40話〜59話

 

 ― 40 ―


 須藤は入居の手続きを済ませ、早速4号室に移り住む。特に荷物はなく、引越し作業というものは皆無だった。
 昼過ぎ。タバコを吸い終えると、須藤は部屋の真ん中で仰向けになり、腕枕をして、目を伏せた。

 ――何もかもと、無縁に生きてきたここ数年。ホームレス同様の生活を続けてきた。
 何の目的も生きがいもないまま、無駄に生きてきた。
 ――生きる事の退屈さ。
 それを埋めるものは、何もない。自分には、見つけられないでいる。……いや、探してきたのかどうかも、あいまいなところだ。
 刺激は、犯罪を犯す事にあると思った。そして無意味な人殺しも重ねてきた。
 ……だが、それにもいつしか飽きてしまっていた。そんなもので喜んでいられた自分が懐かしい。元々、残虐性を自らに見出せなかったので、殺し方も淡白なものだったのだが。

 「鬱(うつ)病かね……?」
 ただこの数日は、久しぶりに会えたメリーと、そして阿部という青年のお蔭で、多少は退屈しないで過ごせている。
 この年になり、自分はまだ刺激に飢えているのか?と問う。正確な年齢は忘れたが、自分はもう三十代後半なのだ。
 生きるための資金も、いずれ尽きる。かと言って、自分には働く意思などない。まっとうな人間として、やっていくつもりなど、さらさらないのだ。
 ……人間と入れ替わって、一体、何を得たのだろう?
 須藤は静かに、考える。

 そんな時、鋭く携帯電話が鳴った。

 手を伸ばす。――非通知。不安がよぎる。どの道、自分の携帯の番号を知っている者など、限られている。
 「須藤だが……?」

 『やぁやぁ……アンタの名前は須藤かい。覚えておくよ。……数日前は世話になったね。アンタに抱きつかれた時は、年甲斐もなくこの胸がドキドキしたもんさ。ひゃあっはっは!』
 老婆の声。須藤は苦笑して起き上がる。
 「……都市伝承か……。丁度ヒマをもて余していたところでね。用は何だね?」
 『アンタに提案があってね。コッチに乗り換えないか?と思ってさ。若い女が二人もいるよ? ヒヒヒ……』
 須藤は苦笑を広げる。
 「おいおい……気でも狂ったかね? そのフザケた提案は一体どこから出てきたんだ?」
 『……まぁ他愛のない冗談だよ。でもどうせアンタには、あのメリーに仕える理由はないハズだからね。……退屈しているだけなんだろう?』
 「……まぁねぇ……」
 見透かされている、と須藤は首を振る。

 『何故こんな事を言うのかって? アンタは人間になりかけているからさ。あの時、ただの人間と見間違えたほどさ。アンタにはもう、狂った邪気は無いね。あるように、思いたいだけなんじゃないか?と思ってね……。要は、フヌケになっちまったんだね。まぁもっとも、アンタみたいのが人間になったところで、まともなヤツにはなれないだろうけどさ』
 「…………」
 須藤は黙って聞き入れる。フヌケ、というのも遠からず当たっていると受け入れる。

 『メリーは……暴れるつもりになっているだろう? それにアンタは加担する。虚しい人殺しを再開するワケだ。駒はだいぶ揃えたのかい?』
 「いいや。そうでもない……。僕と阿部クンの二人だけだ。今のところはね」
 『阿部……かい。ソイツも覚えておこう。まぁ暴れたいんなら好きにやればいいさ。それだけ早く、死にたいんだろうからさ』
 「……そうかね。随分自信たっぷりじゃないか」
 『そりゃそうさ。あの子がまだ半人前だからね。……ハッキリ言って、あの子はかぼそくて死にやすい。殺すのなんて、他愛もない。アタシが用意した駒も、ムダに終わっちまうかもしれない』
 「ははは……。そうですかねぇ……?」
 『いいや。確かアンタ、メリーの手当てをしたとか言ってたね。じゃあわかるハズだ。あの子がいかに死にやすいか、をね……』
 須藤は知らずとうなずく。
 「……わかりますよ。メリーさんは確かに弱い。この僕の手でも……」
 言いかけ、須藤は口ごもる。目の前に白いドレスがぬっと現れていたからだ。

 顔を上げると、メリーの冷ややかな視線を受けていた。
 メリーは無言で手を差し出してくる。須藤はおとなしく、携帯を手渡した。

 「……もしもし? おばあさんですね? 一体、何のお話をしてらしたんです?」
 『あぁメリーかい。なぁに世間話だよ。アンタがあんまりにもか弱いもんだから、間違って殺しちまうんじゃないか?っていう話さ。はっはっは』
 聞いたメリーの表情が一瞬大きく歪む。
 「……おばあさん? 耄碌(もうろく)はほどほどにね。何なら、今からこちらにお越しになられます?」
 それを聞いた須藤が青ざめる。「……ダメです! まだ早すぎる」
 メリーは怒りをあらわに、須藤を睨み返す。
 さすがの須藤も硬直し、もう声が出ない。

 「おばあさん?! 私を殺すですって?! ……やれるものなら今すぐやってごらんなさいな!! 勝手な事ばかり言って、私を怒らせないでもらえます?!」
 そして、その手の中で、須藤の携帯電話は握りつぶされた。
 しばらくして、それを須藤に差し出す。
 「……新しいのに取り替えて来て下さいね?」
 それだけ言うと、メリーはまた消え去った。





 「失礼するよ」
 灰皿を手に、須藤は隣の阿部の部屋を訪れる。
 「どうぞどうぞ」
 阿部はパソコンに向かって作業している。パソコンからは、静かにクラッシック音楽が流れている。

 「……今、メリーさんのオリジナルの片割れ……つまり、都市伝承から電話がかかってきてね。メリーさんとひと悶着あったんだ」
 「へぇ……? それはそれは」
 「あんまりメリーさんの悪口は言わない方がいい。どこで聞かれているかわからない……」
 須藤は苦笑して、阿部の背中ごしに、画面を見る。
 「で、君は何をやっているんだい?」

 「情報を集めています。数日前、メリーさんがM市M病院で暴れた時、その姿を写真で撮っていたヤツがいたようなんですね。こういう風に、アップ(公開)されています」
 見せられた画像。闇夜の中、白いドレスが舞っている。連続写真のように、数枚見せられる。
 「ただこのご時世、写真なんてものは証拠にはならないんですよ。いくらでも加工が上手いヤツがいるものですから。何の驚きも与えられない。だから裏付け話が欲しくて、ちょっと調べていたんです。……中にはビデオ画像もありますが、映りは全く良くなくて、こちらは使えないんですけどね」
 振り向いた阿部の顔は生き生きとしている。

 「で、先日のニュースの概要は、こうですね。……その晩、一人の女性患者が殺される。警察が駆けつけるが、犯人達の襲撃にあい、大量虐殺に発展してしまう。犯行を行った女性二人は、拳銃とナイフのようなものを所持。警官ら十四名ほどを殉職させた……。他、重傷者が七名。で、その後、犯人の一人が片割れ……つまりメリーさんに射殺される。そしてメリーさんは逃走……ってワケですね」
 「まぁ、自分の意思で殺したワケじゃないらしいがね」
 須藤は軽くフォローする。阿部はうなずく。
 「……で、やっぱり「白い服を着た女性」というのが、このニュースの後でも浮き彫りにされてきていますね。ネットでもちょっとアングラ(アンダーグラウンド:地下)な方ではもう、「白いドレスの女」と断定しているようですが。こういうのはネットの方が、情報が早いですからね。情報規制も関係ないワケですから。まぁその分、流れている情報の信憑性っていうのは、いただけないんですけどね……」
 「で、メリーさんらしき写真が、ネットで流出しているってワケか……?」
 「まぁそうですね。やっぱり、みんな半信半疑でいるようですが。でも、この辺をうまく突けば、メリーさんの名を浸透させていけるんじゃないか、と思って。白いドレス姿ですから、インパクトもだいぶあるようですね。妖怪説ももちろん出ています。今はただ、笑われているようですが」
 「う〜ん……」
 須藤は腰を引き、考え込む。元々、ネット関係にはうといので、何も言えない。

 「僕なりに情報操作を考えましたが……、ムダですね。色々な憶測が飛び交っているワケですから、僕の意見もそんな中の一つとして埋もれてしまいます。でもここでわかった事は、不可解な事件はネットに於いて、格好のネタになるという事です。思った以上に、このネタは広まっていますし、食いつきもいい。僕は情報を追っているだけで充分だと悟りました。情報を捻じ曲げるんじゃなく、情報を収集してサイトに公開していく方針で行こうかと思っていますね」
 「……へぇ……?」
 阿部の意気込みを感じ、須藤は感心の色を見せるが、内心はどうでも良かった。よって、話を切り上げる。
 「じゃ、頑張ってくれ。邪魔して悪かったね」
 「いえ、そんな……いつでもいらして下さい。あ、そうそう、今夜も僕、夜勤ですので」
 「了解」

 須藤は阿部の部屋を出て、そのまま階下に下りる。
 外に出て、曇り空を眺めた後、車に乗り込む。
 助手席に、メリーがいた。音もなく、そしてまた自分も驚かなかったので、一瞬、夢かと錯覚した。

 「すみませんけど、その辺まで乗せていってもらえますか?」
 「……どこへ? 僕は貴女が壊した、僕の携帯電話を交換しに行こうかと思ったんですがね?」
 「それはご迷惑をおかけしましたね。すみません」
 須藤はため息をつく。メリーはこれからまた、新たな事件を起こしに行きたいのだろう、と推測したからだ。
 「メリーさん。人殺しの何が楽しいんです? 僕に教えてくれませんかね?」
 そう聞くと、メリーの目の色が冷たく変わった。

 「楽しくなんかないわね。私は私の伝承を築こうとしているだけの事です。黙っていたら、私はその存在すら誰にも認められない。消えて無くなってしまうかもしれないんです。だから、私は殺し続けなくてはならないの。もっと、人間達に恐れられる存在になるためにね」
 メリーの苦悩に、須藤は少しだけ関心をよせる。
 「……まぁそうでしょうね。動いていかないと、見えない事が多すぎますからね……」
 須藤は車を出す。
 アパートを出て、車は国道方面へと走る。
 「須藤さん。でもね……私は「死」を求めているような気がするんですよ。でもそれは静かな死ではありません。私が納得のいく「死」なんです。この世にいて、何かを期待したところで、結局のところ肩すかしで終わってしまうのね。……でも、自分の「死」に直面した瞬間っていうのは……とてつもなく怖いし、とても楽しいの。それは偽りじゃなく、心底からくる恐れであって、喜びなの。……わかるかしら?」
 「……わかるような気がします」
 ――破滅願望。それが、自分達二人の共通の意識なのだと須藤は知る。

 「ですから……私を裏切るのはせめて、あのおばあさんを失って、私に歯止めが効かなくなってからにしてもらえませんか? 今はまだ貴方方が必要ですから……」
 「裏切る、だなんてそんな……」
 須藤は、都市伝承ばかりかメリーにまで見透かされていた事におかしくなる。
 「……いえ、わかりました。いいでしょう。約束しますよ。……まぁ、僕が裏切ったところで貴女に適いやしませんがね」
 メリーも満足そうにうなずく。
 「今夜も派手に殺します。須藤さんにはカメラマンをお願いしましょうかしら? そして阿部さんにネットで流してもらいます。いかがでしょう?」
 「……カメラマンですか。まさか初めから僕をそのつもりで……?」
 須藤はやられた、と頭をかく。カメラは本格的ではないにしろ、多少は使い慣れている。それをメリーに知られていたとしても不思議はない。
 「まさか。そんな失礼なつもりはありませんでしたわ。……でも、お願いできますか?」
 「まぁねぇ……いいですとも。美しいお姫さまが虐殺している瞬間を、存分に写して差し上げましょう。……何なら今、アップで撮っておきますか?」
 「ほほほ。楽しい方ね……」
 そう気兼ねなく笑うが、やはり底は知れないものだと須藤は思うのだった。


― 41 ―


 その晩は、温泉に来ている。郊外にある温泉宿だ。入り口に面した駐車場には車が数台しか停まっていない。その建物も全く高級感などは感じさせてくれない。
 しかも、近くに他の温泉などもなく、立地場所が国道沿いという好条件からして、天然の湯ではなく沸かし湯の温泉である可能性は非常に高い。それでも二人は気の晴れたような顔で訪れていた。新品の自転車が二台、入り口傍の自転車置き場に停まる。

 佐々木達はフロントで宿泊の手続きを済ませた後、早速浴衣(ゆかた)に着替え、替えの下着をタオルに包んで大浴場へと向かう。
 女湯ののれんの脇に、張り紙とシャンプーの自動販売機があった。佐々木は珍しそうに覗き込む。
 「当温泉では、シャンプー類は設置しておりません。この自動販売機をご利用ください、だって〜。……セコイね」
 手の平サイズのシャンプーが200円。佐々木は口をとがらせる。「普通はさ〜どこでもシャンプーとかボディソープとか使い放題なのに……こんなトコ、滅多にないよ。ねぇ?」
 問われた児玉は首を振る。「アタシはあんまり、温泉とか来た事ないからわかりませんけど」
 「まぁ、とりあえず買っとくけどさ〜。……半分こしようね?」
 出てきたシャンプーのプラスチックの小ビンを見て、「おもちゃみたい」と悪態をつきながら、のれんをくぐる。

 脱衣所は十畳程度の狭さ。建物の風貌(ふうぼう)からあらかたの予測はついていたので、佐々木は更には文句をつける事もなく、浴衣を脱ぐ。児玉もそれにならう。他に先客はいないようだ。
 「やっぱ狭〜い……」
 大浴場とは名ばかりで、サッシ戸を開けた先の湯船は、十人と浸かれない小規模なものだった。
 でも文句をつけながらも、佐々木の足取りは軽い。児玉は後ろで苦笑する。

 そして二人並んで体を洗う。佐々木は髪から洗う。
 「ところで児玉ちゃんさぁ、胸おっきいんじゃない?」
 「え〜?! そうですか……? 普通ですよ、多分」
 「アタシよりおっきいんじゃないの? 形もいいよね〜。あ〜若いっていいわぁ……。その肌のツヤ、うらやましいわっ」
 おどけた口調で佐々木は児玉をからかう。
 「またそんな……」
 児玉は顔を真っ赤にする。

 「なんかこうしてるとさぁ、修学旅行とか思い出すよ。……って、ホントに思い出すワケじゃないんだけどね。まぁアタシは過去の記憶なんか要らないから、別に深く探りを入れたりはしないんだけどさ。児玉ちゃんは何か思い出す事とか、ある?」
 「アタシですか……あんまりは……」
 ……気付くと真夜中で。自分はどこかの駅のベンチに座っていた。学校の制服姿。数万円入ったサイフを握り締めていた。
 他に思い出すのは、最近の事ばかりだ。温泉施設に泊まった時の事。病室の中での、母の姿。無残に殺された自分の同胞……ひと時の、姉。

 「あ〜言うの忘れてたけど、あのおばあさん、知ってる?」
 「おばあさん?ですか……」
 「今朝、電話かかって来たのね。なんか自分で、メリーとか言ってたけど。でもメリーはさ、違うでしょ? おばあさんじゃないよね。女の子だもんね。……全身、真っ白くてさ」

 ――白い、メリーさん。
 児玉の脳裏に、鮮烈に浮かび上がるそのイメージ。その一瞬、全身の肌が冷える。

 「……メリーって二人いるのかなって思って。若いメリーと年寄りのメリー。ただ二重人格なのかどうかはわかんないけど。……で、若いメリーが事件起こしたりなんやで、年寄りの方は……まぁよくわかんないんだけど、アタシに電話してくるしさ。児玉ちゃんの事も知ってるようだったし。あ! そうそう忘れてた。携帯の電源、入れておけって言ってた」
 「携帯の電源……ですか」
 ドッペルゲンガーからもらった携帯電話。大事なものだ。
 「わかりました、入れておきます……。で、そのおばあさんが私の事も知ってるんですか……」

 電話。老婆。その二つの単語から、思い出す事があった。佐々木と出会った夜の事だ。確かに、老婆から電話がかかってきた。詳しい話は忘れたが、佐々木という女を捜せという事だったと思う。同じ境遇の人だから、と……。

 ――そして今は、隣にいる。この人もメリーに記憶を奪われ、ドッペルゲンガーと入れ替わっている。そのドッペルゲンガーは、自分と同じく、死んだらしい。そう聞いている。
 「ま。変な事頼まれそうなら電源切っててもいいんだしさ。何かヤバイのに巻き込まれるんなら、やめとこうね。あのおばあさん、アタシらに何かさせようとしてるのかもしれないしさ」
 「…………」
 でもそのために、自分と佐々木は出会ったのかもしれない。児玉の胸はしばらく空虚になる。

 「まぁ、何かアタシに出来そうな事だったら、アタシはヒマだから手伝ってあげてもいいかなって思うんだけどね。でもその時は児玉ちゃんを巻き込む事はしないから」
 「何言ってるんですか……」
 児玉は佐々木を真顔で睨む。しかし、佐々木はとぼけた顔だ。
 「……ん? アタシは危険な事に首を突っ込みたい人間だから。退屈してんのよ。でも、あのメリーさんと戦え、とか言われたらそこは遠慮しとくけどね〜。まぁそこまで要求されるとは思わないんだけど。アタシに何か、凄いチカラでもあれば別だけどさ」
 しばらく自分を生かしてくれた異常なギャンブル運も、もう消えてなくなってしまった。自分には、何もない。本当は、いつにでも死んでしまってもいいくらいなのだ。特に、生きる目的も希望もないのだから……。

 体を洗い終え、佐々木は湯船に浸かる。児玉も湯を流し、後に続く。
 「アタシさ、色んな温泉入ってきたからすぐわかる。……ここ、ただのお湯。成分ゼロ」
 「いいじゃないですか、別に……」
 児玉は苦笑を返す。
 「ま〜ね〜。でもさ、やっぱりいい温泉は人多いのね。だからホント大衆浴場ってカンジで。なんか、落ち着かないのよね……。アタシ結構、人嫌いな方なんだ……」
 「そうですかぁ?」
 さほどそうとは見えない。人のいいお姉さん、と児玉には思える。
 佐々木を改めて間近で眺め、ふと思い出す言葉があった……。

 ――その子、助けてやれなくてごめんね。

 駅の構内で、友達がメリーさんに腕を握り潰された。その後、この人に、そう言われたんじゃなかっただろうか……。
 「……佐々木さんですよね。駅で……私を助けてくれたのは……」
 「え? 何それ急に……?」
 「私……面白半分で、メリーさんに電話をかけました。そしたら本当にメリーさんが電車内に現れたんです……。そして電車が駅に停まって、私と友達は逃げたんですけど、ホームで捕まってしまって……それで、友達はメリーさんに腕を握り潰されて……」
 児玉は記憶をたどる。思い出される惨劇のさなか、現れた女性……。それがここにいる佐々木だった気がするのだ。

