
 「とりあえず持ってたら?」というアヤカの言葉を受け、児玉は電話の残骸を持っておくことにした。


 「……児玉ちゃんさ、佐々木って姉ちゃんを捜してんだろ? だったら、俺が捜して来てやるよ」
 突然の、そんな阿部の影の思わぬ言葉に、児玉は顔を輝かせた。
 「え? ホントですか……!」
 「うん。ドッペルゲンガーなら多分、見つかる。すぐ見つかるかはわかんないけどさ」
 「でも、どうやって捜すんですか……? それに、どこを……」
 自分が一週間この付近を捜し歩いても見つからなかったのだ。それを他人が捜したところで、そう簡単に見つかるとも思えない。
 それに、出会ったばかりのこの男は、佐々木の事を知らないのだ。佐々木の顔形などを言ってみたところで、正確に伝わるハズもない。まして、顔写真なども持っていない。

 「なに? ドッペルゲンガーって? さっきも言ってたよね」
 割り込むミユキに、阿部の影は首を振る。
 「児玉チャン。ドッペルゲンガーはそれなりの捜し方があるんだよ。ドッペルゲンガーは現世にいるようで、いない時の方が多い。幽霊みたいなものだからな。まともに捜したって見つかりゃしない」
 阿部の影の勝ち誇ったような顔を、児玉は呆気にとられて見つめる以外にない。

 「一番都合がいいのは、過去だ。ドッペルゲンガーに成り立ての頃は、自縛霊みたいに、何らかの過去にしがみついている事が多い。……その佐々木ちゃんの過去の話が聞きたいね。過去に何か、強く印象に残ったこととか……、ない?」
 「過去ですか……。佐々木さんの過去は知らないんです」
 「あ、そう。……じゃあ最近の事でいいよ。その佐々木ちゃんと児玉チャンの間で、何か印象深い思い出ってのは……ない?」

 唐突で、奇妙な質問ではあったが、児玉は真剣に考える。しかし佐々木との思い出は、あまりにも短い。出会って数ヶ月経ったかどうか、なのだ。
 出会いはどうだっただろう?
 謎の老婆から電話があり、佐々木を捜しに行った。それは、ひと時の姉を殺された夜だったか。
 佐々木は道路で倒れていた。その後、一緒にコンビニで買ったものを食べた……。本当に食べたかどうか、記憶もイマイチだ。
 他に思い出すのは、一緒に温泉に行ったり、食事したり、美容室に行ったり……ギャンブルを強要されたり……、佐々木と笑いあったり、佐々木の肩から逃げ出した蝶を追いかけたり……。

 児玉は急に声を荒げた。
 「あ! あります……! 一つだけ……!!」
 阿部の影もニヤリとする。
 「お〜……何となくイケそうな感じだな。じゃあ、教えてくれ。それを頼りに、捜しに行ってみるからさ。……まぁその間、アイツの事頼むけど」
 影は、ベンチで寝ている阿部を指差す。
 「……はい! でも、アタシも行きますから。佐々木さんを捜しに」
 児玉に真剣に前向かれて、阿部の影はやや胸を突かれた。そして自分に笑った後、大きく首を振った。

 「ドッペルゲンガーってえのはそういうもんじゃないんだなぁ。ただ誰かと待ち合わせたりするのとはワケが違う。……まぁいいから俺に任せとけよ。ここに連れて来るからさ」
 「……そうですか……?」
 「あぁ。多分大丈夫だろ。何だか知らねぇけど……、佐々木ちゃんと児玉チャンとの、その思い出ってえのも強烈みたいだしな。見つかんだろ」
 得意げにあごをなでて見せたりする。

 「……で? とりあえず、メリーの方もアブネエみてえだからな。急いで行くわ。……またメリーが出て来たら、ちゃんと逃げてくれな? その姉ちゃん達にもケガさせないようにさ……」
 「……はい」
 児玉は神妙にうなづく。ミユキとアヤカを見、普通の人間なのだと理解する。

 阿部の影は腕組みしてみせる。
 「……じゃ、佐々木ちゃんとの一番の思い出話を聞かせてもらおうじゃないの」
 児玉は阿部の影の顔を見る。……それはブレて見えていた。
 だからこそ、児玉は信じてみようと思った。……この人は確かに、自分の仲間なのだ、と。

 それを後押しするように、蝶がまた、近くを横切った。


― 77 ―


 パチンコ店内。
 「新台」の札の付いたスロット台を前にして、佐々木はしばらく呆けていた。
 「何これ、全然出ないじゃん……。馬鹿じゃないの?」
 昼過ぎに店に入り、ものの数時間で3万円ほどものまれていた。サイフを覗くと、手持ち金はもう1万と数千円しかない。

 顔をしかめつつ店を後にする。
 天気のいい空。やや古びた町並みを改めてゆっくりと眺める。
 「で。ここは……どこだっけ?」
 何となく記憶にある光景。昨日今日ではなく、もっとずっと以前にここに来たような気がする……。

 人波に飲まれ、佐々木の姿は掻き消える。そしてまたどこからともなく現れて、どこへ行くでもなくさまよい歩く。
 ふと足が止まる。
 駅に近い通り。さっきとは別のパチンコ店の前。その歩道脇のベンチがとても気にかかった。
 (ここで待っていた……?)
 知らずと頬に指がいく。……いつだったろう? そこでギヤ・バッグを抱えて眠りこけていた自分。頬に残ったファスナーの跡……。今はない。

 それからまた数分歩いて行き着いた先。やや大きめの駅を正面に迎える。
 駅周辺の地図看板を食い入るように見る。
 「T県M市……」
 そしてめざとくM病院を見つける。そこで何かあった気がするが、詳しくは思い出せない。今は寝起き間際のように、頭の回転がひどく鈍っていた。
 無表情で駅前の広場へ向かい、噴水の周囲にある空いているベンチの一つに腰掛けた。まばらに人の姿があった。


 「こだま……たかちゃん……だっけ?」
 自分だけの可愛い妹。いつからか一緒にいて、いつからか別れてしまった。
 別れてしまってから、一体どれだけの時間が経ったのだろう? 昨日の事のような気もするし、もうだいぶ前の事のような気もする。もしかすると夢の出来事だったのか、と疑いたくもなる。それだけ、頭の中がぼやけていた。

 ――この駅前のビジネスホテルの軽喫茶店での、他愛のない会話。
 それだけが鮮烈に記憶に残っていた。

  「佐々木さん……もし、また急にいなくなっても、このホテルに居てもらえませんか? そうすれば、捜しやすいですから」
  「あ〜……そうね。そうしよっか?」
  「えぇ。もしお金無かったら、アタシ駅前にいますから。駅前のベンチに」

 そう言った児玉ではなく、自分がお金を惜しむ状態で駅前のベンチにいる。
 どうやってここに来たのか。いつからここにいるのか。佐々木は何も覚えていないが、ここで待ち続ける事が正解なのだと言い聞かせる。待っていれば、いつかはきっと会えるハズなのだ……。
 うつろな目で表情を動かす事もなく、それから長い時間、そのベンチに居続ける。
 だが待つのに疲れ果て、佐々木は幾度となくため息をつき続けるのだった。


 「アタシは……何のために生きてるんだろ……?」
 そんな自問。
 以前、自分はスロットを打てば当たる日が続き、金に困る事もなく自由気ままに豪遊してきた。
 なのに、今は手持ち金も風前の灯火だった。何のツキからも見放されてしまっている……。
 ……でも。ツキがあった頃も、やはり同じような自問を繰り返してきたような気がする。
 自分は何のために生きているのだろう、と……。

 「アタシって……何か、価値あんの……?」
 今の自分は、ただ生きているというだけのボウフラのような存在なのか。
 でも着ている服だって一応はブランドものだし、センスだって悪くない。靴だって安物ではないのだ。サイフだって……下着だって。髪にだってお金をかけている……。
 一生懸命オシャレをして、この広い世の中に、ちゃんと自己誇示(こじ)をしてきたハズなのだ。なのに……、この自分にはどうしても、価値が見出せないでいる……。
 長く唇を噛み続ける。しかし悩んでみたところで、どうにもならない事なのだ。元気を出そうと気持ちを切り替える。

 「たかちゃあん……まだ来ないのお……?」
 そしていつしか、その姿がベンチから掻き消える。
 この数日間。そんな事をただ繰り返しているのだった……。


 またぼんやりとベンチに現れる。辺りはすっかり暗くなってしまっている。それに寒い。コートを着ていない自分が、やけに浮いている気がする。
 「でも……もうお金ないもん……」
 思わず涙声が出る。サイフの中味はほぼ全て、ギャンブルですってしまった。今日の昼過ぎに1万と少しあったハズの金も、今はすっかり消え失せてしまっていた。
 サイフの中の小銭を見つめ、ひどく情けなくなった。

 「すっかりツキにも見放されちゃってさ……もう、死ぬしかないのかな……?」
 生きたくても、これではもう生きられない。種銭も無くしてしまい、ギャンブルで取り返す事もできない。
 笑いがこみ上げてきたが、すぐに消え失せる。
 ……もう、本当に終わりがきてしまったのかもしれない。この先どういう救いがあるのか、もはや頭の中に描く事ができない。


 呆けて見つめる噴水。虹色にライトアップされて綺麗だ。
 その場で凍える一人の女……。金も無く、記憶も失いかけ、人間ですらない……。
 寒空に溶け込んで消えてなくなってしまいたい。消えてなくなっても、世の中は何ひとつ困りはしないし、変わりもしないのだ。
 この自分には、本当に価値など無かったのだ……。

 周囲で笑いあっている人達がすっかりいなくなる頃、警察に補導されるかもしれない。
 それで助かるかもしれないし、もっと面倒な事になるかもしれない。どこかの施設に預けられる事になるのかもしれない。
 ……どの道、自由を失うような面倒はごめんだった。だったら、死んだ方がいい。

 ため息ばかりしか出ない。
 どうして笑い飛ばせなくなってしまったのだろう? いつから自分はこんなに弱くなってしまったのだろう? 弱くなんかなかったハズなのに。精一杯、楽しんできたハズなのに。精一杯、いいお姉さんでいたハズなのに……。
 静かに涙がこぼれた。

 一度、涙をこぼしてしまうと、もう止まらなかった。
 寒くてしょうがないのに。誰も助けてくれない。
 声をかけてくるとしたら、バカな男だけなのだ。自分はもう、バカな人間にしか相手にされない女なのか……。やっぱり価値なんてないのか……?
 めそめそと泣き続ける。寒すぎるのが悪いのだと、佐々木は自分に言い聞かせる。
 ――どうせ、人間に戻れたとしても、自分は殺人者なのだ。ドッペルゲンガーが、この自分をめちゃくちゃにしてしまった後なのだ……。
 この先に、救いはないのだ……。


 「姉ちゃん、寒そうじゃん?」
 若い男が佐々木の前に立ち、そう声をかけてきた。
 そのニヤケた顔を見るなり、佐々木は険悪な顔でそっぽを向いた。

 若い男は声を上げて笑う。
 「……ナンパじゃないって。姉ちゃんを捜しに来たんだよ。児玉ちゃんって知ってるでしょ?」
 「こだま……」
 佐々木は袖で目をぬぐい、顔を上げる。

 「佐々木さん、だよね。……ドッペルゲンガー化がかなり進んでるみたいだけど、不思議と穏やかそうだよね。ガツガツしてなさそうだし。なんつーか、生気すら感じられないよね。眠ったら、そのまま死んでしまいそうな感じ」
 男――阿部の影は、感じた事を隠さず告げる。
 佐々木は表情をまた少し、うつろに戻す。
 「……わかるんだ?」
 一応はまともに答えてみたものの、男から目をそらし、佐々木はうつむいた。興味を示すのが馬鹿らしくなったのだ。助かりたいという気持ちより、このまま消え去りたいという気持ちの方が大きかったからだ。