 「あ〜そんな事もあった気がするけどね〜……はて。あの時の女子高生が児玉ちゃん? アハハ。変な奇遇なのか、それとも何なのか……」
 「助けていただいて、ありがとうございました……今更ですけど」
 「え?! 何言ってんのよ! そういう事言うのやめてよね……。おっぱいもむよ?」
 「やだっ!」
 児玉は胸を押さえ、逃げる。
 佐々木はさも可笑しそうに笑う。

 でもやがて寂しげな顔に戻る。
 「あのメリーに会えば……、何か掴めるかなって思って、アタシはここまで来たんだよね。タクシーに乗ってさ。……毎晩、寝苦しかったんだ。嫌な夢ばっかり見てさ」
 「……何だか、アタシが人殺しになった夢を、見てた気がするのね。……でも、それは夢じゃなくって、本当の事だったんだと思う。あの病院で、アタシのドッペルゲンガーを見た時、そう思ったわ。「あぁコイツのせいだったんだ」ってなんとなくね……。悪どいツラしてたしさ」
 「それで、どうなったんですか……?」
 児玉が身を乗り出してくる。
 「理由はわからないけど突然、メリーさんがアタシの影を押さえ込んでさ。そして、メリーさんは拳銃で、アタシの影の頭を撃ったのよ。その時確かに、おばあさんの声で叫んだんだよね。「児玉ちゃんっていう子が近くにいるから捜せー」だなんて。んで、アタシはワケわからないけど逃げたワケね。そんで急に頭痛くなって倒れてたところに……、児玉ちゃんが現れたってワケ」
 佐々木は上手く順序立てて思い出せたようで、満足した顔をしている。

 「私達は……また、メリーさんに会わなきゃならないんでしょうか……?」
 深刻な顔で児玉はそう言ってくる。
 「別に会う必要はないでしょ。大丈夫だって。あのおばあさんが何か言ってきても、アタシが文句言ってやるから」
 「そうですかぁ……?」
 佐々木は、本当にいいお姉さんだ。児玉は心底、気持ちがやわらぐのを感じている。

 「この先の事だけどさ、まだお金に余裕があるから、節約しながら使っていきましょ。一ヶ月くらいはもつでしょ。危なくなってきたら、飲み屋でバイトでもしてさ。戸籍なくても使ってくれるトコ、絶対あると思うからさ」
 「え〜?! 飲み屋ですかぁ……」
 「大丈夫よ。変な事されないように、アタシが見張ってあげるから。女なら、一度くらいは飲み屋で働いてみないと。いつまでたっても、男の事が全然わからないままよ?」
 「そうですかぁ……? 佐々木さんはもう働いた事あるんですか?」
 「ないよ」
 佐々木の即答に、児玉は肩を落とす。

 「ま、もしもの時よ。それまでにアタシのギャンブル運が復活してるかもしれないし。もしかすると、児玉ちゃんにそういう運が流れちゃったのかもしれないしさ。その時は責任とって、頼むね」
 「え〜……?」
 「生きていくためだから仕方ないでしょ?」
 「でもギャンブルだなんて……」
 児玉は全く気乗りがしない。

 「まぁ、資金が底を尽きそうになったら、改めて考えましょ。それまでに何か新たな動きがないとも言えないしさ。あのおばあさんが、自分の世話をする代わりに財産をやろう、とか言ってくるかもしれないし。アハハぁ。……そんなのないか?」
 佐々木は楽しそうに笑う。
 児玉は佐々木を静かに見つめる。この先の不安はあるけど、この人とならきっと楽しくやっていけそうだと思う。
 でも、また急に消えないでほしい、と願うのだった。


― 42 ―


 夜の街中を、須藤の車はゆっくりと徘徊(はいかい)する。車の流れは多くも少なくもない。
 メリーは助手席から、真顔で周囲を眺め続ける。

 「……本当に、人間って大勢いるんですね。嫌になるくらいに」
 そうポツリと呟くメリーに、須藤は笑いかける。
 「だから、どれだけ頑張って殺したところで、世の中はビクともしませんよ。……まぁビクともしませんが、確かに衝撃を与える事は充分に可能でしょうけどね。二十人も殺して、素直に警察に捕まってみる。それで貴女の名は長く、後世に残る事でしょう」
 冗談のつもりだったが、メリーは笑ってくれなかった。
 「私は……ただ退屈しているんでしょうか。このデタラメなチカラを持て余していて、ただ存分に暴れてみたいだけの、獣のような存在なんでしょうかね……」
 「かも知れませんね……」
 気の利いたセリフも見つからないまま、須藤は黙り込む。――悪魔じみた、とか天使のような、とか。そんなつまらない台詞をわざわざ口にする気にもなれない。だが、メリーの底知れぬ力は存分に知っている。人間とドッペルゲンガーを入れ替わらせ、それらの記憶を自在に操り、周囲の人間の記憶すら歪ませる。加えて「運」などといったものにまで力を及ぼす事ができる。これを神や悪魔と言わずして、何と言おうか。
 本当に、デタラメな力だと、須藤も思う。

 車は駅前に差しかかる。
 「……ここで下ろしてください」
 そんなメリーの気まぐれに須藤は応じるが、車を路肩に止めた後、軽く助言する。
 「まさか、この駅前で騒ぎを起こそうという気じゃないでしょうね……? それは無茶しすぎではありませんか?」
 「……騒ぎですって? 私はその辺を歩いてみたくなっただけです。理由もなく、人を殺しはしませんわ。……そうでしょう?」
 そう言ってのけるメリーに、須藤は口が塞がらない。メリーはまるで言動が一致しない気がする。
 「まぁ好きにして下さい……」

 ドアを開け、メリーは路上に出る。そのあでやかなドレス姿に、道行く人が早くも目を向けてくる。
 「じゃ須藤さん。騒ぎが起きたら、写真、お願いしますね?」
 そしてドアが閉じられる。
 「やっぱりお姫さまは騒ぎを起こしたいわけだ……。力がある、というのはまぁ恐ろしいほど、自由なんだろうけどねぇ……」
 須藤は車をまた走らせ、近くに有料駐車場を見つけ、入っていく。
 車を置き、須藤はカメラを手に、メリーの後を追った。





 群がる視線を無視し、メリーは当てもなく歩道を歩き続ける。
 立ち並ぶ商店類はそのほとんどが閉店時間を迎えている。飲み屋街の通りに続く交差点で立ち止まり、メリーは明かりの方へと吸い込まれるように歩いていく。
 ――その先に、同じ白いドレス姿の者がいた。気付くと同時に、メリーは足を止めた。

 顔をあげたそれは、老婆だった。……都市伝承だ。
 赤いハイヒール。そしておめかしのつもりか、老婆はつばつきの白い帽子を深々と被っていた。
 メリーの顔は嫌悪に染まる。老婆は遠くから、通る声で話しかけてきた。

 「……メリー。お前はこんな所で一体、何をしようとしているんだい? 自分でもわかっていないんだろう?」
 「そうね」
 「お前には目的も何もない。生きる意味も価値もない。……ただの亡霊なんだよ。その亡霊が、この先ムダな騒ぎを起こして何になるってんだ? ……何にもならん」
 「そうね……」
 都市伝承は諭(さと)すように言うが、メリーにはまるで通じていない。

 「……メリー。アタシはね、お前を殺すには忍びないと思ってるんだ。……お前はアタシだからね。お前という存在を無くしてしまうのは、惜しいと思っているんだ。……だから、おとなしくしていてほしいんだよ。その可愛らしい姿のまま……、天使とは言わないからせめて、人形のような無害な存在であってほしいんだよ、アタシはさ……」
 老婆は哀願する。メリーを殺したくないのは本心なのだろう。そしてまた、自分がメリーを殺すに充分な力を持っているという過信もある。
 「……おばあさん? 私は人形じゃありませんわ。それに、生きているという事は、誰かの思いのままになる、という事ではないと思うのね」
 メリーは大きく歩を踏み出す。
 都市伝承の顔が大きく歪む。……自分はこのままメリーを殺してしまう。そんな恐れが胸に迫る。

 恐れもなく、近づいてくるメリー。老婆は動けない。
 お互いの顔がはっきりと見え出す。歩を止めないまま、メリーの腕が伸びてくる。その手が老婆の首に触れる。
 それでも、老婆は動かなかった……。

 都市伝承の首を掴み、メリーはマユをひそめる。
 「どういうおつもりかしら?」
 「……お前という存在。そしてアタシという存在。そのどちらかを生かすとしたら……アタシは身を引くしかない。この老体にはもう、何もできたもんじゃないからね。それに、生きる意味も価値もないのはお互い様なんでねぇ……」
 「貴女は戦いもしないで、死ぬとおっしゃるの?」
 メリーは老婆の首を締める手に、力を込める。
 「……アタシにお前を殺す事は無理だ。そんな可愛いお前を……アタシは汚せない」
 老婆は苦笑する。メリーはしかし、そんな老婆に邪気をつのらせ、歯を剥き出した。

 「随分とフザケたおばあさんね。そんなに私を猫可愛がりしてもらわなくて結構よ。バカにして……!」
 メリーは力を込めるが、疑問もある。
 「……貴女は、この私に殺せないのかしら? 貴女は不死身なのよね?」
 「ウワハハハ……。不死身だなんてテキトウな存在がこの世にあるもんかい。充分に殺せるとも。アタシを殺したいんなら、このままおとなしく死んでやるさ……」
 老婆は目を閉じる。メリーは一層険悪な表情になる。
 「あらそう?! だったらもう二度と現れないでもらいたいものねっ!! お願いですからっ!!」
 メリーは両手で、老婆の首を締めにかかる。憎しみの全てを込め、一息に握り潰す。
 老婆――都市伝承は何の抵抗も示さないまま、首が折れる鈍い音とともに、死を迎えた。


 手を離し、メリーは崩れ落ちた老婆の死体を眺める。近くのやじ馬が今になって、つんざくような悲鳴をあげた。
 「……フン。どうせまた現れるに違いないわ。口だけのおばあさんなんですものね」
 憎い都市伝承を殺せた、という感覚はまるで無かった。
 「メリーさん!」
 カメラを抱えた須藤が駆け寄って来る。メリーは笑顔で迎える。
 「いい写真は撮れましたか? フラッシュには気付きませんでしたけど?」
 「……いや、まだ写真は……。しかし、都市伝承が……これは死んだんでしょうか……?」
 「いいえ。きっとまたすぐ、電話がかかってくるでしょうよ。そういうフザケた事が大好きなおばあさんですものね」
 そう言ったメリーの顔色が変わった。

 首をかしげ、喉をさする。
 「……何かしら……苦しいわ……?」
 体をひねり、両手で首をさする。やがて足を折り、その表情が苦悶に染まる。
 「……はぁあっ……ウググググ……うぅううう……!」
 たまらず、メリーはそのまま路上に倒れ込んだ。
 「メリーさんっ!!」
 須藤はカメラを足元に置き、メリーを抱き起こす。

 メリーの目は宙をさまよっていた。
 「……まさか……私も死ぬの……? このおばあさんが本当に死んじゃったから……ドッペルゲンガーである私も……? ……ウソよ、そんなの……」
 荒い呼吸がつまり、メリーはアワを噴き出した。その全身が痙攣(けいれん)し始める。
 「いやよ……こんな死に方は嫌。こんな……中途半端な死に方なんて絶対にいや……!」
 メリーの目から涙がこぼれ落ちる。
 「……お願い、須藤さん……! また私を助けて頂戴……貴方ならきっとできるわよね……? だって、お医者さまなんですもの……」
 口から噴き出すアワを流す、大量の白い血。
 見ると、その首が力なく折れ曲がっていた。

 「うわぁああああっ!!」
 須藤は絶叫をあげ、メリーの頭を押さえ、どうする事もできないでいる。
 「首が折れただなんて……いくら何でも助けられるワケがないでしょう……?」
 溢れそうになる涙を須藤はぬぐう。
 「……ダメだっ! 死なないで下さいっ! 貴女は人間じゃない! この程度で死ぬワケがない!!」
 メリーを抱きかかえ、須藤は駅前の駐車場へと駆け戻った。


― 43 ―


 「一体、何をやってるんだ……馬鹿がっ!」
 メリーの首が折れたというのにその場に安静にする事なく、手荒にここまで運んで来た自分に、須藤は腹を立てた。

 駐車場内で一度メリーを路面に置き、首の状態を確かめる。……骨が完全に折れていて、頭部がぐらついている。これでは話にならない。
 それでも須藤は緊急時の気道確保を試みた。頭を後ろに傾け、アゴを引き上げる。舌による、気道閉塞を防ぐためだ。そしてムダだとわかっていながらも、メリーの口から、空気を送り込んだ。
 ……だがいくら懸命に繰り返してみたところで、何の反応も見られなかった。呼吸も返ってこない。もし、メリーに物理的な脳が存在するのなら、その脳はもう終わりだ。心臓停止後、脳は数分ともたない。
 続けて心臓マッサージを行う。気道の確保もできていないのに、無意味だとわかっている。だが、せずにはいられなかった。

 それも充分に行った後、額の汗をぬぐい、メリーを車の後部座席に寝かせた。そして改めてメリーを見る。
 ――白い妖精。震えがくるほど美しい彫像。だがその首は痛々しく折れ曲がっている。
 慌てて手を伸ばし、幾分か修正する。途端、その口の端から白い血が流れ落ち、須藤はまた動転した。

 時には幽霊のように消えたり点いたりする事もできるのに、どうして今は首が折れたくらいでこんな状態に陥っているのか、須藤は理解できなかった。
 そして、今の自分の不手際により、メリーを本当に殺してしまったんじゃないかと、青ざめる。自分はトチ狂っている。気道確保も心臓マッサージも、まったく理に適っていない。首が折れた患者など、自分は診た事がない。まして自分のオリジナルは内科医だ。

 正気を失ったまましばらくメリーの姿を眺め続けた後、運転席に着く。だがまたしばらくハンドルを握ったまま、動き出せないでいた。
 考えがまとまらない。……何処へ行けばいい。どうすればいい。本当に助けられるのか? もう手遅れではないのか。

 だがとにかく、アパートに戻るしかない。手術用具はそこに置いたままだ。
 呼吸を整え、ゆっくりと発進する。場内を回り出口で料金を支払い、駐車場から出る。

 「……くそ。どうすればいい。どうすればいい……」
 出てすぐ、信号待ちをくらう。タバコに手が伸びたが、とりあえず控える。
 首が折れるなどという事態は、人間では即死を意味する。メリーが人間ではないとはいえ、それが痛手でないとは思えない。このまま為すすべなく、死ぬかもしれないのだ。
 そして、これは印なのではないか、と思った。
 ――化け物、幽霊の死。そんなものは、想像がつかない。
 だが。こうして死体をさらしたまま消えもしないのは、その完全なる「死」を、意味するのではないだろうか?
 もはやメリーには、自分の体をどうする事もできなくなっているのだ。きっと。

 ――メリーは、都市伝承を殺した。そして、ドッペルゲンガーである自分も、同時の死を迎えた……。
 ほどなく車は街を抜け、国道に出る。須藤はあきらめぎみで、車を走らせた。





 アパートに帰るが、阿部の車は無い。夜勤だったと思い出す。
 車から降り、急いで二階の自分の部屋のドアを開けてから、メリーを車から降ろす。
 意識も呼吸もない。蘇生する見込みもない。
 消えもしない。メリーはただ、死んだ人形のように、自分の胸にもたれかかっている。

 静かな気持ちで、部屋に戻る。メリーを床に下ろし、枕だけをひきよせる。
 治療を試みようとしたが、ここに来て、須藤はあきらめた。
 「……もうムダですよね。すみません、お役に立てなくて……」

 腰を下ろし、メリーを見る。まばゆいばかりの白いドレス。感触を確かめてみたりする。
 ただ黙って、見守る。
 ――メリーの死。
 それが受け入れられなくて、何か、望みを探ってみたりする。……だが、何一つ浮かばない。

 「死ぬだなんて……」
 須藤はうつむき、そのまま長く、じっとし続けるしかなかった。





 布団で横になってTVを観ていたが、いつの間にか佐々木は寝入っていた。
 「風邪ひきますよー」
 布団をかけてやり、TVを消す。そして部屋の電気も消し、歯を磨きに行こうとする。
 その時、児玉の携帯が音を立てた。

 「……もしもし?」
 『……アタシだ。この間のババアだよ。……でね、よく聞いとくれ。これが最後の電話になるだろうからさ……。佐々木ちゃんは傍にいるかい?』
 児玉は佐々木を見る。だが、完全に寝ている。起こそうか迷う。
 「いますが……寝てます」
 『……そうかい。そりゃしょうがないな。じゃあ起こさなくてもいい。お前さんがよく聞いてくれりゃいい……。いいかい? これがアタシがアンタらに伝えられる、最後の電話だから。頼むからちゃんと聞いとくれな……?』
 その弱々しい声に、児玉は耳をそばだてる。何があったのだろう? 児玉は神妙に返事をする。

 『アタシはさっき、メリーに殺されたんだよ。同じ存在が二つもあってややこしかったんでね、若いメリーに役をゆずったのさ。まぁそういうつもりだった。だけど、あろう事か、メリーまで死んじまったようでね。……死ぬとは思わなかったんだ。……でもあの子は確かに、アタシのドッペルゲンガーだったようでね。……だから、一緒に死んじまった』
 「…………」
 児玉は意識を集中して、言葉を記憶するに努める。
 『アタシはね、いずれアンタら二人に、メリーを殺すように頼むつもりだったんだ。いや、その手伝いだね。まぁアンタらにそんな難題を押し付けるのも気が引けたが、アンタらのオリジナルとなった影が、メリーと深く関わっていたからね。アンタら自身と決着をつけさせるつもりだったんだ。……でもまぁ全て、誤算に終わっちまった。アンタらの影はすぐ死んじまったもんな……』

 そこで、リン、という微かな音とともに、一度通話が途切れる。だがまたすぐ繋がる。
 『……あぁもっとお喋りをしたいところだけど、ムリそうだね。いいかい、よく聞いてくれな』
 「はい……」
 自分と佐々木を巡り会わせてくれた老婆。その老婆との唐突な終わりがここにある。児玉は口元を強く引き締める。

 『でね、メリーがいなくなった後に、須藤と阿部というヤツらが残ってるんだ。メリーの信者みたいなもんさ。ソイツらを……早い話が、殺してほしいんだよ。ロクでもないヤツらだからね。……で、ソイツらはメリーの死体の傍にいるハズだ。でね、ここからがまた、よく聞いてほしいんだ。いいかい……?』
 段々聞こえにくくなる声に、児玉は必死で耳を押し付ける。
 『佐々木ちゃんの蝶は……、夢でメリーを見つける事ができる。あの子の無意識は、常にメリーを追っているんだよ。自分の影をも追っていた。あの子は長年、夢で苦しんで来たんだ。自分の影が人をいかに残酷に殺すかを、見せられてきたんだからね……』
 ――佐々木の蝶。出会った時に見た、あの妖精みたいな蝶の事か……。児玉は様子を思い起こす。

 『……聞いてるかい? それで、何とか須藤達の居場所を突き止めて、殺してほしいんだよ……。でないと、アタシは安心して眠る事ができないのさ……。なぁ、頼むよ……?』
 「……わかりました。やってみます」
 できるかどうかもわからない、口約束でしかない。だがこの老婆に、少しでも安堵を与えたい。最後の電話というからには、もうこの先、命がないのだろう。児玉はしっかりと、約束する。――殺せ、という言葉に震えながらも。
 『ありがとうな……それじゃあな。あの子にもよろしくな……』
 そして、電話が切れた。


 通話の途絶えたままの携帯電話を、児玉はしばらく眺め続ける。
 ――スドウ、アベ。その二人を殺せと、約束させられた。

 そして、メリーは死んだという。老婆とともに。
 一概には信じられないが、受け入れてみる。メリーとはさほど関わっていないが、恐ろしい端的な記憶だけは残っている。……白いドレスの記憶。
 「……殺せ、だなんて……」
 児玉はやっと携帯の通話を切り終える。

 そこで妙な光を感じて振り向くと、佐々木の肩から、蝶が舞い上がろうとしているところだった。
 出会いの時に見た光景。美しい、きらめきがそこにある。
 「……どうしてこんな不思議な事が……?」
 児玉は息を呑み、夢見心地で見つめる。

 それはすいと宙を泳ぎ、瞬く間に姿を消してしまった。


― 44 ―


 翌朝六時過ぎ。阿部の車がアパートの駐車場に入ってくる音を聞く。
 須藤は腰を上げ、出迎えに部屋を出た。

 「……どうしました、須藤さん?」
 階段の踊り場で力なく立っている須藤を見て、阿部は目を見張る。
 「……すまん。メリーさんが死んでしまった。悪いが来てくれないか……?」
 「……死んだ? まさか……」
 とにかく、須藤の後を追う。

 須藤の部屋に入ると、そこにメリーが横たわっていた。両手を胸に組んでいる。ただ静かに眠っているように見える。
 「昨晩だ。メリーさんは街で、都市伝承と会ったんだ。そして、その手で都市伝承を殺した。……だが、その後急に、メリーさんも苦しみだした。そして、僕の見ている前で死んだんだ。……首が折れている」
 阿部はメリーの顔を覗き込み、その首に触れる。よく見ると、確かに妙なズレが感じられた。
 「……死んだ。……そりゃ困りましたね……」
 阿部は難しい顔になる。須藤と違い、悲しみの色は見えない。
 「本当に死んでしまったんですか? ……じゃあ、やる事なくなっちゃいましたね、僕ら?」
 阿部は苦笑する。須藤も力なくそれに笑いを返す。

 「でも信じられませんね。そんなに簡単に死ぬような妖怪ですかね、白いメリーさんというものは? だって本当は、その存在すら怪しいような人だったじゃないですか。しかも、その意思で消えたりもできるし、瞬間移動のような真似事もできる。そんなとんでもない妖怪が……そう簡単に死ぬもんですかね……?」
 「以前、拳銃の弾を食らって死にかけた時もあった。ちょっとした間違いで、メリーさんは死ぬ。元々、死にやすいような気はしていたんだ。それに今回は事情も違う。メリーさんのオリジナルである「都市伝承」を殺した直後、メリーさんも死んだ。オリジナルが死を迎えた事で、そのドッペルゲンガーであるメリーさんも、同時の死を迎えたんだと思う……」
 「はぁ……」
 そして二人はしばらくメリーの亡骸(なきがら)を眺める。

 「生き返らないもんですかね……? メリーさんなら、ナンでもアリなような気がするんですが?」
 そんな阿部の楽天的な考えに、須藤は首を振る。
 「どうだろうね。一晩様子を見たが、そんなそぶりは一切無かった。治療も施せなかったしね。僕は内科医だから。どこかの病院へ駆け込もうかと思ったよ……助けてくれ〜ってさ……」
 そして二人はまた苦笑をかわす。

 「まぁ……あきらめがついたら、この美しいお姫さまを……どこかに埋めて来るよ。僕もそんなにセンチな人間でもないから、まぁ今日中にでもね。……そして悪いんだが、僕はアパートを引き払う。ここにいる理由も無くなったんでね。またどこかで、勝手気ままな生活をさせてもらう事にするよ」
 「そうですか……残念でしたね……。メリーさんを埋めるのは、僕も手伝いますから」
 「あぁありがとう。じゃあ……、そうだね。君も仕事帰りで疲れただろうし、午後でいいよ。……で、この辺で、いい場所があったら頼むよ」
 「……そうですね。ちょっと考えてみましょう。せっかくですから、メリーさんが喜びそうな場所をね」
 そして阿部は須藤の部屋を出る。

 須藤はまたメリーの横に座り込む。そして、その髪をなでたりする。
 「……まったく神さまってヤツは無慈悲なもんだな。こんな、世に二つとない美しい妖精の命を奪うだなんて……」
 耐え難い脱力感にまた襲われる。須藤は無念に目を閉じた。





 朝風呂から上がり、佐々木は心底幸せそうな顔で部屋に戻って来る。
 今朝は名ばかりの大浴場続きにある、露天風呂に入ってきた。その露天風呂も大した造りではなく、柵に覆われていて眺めも無いに等しかった。だが誰もいない事もあり、佐々木は朝の清々しい空気をゆったりと満喫できたのだった。
 児玉は布団から半身を起こし、ボケッとした顔のままTVを見ていた。二人ともまだ浴衣姿だ。

 「あら、起きてたの? おはよ〜児玉ちゃん?」
 「あ〜おはようございますー。……朝風呂ですか〜? いいですねー」
 「朝風呂でーす。ねぇ牛乳飲む? フルーツ牛乳だって。まずいかなぁ?」
 ビン入りの牛乳を二本、手にしている。オレンジ色だ。だが児玉は牛乳が苦手だった。
 「……アタシ、牛乳ダメなんです。すぐお腹こわしちゃって……」
 「あらそうなんだ〜? じゃアタシが二本とも飲んじゃうよ? アタシは牛乳好きでさー。だからかな〜? 健康には結構自信あるんだよね〜?」
 その場でキャップを開け、ゴクゴクと飲み始める。しかもほぼ一気飲みである。佐々木の豪快さに、児玉も呆れるしかなかった。

 「あ〜結構おいしい。後で飲まない?」
 そう言って差し出してくるが、児玉は首を振った。
 「いえ、いいですから……ホントに」

 「……あ、それより。佐々木さん、蝶飛び出てましたよ? 昨日の晩」
 「へ?!」
 佐々木は驚いて、お腹を押さえる。
 「……すみません。腸じゃなくて……チョウチョウです。あ〜何言ってんだろ、アタシ……」
 佐々木の驚きようが可笑しくて、児玉も腹を抱えて笑いだす。

 「何よひどいわね〜……。で、そのチョウチョウって何?」
 児玉の元に座り込み、顔を近づける。
 「佐々木さん、右肩に蝶のタトゥー入れてますよね? その蝶、夜中に逃げ出しているようなんですけど……?」

 「え〜……? まぁ何となくそんな気してたけど……他の人にも見えるんじゃ……ただの夢じゃないのかなぁ……?」
 佐々木は即、納得に至る。自分でもある程度、気付いていたのだ。
 「スゴイ、綺麗でしたよ。キラキラ〜って光って、窓から外に逃げちゃいました。別に窓は開いてなかったんですけど」
 「ふ〜ん……」
 牛乳をテーブルに置き、お菓子などをつまむ。
 「お茶飲もう、お茶?」
 佐々木は昨晩、ここの売店で買ってきたお茶を早速開けて飲む。少量の金箔が入っている梅茶だ。お湯で溶かすタイプで、十袋入りで千円もするものだ。
 「いただきます」
 手渡されたお茶を、児玉も飲む。確かにおいしい。だが高価なので勿体無い思いもある。

 「後、おばあさんから電話が来ました。お別れだって言ってました。そして、アベとスドウって人を殺せって……言われました」
 「……え?」
 事情の飲み込めない佐々木は聞き返す。
 「あの……メリーさんがらみの、おばあさん、知ってますよね? この間、ホテルで電話を受けたって言ってたじゃないですか。私に携帯電話の電源を入れてほしいって言ってたおばあさん。そのおばあさんが、メリーさんに殺されたようなんです。そしてメリーさんも死んだと聞きました」
 「メリーさんと、あのおばあさんが死んだ……?!」
 佐々木は真顔になる。

 「……えぇ。で、自分はもう死ぬ。これが最後の電話だとか言われまして……昨晩、佐々木さんが寝てからです。それで、アベとスドウって人が、メリーさんの信者とかで、悪い人だから殺してくれって……」
 「アベとスドウ……? 殺せ……ですって?」
 思わず児玉を睨んでしまってから、目をそむける。
 「居場所は……佐々木さんの蝶が追っているって話でした。夢で……佐々木さんはメリーさんを追っているって。だから、佐々木さんなら、アベとスドウって人を見つけられるって言ってました……」

 「ちょっとそりゃいいけど……殺せだなんて……。ひどいおばあさんね……」
 自分達には全く関わりもなく、恨みもない人間を殺せと言われても、無理がある。
 しばらく二人は無言になる。だが、もし児玉がやろうと言っても、佐々木は受け入れる気にはなれなかった。

 「……とにかく、メリーが死んだって事は……もしかすると、アタシ達も元の生活に戻れるかもしれないね? 記憶も戻ってさ。オリジナルとして、家に帰る事ができるかも?」
 そう思うと、何だかそれも悪くない気がしてくる。だが児玉は笑わない。
 「でもアタシはおばあさんと約束したんです。そのアベとスドウって人を……」
 「何よ? 殺すって言うの?」
 バカじゃないの? という言葉を佐々木は呑み込む。

 「……でも、約束は破れません。せめてそのアベとスドウって人がどんな人か、会ってみてから……」
 そう言う児玉に、佐々木は強く首を振った。
 「何言ってるの! いやよ、アタシは。そんなのに、協力なんてしなーい。絶対、しなーい」

 そしてチラと児玉を見る。児玉は真顔で佐々木を見つめていた。
 「……お願いします。佐々木さんにしか見つけられないんです。見つけるまででいいですから、協力して下さい!」
 児玉は、佐々木の手を両手で握り締める。
 
 「ちょっと……どうしてそこまでしなきゃならないの……? 人殺しになりたいの? なりたくないでしょう?」
 佐々木は、この真面目すぎる少女を哀れみの目で見つめ返す。……この子は人にすぐ騙されてしまうタイプだ。誰かが傍にいて一つ一つ教えてあげないと、この先、失敗ばかりを繰り返すだろう……。
 「とにかくさ、落ち着いてよ。じゃあさ、そのアベとスドウってのが、もしニュース沙汰にでもなったら、考えましょ? この先、何かスゴイ事件が勃発してさ、犯人はアベとスドウに間違いないって確信したら……、アタシも少しは協力する気になるかもしれないしさ。……ねぇ?」
 「……そうですね……」
 結局は児玉が折れる。確かに、頼まれたからと言って、恨みもない人を殺す事などできはしない。

 「じゃ。フルーツ牛乳も飲んでみようか? ちょっとでいいからさ」
 キャップを開け、グラスに注ぎ入れ、児玉に差し出す。児玉は受け取って飲んでみる。

 「あ……結構おいしいですね。甘い……」
 「でしょ? 年寄りは間違った事を言わないのよ」
 と佐々木は自分の事を言ったつもりだったが、老婆の事が頭にダブり、首を振って打ち消した。


― 45 ―


 午後二時過ぎ。須藤の車に乗り、二人は出かける。
 途中、ホームセンターに寄り、スコップを二つ買い込んだ。メリーを寝かせた後部座席の下に放り込む。

 「……とにかく東の方へお願いします。ここから三十分ほどでしょうか。ちょっとした山が続いている所があるんですよ。その辺に行けば、充分埋める場所には事欠かないと思いますので」
 街を抜け、広い峠道に入る。山を一つ越え、長い直線を抜けると、田畑や民家が顔を出す。遠くは小山に囲まれている。
 道中、あまり会話が弾むハズもなく、二人は無性にタバコを吸いたくなってきたが、メリーへの配慮として控えていた。

 「あそこにガソリンスタンドの看板がありますね。そこを右に曲がって下さい」
 「了解」
 阿部の言う看板を須藤は確認する。そして右へ折れる。

 小学校。神社への階段。そして民家などが続き、商店街に入る。対抗車線からダンプなどが来たら、塞がってしまいそうなほど道路は狭い。付近の店も相当な年代物を思わせ、そのほとんどが寂れている。
 「この辺を過ぎると、山に入れる所がいくつか出てくるんですよ」
 店の並びはすぐに途切れ、また田畑が広がった。右手に民家がぽつぽつと建ち並んでいる。その背後にはなだらかな杉山が続いている。
 「……早速ですが、あの辺はどうでしょうか? 山に入れる道だったと思います」

 舗装路ではない、緩い坂道が見える。その先は小山の木立ちに呑まれている。須藤は了承する。
 うまい具合に近くに民家も無く、誰かに気付かれる恐れも少ないと踏む。速度を落とし、山道に入る。敷かれた砂利はすぐ途切れ、乾いた地肌の道が伸びていた。
 うねる山道を登るとすぐに、辺りは背の高い杉の木にすっかりと覆われてしまった。

 車を揺らしながら奥へと進んでいく。だが舗装されていない山道とは言え、充分に車の往来に耐えうる道になっている。おそらく、トラックが通っても道が崩れるような事は無いだろう。
 その先、二度ほど車の退避場を見送ると、視界の開けた場所に出た。日にまたさらされる。
 山の中腹辺りを思わせる。道はうねり、更に長く続いている。谷を経て、すぐ向こうに別の山が連なっている。ここまで来ると、山以外のものは見えない。出先に阿部が言っていた以上に、この辺の山は深そうだ。
 「じゃあこの辺でいいね?」
 須藤はそこで車を停める。後続車や対向車は無いと願いたいが、もしあったとしても、この辺の道幅なら問題はないだろう。


 車を降りて、辺りを見渡す。この先、道が左に曲がった所が山の谷になっていて、細い川が流れている。山へ入るのなら、そこからが登りやすいだろう。
 「じゃ行こうか。すまないが、靴を汚すと思うよ?」
 そんな今朝からの須藤の気の使いように、阿部はとうとうネをあげた。もう何度謝られたかわからない。
 「大丈夫ですよ、須藤さん。……貴方だけのメリーさんじゃないんですから。僕も少しはお慕いしていましたんでね。こうして見送ろうというのに他意はありませんよ」
 「あぁそうなのかい……? それは失礼したね」
 自分一人だけ辛い顔をしていたかもしれない、と須藤はここにきて気付いた。やや気力を取り戻す。 

 そして後部座席のドアを開ける。そこにメリーが眠っている。首が折れたままというのが気にかかり、須藤は添え木で固定させていた。
 これが見納めかと思い、須藤は短い間だが無心に見つめる。こんな美しい生き物は、きっと他に無かった……。
 「阿部くん、僕が背負っていっていいかね?」
 「構いませんよ。じゃあ手伝いましょう」
 メリーを抱き起こし、須藤の背に背負わせる。阿部はスコップを二つ、両手に持つ。
 「じゃ、日が暮れない内に。急ぎましょう」
 そして二人は山へ入っていった。


 「……一体どんな付き合いだったんだい、メリーさんとは?」
 ふと衝動にかられ、須藤は聞いてみる。
 「付き合い、ですか? 別にそんなものはありませんが……。まぁ思い出話をさせてもらえば、メリーさんと会ったのは、僕が高校生をやってた時ですから……今から七、八年前の事でしょうか……」
 「ほう……? そりゃ僕より早いかもしれないな」
 「そうですか……? まぁ僕が高校生の頃ったって、ロクでもない事ばかりやってましたがね。オリジナルによく泣かれたもんですよ。……あぁどうだったかな、もうその頃にはヤツも消えていたかもしれませんが。まぁとにかく、人を殺しまわっていたのは事実ですね」

 「……でもその他に、僕には趣味があったんですよ。……自分達の事に興味があって、色々と調べていたんです。ドッペルゲンガーっていう化け物は何なのか。いや、それだけじゃなく、色々な妖怪や都市伝承や幽霊などにも、興味が湧いていましたね……。まぁ未だにその興味は続いているワケですが」
 阿部の思わぬ笑顔に、須藤は関心をよせる。
 「で、その頃はそういったオカルト仲間の集まりによく顔を出しては、情報を集めていたんですね。今のようにネットなんか無い時代でしたから、それこそ口承で。生の声を聞きに、色々な集会に足を運び続けました。……わざわざ遠出までしてね」

 空を覆うほどの杉の群れの中、眼下は笹(ささ)が隙間無く群生している。斜面も決してなだらかではない。阿部は「鎌が必要でしたね」と口ごもる。
 「で……そんな時、「メリーさん電話」の番号を聞いたんですよ。ある女子学生が知っていましてね。「絶対につながりますから、冗談半分でかけないで下さい」だなんて釘さされましたけど、もちろん僕は嬉々として試してみたワケです。……その集会の帰り道の電話ボックスで、早速ね」

 「それで、電話をかけたら本当に、メリーさんが現れたワケですよ。まぁ僕の様子がおかしいのに気付いて、すぐ嫌な顔されましたけどね。「なんとなく、貴方には関わりたくないわね」なんて言われた気がしますよ……」
 「ひどいな、メリーさんも」
 須藤も軽く笑う。

 その斜面を上がりきると、幅二メートル程のなだらかな段に辿り着いた。昔でいう木切り道かもしれない。笹もその辺は穏やかで、二人はその道なりに進んでみる。
 「少し開けた所に着いたら、もうそこに埋めてしまおう。見晴らしの良い所なんかを選んでいたんじゃ、きりが無さそうだ」
 阿部はうなずき、話を続ける。
 「……で、僕にメリーさんの電話番号を教えてくれた子というのが、次の集会の時には別人になっていたんですよ。その子も好奇心に勝てなかったとみえて、メリーさんに電話をかけたんでしょうか。そしてドッペルゲンガーと入れ替えをさせられたワケですね。……もちろん、他の人間達はそれに気付かないんですね。その辺はメリーさんの凄いところですよ。まぁ人間全ての奥底のつながりである「無意識」をいじる、とかいう壮大な話ですもんね……」
 「話は始めに戻りますが……、その辺の不可解さに魅かれて、その後少しばかりメリーさんを追いかけ回した……という程度なんですよ、僕とメリーさんの付き合い、というのは。色々教えてもらいたくてね。根掘り葉掘り聞いては、嫌がられたものです。でもその代わり、メリーさんの言う通りに働きました。オカルト仲間の集会に顔を出しては、白いメリーさんの話を言ってみたり、後、ネットができるようになってからは、そこで色々な工作を働いてきたり、ですね。……一応、メリーさんがドッペルゲンガーを使って、情報操作を始めようとしたその走りは、実は「僕」なんですよ……?」
 「……そりゃ凄いな。初耳だよ……」
 想像以上に阿部はメリーに貢献している。そしてその付き合いの度合いも深いようだ。メリーが初めて阿部の話をした時、信頼を於ける言い方をしたのもこれで納得がいく。