 ふいに、阿部の影は佐々木の腕を掴んだ。佐々木は驚いてまた顔を上げる。
 「……現実を潰されて死にたい気持ちはわかる。でも救いがないワケじゃない。姉ちゃんが救われるかどうかは微妙だけど……、姉ちゃんが救える人間はいる。……ここでずっと待ってるくらいだから、俺が言わなくてもわかってると思うけど」
 佐々木は黙って男を見る。
 「児玉ちゃんは……、アンタを必要としているんだよ」
 そう短く告げ、腕から手を離し、肩を軽く叩いた。

 佐々木の目の焦点が合ってくる。
 「で、アンタは誰?」
 「阿部って男のドッペルゲンガーだよ。元人間だけど。で、メリーさんがらみで児玉ちゃんに会ったばかりだ」
 「メリーさんがらみ……?」
 思い出す真っ白な少女。……白い、メリーさん。

 「佐々木さん。こんな寒空の下でいつまで待ってても何の救いも来ないから。児玉ちゃんだって、まだ自分をあきらめたワケじゃない。佐々木さんを待ってるんだ。こんな、終わりを迎えるような辛気(しんき)臭い場所じゃなくって、まだ動いている場所でさ」
 ――終わりを迎える場所。ここが児玉の実家のある町だと知って、阿部が言ったかどうかは定かではない。
 でも阿部の影の言葉一つひとつが、佐々木の記憶を揺さぶっていくのだった。

 「救ってやれるだろ?」
 阿部の影は拳を握ってみせる。佐々木が得た怪力をもお見通しなのだ。佐々木はあきらめたように笑いを返した。
 「……わかった。児玉ちゃんの所に連れてって」
 佐々木はベンチから立ち上がり、阿部の影を真っ直ぐに見た。


― 78 ―


 阿部の影が佐々木を捜しに行った、翌日の夜。
 アヤカとミユキ、児玉と阿部の4人は、ひと気のない河川公園の駐車場に軽自動車を停めて、前日同様、ここで夜を明かそうとしていた。

 「ホラ、じっとして!」
 暖気運転を続ける軽自動車内。後部座席でミユキが阿部を叱り付ける。
 阿部は上半身を裸にひん剥かれて、タオルで汗を拭かれている。数日風呂に入っていないことを告げた途端のありさまだった。
 「阿部ちゃん、マジ、一回お風呂入ろうって! ……その顔で温泉とか行けないならさ、ちょっと寒いけど、そこの川で体洗わない?」
 「寒くて死ぬって……」
 今の状態でも、生死をさまようかどうかのところにいるのだ。この寒空の下、冷たい川に入ろうものなら本当に死ぬだろう。
 「でもさ! 頭洗いたくない? かゆそうじゃん!」
 そしてミユキは遠慮なく、阿部の頭のニオイをかぐ。
 「うわ! くっさ!!」
 そんなミユキに怒るどころか、阿部は弱い笑いを返す。
 「じゃ、お湯を沸しませんか……」
 児玉は助手席で控えめに言うが、阿部は首を振る。
 ……本当は構ってほしくなかった。黙って寝かせてほしかった。

 いや。今のままでは眠れないだろう。阿部は顔のいたるところにカッターやナイフの刃を押し付けられているような、鋭い痛みが続いている。
 痛み止めの薬も、もはや効果なしだった。
 このままでは本当に死ぬ。
 ……だが、まがりなりにも治療を終えたという事実がある。須藤に手当てしてもらったのだ。
 だから、耐え続けていれば持ち直すのではないか、という期待があった。阿部はそれに賭けていた。

 「あのさぁ、何で病院行けないワケ? その顔、ちゃんと手当てとかしてもらわないと……」
 ルームランプで照らされた、阿部のつぎはぎだらけの顔を間近で見て、今更ながらミユキはそう問う。腹の縫い傷も痛々しい。薄い糸で縫われたままになっていて、糸がはみ出ている。
 「行ったら警察に捕まるんだよ、俺は……」
 そんな自分のセリフが、なんだか安物のドラマめいて聞こえ、阿部は苦笑した。今、こんな状況に追い込まれているのが不思議でもあった。
 「ちゃんと治してもらったらさ、病院から逃げりゃあいいじゃん!」
 ミユキの強引なアイディアに、阿部は苦笑を続ける。

 「……あ! イイ事思いついちゃった!」
 運転席のアヤカが顔を輝かせる。
 「ラブホ行かない?! おフロとかシャワーとかあんじゃん!! しかも泊まれるし! 皆で泊まっても1万くらいで済むじゃん?」
 「お! それイイ!! バッチグーじゃん!! ……あ〜れぇ? 何で今まで思いつかなかったんだろ〜ってなくらいじゃん?!」
 ミユキも途端に笑顔になり、両指をパチンと鳴らしてみせる。

 「冗談やめてくれって……」
 阿部は大きく首を振って拒絶する。児玉は身を固くして何も言えない。ラブホテルに泊まる、などという話に賛同できるハズもない。
 「じゃ、早速行くよ!」
 アヤカがサイドブレーキを外す。
 「やめろって!!」
 阿部は思わず大声を出してしまった。


 「あのさ。遊び半分じゃないんだって……。体洗うとか頭洗うとか、そんなのどうでもいいんだよ! 今は生きるか死ぬかの瀬戸際にいるんだからさ」
 阿部は顔をしかめて目を閉じる。
 「……それに、俺は殺人者なんだ。大量猟奇殺人者なんだよ。だから……病院とかに行けば、警察に捕まるってんだ」
 痛みにより、神経もだいぶ高ぶっていた。もう異議を唱えさせまいと、阿部は余計な事を口にしてしまった。さすがに殺人者と聞けば、一緒にラブホテルに行こうなどという気も失せるに違いない。