 「ところで、老婆の「白いメリーさん」、いわゆる「都市伝承」なんですが……、その勢力の衰えも、メリーさんの画策通りでしたね。メリーさんはいつしか都市伝承をしのいでいたんですよ。メリーさん電話の電話番号は、もはや都市伝承にはつながらなくなっていたんです。……その辺をまだ、メリーさんは実感できていなかったんじゃないかと思います。メリーさんは長い間、都市伝承を目の敵にしていた風でしたからね。メリーさんはいらない焦りを感じていたんです。……だから結局は自滅してしまった。オリジナルを殺せば自分も死ぬ事を、忘れていたんでしょうか……?」
 阿部の問いに、須藤も首を振る。
 「どうだろうね……。僕にもわからないね。僕はあの都市伝承が、メリーさんのオリジナルとは思っていなかったからね。昔、横浜に出現していたという「ハマのメリー」が、オリジナルなんじゃないかと思っていたものでね。まぁ結果的にそうではなかったようだけども」
 そして死の間際のメリーの行動を思い起こす。そ知らぬ顔で街を歩き、そして待っていた都市伝承の首を締めて殺してしまった……。
 「……ただ確かに、メリーさんは周囲が見えていなかった気もする」
 ――慎重さに欠けていた。
 ただそれだけの事で、メリーは命を落としてしまったのだ。

 「ところで、須藤さんの方はいかがなんです? いつ頃、メリーさんと会ったんでしょうか?」
 「……僕か。どうだろうね。五年も前だったかな。……まぁそれはともかく、埋めるのはその辺でいいんじゃないか?」  
 言われてみると、その辺りは足場としてもよく、笹も途切れていて、土も掘りやすそうだ。
 「えぇ。ここにしましょうか」
 阿部はスコップを土に突き刺す。須藤はメリーを下ろし、笹の上に寝かせる。

 「まぁ僕の場合は、オリジナルが馬鹿なヤツでね。医者やっていながら、メリーさん電話なんていうものに興味を持ってかけてしまったんだから。……いや、どうだったかな、娘がかけたとかいう話だったかな。まぁとにかく、家族ぐるみでドッペルゲンガーに入れ替わりさ。まぁ僕は家族なんて鬱陶しいだけだったから、ごめんだったがね。すぐおさらばしたよ」
 「それはまた……」
 面白そうだ、という言葉を呑み込み、阿部は苦笑する。自分の、何にでも興味を持つクセはあまり良くない。

 「まぁ僕なんかがメリーさんの話にのったきっかけっていうのは単純なものでね。……僕は、美味いものを味わって食いたかっただけなんだ。影でいる限り、何もかもが希薄じゃなかったかい? 味覚も、生きている感覚もさ。それにまぁ、人間になればもっと自由に生きられる気がしてね。……実際には非常につまらなかったんだが」
 「そうですよね……。僕らはオリジナルに要らぬ嫉妬(しっと)をしているんですよね。入れ替わってみれば大して面白くないのに。……だからこそ、入れ替わった後すぐに、自滅してしまうヤツらが多いみたいなんですけどね。まぁ、僕にメリーさん電話を教えてくれたその女子学生っていうのも、すぐ自滅してしまいましたよ。集会の仲間を数人殺したんですね。そして警察に捕まって終わりです……」
 「悲しいね……」
 そう言うが、その破滅願望は須藤に理解できなくもない。

 そして二人はスコップを手に、本格的に掘り出す。
 「できるだけ急ごう。あんまりのろのろやってると、車を誰かに見られないとも限らないからね」
 「……そうですね。それにしても人を埋めるだなんて、随分久しぶりの事ですよ」
 「全くだ」
 お互い、数え切れない程、人を殺しては捨ててきた。そしていつしか殺人に高揚を感じなくなり、意味も見出せなくなり、その上悪意というものすら忘れかけ……、今に至るのだった。





 十数分後。二人は汗だくになりながら、満足のいく穴を掘り終えた。
 「タオルとか着替えを持ってくるんでしたね……参りました」
 「そうだな。……じゃメリーさんを下ろそうか……」
 二人はメリーを抱き上げ、ゆっくりと穴に下ろす。

 心なしか、メリーの顔はやつれて見えた。生気の全てが、失われている。
 「メリーさん、こうして見ると石膏像のようですね」
 「いやいや……眠れる森の美女ってとこだろう……。こんなに美しいお姫さまは他にいないよ」
 須藤はその手を胸に組ませる。ネックレスの緩みを正し、引き出したペンダントをその手に握らせる。
 「花の一つも添えてやりたかったな。気が利かなかった……」
 「でもまぁ、この方自体が花みたいなものですから……」
 そんな阿部の言い方が気に入って、須藤はその肩を叩く。

 「あぁ、しまったな。ハイヒールは脱がせておくか……?」
 「形見にしたいならどうぞ。まぁ僕はそのハイヒールもメリーさんの一部だと思いますのでね、そのままでも構わないんじゃないか、と」
 「……いや、形見はいいよ。じゃ、このままにしておくか……」
 足元から土を被せていく。
 やがてメリーの半身が黒い土で埋まっていく。二人とも、その顔に土をかけるのをためらったが、何か顔に被せても息苦しそうな気がして、やむなく、土を放っていった。

 事を終え、二人が帰路に着く頃には、日も暮れかけていた。 
 お互い、メリーとは短い再会だった。これから何か大きな事を起こそうとしている時に、メリーは簡単に死んでしまった。
 ……煮え切らない何かが残る。
 阿部も須藤も、長く忘れていた感覚を、メリーと会った事で呼び戻してしまっていたのだ。

 悪意。殺意。破滅。そういった――黒い感情を。


― 46 ―


 O県のとある老人介護施設内。
 施設は今晩の夕食を済ませ、やや時間が経っていた。ほとんどの老人は部屋に戻り、ベッド脇に備え付けてあるTVに見入っていた。
 その四人部屋の見回りに来た中年女性のヘルパーを、一人の老婆が呼び止めた。

 「え、なんですか? 西岡さん」
 「あのね……、白湯(さゆ)をもらいたいのね。お願いできるかしら?」
 ベッドの上でもじもじしながら、その小さい老婆はそう告げる。
 「えぇいいですよ。今持って来ますから。スティックシュガーも欲しいの?」
 「えぇ。お願い……二本」
 首をすくめ、指を二本立てる。毎度の事ながら、ヘルパーはこの老婆のぶりっこぶりに苦笑してしまう。だが、不思議と不快な気持ちは湧かない。指でマルを示し、食堂に行く。
 老婆は満足そうな笑みを見せ、また枕に頭を沈めた。


 しばらくして、ヘルパーが戻って来る。
 「はい、西岡さん。どうぞ」
 「ありがとう……」
 両手で湯のみを受け取る。スティックシュガー二本とスプーンももらう。
 「おばあちゃん大丈夫? そんなに砂糖入れて……?」
 「大丈夫よ。昔は三本入れていたんだけど……、これでも相当減らしてるの。全然大丈夫……」
 背筋をピンと張り、上品な仕草で、くいと飲む。ヘルパーには、その飲み物の美味さはわからない。

 その老婆にとっては、自分のきままな人生に於ける、その晩年をしめる味だった。今はもう、それすら思い出になっているのが寂しい。
 ――横浜。
 朝は伊勢佐木町にあった森永ラブから始まり、気が向けば駅前の高島屋へよく足を運んだものだ。そこで高級家具達に囲まれて、若い頃の夢を見た。
 ――若い頃。
 戦後の混乱期。今日生きるだけで精一杯、という人間達のるつぼの中。今にして思えば、自分は要領が良かった。いや、そうせざるを得なかった。だが自分を売る事で、不自由のない暮らしが長くできた。
 ……いやそればかりか、楽しかったと思う。夜の横浜というきらびやかで美しい場所に、自分は見劣りしない美しい彩りをもってして、漂っていられたのだから。

 そして、その夢が覚めた後にも、また別の夢が咲いた。
 全く、想像もしなかった別の夢。……とても優しいあの人に出会った。そして、たくさんの暖かさを頂戴した。この身の内には収まりきらないほどの……感激と感謝に、今でも酔いしれる事ができる。


 ……思い出をまた飲み干し、現実に戻る。
 今の現実もそう悪いものではない。自分はそれなりに満足のいく人生を送ってこれたと思う。そんなものはウソだ、とけなしたくもなるけど、でもひと時は、夢のような夜を確かに毎晩過ごせてきたのだ……。そして様々な愛も頂戴してきた。

 満足だと自分に言い聞かせる度に、反動として大きなため息がこぼれる。……ここにはウイスキーが無い。それはストレートな不満だ。
 同室の三人はつまらなさそうにTVを見ている。老婆はまた一人になりたい衝動にかられ、のそりとベッドから起き上がり、部屋を出た。


 トイレを済ませ、階段を上る。そして二階のディルームをのぞいてみる。ソファーとテーブルと、ちょっとした本棚があるだけの休憩場所だ。……今は誰もいない。集まるとすれば、マッサージ機や大型TVがある、一階のリクライニングルームの方がいいに決まっている。
 老婆は無人のその部屋に入り、しずしずと奥へ行く。そして窓際のソファーに腰かけた。大した景色は見えないが、外を眺めていると気分だけは落ち着いてくれる。

 また思い出に浸る自分がそこにいる。もう自分は思い出す事でしか、幸せを実感できないかのようだ。確かに優しくしてくれる人がいて、今も幸せだ。だけれども、ひどく輝いていたあの過去は、今に取り戻す事はできはしない。
 ……そこに長く、自分は縛られていたような気もする。全てが終わったと気付いても、その場から消え去るのがあまりにも惜しかったのだ……。

 ――おばあさん。

 ふいにそう呼ばれた気がして、老婆は辺りを見回した。だが、傍には誰もいない。
 「ここよ……。随分捜したのよ、おばあさん……?」
 声はガラス窓の方からした。窓が微かに震えた音をたてる。……だが、外のベランダに誰かがいる気配はないようだ。
 老婆はしばらく、そこを凝視する。一体、どういうからかわれ方をしているのか、考えてみる。

 ――ジリリリリ……ン!

 突然のベルの轟音に、老婆は跳ね上がった。
 ……電話だ。周囲を見回す。だが電話器など、この部屋には無い。まして聴いた音は、昔懐かしの黒電話のベル音ではなかったか……?
 ワケがわからないが、とにかく怖い。老婆はソファから腰を上げ、足を震わせながらその場を逃げようとした。

 「メリー……」
 今度は近くでそう呼ばれ、老婆は足を止めた。
 メリー……。自分がそう呼ばれたのは、どれほど前の事だっただろう……?

 ふわりと。ディルームの入り口に白い衣がなびいた。
 ――ドレスだ。老婆は言葉を失い、息を呑む。廊下に、誰かいる。

 つれて、清潔そうな白い長手袋が現れた。そして白い足にハイヒール。
 ……美しい少女が姿を見せた。

 「初めまして、おばあさん。……会いたかったわ。随分捜したのよ。だって、横浜にいらっしゃるとばかり思っていましたから……。こうして地元に帰っているだなんてね……」
 現れた少女はドレスばかりでなく、その肌も顔も髪すらも、ただひたすらに白かった。


 「アンタは……誰?」
 老婆はおずおずと聞いてみる。
 「私は、貴女の過去の夢よ、おばあさん。真っ白な美しさだけで彩られた、貴女ご自身が願った姿。……そうでしょう?」
 「……過去の夢……?」
 老婆は、その白いドレス姿の少女に見惚れる。確かに、言われた通りだ。その姿は、自分が過去、夢で思い描いていた自画像にあまりにも似ている……。

 「おばあさん。私はメリーなの。過去の貴女が生んだ妖怪都市伝承、「白いメリーさん」というのは、この私なのよ。……わかるかしら?」
 「……妖怪……?」
 「そうね。貴女、年をとっても顔を真っ白に塗りたくって、こんな派手なドレス姿で長年、横浜の町を歩いていたでしょう? そのウワサが世間に口承で広まっていって、一つの都市伝承を生んじゃったワケなのよ。……ハマのメリーさん。貴女が生んだ都市伝承を、知らないとは言わせないわよ……?」
 そう言われ、老婆は口ごもる。
 「都市伝承は知ってる……。でも、アンタみたいに子供じゃない。アタシと変わらない年だったハズだけど……?」
 「あぁ、やっぱり知ってるんだ。なら話は早いわね。……その都市伝承、死んじゃったのよ。私はそのドッペルゲンガーなのね。で、一緒に死ぬところなのよ、私」
 「ドッペルゲンガー? 死ぬ??」

 「そうよ。まぁ話せば長くなりますけど……、貴女に何とかして戴かないと、私はもう駄目なのよ。都市伝承というオリジナルを無くした私は、死ぬしかないの。……でもね、私はアナタに認めてさえ戴ければ、死ななくて済むの」
 メリーの笑み。その美しさに、老婆は呑まれてしまう。

 「……それで、私がここに来たワケは、お願いがあったからなのね。……私を、貴女の影だと認めてほしいんですよ。……わかるかしら、私の言っている意味が?」
 老婆は即座に首を振る。
 「あらそう……。でも、わからなくてもいいの。私がわからせてあげるんだから。……じゃあ貴女の「無意識」をしばらく覗かせてもらうわね。おそらく私と貴女は、元々少しばかりつながっているから、無意識をいじるとしてもさほど難しい事じゃないのよ。要は、そのつながりを強くするだけの事でしょうから……」

 メリーはスッと老婆の元に歩み寄り、手を差し出した。
 「ハマのメリーさん。……私の事を、認めて頂戴。私の存在を、強く、認めて頂戴ね……」

 老婆は不安になり、顔をしかめるが、メリーはあくまでも優しげに振舞う。老婆はその手を軽く握り返す。
 「……大丈夫。何も怖がる事なんてないんだから。私と貴女は同一人物なのよ。あの死んだ都市伝承も同じ事。皆、一つの存在なのよ。……そうでしょう?」
 「同一人物……?」
 「そうよ。おばあさんがハマのメリーとして、世間に生んだ「白いメリーさん」という妖怪は、貴女自身でもあって、都市伝承のおばあさんでもあって、そしてこの私でもあるのよ……そうでしょう?」
 「……白いメリーさん……?」
 「そうよ……。貴女に認められてこそ、私は「白いメリー」になれるの。もうドッペルゲンガーなんかじゃない。私は本物の白いメリーになるのよ……!」

 手を握った少女が、跡形も無く、白く弾け飛んだ。
 まばゆいばかりの光に呑まれ、老婆はよろめいて倒れ込む。

 「……おばあさん、私のためにも、ずっと長生きして下さいね……」
 その声を最後に、メリーはそこから消え去った。

 メリーが何を得て、何が変わってしまったのかを、老婆は理解できなかった。
 そして酷い不安にかられたが、自分ではどうする事もできなかったんだと、言い聞かせるしかなかった。


― 47 ―


 ついさっきまで見た光景を全て忘れ、空白の朝を迎える。

 和室。二人はまた温泉宿に泊まっている。自転車で遠出した先、看板を見つけて訪れたのだった。ここは町外れの山間(やまあい)だ。
 「おはよ……」
 佐々木は、傍でじっと自分を見つめている児玉に声をかける。今朝はめずらしく、児玉の方が早起きだった。
 児玉は表情を変えないで、佐々木に問う。
 「おはようございます、佐々木さん。あの……佐々木さんの蝶ちょはまだ、何かを探しているようですね……? 佐々木さんが起きると同時に戻って来ましたけど……、私を見て、何だか訴えたい事があるような素振りを見せてましたよ……」

 半身を起こし、佐々木は大きなあくびと共に首を振る。
 「……朝っぱらから何言ってんの。蝶ちょが出歩いたからって、そんなに気になるの? アタシは全然気にならないけど。蝶ちょだって、たまには遊びたいのよ。いつも羽生えてるんだしさぁ? アハハァ」
 「……いえ。その蝶はですね、きっと、アベとスドウって人を捜してるんです。もう何か、良くない事を起こしているのかもしれませんよ……?」
 佐々木は手を振って、児玉の言葉をさえぎる。
 「まだそんな事言ってんの? そんなの忘れたら?」
 「できませんよ。おばあさんとの約束ですし。せめて、アベとスドウって人を捜し出すくらいはしないと……」
 佐々木は顔をしかめる。
 「何言ってんの。あのおばあさんの事を、児玉ちゃんはどれだけ知ってるって言うの? あんなワケわかんないおばあさんなんか。顔見たワケでもないのにさ。……声だけでしょ? それにさぁ、そのおばあさんってメリーの片割れか何かだよ? メリーの良心かドッペルゲンガーか知らないけど、どっちみち、ほめられたようなおばあさんじゃないと思うよ?」

 「……いいえ。私と佐々木さんを会わせてくれた恩人です。私は佐々木さんに会わなければ、お金無くてどうにもなりませんでしたし。こうしている今、ホントに感謝してます……」
 改めて頭を下げる児玉の後頭部に、佐々木はふざけてチョップを入れる。
 児玉はまだ真剣に佐々木に詰め寄る。
 「佐々木さんの蝶ちょが、アベとスドウって人を見つけられるんだと、あのおばあさんは言ってました。そしてそれは、佐々木さんの意思も入ってるって。佐々木さんは夢で、そのアベとスドウって人を捜してるんですよ。無意識に」
 「……捜してないって……。第一、こんな蝶ちょの事なんか、どうでもいいじゃない……。アベとスドウなんてのもさ、アタシらには全然関係ないんだから……。見つけたからって、どうこうできるワケでもないだろうしさ?」

 佐々木は布団から出て、浴衣の帯を直す。
 「じゃ朝風呂、行って来ようか……? ここのお湯、凄くいいもんね〜」
 「いえ、アタシはもう着替えちゃいましたから。TVでも見てます……」
 「そお? 朝風呂、気持ちいいのにな〜……」
 ぼりぼりと肩をかき、ふと右肩の肌をさらけ出す。
 そこには、水色の蝶――オオミドリシジミが彫られてある。カラーのタトゥーだ。彫った時の記憶はあいまいだ。だがいつかの電話で、あの老婆は「自分が彫った」と言っていた気がする。
 まだまだ聞きたかった事があった気がする。だが、メリーとともに、その老婆も死んだという事だった。児玉がその最期の電話を受けたのだ。

 「あのさ、児玉ちゃん。……メリーが死んだって、言ってたよね」
 佐々木は思い出したように言う。
 「でもさ、そんな気が全然しないんだよね、アタシ……」

 「どういう事ですか?! 何か見たんですか、夢の中で?!」
 児玉は身を乗り出してくる。佐々木はにこりとする。
 「……うん、そんなところ。じゃ、お風呂の中で教えてあげるから」
 「え〜何ですかそれ……?」
 「いいから、朝風呂に行こうっての。たまにはいいじゃん?」
 特に強く断る理由もない。児玉は別に行きたくなかったが了承する。
 「……わかりました。行きます」

 「そうね〜。そういう付き合いってのも、社会勉強なワケなのよ」
 ちょっとした事で、すぐ機嫌が良くなる佐々木。児玉はうらやましく思った。





 朝風呂に一緒に入ったはいいものの、結局は大した話も聞けないままだった。老婆が一人、湯から上がり、場は佐々木と児玉だけになる。
 「ここのお湯、凄く気に入った〜。ここ、もう何日か泊まらない?」
 乳白色の湯。この湯ばかりか、旅館全体が硫黄の香りに包まれている。一泊して、さぞかし匂いも染み付いた事だろう。
 「でもお金……大切にしないと」
 「まぁそうね〜。そろそろ児玉ちゃんにギャンブル試してもらわないとね〜?」
 「アタシはやりません、って……」
 そう断り続けたはいいものの、結局はいずれ、やらされる事になる気がしていた。これも社会勉強だ、などという名目で……。佐々木は優しいのだが、多少強引なところがある。

 「ところで佐々木さん……」
 そう問いかけ、児玉は唖然とした。
 そこに、佐々木の姿が無かったからだ。


 辺りを見回すが、誰の気配もない。あまりにも突然だったので、児玉はひどく傷心してしまった。
 「またですか……? こんな消え方しなくてもいいのに……。ひどい……」
 児玉は深いため息をつく。

 「……アタシ達、いずれは消えちゃう運命なんでしょうかね。この先どんどん、ドッペルゲンガーに近づいていって……そして、消えて無くなっちゃうんでしょうか……?」
 佐々木が自分の目の前で消えたのは、これで二度目だ。そうでなくても、今まで何度か、姿が見えなくて捜した事もあった。
 
 広い湯船に一人。児玉はしばらく目を閉じ、考える。
 ――佐々木はきっと、自分よりも先に、この世から消え去ってしまう。
 自分は影と入れ替わってから、そう日数が経っていない。だが、佐々木は違う。もう何年も前にメリーと会い、影と入れ替えさせられたのだという。せっかくこうして会ったばかりなのに、佐々木の寿命のようなものは、そろそろ消えかけているのではないだろうか?

 きっとこの先、消え方がいちじるしくなっていくばかりなのだ。そしていつか、自分の前から完全に、姿を消してしまう日が来るのだろう……。
 それは……悲しいくらいに、すぐこの先に待ち受けているのかもしれない……。


 肩を落としたまま湯を上がり、脱衣場に戻る。
 かごを覗くと、佐々木の衣服はそのままある。
 「裸でその辺、うろつかないで下さいね……?」
 児玉は体を拭き、しばらく木製の長椅子で休む。

 すると、浴場への引き戸が開かれ、佐々木が顔を出した。
 「……あれ? 児玉ちゃん、急にいなくなるんだもん……びっくりしたよ。どうしたの?」

 児玉は傷心したまま、佐々木を見つめる。
 「……佐々木さん、また消えてましたよ。急にいなくなったのは、佐々木さんの方です。裸でその辺に出かけているのかと思いました……」
 「え、ウソ?! アタシ、消えてたの? ……そりゃ気づかなかったわぁ。アハハァ」
 「全然、笑い事じゃありませんよ……」
 そう言った児玉の顔が恐怖に歪んだ。
 佐々木の姿が急速に黒ずんでいったかと思うと……、また跡形もなく消え去ってしまったのだ。

 「佐々木さん……!!」
 急いで浴場の方を見回すが、やはり佐々木の姿は無い。

 「また……どうして……?!」
 ――消える瞬間を見てしまった。
 あんな消え方をされてしまったら、もう人間だとは言えない気がした。もう、本当のドッペルゲンガーだ……。人間から、程遠い存在になってしまっている……。

 「佐々木さん……」
 足をふらつかせながら、また長椅子に腰を下ろす。
 怖くて、両手で頭を抱え込む。
 児玉はしばらく、そのまま動けなかった。


― 48 ―


 その晩。佐々木が寝入ったのを確認すると、児玉は浴衣から普段着に着替えた。
 佐々木に買ってもらったTシャツとGパン。行動用のものだ。

 そして布団に潜りながら、蝶が飛び立つのを待った。ここ毎晩、蝶はどこかに出かけている。きっと今晩も出ると期待する。
 蝶はアベとスドウを捜しているのだと思った。とにかく、自分だけでも佐々木の蝶の行き先を追う必要がある。……いや初めから、佐々木と二人で追うのは無理なのだ。佐々木が寝入ってからでないと、蝶は飛び立たないのだから。

 自転車の鍵を握りながら、じっと待つ。
 その間、天井を見つめながら、色々思い出す。
 ――母の事。
 まだ見ぬ、家族の事。そして自分のドッペルゲンガー。ほんのひと時だったけど、不思議な優しさをこの胸に残してくれた……姉。
 そしてメリーを名乗る老婆。自分と佐々木を引き合わせ、そしてメリーとともに死んだという。残されたのは、「アベとスドウを捜し出して殺せ」という願いだった。

 今の自分に何ができるのか、児玉は無心に考える。頼みの綱である佐々木も、いつ忽然(こつぜん)と姿を消してしまうかわからないのだ。……その時、自分は何をすべきなのか。今から、後悔しないよう、考えたいと思っている。


 ……キキキ。
 ふいに佐々木が弱く歯軋りする。毎晩ではないが、たまに思い出したように、佐々木は歯軋りをする。
 それがしばらく続く。何だか、とても悲しい音だ。

 ――蝶がふわりと跳ねた。
 児玉はかけ布団をそっと脱ぐ。
 その水色の蝶は、児玉の眼前でゆっくりと羽ばたく。まるで妖精のように、見る者を惹きつける美しい光を帯びている。
 すい、と蝶は窓を擦り抜け、夜空に向かった。
 児玉は音を立てずに部屋から出て、ドアを閉じる。だがオートロックではない。鍵をかけた後、それをどうしようか、今になって悩んだが、仕方なくポケットに入れる。
 時間は夜11時過ぎ。狭いフロントへ行き、事情を告げる。
 「すみません、急用ができましたので、ちょっと外へ出かけて来ます。朝まで戻らないかもしれません」
 そして思い立って、部屋の鍵を渡す。
 「……あの、とりあえず、これ預かっておいて下さい。連れの者が来たら、渡して下さい」
 フロントの老人は愛想よく「はい、わかりました」とだけ返してくる。連れが部屋に残っているのを理解して、安心したのだろう。そしてこの温泉旅館に、外出の門限は無かったのかもしれない。児玉はほっとして、旅館を出る。

 急いで自転車置き場へ行き、自転車を引き出して乗り込む。
 ――心臓が跳ねている。夜に一人でこんな冒険をするだなんて、自分は何て思い切ったものだろう。

 蝶を探す。旅館の庭の木立に遮られ、空は満足に見えない。児玉は門を抜け、道路に出る。
 「……どこ……?」
 せっかく部屋を抜け出してきたのに、途端に見失っては情けない。
 「佐々木さんっ!」
 児玉は一声、叫ぶ。

 「……佐々木さん。本当は、貴女は正義感の強い人なんです。だから貴女はその蝶の姿を借りて、メリーさんとか、アベとスドウって人を捜してるんでしょ? そして、もう見つけたんじゃないですか? だから……私についてきてほしいんでしょう!? 佐々木さんっ!」
 まるで妄想の塊だ。馬鹿な独り言かもしれない。でも児玉はそう叫ばずにはいられなかった。

 だが、蝶はその声に呼応するように、児玉の眼前に舞い降りてきた。児玉は笑顔になる。
 「そうそう……。やっぱり、貴女は佐々木さんなんですよね? さぁ、案内して下さい。どこまでも行っちゃいますから!」
 蝶はそんな児玉の頬に、優しくその羽を触れさせた。そして道沿いに低く、飛ぶ。
 児玉は意を決して、蝶の後に続き、自転車を走らせた。





 だいぶ、国道沿いの歩道を走る。北へ向け、二時間ほど休みなく走っている。
 さすがに児玉も疲れが見え始めた。そしてまた今になって不安に陥る。朝までに、果たしてあの旅館に戻れるのだろうか、と。何か書き置きでもしてくるんだったと悔やんだりする。
 だが。この先にはきっと何かある。きっと、誰かが待っている。……あの老婆が言った、アベとスドウだとは思う。何か話ができるのならば、しておきたい。
 道沿いにコンビニの明かりが見える。そこで児玉は根をあげた。
 「佐々木さん……少し休ませて下さい……! ちょっとコンビニ……」

 児玉はふらふらとコンビニの駐車場に入り、自転車を降りた。そしてコンビニ脇のベンチに腰かけ、一息つく。蝶もだいぶ理解が利くようで、おとなしく児玉の自転車のかごに留まり、羽を休めた。
 そしてトイレを済ませ、ジュースを買い、少し足を休める。だいぶ足の筋肉が張っている。だが幸い、涼しい夜なので汗はほとんどない。

 数分意識をなくすほどうなだれていたが、やがて顔を上げる。
 「……行きましょう」





 それから更に二時間、児玉は自転車を走らせ続けた。もう、朝に旅館へ帰るのはあきらめていた。通算、四時間の遠出だ。帰るのは昼を過ぎるかもしれない。
 携帯電話を持っているので、朝になったら旅館に連絡を入れようと思う。幸いな事に、まだ使えている。次の月まで使えるかはわからないが。
 ここまでは国道沿いなので、道に迷う事は多分ないと思う。一応、携帯電話のメモ帳に、通ってきた道の国道番号や、見えた標識での町名などを書いている。
 だが帰る事を思うと気が重くなる。佐々木にこちらに来てもらおうか、と考えたりする。
 そしてまた、これだけ遠い所に来たのに、実は蝶の行く先には何の意味も無かった、などという事も考えられる。全ては自分の希望的観測から起きた行動だ。何の保証もない。

 その十字路を、蝶は右に曲がった。国道ゆえ、こんな時間でも、車の往来は普通にある。児玉は信号を待ち、追いかける。
 静かな町並み。眠っている大型スーパーや美容院、洋服店、モデルハウスなどが立ち並ぶ。
 その通りを抜け、住宅街を通る。児玉の胸は跳ね上がってくる。……おそらく、蝶の目的地は近い。こうして追いかけて来た意味はあるのだ。絶対に。
 今度は小さな商店街の通りだ。この真夜中、道行く人は一人もなく、児玉は無心に蝶を追う。

 ちょっとした橋に差しかかる。
 蝶は川原へ下りた。その先の廃倉庫に、蝶は向かっていく。目的地はここなのか。蝶は辺りをゆっくりと旋回する。
 ……きっと、ここに誰かいるのだ。児玉は自転車を降りて、倉庫前に停める。

 倉庫脇に古い乗用車が停めてあった。裏口が開いている。
 児玉は恐るおそる、中を覗いてみた。……遠くで明かりが見えた。やはり、誰かいるのか。
 倉庫の中はまっさらなもので、やたら広い。天井もずいぶん高い。体育館並だ。
 「……こんばんは……?」
 相手がどんな人なのかわからない。普通に話しかけてみる事にする。
 「……はい?」
 返ってきたのは男の声だった。中年っぽい。

 ここに来て、危険な目にあった時の事をまるで考えていない事に気づいた。改めて、自分はバカだと思う。
 だが、足を踏み出す。せっかく何時間も自転車に乗ってきて辿り着いたのだ。どんな悪人だろうと、話を聞いてみるぐらいはしておきたい。

 男は足元にランプを置いて、酒を飲んでいたようだ。つまみなどもある。
 「あの……初めまして。私は児玉と言います……」
 男は理解できない、という顔で児玉を眺めてくる。
 「あぁ、そう。……僕は須藤と言う。……で、僕に何か用なのかい? しかもこんな明け方に。まぁその辺、座る?」
 「……はい」
 スドウ、と聞き、児玉の足は目に見えて震え出した。傍にタイヤが積み重なっている。児玉はそこに腰を下ろす。足がもつれて、少しよろけたりする。

 「あの……用と言いますか……。何て言えばいいんでしょう……」
 蝶だの、メリーだの言っても、通じない気がする。正直に、始めから順序立てて言ってしまった方がいいかもしれない、と思う。
 だが、須藤の方には思い当たる事でもあるのか、児玉を見て表情を落ち着ける。
 「……じゃあ、僕の事を話そう」
 思いも寄らない助け船に、児玉は目を見張る。

 「僕はね、今、人間じゃなくなっているんだ。ドッペルゲンガーに、自分の地位とその存在そのものを奪われてしまった男なんだ。記憶もその大半を失ってしまっている。僕は今、そのドッペルゲンガーを捜し歩いているところなんだ。たまに夢で見える光景を辿って、後を追っている。……だけど、いつも立ち去った後でね。この場所も、生活の後があったけど、立ち去った後だったようだ……」
 「ドッペルゲンガーを捜している……?」
 児玉は思わず、身を乗り出す。

 「……そうだ。もしかして、君もか?」
 「いえ、私は……そうじゃないんです。私も入れ替えさせられたんですが、ドッペルゲンガーは死にました。ただ、メリーというおばあさんに、頼まれたんです。アベとスドウという人を捜せ、と……」
 殺せ、と言われた事などを言えるはずもない。
 「アベ、というのはわからないが、僕を捜せって言われた? で……メリーはわかるが、おばあさんというのは知らないな。僕が知ってるのは、少女のメリーだ。ソイツに、影と入れ替えさせられたんだ。家族全員がね……。妻と娘がいたんだが」
 「家族全員が……?」
 「……まぁね。そんな記憶だけは残っている。……だから僕はこうして、自分のドッペルゲンガーを捜して、メリーに会うしかないと思ってるんだ。そして何とかして、元に戻してもらいたくてね。無理なのかもしれないけど、僕にはそんな望みしかないんでね……」
 「そうだったんですか……」
 老婆の言った「スドウ」とは、目の前のこの男ではない気がした。きっと、この男のドッペルゲンガーなのだ。

 「……私もできる事なら、メリーさんに、元の自分に戻してもらいたいと思ってます……」
 だが。自分は世では死んだ事になってしまっている。それを覆(くつがえ)す事などできるのか、児玉にはわからない。
 「……そうか。もしかすると、君も僕と同じような境遇にあるのかな? ……こりゃ驚いたな。それでわざわざ、こんな夜中に訊ねて来てくれたっての?」
 「そうですね。あの、夜中にならないと、道しるべの蝶ちょが現れないもので……」

 そしていつしか二人は話し込む。須藤は児玉にジュースやつまみなどを差し出し、場は和やかになる。
 だが、それから少しすると、児玉は強烈な眠気に頭がふらつきだしてきた。
 須藤に勧められ、倉庫脇の車のシートにもたれ込む。預かった毛布に身を包み、児玉は即座に熟睡に至った。


― 49 ―


 「……随分、人間らしいのね、須藤さんは」
 その明け方。ふいに声をかけられ、須藤は顔を上げた。缶ビールとつまみを食いながら、うとうとし始めていたところだった。

 折りたたみのミニテーブルを挟み、向かいにメリーが座っていた。メリーはテーブルに並べられている物を、興味深そうに眺めている。
 「……は?! ……ははは……! 生きてらしたんですか?! メリーさん……?」
 須藤は驚きに目をこらす。夢じゃない。確かに、そこにメリーがいる……。

 「……そうね。あの後の、須藤さんの適切な処置が効いたみたい。ありがとうございますね? 貴方は命の恩人だわ」
 「……まさか。僕をからかっていますね?」
 一旦、確かにメリーは死んだのだ。メリーの首が折れた後の、須藤の蘇生法に効果があったとは思えない。
 だがメリーはもう素知らぬ顔で、話題を変えてしまう。
 「いえいえ……。ところで、このビール、戴いてよろしいかしら? 喉が渇いてしまって……」
 「あぁどうぞ。構いませんよ」
 「ありがとう……」

 そしてメリーはプルタブを開け、喉を鳴らしてビールを飲む。
 「……随分、まずい飲み物ね」
 「あぁ、それは冷えてないからでしょう。冷えたのを持ってきましょうか?」
 「いえ、もうお構いなく……」
 メリーは小皿に盛られた柿ピーを指差し、須藤のうなずきを得てから、それをほうばる。

 須藤は改めて、メリーを不思議な思いで見つめる。
 「……一体、どんな魔法を使ったのかはわかりませんが……驚きました。まさか不死身、だなんて事はありませんよね……?」
 「それはないんじゃないかしら? 神さまじゃあるまいし……」
 ふいにメリーは視線を向けてくる。
 須藤は受け止めてみるが、何一つ伝わってこない。……やはり、メリーの真意ははかりかねる。

 「まぁとにかく……、あきらめるのが早すぎたんですかね。……すみません。土で汚れたでしょう?」
 「そうね……。でもあのまま眠ってしまうのも、悪くなかった気がします。本来私には、わざわざ生きている理由なんてありませんから」
 あまり「生」に執着しないのは自分とよく似ている、と須藤は思う。
 「……それはそれは……。でも「死」というものは、終わりですからね。やっぱりメリーさんも、あんな終わり方は嫌だったんじゃありませんか? あれじゃあまりにも唐突すぎる」
 そう言うと、メリーは笑みを見せる。
 「その通りね……」
 確かに、生への執着を見せはしない。……だが、実質はそうでもないのだろう。須藤も、メリーも。


 「ところでですね、僕はいまいち、メリーさんの「目的」というものがわからないんですよ。……教えてもらえますかね?」
 「……目的? そんなものは初めからありませんね……」
 それでもメリーは少し考える顔になる。
 「でも、あのおばあさんを殺すのが一つの目的だった、と言えるかもしれないわね。……私は昔から、「白いメリー」そのものになりたかったのね。だから今は、その目的を果たせた、と言えるんじゃないかしら? 欲を言えば、あんな直接的な殺し方じゃなくて、世間から忘れ去られて徐々に消えていってもらうような……、そういう寂しい終わり方を、していただきたかったんですけどね……」
 それは本心なのだろうと須藤は思う。だからこそ、メリーは多数のドッペルゲンガーらを使い、自らのウワサを流させたりしたのだ。

 「……ところで、メリーさんのオリジナルはやはり、「ハマのメリー」だったワケですか? だから都市伝承を殺しただけでは、メリーさんも死ななかった、と?」
 「……いえ。どうでしょうね。実はあの後……埋められてからですね、ハマのメリーに会ってきたんです。それで彼女に、私の事をドッペルゲンガーだと認知していただきました。……彼女はただの人間ですので、その無意識をいじる事ができたんですね。……もっとも、ハマのメリーを捜す手間は随分かかったんですが」
 「はぁ。そりゃ驚きましたね……。ハマのメリーに会ってきた……? 横浜、ですか? 今も健在で……?」
 「いえ。地元に戻られてましたわ。化粧も落として。普通のおばあさん、でしたね」
 「よく見つかりましたね……」
 メリーは、人間と自由につながりが持てないらしい。例外は、人間の方からメリーに電話してきた時だけ、なのだ。

 「まぁ、その程度の努力は惜しみませんので。……ところで今、私の目的を聞かれましたよね? 一つだけ、それらしいものがあると言えます」
 「……ほぅ。それは?」
 「実を言いますと私、多少の麻薬中毒者になっているようなんです」

 「……麻薬?!」
 また予想だにしない話が出てきて、須藤は面食らう。だがメリーは真顔で、胸元からネックレスに付けられたロケットを引き出す。
 「このペンダントの中に、麻薬が入っていたんです。佐々木さん、という人間の女性の方から戴いたものなんですけど。……その麻薬の味が、どうも忘れられなくなってしまっているんですね、今」
 「はぁ……そうですか。何の麻薬なんです?」
 「それがわからないのね。……でも、佐々木さんを見つけるより、麻薬を探した方が早いかと思いまして。どこかの町へ行けば、きっと手に入りますよね?」
 「いや、そんなに簡単なものでしょうか……? 麻酔ならともかく、麻薬の入手は難しいんじゃないですか……?」
 さすがの須藤も困り果てる。