 「ウソでしょ……。そんなのに見えないって……」
 ミユキのフォローに、阿部は首を振る。
 「ウソじゃない。……でもアンタらをどうこうしようという気はない。それだけは約束する」
 そんな事を言っても、余計怖がらせるだけだろうとは思った。


 しばらく嫌な沈黙が流れる。阿部はあきらめたように、自分の事を素直に語りだす。
 「俺はメリーを殺そうと思っている。それができたら、俺の役目は終わりだ。それで充分すぎると思う。死んでもいい」
 「メリーって……あのTVとかでやってた、『白いメリーさん』?」
 ミユキが聞く。
 阿部は小さく何度もうなづく。

 「でも……何で人殺しなんか……?」
 アヤカが悲しげな顔で阿部に問う。
 「あの頃は……イカレていたんだよ。そうとしか思えない」
 ――若い女の凄惨な悲鳴。吹き出る真っ赤な血。苦しげにのたうち回るその最期の姿。暗い路地を嬉々として追いかけ回し……、ナイフでしとめる。憎らしい馬鹿な人間どもを、この手で殺す快感……。
 そんな悪夢が鮮やかに蘇る。それは決して、遠い過去の話ではなかった。
 殺人鬼の自分を変えたのは何だったのだろう。いや、自分は本当に殺人鬼ではなくなったのか……?
 阿部はわからなくなる。

 「ホントに人殺しなの……?」
 ミユキの恐れの目を感じる。普通の人間なら怖がって当然だろう。
 「……そうだ。巻き込むつもりとか全然なかったんだ。……悪かったよ。もう降りるから……」
 阿部はドアを開ける。途端、車内に冷風が入り込む。
 「いいから! 閉めて!」
 ミユキがやや強く言う。
 阿部は気後れしたが、素直にドアを閉じる。

 「もしホントに殺人鬼なら怖いけどさ……。でもただの人殺しが、メリーを殺そうとかって思わないと思うんだよね……。だってメリーも大量殺人鬼なワケじゃん? しかもオバケっぽいしさ。情報とかもすんげーシークレットみたいだしさ……」
 ミユキは阿部をフォローしつつも、その声はひどく震えていた。
 「……ホント悪かったよ。朝になったら別れよう。その方がいい」
 阿部はどうして本当の事を言ってしまったのか、と軽く後悔していた。
 「でも……」
 ミユキも言葉を失っていく。阿部は、この辺が一緒にいる限界だろうと思った。





 明け方。コツコツ、という音で児玉は目を覚ました。
 ガラスを指で叩いているのは、佐々木だった。
 「佐々木さんッ!!」
 思わず出た大声に、車内の他の3人も同時に目を覚ます。

 児玉はガラスを下ろし、佐々木を見上げる。外はやはり寒い。薄霧が立ち込めている。
 「今までどこ行ってたんですか〜……。だいぶ捜しましたよー?」
 児玉なりに怒った顔を見せる。
 「悪かったよ。ごめんねー?」
 佐々木は手を差し出す。児玉は黙って握り返す。佐々木はそれを面白そうに上下に振る。
 もう会えないのではないかとすら思っていたので、児玉は心底ほっとした。今ばかりは。

 「あ、その人が佐々木さん? 初めまして〜ミユキでぇす」「アヤカでぇす」
 ミユキとアヤカはほぼ同時にピースして見せる。起きてすぐにでも、ハイテンションになれる二人だった。
 「あぁ、すみません。ウチの娘がお世話になってまして……」
 佐々木は調子を合わせて、ふざけて頭を下げる。

 そして後部座席の阿部の方のドア外に、阿部の影が立つ。阿部もガラスを下げる。
 「……どうだ? ちゃんと見つけて来たぜ〜?」
 一仕事終え、阿部の影はやたら満足そうな顔を見せる。
 「よくやったよ」
 阿部も認めざるを得ない。
 佐々木を見ていた阿部の影も、ふざけて阿部に手を差し伸べる。阿部はうるさそうにその手を叩いた。


 「それにしても、どこ居たんですか? また消えたままだったんですか?」
 そんな児玉の問いに、佐々木は「ナイショ」とだけ答える。
 その背から阿部の影が顔を出す。
 「T県M市の駅前に居たんだよ。児玉ちゃんのママがいる町だね」

 「T県M市……?! ホントにそこにいたんですか?!」
 児玉が目を丸くする。この場から、どれだけ離れているのかわからないほど、遠い。少なくとも数県は離れている。
 「おいおい……何で児玉ちゃんが驚くの? 俺にそう言ったの、児玉ちゃんじゃん……。あの駅前のビジネスホテルか駅前を、待ち合わせ場所にしてましたぁ、ってさぁ……」
 阿部の影が不満げに声を上げる。
 「そうですけど……まさか本当にそんな所に……」
 T県M市で起きた、様々な事件などを思い起こしたりする。
 自分の実家があり、M病院ではメリーが大騒ぎを起こして警官らを十数人殉職させた。
 そして一時の姉をその病院で殺され……、その晩佐々木と出会った。謎の老婆からの電話も覚えている。

 「で? そこからどうやって来たんです? 新幹線か何かで?」
 そんな児玉の素朴な質問に、阿部の影はやや得意げな顔になった。
 「……ドッペルゲンガーってものを、児玉ちゃんはまだよく知らないワケだ。俺らは遠く離れていても、歩いて行けるんだよ。歩いて行った方が早いんだ。時と場合によってはね」
 「……ええっ? 歩いて……?」
 児玉はわからない。児玉はからかわれているのか、とすら思った。阿部の影は得意そうに続ける。
 「ホントに歩いて来たんだよ。……大体にして、この世がいくら広くても、<無意識>の住人である俺らにとっては、距離なんてものは無意味に近いんだからさ」
 「そう……なんですか?」
 「まぁね。自在に、とはいかないけどさ。意味深い時だけ、<無意識>が味方してくれるんだよ。そういう時、感覚が夢とつながる」
 「夢と……?」
 聞けば聞くほどわからなくなり、児玉もこれ以上質問するのをやめた。
 阿部の影と佐々木が、並んで同じように笑っているのも、児玉にはとても不思議に見えた。