 「……ちょっと阿部さんにも聞いてみます。あのおばあさんが本当に死んで下さったようですので、今は何だか心に余裕ができているんですね。だから、ちょっとぐらい時間をかけても、あれを手に入れたくなってしまって……」
 「……そんなに気に入ったんですか、麻薬を……?」
 「えぇ、とっても……。私にアワを噴く体験をさせてくれるのは、あれぐらいなものでしょうから……」
 
 そんな話に、須藤は理解が及ばずに首を振るが、メリーはやや真顔で、須藤を見つめるのだった。


― 50 ―


 少しだけ肌寒い朝。季節の変わり目がそろそろ訪れているのかもしれない。
 車のシート。多少、体が痛い。児玉は緩めていたジーンズのボタンをしめ、ポケットから携帯電話を取り出す。
 時間は朝の9時を回っていた。慌てて毛布を引きはがす。
 「……佐々木さんに電話しないと!」

 だが実際に電話するとなると、電話帳が必要だった。佐々木は携帯電話を持っていないので、旅館にかけるしかない。しかし、旅館の名前はわかるものの、電話番号までは控えていなかったのだ。
 「すみません。とりあえず、後で連絡しますので……」
 そう一人ごち、車から出る。そして須藤の姿を捜す。

 「やぁおはよう。寝心地悪かったろ?」
 須藤は昨晩の場所にいた。倉庫の奥だ。そこでまだ、つまみなどを食べているようだった。まさか寝ていないのか、と思ったりする。
 「いえ……大丈夫です。ありがとうございました……」

 「で。これからどうするの? 佐々木ちゃん、とかいうコの所に戻るんだ?」
 昨晩、児玉はあらかたの話を須藤にしてしまっていた。少し喋りすぎた、と今になって思ったりする。
 「えぇ、そうですね……。良かったらご一緒します……か?」

 (……このヒトを連れていったら、佐々木さんはどんな顔をするだろう?)
 そう思うと、こうして出会った事を少しだけ後悔したりする。せっかくの二人旅を、変に邪魔されるようでは困る。
 だが、須藤の返事に児玉は安堵する事になった。
 「いや、よしとくよ。僕には僕の目的があるからね。変に君らを巻き込みたくはないし。でも目指すものはお互い、近いものがあるね。多分、アベというヤツもメリーに関わってる。でもとりあえず、僕のドッペルゲンガーの事は考えなくていい。そっちの決着は僕にまかせてもらいたい」
 「……えぇ。そうですね」
 「とりあえず、何かの時のために、電話番号だけ聞いておくかな?」
 「はい」
 児玉は自分の携帯電話の番号を告げ、事情があり、いつまで使えるかわからない事も伝える。

 「オッケイ。僕は携帯電話を持っていないから、連絡はこちらからのみ、という事になるね。……じゃ、旅館まで送っていくから。また自転車で、四時間もかけて戻るのはイヤでしょ?」
 「いえ! そんな……」
 「いいからいいから……車ならすぐだから。……それにしても奇遇なもんだね。同じメリーの被害者同士、結構な近くにいたってワケだ?」
 「そうなりますね……」
 自転車で数時間、というのは距離にしてみれば、そう遠いとは言えないのかもしれない。確かに、奇遇、と呼べる範囲のものなのだろう。

 「じゃ、行こうか」
 自転車をトランクに乗せる。入りきらないので、ロープで押さえる。
 ……蝶の導きがあったとはいえ、この度の行動は、自分では驚くべき大胆な行動だったと思う。そして今、見知らぬ男の車の助手席に乗っている。喜ぶべき事なのか悲しむべき事なのか、多少判断に困る。
 「朝メシ、何かおいしいのを食いましょう?」
 須藤の人なつっこい笑顔。多少三枚目の中年、というところだが、家族がいるからか、ゆったりとした暖かさを感じる。
 「……いえ、そんな。そんなに色々して戴いちゃ悪いです……」
 「何言ってんの。ある意味、僕らは仲間なんだからさ。遠慮しない。もしかするとこの先、君らに助けてもらう事になるかもしれないし。僕のドッペルゲンガーやメリーを見つけたら、ぜひとも教えてもらいたいしさ」
 「……そうですね。わかりました」

 そして車は倉庫を後にする。
 今朝は天気も良く、気分は高揚ぎみだ。児玉は色々な体験をした事もあってか、その鼓動の高鳴りは長くやまなかった。





 数十分後。国道沿いのレストランに、須藤の車は入る。
 玄関脇の電話ボックスで早速、児玉は佐々木に電話を入れる。

 『ちょっと〜……何やってたの? 捜したんだけどー?』
 佐々木の不機嫌な声。児玉は苦笑する。
 「すみません……。佐々木さんの蝶を追ってたんです。そしたら、須藤さんに会えました」
 『はぁっ?! スドウ?? ……殺すとか何とか言ってたヤツ? ……児玉ちゃん、朝っぱらからそんな事してたの?! どうして一人でそんな事すんの?!』
 佐々木の怒り具合に、児玉は困り果てる。始めに言っておけば良かった、と後悔する。

 「……あの、とにかく、すみません。でも無事に須藤さんに会えましたので。須藤さんのオリジナルなんですけど。いい人みたいですよ?」
 『いい人って……そんなのスグにはわかんないでしょ? ……で? 今、どこにいるの?』
 「ちょっと遠くに来ちゃいました。自転車で四時間かかりましたから……」
 『なぁに?! 自転車で四時間?! じゃあ夜中に抜け出してたの?!』
 「まぁそうですね」
 『まぁそうですね、じゃないでしょ?! ……ホントに危ない子ねぇ……。そんな見知らぬヤツに勝手に会いに行っちゃうなんてさぁ……。ヘタすりゃ殺されてたかもしれないでしょうに……?』

 佐々木の怒りは収まらない。このままじゃ話がまとまらない。
 「……あの佐々木さん、とにかく帰ったら説明しますので。今、須藤さんの車に乗せられて、そっちに帰るところなんです。で、朝ご飯、ご馳走になっていきますので……、佐々木さんも済ませてて下さいね。それじゃ」
 電話を切ろうとしたが、佐々木がわめく。
 『は?! 何? そのスドウってのもコッチに来るの?! 何でよ?!』
 「何でって……送ってくれるんです……」
 『ちょっとやめてよ。そんな変な人、連れて来ないでよ……!!』
 「何言ってるんですか。別に変な人じゃありませんよ。須藤さんいい人ですから。会えばわかります」
 児玉は、早くも須藤を信頼している自分に、ここで気付いたりする。

 だが、佐々木の方はそうでもないらしい。
 『イヤよ、アタシ……。いきなり、そんな変な男に会うなんてさぁ……』
 「……ホントに普通の人ですから。別に会わなくてもいいかもしれませんし。私はそっちに送ってもらうだけですから。……じゃ切りますよ? ……とにかく、心配かけてすみませんでした。もう少ししたら戻ると思いますので」
 後は返事を聞かずに受話器を置いた。





 国道が多少渋滞していた区間もあったので、二時間と少しかけて、車は旅館に着いた。
 トランクから自転車を降ろしてもらい、児玉は礼を言う。
 「色々とどうもありがとうございました」
 そうしているところに、佐々木が現れた。化粧も済ませ、キッチリとオシャレして出てくる。見慣れている児玉ですら、少し目を見張ったほどだった。

 「……ねぇ、その人がスドウさん?」
 佐々木は腕組みをして、やや警戒した顔だ。
 「えぇ、初めまして。須藤です」
 須藤は頭を下げる。
 「あ、そう。連れをわざわざ送って頂いて、どうも。……じゃあ、せっかくですから、ちょっと話を聞かせてもらえます? 中に喫茶店がありますので」
 「わかりました」
 何故かきどっている佐々木を見て、児玉は可笑しくなってしまうのだった。
 でもいつかの晩に聞かされた事を思い出す。……女にとってオシャレとは、自己防衛なのだという。一人でいてもヒトにナメられないように、バカにされないように。
 そして佐々木の場合は加えて、願いもある。人ごみの中でいつしか……価値をなくして、消えてしまわないように。


 そうして三人は、旅館の玄関傍にある、喫茶店のテーブルにつく。
 コーヒーだけを注文する。

 「児玉ちゃん、あんまり勝手な事をしないでよね。しかも夜中にさぁ……」
 「すみません……」
 とりあえず、素直に謝っておく。
 「……でも、佐々木さんもこの頃、頻繁に消えるようになったでしょ? あんまりぐずぐずしてたら、何もかも終わっちゃうような気がしたんです……」
 「消える、とは……何です?」
 須藤が口を出してくる。児玉はその説明をする。

 「佐々木さんも、メリーさんにドッペルゲンガーに入れ替えさせられたんです。で、佐々木さん、たまに急にいなくなっちゃうんですよ。この前なんか、目の前で消えたんです。……で、どんどん人間からかけ離れていっちゃう気がして、怖いんです……」
 「何よ、アタシが怖くなったの?」
 佐々木の見当ハズレな言葉は、今頭にきている証拠なのだろう。児玉はほとほと困り果てる。
 「……違います。佐々木さんに完全に消えてしまわれたら、アタシこの先、どうしていいかわからなくて……。だから、佐々木さんが眠ってから出てくる蝶チョを追ってみたんです。あのおばあさんにもそう言われましたし……。でもお蔭でこうして、須藤さんとも会えたんですから……」
 蝶については須藤も軽い説明をされている。話が理解できなくはない。

 児玉は今度、佐々木に須藤の事を説明する。
 「この須藤さんも、私達と同じなんです。メリーさんに、ドッペルゲンガーと入れ替えさせられたんですよ。そして須藤さんは、自分のドッペルゲンガーとご家族を捜しているんです。……そして何とかして、元に戻してもらいたい、と思っているんです」
 佐々木の顔から、怒りの色はいつしか消えうせていた。真顔で聞いてくれている。児玉はそれに感づいて、嬉しくなる。

 コーヒーが来る。
 「……まぁわかったわよ。……で、須藤さんはこの先、どうされるつもりなんですか? 自分のドッペルゲンガーを捜すアテはあるんですか?」
 「……うん。僕は夢で、ヤツの事がある程度は見えるんでね。大半は起きた時に忘れてしまうんだが。しかも、最近は眠る必要がほとんど無いんで、意識的に眠るようにしている。全然寝付けない事もあるけどね。……で、たまに上手く眠れたら、夢で覚えている場所なんかを頼りに捜し歩いているんだ。……今はとにかく、ヤツに追いつく事だね」
 「……そうなんですか……」
 共感できる部分でもあるのか、佐々木は感心したような溜息をつく。
 「ところで、児玉ちゃんは夢を見ないの?」

 「え? アタシですか……?」
 ふいに佐々木に聞かれて、児玉は記憶をたどる。だが、何も出てこない。
 「……特に覚えていませんね。アタシのドッペルゲンガー死んじゃったし。見るもの、ありませんもんね……」
 「いや、わかんないよ。いつか気をつけててよ。……それとも、何かタトゥでも入れとけば夜中に飛び出すかもね?」
 「……遠慮しときます」

 しばらくそんなとりとめのない話をした後、須藤は帰っていった。
 フロントのソファで、佐々木と児玉はまた腰を落ち着ける。
 「良さそうなおっさんだけど……ずいぶん末期症状みたいな感じがするね。あの影の薄さに気づいた?」
 「影の薄さ……?」
 「人間としての輪郭がぼやけてたように見えたよ、アタシには」
 「それは気づきませんでした……」
 今になって、児玉は青ざめる。

 「とにかく、あの人はあの人。アタシ達はアタシ達だよ。これで後は、アベってのを捜せば、あのおばあさんに言われた事はオッケイなんじゃない? スドウはあの人が何とかしてくれるんでしょ? 逆に殺されたりするかもしれないけどさ」
 「……佐々木さん!」
 佐々木の遠慮ない言葉に、児玉は怒る。
 「何よ? 充分に考えられる事でしょ? 何事も自分達にとって都合良くいく、とは限らないんだし」
 「……そうですけど……」

 「で? 次はアベってのを捜すつもり? また夜中に出かけるんなら、ちゃんと言っといてね。心配するんだからさ?」
 「……はい。すみませんでした……」
 今朝からもう何度も謝っている児玉に、佐々木はやっと笑顔を見せる。
 「……じゃ次の温泉めぐりに出かけましょうか? それとも、ここの温泉のイオウがいいから、もう少しここに居よっか?」
 「……どっちでもいいです。まかせます……」
 あんまりお金をかけるのは申し訳ないが、その辺は自分が口出しする事じゃない、と児玉も遠慮する。

 「んじゃ、今晩も泊まる事に決定。……じゃあ早速、朝風呂、行ってこよっか? 待ってたんだからさ」
 「……また、ですか……。ホント温泉、好きなんですねぇ……」
 呆れるのを通り越し、感心してしまう。
 そして二人は一旦、部屋に戻る。
 佐々木の足取りばかりか、児玉の足取りもやや、軽かった。


― 51 ―


 「麻薬……ですか?」

 仕事から帰宅し、アパートの部屋に戻るなり、阿部はメリーに出迎えられた。
 その無事な姿に驚く間もなく、難題を持ち込まれる。
 「えぇそうよ。阿部さんはインターネットにお詳しいから、何とかなるんじゃないか、と思いまして。インターネットじゃ、何でも手に入るんでしょ?」
 そんなメリーの話に、阿部は顔を軽く曇らせる。確かに、拳銃も麻薬も人間の死体すらも、手に入れようと思えばできるのかもしれない……。しかし、世にはガセネタも多く流出している。金だけ取られておしまい、という話もごろごろしているのだ。不法な域であれば、なおさらだ。
 「どうして麻薬なんか欲しいんですか……?」
 阿部は荷物を置き、飲み物を取りにキッチンへ行く。
 「少し、中毒ぎみなのかもしれないわね……。何だか急に欲しくなっちゃって」

 メリーにコーラの缶を渡し、自分は冷たいお茶を飲む。
 「……とにかく、出来る範囲で探してはみます。でも僕はその方面にはうといので、上手くいくかはわかりませんよ? どの道、日本国内のホームページで入手できるような気はしませんけどね……」
 「あらあら? 頼りない事を言わないで下さいな。……もしかして、インターネットで探すより、街に行った方が早いとか?」
 「……どうでしょうね。そういう話はよく聞きますけどね。アングラなクラブとかバーとか、そういう所ですよね。……でも、麻薬を売ってくれと言って、近寄って来るヤツがいるのかどうか……。ネットにしろ、麻薬を郵送なんかで受け取るワケにはいきませんからね。ネットで売人を見つけたら、じかに会って買うしかないでしょうね。……でも麻薬を買うんなら一回きり、というワケにもいかないでしょうから、そうなると今後もちょくちょく買いに行かないといけませんね……。ですから、外国からの入手の線は弱いですねぇ……」
 語尾がどんどん弱くなっていく。阿部も困り果てている。クラブの存在自体がめずらしい、この田舎では絶望的かもしれない。本気で麻薬を入手するのなら、少なくともかなりの遠出をする必要はありそうだ。
 「思った以上に難しいのかしら……?」
 メリーは腕組みをして、考え込む。

 「一応、調べてみますよ。でも、アテにはしないで下さい。ネットで何でも簡単に手に入る、というのはある意味、妄想ですから。入手は不可能じゃないのかもしれませんが、その方法がやたら難しい場合もありますからね。外国を通さないといけない、とか……。データの入手ならネット上で行えますが、現物を受け取るとなると、また話は大きく変わってくるんです」
 「……えぇ。わかりました」
 そう言うメリーの顔がやけに沈んで見える。からかい程度ではなく、本気で欲しがっているのかもしれない、と阿部は察する。

 「まぁとにかく……、ご無事で何よりでしたね。一時は完全にあきらめていましたから。メリーさんは……不死身なんですかね?」
 「そうかもしれないわね」
 メリーはまた説明するのが面倒になり、そういう事にしておいた。





 ――気づくと。その手が何かを潰していた。
 真っ赤に染まる白手袋。

 メリーは目を見開いた。
 顔を上げると、そこは夜。多くの人込みに取り巻かれている。繁華街の中。
 潰したものは、人間の頭だった。

 「……あら、何かしら? もしかして、麻薬の禁断症状? まさかね……」
 その手は震えている。記憶がごっそりと抜け落ちていた。どうして今ここにいるのか、わからない。いつの間に夜になったのかも覚えていない。
 握り潰した人間の頭を体から引きちぎり、人込みに投げつけた。悲鳴を上げて、やじ馬達は散り散りになる。

 メリーは真顔で真っ直ぐ突き進み、考える。そしてすぐ、一つの答えに至った。
 「……わかったわ。……一回、死んだから、なのね? その時、脳の一部が、死んでしまった……。だから今、混乱しているのね……?」
 須藤の蘇生法。それが迅速で完璧なものでなかったため、自分は後遺症をわずらった? いや。これが精一杯だったのかもしれないが。
 そしてまた、「ハマのメリー」のドッペルゲンガーとして生き返ったが、それに多少の無理が生じているのかもしれない。
 ……どの道、メリーは、記憶が混乱した体験はこれが初めてだった。
 「笑えるわね……」
 メリーは逃げ惑う人々のさなか、大きな笑みを浮かべながら、ただ歩き続ける。血に染まった右手を見つめながら、ゆっくりと現実感を取り戻していく。

 「止まれっ!!」
 ふいに、背後から駆け寄ってくる、複数の警官。
 メリーから笑みが消える。
 「……アラ? 貴方達は以前に、もう充分に殺したでしょう? ……まだ懲りないのかしら? 何か上司に言われていないの? 白いドレスの女には手を出すな、とか……」
 そしてやや甲高く笑うも、警官の一人が銃を構えているのを見て、表情を落とす。
 「……拳銃は嫌いよ。それにはこの間、ひどい目にあわされましたから……」
 後は言葉を残す事もなく、メリーはそこから忽然と姿を消していた。





 ふと顔を上げると、そこにはメリーがいた。
 特に須藤は驚かなかったが、今まで何を考えていたのか、そこで忘れてしまった。

 「……メリーさん。どうかしましたか? 血がついていますね。人の血ですか?」
 折りたたみテーブルの上には、つまみや飲み物が並べられている。とりあえず、須藤は缶ビールを差し出す。メリーは手を振り、コーラをつまみ取った。ビールはその口にあわなかったらしい。
 「まいったわ。一回死んだ事で、脳の一部がやられたみたい。記憶を失ったの。今、知らない内に街へ行って、人を殺してたわ」
 「……脳の一部がやられた?」
 「えぇ。そんな感じですね……」
 メリーはコーラをちびちびと飲む。何だか傷心しているように見える。だがつまみを見て、須藤におねだりをする。

 血に染まった、右手の長手袋を脱いで、テーブルに置く。
 「また洗濯しなきゃいけないわ。ドレスもね……」
 「はぁ……洗濯、ですか。そんなもんなんですかね……?」
 メリーの服は、おそらくただの布地ではないと思う。メリーの体と一緒に、それは自在に点いたり消えたりする。メリーの体の一部であってもおかしくはない。……だから、洗濯をしなければ汚れがとれない、というのは理にあわないような気がした。
 「そんなものよ……。私自身が「洗った」という気にならないと、服の汚れはいつまで経っても取れないの」
 「へぇ? そうですか……」

 つまみが少ないので、須藤は立ち上がり、冷蔵庫から追加を持ってくる。
 「あら、すみませんね。須藤さん……」
 大粒のアメリカン・チェリー。皿に盛られたチーズ類。柿ピー、など。並べられた新たな彩りに、メリーは気を良くする。 
 「……あぁ、麻薬の話ですがね。僕はともかく、阿部くんもお手上げのようですよ? シロウトが簡単に入手できるものじゃないらしいですね。それに、麻薬の売買に関わるサイトなんてものは、すぐ姿を消してしまうそうなんです。たまにダイレクトメールが来るようですが、年に一回か二回、あるかないかの程度らしいので。それに加えて、信憑性の事も考えるとどうやら絶望的みたいですね……」
 「そうなんですか……。インターネットなら何でもできるかと思っていましたけど、甘かったんでしょうか……。阿部さんにできない、となると他のコに頼んでもムダでしょうね……」
 まだメリーには大勢、使える影がいるのだが、ネット関係では阿部を信頼しているので、メリーはその辺であきらめておく。

 「麻薬そのものというのは、日本でも医療用として使われているんですよ。麻酔としてね。でもそれを盗み取れ、と言われても、僕には専門外なので薬品名はわかりませんけどね……」
 余計な事を言った、と思ったが遅かった。メリーの目がパッと見開かれる。
 「アラ! それはいいわね。どの病院でも麻酔くらいはするでしょう? だったら簡単に入手できそうじゃありませんか? 何なら、病院の一つや二つ襲っても構わないんですから。薬品名については、看護婦にいくらでも教えて戴けるでしょうし?」
 「……メリーさん。本気ですか?」
 須藤は顔をしかめる。メリーならやりかねないと思う。無理に話題を変える事にする。

 「あぁ、でも麻薬と一概に言ったところで、色々な種類がありますからね。ヘロイン、コカイン、大麻、覚せい剤、幻覚剤……とかね。そのどれをメリーさんが欲しているのかわからないと……」
 メリーがガリガリと、口の中で音をさせている。須藤はぎょっとして言葉をつぐむ。
 「あぁ、それはタネを出して下さい……」
 チェリーをタネごと食べているのだと気づいて、教えてやる。
 「あら、すみません……色々と常識がないもので」
 砕いたタネを、小皿に捨てる。

 「で、どんな麻薬が欲しいんです? その辺はわかりますか?」
 「麻薬の種類……? わからないわね。とにかく、白い粉なんです。舐めると、目の前が輝くような……不思議な高揚感が広がっていくんですね。楽しくて楽しくて、仕方なくなるの。そして、アワを噴いて気絶しそうになるんです……」
 その時の事を思い出したのか、メリーは恍惚とした表情で、クスクスと笑いだす。
 「舐める麻薬? ……聞いた事ありませんね。麻薬と言えば、注射するのが主なんですが。タバコに混ぜて吸うとかね……」
 「注射? ……そんな麻薬は要りません。注射して快楽を得るだなんて……あまりにも下品な行為だわ」
 今度は一転して怒りだす。
 「……いや、しかし……そんな舐める麻薬、だなんて本当に知りませんよ、僕は。まぁ阿部くんにも聞いてみたらどうです?」

 「……そうです? じゃあ、私の方でも動いてみます。私にもアテはあるんですよ。……佐々木さん、という女性の方なんですが。その方から、麻薬を戴いたものでして」
 「あぁ、前にもそんな事を言ってましたね」
 須藤は記憶力がいい方だ。以前メリーが口にした、佐々木、の名前は覚えている。
 「でも、私ってつながりのない人間の所には行けないんですよ。佐々木さんのドッペルゲンガーも死んでしまいましたし……。困りました」 

 お互いしばらく黙り込む。そしてふいに須藤が視線を上げる。
 「……僕のオリジナル……なんですがね。奇遇にも、その女性と接触したかもしれません。佐々木、と聞いて、その姿が何となくわかるんです。オリジナルの記憶は、僕の記憶でもありますから」
 しかし、メリーは首を振る。
 「そんな偶然はさすがに無いんじゃありませんか? 佐々木、なんていう苗字の女性も、世にはたくさんいるでしょうし……」
 「いや。可能性はありますよ。メリーさんに影と入れ替えられた者同士のつながり、を考えると、ありえない話じゃない。その佐々木というのも、メリーさんに影と入れ替えさせられた女性なんですよね?」
 メリーの話から、それは推測できているが、一応の確認をとる。
 「そうよ……」

 「希望的観測で動くのは不本意ですが……、僕はその線で当たってみましょう。幸いな事に、僕のオリジナルは昔から僕の後をつけてきているんですよ。ここで足踏みしていれば、向こうから顔を出してきます。病院を襲うより、よっぽどおお事にならなくていい」
 須藤は派手な事件に巻き込まれるのはごめんだ、という思いがあった。何事も、穏便に済ませられるのなら、そうしたい。……もっとも、それは気分の問題なのだが。下らない事で事件を起こす、というメリーの発想に今はついて行けないだけの事だ。

 「須藤さんは、佐々木さんの情報を得るために、オリジナルとお会いになる、とおっしゃるの?」
 「……そう。そんなところですね。ヤツからは長年逃げ続けて来ましたが……そろそろそれを終わりにしてもいい、と思っていますから。まぁ上手く話を聞けた後、また逃げてもいいんですがね」
 須藤はオリジナルを殺せない。殺せば、ドッペルゲンガーである自分も死ぬのだ。だから、逃げるしか生きる手はない。もっとも、「生きたい」という明確な意思はそう強くはないのだが。

 「……色々と麻薬を入手する手はありそうね。皆さんにそれぞれおまかせします。お願いしますね?」
 機嫌を良くして、メリーはにっこりと微笑む。そんなメリーの気まぐれに翻弄されている自分に気づき、須藤は目を伏せた。


― 52 ―


 夜。自室でタバコを吸いながら、須藤は思い立ったように、独り言を始めた。須藤の影、の方だ。
 「……どうだ? 僕の夢でも見てるか?」
 楽しそうに、須藤は笑う。

 「まぁ、最近は派手な事をしてないからね。君としても、焦って僕をどうにかしよう、とは思っていないんだろう?」
 目を閉じ、じっとうつむく。もう一人の自分の動向を探ろうとしているように。
 「で、僕の感じ方からすれば……、どうも会話というのは記憶に残らんだろう? 重要な話を夢で聞いても、目が覚めた頃にはほとんど覚えていない。だから、視覚的な方がいいだろう? ……ちょっと待ってろよ」
 須藤はのっそりと立ち上がり、自室を出る。灰皿を手にし、タバコは吸い続ける。

 アパートの外。周囲の外灯のお蔭で、辺りはさほど歩くに困らない。
 須藤は駐車場を出て、道路脇からアパートを眺める。
 「……見えるか? アパートの名前があるだろう? 改めて、記憶しておいてくれ」
 そして道路脇をそのまま歩き続ける。その先の頭上に、道路看板が掲げられてある。
 「……あれは、大きなヒントにならないか? ……いや、難しいか。ここが何県で、何市かというのがわからんのではな。……どれ、もう少しヒントを与えてやるよ……」
 須藤は道行く先の看板を指差し、オリジナルに伝えようとする。もちろん、オリジナルに伝わっているかどうかは、わかったものではない。

 「おぉ、あったあった。あれに県名と市が書いてあるな。ようく見ておいてくれ……?」
 小さなスーパーの店先にあった、防犯運動の標語の看板。須藤はそこで立ち止まり、オリジナルのために、しばらく見つめてやる。
 「……どうだ? もし今、夢として見えていなくても、これだけ丁寧に僕が見ておけば、君にも記憶として伝わるんじゃないのか? 見たモノはお互い、記憶を探りやすいようだからな。僕も佐々木と児玉ちゃんの事はわかるんだよ。何となく、だがね。まぁ君も、最近のメリーさんの事はよくご存知だろう?」
 そこまで来ると、タバコを一本吸い終えていた。灰を、店先の灰ガラ入れに捨て、空の灰皿を手に、元来た道を戻る。

 「まぁ、また何度か案内してやるよ。気が向いたら、会いに来てくれ。……もちろん、死ぬ気で、だ。僕は君の幸せなど、願ってはいないんだからさ」
 須藤は夜空を見上げながら、ゆっくりとアパートに帰るのだった。





 天気の良い昼下がり。佐々木と児玉は、一緒に美容院を出た。
 二人とも薄手のブラウスにストレートパンツ姿。佐々木は愛用のギヤ・バッグを、自転車の後ろの荷台にくくりつける。児玉は買ってもらったナップザックを手前のかごに入れる。そして二人は自転車をこぎ出した。

 「随分、時間かかりましたね……」
 児玉は疲れてしまっていた。昼前に入り、今は午後の二時を回っている。美容院にいた時間は、二時間半を超える。
 そしてそのヘアスタイルも、佐々木の好きなように変えられてしまっていた。佐々木と美容師のやりとりが盛り上がる中、自分はただ黙って、それを受け入れるしかなかったのだった。
 お蔭で、洒落っ気のないおかっぱ頭だった児玉も、今はだいぶ魅力を増していた。

 「児玉ちゃんさぁ、よく似合うよ〜? さすがセットで一万円取るだけはあるよね〜、あの美容院」
 「は?! そんなにかかったんですか……?」
 「まぁ、それくらいは普通かかるでしょ。カットにパーマにカラーリングで一万ちょっとは安い方でしょ?」
 「そんな……」
 今、そんな事で金を遣うべきではないのに、と児玉は申し訳ない気持ちになる。
 佐々木の金遣いの荒さは、会った時からずっと感じている。会った時に百万ほどあったという金は、今どのくらいまで減ってしまっているのだろう……? 連日、温泉に泊まり、お互いの自転車なども買い、更には好きなように飲み食いしている。……考えると不安でたまらなくなる。今回の美容院にしても、児玉は何度も断ったのに、無理に連れて来られたのだ。
 どの道、児玉にとって、オシャレや美容院などどうでも良かった。今、そんな事をしている場合ではない、と思うのだ。知らない内に、実は何かに追い詰められているかもしれない。佐々木だって、いつまた消えてしまうかわからない。……そうなった時、自分は一人で生きていけるのか、まるで自信がない。
 今、こうして佐々木が傍にいる内に、やっておかねばならない事があるような気がして、児玉は落ち着かないのだった。

 「あんまり細かい事言わないの! 可愛くなって良かったじゃない? すっごい可愛いよ、児玉ちゃん?」
 「またそんな……」
 佐々木には逆らえない。いい意味でも悪い意味でも。
 改めて、児玉は佐々木を見る。まるで雑誌で見るモデルのように輝いている。清潔でオシャレで、そして優しい。本当にいいお姉さんだ……。
 だけど。佐々木はあまりにも楽天的すぎる。児玉にはその性格が理解できないでいる。
 「佐々木さん。こうして楽しいのもいいんですが……やっぱりメリーさんに会わないと、アタシ達この先、どうにもならないんじゃないでしょうか……?」

 児玉がこぼしたそんな言葉に、佐々木は大仰に目を剥いた。
 「はあっ?! ……メリーに会う?! 児玉ちゃん、そんな事考えてたの……? でもこの前、死んだって言わなかったっけ?! あのおばあさんと一緒に……」
 「何言ってるんですか……。佐々木さんが先に言ったんですよ? メリーさんが死んでいる気はしない、って。アタシまでそんな気になっちゃってましたけど……? まぁ須藤さんもメリーさんの話を普通にしてましたし……死んだとかいうのを、半分忘れてましたけどね……」
 「アタシそんな事言ったっけ? でもまぁ向こうの事情はよくわかんないからねぇ……。まぁあの妖怪が、簡単に死ぬとも思えないし……、やっぱり生きてるんでしょうね」
 メリーの姿が思い出され、佐々木は苦い顔になる。ただ、妙な愛嬌がある化け物だった気はする。自殺用として首に下げておいた、エンジェルダスト入りのペンダントを、メリーは欲しがった。くれてやると、その粉を舐めて、泡を噴いたりした事を思い出す。
 「……関わりたくはないんですけど……でも、私達をどうにかできるのは、メリーさんしかいないでしょうから……」
 顔をしかめながらも、児玉はそこに希望を見出す。老婆から言いつかった「アベ」についても、メリーに会う事で、きっと決着がつくと思う。

 しばらく二人とも、暗い顔で自転車をこぎ続ける。だが佐々木がいち早く頭を切り替え、明るい提案をする。
 「まぁ……メリーの事なんか考えてたって何にもならないんだからさ。……何かおいしい物でも食べてかない? ケーキとかさ」
 「えぇ、まぁ……」
 児玉は笑えず、ぼんやりと応える。それが佐々木の気に障った。
 「……んもう! 児玉ちゃんさぁ、もっとパーッと明るく……」
 「あ。電話です」
 児玉は自転車を停め、ナップザックから携帯電話を取り出した。佐々木も遅れて自転車を停める。言いたかった事もそこで忘れてしまった。


 見ると、公衆電話からだった。児玉の予測はついていた。
 『……やぁ、僕だ。須藤だ。今、いいかな? ちょっと連絡しておこうか、と思ってね』
 「はい……」
 車の往来の音で聞き取りにくい。児玉は身を屈め、じっと集中する。
 『僕のドッペルゲンガーの居場所がわかったんだ。メリーもそこにいる。君らが探している阿部というのも、そこにいるハズだ。……で、君らはまだ、あの温泉旅館の近くにいるのか?』
 「……そうです。今、隣町まで来てますけど……」
 『そうか。……いや、もし良かったら車で乗せて行こうか、と思ってね。ヤツらがいるのは、I県K市なんだ。そこから、かなり遠いだろう? 自転車で行ける距離じゃないと思ってね……』
 聞いただけでは、どのくらいの距離があるのか、児玉にはわからない。

 「じゃあ……佐々木さんと相談してみます。もし良かったら、お言葉に甘えさせて戴きます……」
 『うん。じゃあ……もう少ししたらまた、電話するから。そうだねぇ……今、午後二時ちょっとだから、三時頃にもう一回かけてみるかな』
 「はい。お願いします」
 『それじゃ』
 通話を切りかけたが、そこで疑問が思い出された。つい今、佐々木との話に出た疑問だ。

 「あ! ところで、メリーさんの事を詳しくご存知なんですか? アタシ、一回死んだって聞いたものですから……。今、メリーさんは生きているんでしょうか……?」
 ややあって、須藤の返事が返ってくる。
 『……メリーか。アイツが何度か死にかけたのを知っている。でもその度に、巧く命を取りとめたようだ。今回の話はしなかったっけ? 一回完全に死んだようだけど、また生き返った。不死身とは思わないが……確かに何か、特別な事はあったようだ』
 「そうですか……」
 ――やはり、メリーは生きている。
 だとしたら、老婆の死は何だったのだろうか。しばらく、そこで思考が止まる。

 『じゃあ二人で相談して。特に一時間後に出かける必要もないから、話が決まらなかったらまた後でもいいし。数日程度の猶予は、充分にもうけるよ』
 そして通話を終える。佐々木に要約を話し、顔を見合わせる。
 「随分急な話ね……。でもさ、アベとかメリーとか。アタシ、そんなのに会いに行きたくないんだけど……?」
 そう言われるとは想像していなかったので、児玉は面食らってしまった。
 「でも、会わないと……アタシ達この先、生きていけませんよ? お金も無くなるし、佐々木さんだって……」
 ――いつか、消えてしまう。消えて、無くなってしまう。
 そんな日が、まだ遠いとは限らないのだ。

 だが、佐々木に児玉の不安は伝わらない。
 「アタシはさ、別にこのままでいいんだけどね〜……。メリーなんかに会ってみなよ? 簡単に殺されて終わり、だよ。あの妖怪さぁ、簡単にヒトの腕をもいだりするでしょ? ……化け物だよ? 会ったとして、話なんかまともに聞いてもらえないわよ」
 児玉の友人が、駅のホームでメリーに腕をもがれた。その光景は、二人共通の記憶の中にある。

 「でも……せっかく須藤さんが、機会を見つけてくれたのに……。この機会を逃したら、後で探すの大変ですよ? アベという人にしても、メリーさんにしても……。どこを探せばいいか、今でも見当つかないじゃないですか……」
 「だからさ。アタシは会いたくないの……! そんなものに……」
 めずらしく、佐々木は険悪な顔を児玉に見せる。

 児玉の傷心した顔に気づき、佐々木は少しだけ表情をやわらげる。
 「でもさ。どうせ死ぬんなら……、消えて死んだ方がいいじゃん……。痛い思いしなくて済むんだしさ……」
 そう言われると、児玉は返す言葉が見つからなかった。そして佐々木が「死」を覚悟しているのを、初めて耳にしたような気がした。

 やがて、佐々木が場の空気を無理に壊した。
 「……わかったわかった! とにかくさ、ゆっくり考えましょ? その辺でおいしい物食べながらさ。……ホラ〜、須藤さんがまた電話かけてくる前に、話をまとめておこうって!」
 「……はい……」
 そしてまた、自転車をこぎ出す。
 ……今、急激に決断を迫られている。須藤とともにメリー達に会いに行くか。やめておくか。

 会いに行けば、色々な事に決着をつけられるかもしれない。
 老婆が言い残した、アベ、スドウの事。自分達の事。それらに関して、須藤の協力も得られるだろう。……だがなすすべなく、みんな殺されて終わる可能性もある。
 会いに行かなければ、まだ幾日かは平穏に暮らせる。ひと月以上、いやもっと長く、このままの暮らしができるかもしれない。
 だが、いずれ来る自分達の終わりは避けられないだろう。佐々木が姿を消し、児玉は一人になる。その時になってメリーに会おうと思っても、遅いのかもしれない。

 ――佐々木は、静かな終わりを望んでいる?
 無理にメリーに会いに行き、結局は無残に殺されるのだとしたら……佐々木に申し訳ない。
 児玉は決めかねる。どう転んでも、希望が見出せない思いに捕らわれてしまう。

 ……あまりにも、幸せな時間は短すぎる。
 まだ佐々木と、色々な所を見て廻りたかった。できる事なら、この先もずっと……。

 「ほら〜! いい所に喫茶店〜!」
 商店街の並びの先。佐々木が笑顔で指差す。
 児玉は胸が苦しくなり、顔をきゅっとしかめた。


― 53 ―


 喫茶店に入る。コーヒーの全国チェーン店だ。ここはさほどの都市部ではないのだが、その店も特に異彩を放っているワケではなかった。うまく周囲の店に溶け込んでいる。
 佐々木と児玉は店先に自転車を停める。児玉のナップザックだけを手に、店内に入る。
 カウンターでホットコーヒーとケーキ類を注文する。フルーツタルトとショコラバニーユを二つずつ。児玉が遠慮して、コーヒー以外に何も頼もうとしなかったから、佐々木が勝手に注文したのだった。
 それらを受け取り、二階へ行く。ソファ席の一つが空いていたので、そこに落ち着いた。
 「ほーら、おいしそー?」
 佐々木が満面の笑顔を弾けさせる。
 「……で、話は何だっけ?」