 「その辺がね、あの須藤さんにはまだ理解できてないようなんで残念なんだけどね……」
 「……須藤さん?」
 突然須藤の話題になり、児玉は面食らう。
 「そうそう。佐々木さんがさ、須藤さんの電話番号、メモっといたらしいんだ。児玉ちゃんの自宅の電話番号もね」
 「ええっ!!」
 児玉は思わず、開いた窓から身を乗り出す。願ってもない、朗報だった。
 佐々木は苦笑いする。
 「まぁね、アタシ、時々メモ魔になるから。多分重要だろうなぁって思ってね……。でも携帯勝手にいじったワケじゃないからね。一緒に見てた時に、番号覚えちゃったんだからさ」
 佐々木はそう釘をさす。
 「いいえ! ありがとうございます!」
 児玉は思わず目を潤ませた。
 何もかも失ってしまったかと思いきや、今、全てを取り戻せたのだ。胸に充足感が広がり、数日ぶりの笑顔になった。

 阿部の影が顔を出す。
 「じゃ駅前行こうか。カバンとかバッグとか預けたままになってるって話でしょ。ロッカーに入れっ放しで1週間以上経ったみたいだし、もう事務所とかに保管されてる気がするけどね」
 すっかり事情を聞かされたらしい阿部の影を見て、児玉はうなづくしかなかった。

 「んで? ミユキちゃんらとはここでお別れする? ……あぁ駅前まで乗せてってもらってからかな」
 「あ、アタシ降りますから!」
 4人乗りの車を前に、今この場にいるのは6人だ。気を使った児玉はドアを開けるが、佐々木に押し戻される。

 「てか、お前が降りろっての」
 後部座席のドアを開け、阿部の影は阿部を引きずり出そうとする。
 「ちょっと病人に何やってんの! アタシが降りるからいいって!」
 ミユキとアヤカが車から飛び出す。
 「何、美しく遠慮しあってんの〜?」
 佐々木はその光景を見て脱力ぎみに笑う。

 結局、後部座席に佐々木を加えて、阿部の影が遠慮する形になった。
 そしてアヤカの運転する車は、霧に包まれた駐車場を出て、駅前に向かった。


 ― 79 ―


 駅前に着き、佐々木達はアヤカ達と一旦別れる。
 なごり惜しそうに、でも遠慮がちに、アヤカ達は行ってしまった。阿部が脅かさなければ、この先もきっとつきまとうつもりでいただろう。

 十日ほど前にコインロッカーに預けた佐々木達の荷物は、やはりそこには無く、事務所の方に保管されていた。
 荷物の返却にあたり、身分証の提示を求められたが、佐々木は「そのバッグの中に入ってますから」と言うなり、強引に荷物を取り戻した。
 身分証の提示の代わりにコインロッカーの鍵を手渡し、「これが証拠です!」と突っぱねた。
 それでも、ロッカー使用の延滞料金として、五千円も取られてしまった。一日につき500円という事だった。佐々木は「まけて〜」とねばったが、「規則ですから」と頑(かたく)なに拒まれた。





 佐々木と児玉は自分達の荷物を手に、駅を出る。
 久しぶりに、やっと元通りになった気がしていた。でもそれだけじゃない。阿部達という仲間も増えたのだ。
 まだ信頼をおけるワケではないが……、自分達をまた引き合わせてくれたのは事実だ。多少の「毒」を持っているのかもしれないが、メリーつながりなら、邪険にもできない。まして、メリー側の人間ではなさそうなのだ。ここは行動を共にして正解だろう。
 口にはしないものの、佐々木も児玉も、そんな考えでいた。まだ、身の危険も感じられない。

 「おまたせ」
 駅前の大きな時計台の下の木造りのベンチで待つ二人。阿部は相変わらず、具合が悪そうにしている。
 「みんな寒そうだよねー。コートでも買っとく? 四人分」
 佐々木は羽振りの良さを見せる。もはや冬、と言える今。ここにいる四人とも、信じられない薄着だった。
 「また! そんな無駄使いしちゃお金が無くなりませんか……?」
 児玉は早速いさめるが、半分は本気でもない。コートは確かに必要だろう。
 当然のように佐々木は首を振る。
 「お金なんか、もうとっておく必要もないしさぁ。……もう、アタシらには後がないんだから。この先はもう、驚くほど……短いかもしれないんだしさ」

 佐々木がそんな事を言ってくる。児玉は返す言葉もなかった。
 ……佐々木が消えたこの十日ほど。それは最後を迎えるべく、大きな予兆だったのではないか。この次にもし消える事があったら……、どうなってしまうのだろう? 果たしてまた、今回のように見つかるのだろうか……?

 ほんの十日前と比べ、佐々木のイメージもだいぶ変わったような気がする。
 今見ている佐々木には、お気楽な優しいお姉さんというイメージが似つかない。だいぶ影が出てきている。その笑顔にも、妙な静けさが垣間見える。
 「じゃあ、早いトコ須藤さん呼ぼうか。だいぶ待たせちゃったでしょ?」
 すっかり忘れてしまっていたので、児玉は大きく反応する。
 「あ! そうですね……。え〜と……。携帯が壊れちゃったんで、公衆電話でかけてきます。じゃあ、メモ、貸してもらえますか?」
 須藤達の電話番号をメモしておいた、という佐々木に感謝する。

 「は? ……携帯壊れたの? なんで?」
 佐々木にそう問われる。ごまかそうかと思ったが、本当の事を言っておいた。
 「メリーが……来たんです。つい昨日……ですね。そして壊されちゃったんですよ、携帯電話……」

 「ちょっと! ホントに?! 危ない目にあったりしたの?」
 佐々木が真顔で凄んでくる。児玉は気押されながらも平気な顔を見せる。
 「えぇ……ちょっと。でもこうしてピンピンしてますんで……大丈夫でしたから」
 「大丈夫って……。何か危なっかしいけどね……。で、何か言われた?」
 佐々木の顔が、ピントずれしたように一瞬大きく震える。間近で悪魔じみた凄まじい瞳が揺らぎ、児玉の視界は暗転した。

 「いえ……そんな大した話はされませんでしたけど」
 「じゃあ、何しにメリーが来たっての?! 何か用事があったから、メリーが出て来たんでしょう?!」


 児玉は佐々木に両肩を強く掴まれていた。
 本気で怒っている佐々木の顔。それは自分を心配しての事なのか。でも怒りより、苛立ちの影が強いようにも見える……。
 児玉は思わず悲しげな顔になった。

 「あぁ……ごめん。ちょっとびっくりしたもんだから……。まさかまたメリーが来るなんてさ……思ってもみなかったし」
 しどろもどろになりながら、佐々木は児玉から手を離し、ギヤ・バッグの脇のポケットからメモ帳を取り出した。
 「メモ、だよね……これだから。電話番号とかの他にもヘンなの書いてあるけど、気にしないで。下らないギャンブルメモとか、だからさ」
 「……はい。ありがとうございます」
 児玉はゆっくりと深くお辞儀する。佐々木はその姿に苦笑して、肩を何度か叩いた。
 でも児玉の方が、佐々木の肩を叩いてあげたい、という衝動にかられているのだった。





 それから数分もしない内に、児玉が電話ボックスから戻ってくる。
 「須藤さんにつながらないんですけど……」
 「だいぶ待たせちゃったからかな。……もう自分で決着をつけちゃったのかもしんないねー」
 佐々木は軽めに言う。
 「そんな!」

 「大丈夫だよ。須藤さん負けるワケないだろうしさ。……あ〜でもどうだろうね、この前はてんで弱かったもんね……。ナワで縛られてさ、トランクの中に詰め込まれてたんだもんね〜!」
 佐々木は一人で笑い出す。
 そんな佐々木を、児玉は睨んだ。
 「佐々木さん!! どうして笑えるんですか!! ……どうしちゃったんですか、佐々木さんは!!」


 ベンチに腰かけたまま佐々木は真顔に戻り、うつろな目を見せた。
 「……悪いけどね。これが末期症状なんだと思うよ。アタシはもう半分以上、人間じゃなくなってんのよ。この先どんどん黒い影に覆われていってさ……、黒い塊みたいなドッペルゲンガーになっちゃうのよ。そんでアタシの場合はそこで消滅かな……オリジナルがいないんだからさ」

 ……ごめんね。という小さな言葉を聞き取り、児玉は佐々木の元に駆けた。
 そしてその手を取る。
 「だから! メリーを倒しましょうよ!! そうすればきっと……佐々木さんも元に戻れますから!!」
 「そんな事、誰が言ったの?」
 「え……?」

 「メリーを倒せば、アタシらは無事人間に戻れてハッピーエンドになる……だなんて、誰が言ったの?」
 佐々木にまた別人のようなものを感じて、児玉はうろたえる。
 「……アイツは確かにね、自分を殺したら人間には戻してあげるって言ったわ。でもアタシが人間に戻ったところで、無事に生きられないのよ。佐々木なにがしはさ、大量猟奇殺人者だったんだから。アイツ、人、大勢殺しちゃったみたいだからさ。……だから人間に戻って戸籍を返してもらったところで、アタシには未来はないのよ」
 「……そんな……でも、きっと何とかなりますから……。別人として生きられるかもしれませんし……」
 そんな児玉に佐々木は首を振る。
 「甘すぎるよ」


 「おいおい姉ちゃあん! 話が違うだろう〜?」
 今まで黙って聞いていた阿部の影は、急にすっとぼけた声を出し、佐々木の肩を叩いた。
 「何よ、気安く触んないでよ……」
 佐々木は険悪な顔でその手をはらう。だが阿部の影は笑ったままだ。
 「……違うよな、姉ちゃん……?」

 そうダメ押しされて、やっと佐々木の表情に赤みがさした。
 ため息をつき、長くうつむく。
 「……わかったわよ……。わかってるわよ……」
 だが。生きられるものなら無論、生きたい。

 「……で、須藤さんにつながんないのか……どうしようね? ん〜……」
 本来の佐々木らしい大仰な表情が戻る。
 「やっぱりもう終わってるかもしんねぇな」
 阿部の影が無責任に言う。
 「そんな!」
 児玉はとまどうばかりだ。

 須藤は自分の決着をつけたがっていた。それはもう、十日も前の話なのだ。
 佐々木がいないから少し待ってほしい、とメリーの元へ行く話を延ばしのばしにして来たが、一向に連絡をしない自分にシビレを切らせて、須藤は既に行動してしまったとも考えられる。
 「まぁ連絡が取れないんならしょうがないだろ。……また後でかけてみてもいいしさ。それに須藤さんがいたからって、どんな役に立つかもわかんないしなぁ?」
 阿部の影は遠慮なく笑う。児玉はガラにもなく、ムッとした。

 「とにかくさ……」
 寝ていたと思われた阿部がぼそりと呟く。
 「俺の方ももう後がないんだ……。メリーを呼び出すなり、行動を起こすなり……、してくれないか?」
 「貴方のケガは……?」
 今更ながら、佐々木は阿部に問う。
 「メリーにやられたんだよ。……俺の今の目的は、メリーを殺す事だ。それ以外にはない」

 「お〜お〜、素晴らしいねぇ!」
 阿部の影はふざけて拍手する。阿部は本気で歯を剥いた。
 「お前も殺したいけどな」

 「この人達、どういう関係?」
 そんな佐々木の疑問に、児玉は短く説明する。二人とも「阿部」であり、オリジナルとドッペルゲンガーの関係である事などを。
 「でも……こんな重体じゃあメリーなんか倒せないでしょ……?」
 佐々木に問われ、阿部はチラリと目を向ける。
 「噛みついてでも……殺してやるよ」

 「嘘つけ! どうせ俺にやらせる気だろ?」
 阿部の影はピンピンしている。確かにメリーをやるのなら、阿部よりも確率が高そうだ。
 阿部は否定しようとしたが、ニヤと笑っただけで済ませた。その考えも悪くない、と今更ながら思ったのだ。


 「電話!」
 児玉が急に辺りをキョロキョロしだす。
 「誰かの携帯でしょう……?」
 佐々木は苦笑するが、この付近に人の影はない。そして今更ながら、ブルッと寒さに震えた。
 耳を澄ませると、児玉がさっき電話した、電話ボックスの中から聞こえているようだった。

 「公衆電話にも電話番号があるからな。別に驚く事じゃないだろ」
 阿部の影はそう言いつつも、面白がってその電話ボックスのドアを開け、受話器を取った。
 「……阿部ですが〜。誰? 須藤さん? もしかして、メリーさんかなぁ?」

 『さぁ、どちらかしらね?』
 返ってきた声は、通る女の声だった。メリーだ。
 「……はははぁ、お久しぶりですが。お元気でしたか?」
 『ふん。貴方も生かしておかないわ。私を手ひどく裏切ったんですものね。覚悟なさい』
 ギャリッと歯軋りがつく。
 「わはは! これは手厳しい! ……でもまぁ今更ね、惜しむ命でもないんでね。どうでもいいんですが。……で、メリーさんは今どこに?」
 『どこにでも行けるわよ』
 「じゃ、今すぐ決着をつけに来てくれる、と?」
 おどけつつ、余計な事を言ったかと青ざめる。

 『いえ……。児玉さんがね……手ごわいみたいだから、今はよしておくわ。それより貴方の連れが死にそうでしょう? 死んでからにするわ。そうすれば多少はね、やりやすくなりそうですから……』
 「何もかも……お見通しですか。参ったな。……で、児玉ちゃんが手ごわいってのは……何の事です?」
 『ご本人に聞いてみたら? ……それじゃまた』
 電話はアッサリと切れた。


 皆の所に戻り、阿部の影は説明する。
 「メリーさんからだよ。戦うのは、お前がくたばってからにするとさ」
 阿部は自分の事だと感づく。
 「ふん……。メリーらしくもない。喜んで、今すぐこの場に踊りこんで来てもおかしくないのにな……」
 メリーの気まぐれさを、阿部は多少は知っている。電話で来ないと言ったものの、次の瞬間に現れないとも限らない。現れたら、自分は簡単に終わるだろう。
 「まぁ慎重になってんだろ。児玉ちゃんが、何かやらかしたみたいだから」
 「え?!」
 言われた児玉は目をしばたく。

 「メリーさんがさ、児玉ちゃんの事を怖がってたんだけど? 可愛い顔してさぁ〜、何をやらかしちゃったのかなぁ〜?」
 これ以上ないというニヤケ顔を見せ、阿部の影は児玉に顔を近づける。児玉を見ているだけでも楽しいのだ。
 「アタシ……覚えてません」
 「そお? すんごい蹴りでも食らわしちゃったんじゃないの〜?」
 自分で言って大笑いする。
 「そんな事、してません……」
 だが、メリーが自分を恐れているという今の話を受け、この前、メリーに襲われた後の空白の間に、何かがあった事を漠然とつかむ。
 ふと思い立ち、ズボンのポケットの中に入っている携帯電話を残骸を取り出し、リュックの空いているポケットの中に収めた。やはり、捨てられないと思った。


 「……で。これからどうするんだ?」
 阿部の影が皆に問う。
 だが、メリーの居場所がわからない。以前、須藤と阿部が住んでいたアパート、というのが唯一可能性のありそうな場所だ。だが、その場所へ行くのもひどい手間なのだ。わざわざそんな遠出をして、メリーに逃げられたのでは意味がない。
 「向こうがその気になってくれなきゃなぁ……。まぁ半分その気みたいだけどな……」
 今のメリーの電話から、確かに殺意は感じた。

 そこで四人はクラクションの音を聞く。
 駅前のタクシー乗り場の近くに、アヤカの車が停まっていた。
 「あ? あいつら、まだ付きまとう気でいるのかぁ……?」
 阿部の影は拍子抜けしてしまう。
 見ると、その車の周囲にあの蝶が羽ばたいていた。佐々木の蝶だ。まるで線香花火のように、光が踊っている。
 「何よあれ……?」
 この中で唯一、光の蝶を見ていなかった佐々木は、一際大きく驚く。
 「あれ、佐々木さんの蝶ですよ。あの蝶のお蔭でアタシは須藤さんとも会えたんですし、こうして阿部さん達とも……。そう言えば、佐々木さんとも、ですよね……」
 児玉は説明しながら、皆の出会いに関わっている事に今更ながら気づく。
 「アタシの蝶……?」
 今は衣服の下に隠れている、右肩のオオミドリシジミのタトゥ。それが抜け出すと、あんな妖精みたいに綺麗になるのか……。


 アヤカ達が車の中から呼んで、しきりに手招きしている。
 仕方なく、阿部の影だけ試しに行ってみる。
 「何、姉ちゃん達? まだ用事あんの?」
 「そうじゃなくって! ホラ! 蝶々が呼んでんのよぉ、アタシ達の事をさあ!!」
 二人は興奮ぎみに訴える。

 でも阿部の影にとってはどうでもいい事だった。この二人がただの人間である事は、重々承知済みだ。今後、何かの役に立つとも思えない。
 「でもさ、これ以上迷惑かけらんないし。アイツは殺人鬼だし。やめといた方がいいよ、絶対」
 正直、阿部の影はこの二人を気に入っていた。長々と夜通し、バカな話をし続けたせいもあるだろう。余計な首を突っ込んで、死んでほしくないのだ。
 「でもさぁ〜。どうせアタシらも退屈してんだしさ。……阿部ちゃんだって、全然怖くないしさ〜。……ねぇ?」
 お互いがお互いに聞いて、うなづきあう。

 「お姉さん達さぁ、仕事はどうなってんの? 無断欠勤とか、続いてない?」
 阿部の影はそんな心配すらしてしまう。
 「……アタシら、大した仕事してないしさ。バイトみたいなモンだから。全然、大丈夫」
 「そ〜お?」
 これ以上反論してもムダだとあきらめる。そして質問の最後として、素朴な疑問をぶつけてみた。
 「で、お姉さん達さぁ、何で俺らにつきまといたいワケ? 何度も言ってんじゃん、危ないって……」

 少しだけ二人は考えて、ほぼ同時に顔を輝かせた。
 「面白そうだから、でしょ、きっと」
 「はぁ〜? 面白くないって……全然。俺らこれから、メリーさんに殺されに行くだけだしさぁ」
 半分本気でそう言う。一度は殺しかけたメリーだが、また同じような状況を作り出せるかは……自信がない。
 「とりあえずちょっと待ってて! 俺らの話もまだまとまってないんだよね……」
 阿部の影はそこを離れ、また時計台下のベンチに戻る。


 「何かあのヒト達、俺らのアシやりたいってさ……」
 阿部の影は首を振る。何ならひどく脅かしてやろうか、とすら思ったりする。
 「アシはいいけど……どうすんの、これから……」
 佐々木は阿部の影に問うが、答えなど出ない。

 児玉が落ち着かない様子でベンチを立った。
 「あの! アタシ、もう一回、須藤さんに電話かけてみますから!」
 佐々木のメモをまた手にして、電話ボックスへ駆ける。
 「ムダなんじゃないの……。もう死んでるとかさぁ?」
 阿部の影にとって、須藤などどうでもいい。須藤の影が女々しくメリーをかばったシーンなどが思い出され、更にげんなりする。
 「……お前さ、捜してこいよ、須藤さんの事」
 ふいに阿部が口を出す。

 「あ? 俺が? ……なんで?」
 阿部の影はいかにも嫌そうにする。
 「須藤さんの印象はわかるよな? 俺の記憶から。……とにかく、この場に須藤さんは必要だと思うんだ。オリジナルにしろドッペルゲンガーにしろ……」
 「おいおい! どっち捜しゃあいいんだ?!」
 「……オリジナル、だろ。児玉ちゃんが会いたいのは?」
 電話ボックスにいる児玉に代わって、佐々木が考える。
 「うん。確か……オリジナル……よね、アタシらが会った須藤さんは」
 言った後もまだ考え続ける。オリジナルと影の関係が、自分達も含めて、本当にややこしいと思った。


 そこで児玉が帰って来る。
 「つながりました! 須藤さん、待ってくれているそうです! さっきはワザと電話を取らなかったんだそうです。公衆電話だから怪しいと思ったみたいで……」
 「そうなんだ。……で、須藤さん、どこで待ってるって?」
 児玉からメモを受け取り、佐々木は尋ねる。
 「……メリーの居場所の近くって言ってました。須藤さんに、阿部さんがここにいる話もしたんですけど……。そしたら阿部さんがよく知っているハズだって言ってました」
 「うん。俺らがいたアパートだ。……そこで待ってるっての?」
 阿部の影が、実際にそこに住んでいたワケではないが、阿部に代わってそう言う。
 「えぇ! そこで皆の決着をつけようって……!」
 児玉は須藤と連絡が取れたのが嬉しくて、興奮ぎみにそう語る。

 「……でもさぁ。またワナって事はないよねぇ? この間もさぁ、須藤さんに騙されたワケだし。須藤さんのドッペルゲンガーとメリーがつるんでさぁ……」
 高速道路での一件。佐々木と児玉は、須藤だと思って乗せられた車の中で、須藤の影とメリーに襲われかけたのだ。
 阿部の影は問題ない、と首を振る。
 「いいじゃん全然! ワナでもいいじゃん。メリー達に会えりゃあさぁ、本望なワケでしょ? そこで皆一斉に決着をつけられればさぁ、文句ないじゃん。……まぁウチの大将も死ぬ寸前だしさ、ここらで乗り込むしかねぇよなぁ!」

 半ば納得しつつも、皆うつむいてまだ考え込む。早まってはいないか、と……。
 児玉が細々と口を出す。
 「でも……メリーさんって、倒せるんでしょうか……? バケモノなんですよね……?」
 「死ぬよ、アイツ。包丁でも。楽勝で殺せる」
 阿部の影はそう気楽に答える。

 そこでミユキが体を震わせて駆けて来た。
 タクシー乗り場を「邪魔だ」と追い出され、やや遠くの路上に車を移したようだった。
 「ちょっとさぁー! 詳しい話は車でやろうって〜。ここすんげ寒ぃーじゃん!!」
 そしてじたばたして皆を急かす。しかし、また車に乗せてもらうにしろ、詰めてあと三人しか乗れないのだ。どうしても一人余る。

 「わかったわかったから。……じゃ、また俺が一人寂しく歩いて行くからさ。てかお前、病院に入院でもしてろ。邪魔だって!」
 阿部の影は阿部の頭を叩く。阿部は抵抗する素振りもない。
 「ちょっと! ケガ人いじめないでって! ……アンタら仲がいいのか悪いのかさぁ、ホント全然わかんないね!」
 ミユキは、殺人鬼だと聞いたハズの阿部の肩を持つ。聞いてもまだ信じられない、といったところか。

 「おい」
 阿部がかぼそく、影を呼ぶ。
 「歩いて行く所……わかるだろ? お前が行くべき所……」
 阿部は意味ありげな事を言う。
 「まあな。何となくだけど。やっぱ、調べといた方がいいか? 最後だもんな」
 「そうだ」

 阿部の影は手を振って立ち去る。
 そして他の皆はまた、アヤカの運転する車に乗り込み、駅を出た。



 (続く)



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