 「須藤さんから電話があって、一緒にメリーさんの所に行かないか、って話です……」
 「あ〜そうだっけ? ん〜おいしい!」
 佐々木の幸せそうな笑顔に、無理は感じられない。児玉は感心を通り越し、呆れてしまう。佐々木には今置かれている状況など、問題ではないのだろうか?
 「まぁアイツ……メリーに会うのは嫌だけどね。わざわざ自分から火の中に飛び込む馬鹿はいないでしょ? それと同じよ。でもさぁ、そこに希望があるんならね……。行ってみてもいいかもね〜……」

 つい先ほどとはまた違う、佐々木の反応。気分屋であるのは気づいていたが、これほどだとは思わなかった。
 「じゃ、行きますか……?」
 身を乗り出す児玉に、佐々木は「ケーキ食べて」と指差す。
 「まぁ命がけってのはあるけどね〜……。でも元に戻してもらえるんなら、考えてもいいしさ……」
 そしてケーキを口にするなり、佐々木は感嘆に顔を輝かせる。
 「……で、実を言うと、ちょっと児玉ちゃんに隠してきた事があるんだよね」

 「何ですか、それは……?」
 「後で教える。まぁ簡単に言うと、アタシも長く、影と入れ替わってたからかな〜ってトコかな。気づいたのは最近ね。ホントごく最近。児玉ちゃんに会った後かもしれない」
 「……はぁ……?」
 「まぁいいから。その辺の事も、メリーに聞いてみてもいいしね。あの須藤さんてのも、アタシらが行く行かないに関わらず、メリーに会いに行っちゃうんでしょ? その辺も無視できないじゃん? ヒトとしてさ」
 「……そうですね……」
 佐々木が行く気になってしまい、今度は児玉が躊躇(ちゅうちょ)し始めるのだった。……行けば、殺されるかもしれない。もし話し合いで決着がつかなかったら、自分達三人は殺されて終わりだろう。メリーなどという化け物に、太刀打ちできるハズもない。
 しかし、黙っておく。佐々木が行く気になっているのなら、今度は自分が意思を固めるべきだと思った。

 佐々木はフルーツタルトを食べ終え、今度はショコラバニーユの方にフォークを向ける。児玉もゆっくりながら、タルトを味わう。フルーツのみずみずしさとタルトの微妙な甘さが心地よい。その舌触りもいい。気づくと夢中になっている。コーヒー専門店という事で、コーヒーの芳醇さにも目を見張った。
 そんな児玉に気づいたのか、佐々木はやわらかい笑みを向けてくる。
 「……ね〜おいしいでしょう? やっぱり人間さ、余裕をもっていかないと。どんなに切羽詰った状況でもさ、苦い顔ばかりしていたんじゃダメなのよね。……もし、迎える結果がダメだとしてもさ、ある程度は笑っていきたいじゃん。あ〜ダメだったんだな〜やられたな〜ってさ」
 そんな話を受け、児玉は硬まっていた心が解きほぐされる思いがした。佐々木の考えは、正しいと言い切れるものではない。でも、そういう考え方も悪くないのかもしれない……。

 「もちろんさ、アタシはメリーなんかに話は通じないと思う。会っても結局は、無駄に終わってしまうと思う。いい結果なんか、全然見えない。……だってどう考えても、希望は無いんだしさ。あの須藤さんにしても、そんなに頼れるとは思えないでしょ? 絶対さ、わざわざ顔出してやられに行くようなものよ」
 他に客もいる店内ゆえ、死ぬとか殺すなどの単語は控えながら、話は進んでいく。
 「まぁ……アタシもタダではやられないけどね……多分」
 佐々木は全て食べ終え、座席によりかかる。座り心地のいいソファゆえ、自然とあくびが出たりする。
 「と、言いますと……?」
 「さっきの話よ。アタシの秘密。……後で見せてあげるから。ちょっとびっくりするかもよ?」
 そう言う佐々木が少しだけ違って見えた。佐々木は一体、何を隠しているのだろうか?

 「まぁあの須藤さんにしても、手ぶらでメリーの所に行こうってんじゃないと思うしさ。一応、アタシらを守ってくれるつもりでいるのかもしれないよ? だからここは一つ、この機会に乗ってみようかなって思って。どの道、アタシらには先が無いんだしさ?」
 「……そうですね」
 ちまちまと、児玉はショコラバニーユを食べていく。佐々木はそんな児玉を見て、またからかいたくなる。
 「……おいしい?」
 「はい。すごくおいしい……」
 顔をほころばせる児玉を見て、佐々木は胸に充足感を覚える。友達というより、妹を見ている感覚だ。

 ――この子は死なせたくない。
 少しだけ、そんな事を思うのだった。





 喫茶店を出る。
 「佐々木さん、さっき言ってたのって何ですか?」
 「……あぁ、アレ? まぁ大した事はないんだけどね……」
 とりあえず二人は自転車に乗り、走り出す。佐々木は周囲を見渡している。

 商店街を行き、何度か曲がると、橋に差し掛かった。大きな川がありそうだ。
 「あそこがいいかな。ちょっと行こう?」
 川沿いの堤防に入る。そこはサイクリングロードであるようだ。少し行った先のスロープを下って、駐車場に乗り付ける。
 車が数台停まっている。山小屋に似せたトイレや、休憩できる東屋があったりして、そこはちょっとしたくつろげる広場になっていた。

 自転車を降り、川原に出る。
 護岸ブロックなどで整備された中、多少の砂利地も残されている。佐々木はそこに足を踏み入れ、小石を手にした。
 「……ホラ、見て」
 手の平に乗せられた石。児玉は何だろう、とのぞきこむ。
 佐々木はそれをぎゅっと握る。
 手の平が開かれると、その石はいくつかに割れていた。

 「割れた……?」
 今のはやわらかい石なのだろうか、と他の石をつまみ上げる。手にして、簡単には割れそうもないと確認した石を、佐々木に見せる。
 受け取り、佐々木はその石を握る。……ポキリという軽い音とともに、その石も割れて砕けていた。

 「……わかった? これがアタシのちょっとした秘密。何か知らない内に、握力強くなってたのよね〜……。この間、一人で風呂入ってる時にさ、ちょっと岩風呂の岩を割っちゃって。その時、気づいたんだよね〜……アハハ」
 「……岩を……?」
 「うん。すごいでしょ? まぁアタシもだんだん人間離れしていってるって事かな? たまに消えたりするんでしょ? この馬鹿力もさ、その延長線上にあるのかな〜と思ってね……」
 そして今度は、やや大きめの石を両手で持ち上げる。いわゆる漬物石、と呼べるほどのものだ。
 「危ないからどいてて……」
 「……もういいですってば……」
 児玉は思わず止めに入った。
 だが、佐々木は首を振る。児玉に確信に至らせたい、という思いがあるのだ。
 そして、その石もやはり、鈍く派手な音とともに二つに割れてしまった。

 感嘆の声をあげられず、児玉はみるみる悲しい顔になった。
 割れた石を足元に戻し、佐々木は声をかける。児玉の反応を受け、苦笑に至る。
 「なんでそんな顔するの……? スゴイと思わない?」
 「凄いですけど……」
 ――怖い。
 児玉は完全に言葉を失ってしまっていた。

 「……でも、これが精一杯ね。結構、手も痛いのよ、これがまた」
 見せた手の平は真っ赤になっている。
 「もう少しすれば、もっと凄い事ができるかもしれない、って気もするんだけどね。……でもやたら、変な力は要らないけどね〜。こんなのよっかさ、ギャンブル運が戻ってほしいもんだけどね〜? そっちの方が凄く役立つしさ〜」
 佐々木は笑うが、児玉は笑えない。佐々木は川の方に目を向ける。ゆったりとして、その流れは遅い。
 「……まぁメリーに会うってんならアタシは会うよ。殺される可能性の方が高い気もするけど……、何かちょっとぐらい、決着がつけられるかもしれないしさ」

 割れた石の断面を、児玉は傷心したように見つめる。
 不吉な力だ。佐々木は刻々と、ドッペルゲンガーという化け物に近づいているのだ。
 「……こんなチカラ、要らないよね? だからメリーに戻してもらえたらいいかなって。……何か、急に消えるっていうのもヤだし。人間としてさ」
 佐々木は児玉を見やる。児玉はまだ不安な顔をしている。 
 「……ホラぁ、わかったでしょ? 正直言うとさ、この力でメリーを何とかできるんじゃないかな〜、ってチラッと思ったワケ。まぁ怪力だけで何とかできる相手じゃないんでしょうけど……妙にね、体全体にも力がみなぎってるのよ。だから、できるんなら戦ってみてもいいかな、ってさ」
 児玉の反応は得られない。佐々木は肩でも叩いてやろうかと思ったが、これ以上脅かすのも可哀想になった。

 「もう行こう? ……それとも、ここで須藤さんの電話待ってる?」
 佐々木は自転車の方に戻る。児玉もついて行く。
 「迎えに来てもらうんならさ、もう少しわかりやすい所に行かない? 国道沿いとかさ。あ〜それより自転車を置く場所、考えなきゃね。どこいいかな〜……」

 「佐々木さん!」
 ふいに児玉が声を張り上げる。佐々木は作った笑顔で振り返る。
 「……メリーさんと戦うとか……そういうのは、やめておいた方がいいと思います」
 か細く、それだけ告げる。

 「わかってるわよ。この程度の力じゃ、何にもならないだろうしさ……」
 ――でも、その時になったらわからない。メリーと会ってどうなるのか。まるで予測がつかないのだ。

 そして、今になって思い当たる。もしかすると、須藤はこういった力を既に心得ていて、メリーらと戦う自信があるのかもしれない……。須藤が影と入れ替わってからの期間は、自分より長いと思う。対面した時の、輪郭のぶれ方を思い出す。
 「なるほど……」
 佐々木は一人で納得する。

 川原を出て橋へ戻り、道路看板を探しながら自転車を走らせていると、児玉の携帯電話が鳴り出した。


― 54 ―


 「もしもし!」
 公衆電話からだ。須藤からだろう。橋を過ぎた所で、児玉は自転車を止める。
 『……やぁ、須藤だけど。どうかな? そろそろ決まったかな?』
 須藤は率直にそれだけ聞いてくる。

 「……はい、決まりました。……行きます。ご一緒させて下さい……」
 言い終わり、児玉の心臓がどくんと跳ねた。
 ……もう、戻れない。早まっていないか、もう一度自分に言い聞かせたい気がする。誘いの電話を受けてから、たかだか一時間だ。その短い時間で、自分達は今後の運命を決めてしまったのだ。

 でも、この選択は間違いじゃない。行かなければ、後はゆっくりとした死を待つだけなのだ。その先には、何の希望もない。希望があるとしたらやはり、ここでメリーらに会う事なのだ。
 自分達を影と入れ替えさせたメリーに会い、元の普通の人間に戻してもらう。無謀で甘い考えだろうが……それしか、道はない。それに、老婆に頼まれたアベとスドウ、というのにも決着をつけたい。頼まれて承諾したからには、せめて顔だけでも見ておきたい。

 『そうか。わかった……。じゃ後で迎えに行くから。……場所はどの辺?』
 「ちょっと待って下さい」
 児玉は背後を向く。橋のすぐ脇に、河川での注意をうながした看板を見つける。そこに、県と市の名前が載っている。それを須藤に告げた。
 『……了解。まぁあの温泉旅館の近くって事で、そんなに道に迷う事はないだろうけどね。何とか探してみるから』

 そこで佐々木が口を出してきた。
 「あのさ、須藤さん、どこに迎えに来るか迷ってんの? だったらあの温泉旅館でいいじゃん。そこならわかるでしょ? ついでに事情話してさ、自転車置かせてもらうとかしたらいいでしょ?」
 「……え〜そうですか? 大丈夫でしょうか……?」
 あの温泉旅館に行くのはいいが、自転車まで置かせてもらうのは賛同できない。第一、無事に戻って来られる保証は無い。だとしたら、旅館に迷惑だろう。
 「なによ? 自転車くらい置かせてくれるでしょう?! どーせ、そんなに立派な旅館じゃなかったしさぁ」
 「そんな……。自転車はやめておきましょうよ。迷惑ですよ、きっと……」
 「そ〜お?」
 佐々木は軽く口をとがらせる。

 児玉は、一度送ってもらった温泉旅館にいる事を告げた。
 『わかった。……じゃ明日の朝、また確認の電話を入れるから。何時頃がいい?』
 「明日……ですか?!」
 思わず、声がうわずる。
 『うん。あんまり焦ってもしょうがないしね。出発は明日の午前中、という事にしとこう。それまでまたゆっくり、君らも考え直してもいいしさ。別に無理して、僕に付き合ってくれなくてもいいんだから。僕がやろうとしている事は、あくまでも自分の事なんだしさ。君らを助けてやるとか、そういう事は約束できないしね』
 「はい……」
 もう一度、考える時間を与えてもらった。今晩ゆっくり、佐々木とまた話し合おうと思う。

 「明日?」
 佐々木が反応してくる。
 「はい。出発は明日にするそうです。で、朝に確認の電話を入れるそうですけど、何時頃がいいか、と……?」
 「別にアタシ早起きだから、何時でもいいけど? 児玉ちゃん寝てたら、アタシが電話取るからさ」
 児玉はうなずいて、「あの、朝の電話は何時でもいいそうです」と告げる。
 軽く笑いが返ってくる。
 『了解。まぁ朝食が済んだ辺りにかけてみるから。……じゃあ、切るよ。一応、君達の気持ちを聞けたって事で、僕もまた今後の動きをね、少し練り直しておくから』
 そして電話が切れた。

 「アタシは待つのって嫌いなんだけどね……行くんなら、今すぐにしてほしかったなぁ……。変にまた時間もらうと、決心が鈍るかもしれないしさ」
 佐々木はうなだれる。
 「まぁ仕方ないか。じゃ、行きましょうか? あの温泉」
 「はい」
 そして二人は、隣町の温泉旅館へ向けて、自転車を走らせた。





 軽快な風を受け、二人はジュースを飲みながら、笑いあって道を飛ばす。街路樹の葉もだいぶ色づき始めている。
 ぽつぽつとした住宅地を過ぎ、下り坂を気持ちよく抜ける。向こうに工場などがいくつか見え始める。道幅も広くなる。ここは工業団地になっているようだ。
 交差点前にある道路看板を見て、二人は大きな道を南に折れた。整った広い歩道をずっと真っ直ぐ走って行く。
 そんな時、児玉の携帯がまた鳴った。

 「あれ、何だろ……?」
 自転車を止め、ナップザックのジッパーを開けて中を探る。まさか、またすぐ電話がかかってくるとは思わず、携帯は荷物の中に紛れ込んでしまっている。佐々木も傍で足を下ろす。

 取り出した携帯のディスプレイに映っているのは、見知らぬ電話番号だった。家庭用の電話番号か。取るべきかどうか、少し迷う。
 この携帯電話の番号を知っている者がどれだけいるか考える。それはあまりにも少ないハズだ。
 (まさか、メリーさん……?)
 一瞬、そんな不吉な妄想に呑まれたりする。

 「あの、佐々木さん……どうしましょう? 公衆電話じゃないんで、須藤さんからじゃない気がするんですけど……」
 二人とも、鳴っている携帯に見入る。
 「いいよ、アタシが出るから」
 怖がる児玉から、佐々木は電話を受け取り、通話のボタンを押した。
 「もしもし……?」

 返ってきた声はひどくかぼそかった。名を名乗ったようだが、聞き逃してしまう。
 『……あの……すみません。貴子の……お知り合いの方でしょうか……?』

 「……は?! たかこ? いいえ……」
 佐々木には、心当たりはない。電話の向こうの声は、中年の女の声だ。
 『あの……この電話番号なんですけど……娘が書き残していた番号なんです……』
 「はぃ?」
 間違い電話だろうか、と佐々木は通話を切ろうとする。だが、一応最後まで聞いておこうとする。
 『娘は……傷害事件に巻き込まれて死んでしまったんですが……携帯電話を二つ加入していまして……。それで娘の貴子は、その料金の支払いを切らないでほしいと……』

 「……娘さんが死んだ? すみませんけど、アタシには何の事だか、さっぱりですね……」
 佐々木は顔をしかめる。だが、むやみに電話を切れないでいる。
 『……すみません。でも、どなたがお使いになっているのか、知りたかったんです。大事な「妹」だから、自分が死んでもその電話料金は払い続けてほしいと……そんな書置きを残していたものですから……』
 そこまで聞いて、佐々木は青ざめた。
 話が、理解できたのだ。

 そして震える手で、児玉に電話を差し出す。
 「……ちょっとコレ、児玉ちゃんのお母さんじゃない……? よく聞いてあげてよ……」

 「……お母さん……?」
 そう聞くなり、児玉の体温は一息に下がった。 

 「そんな……アタシ……出られません!」
 顔を歪めて、全身で拒絶する。自分の戸籍を持って、ドッペルゲンガーは死んだのだ。ここで自分が出しゃばると、何かが崩れるような、不吉な思いがした。
 佐々木は携帯を向けて、詰め寄る。
 「絶対、お母さんだから! 出た方いいって!!」

 「……やだ! ……今はダメです! 絶対に、出ちゃダメなんです!!」
 児玉は足を震わせて、自転車を倒しそうになる。なおも携帯を突き出してくる佐々木から、児玉は逃げた。


― 55 ―


 その生産ラインの仕事の最中、また阿部の意識が抜け落ちた。

 体が覚えているので、動作が止まるという事はない。作業は順調に続いていく。自動車生産工場での、検査ラインの一端をになっている。一人での室内検査なので、多少の意識の抜けは作業に影響しない。
 ……だが今、阿部の意識は、その体の一つ奥深くに、落ちていたのだった。

 ――ドッペルゲンガーとして、見ている。
 視界が狭まり、周囲の光景はネガ写真のように完全に切り替わる。……消えそうな闇の中、蠢き揺れる線画の世界。阿部は久しぶりの感覚を、静かな気持ちで受け入れる。体温も感じられなくなった。
 ――後れて吹き上がってくる、破壊衝動。
 だがそれだけは、意識的に抑え込まなくてはいけない。

 車の流れは止む事がない。阿部はその間をすり抜け、検査をこなしていく。
 意味のない破壊衝動は、化け物ゆえの性格だ。一種の病気。人間でいたいのであれば、その衝動を表にさらけ出してはならない。

 ……場を壊す事は、たやすい。
 誰かを突然殴っただけで、その場は終わりを告げる。人間の生きる場など、どんなに長い期間をかけて、どんな苦労で築き上げてきたとしても……、壊すのは一瞬で事が足りるのだ。

 自分は常に、平静を保っていなければならない。化け物ゆえ、感情の激しい起伏はすぐ、破壊行動につながる。そうなると簡単に自滅してしまうのだ。頭の足りない仲間連中が、その辺をわからないですぐ事件沙汰を起こし、世から隔離されていくのは残念でならない。
 ……人間というのはもろい生き物なのだと、改めて感じる。
 感情の小さな噛み合わせの悪さだけで、全てを失う事もめずらしくはないのだから……。


 車の流れは途絶えない。この生産ラインの落ち着きのなさにはいつも閉口してしまう。人に無理をさせすぎるのだ。
 仕事がキツイ、というのは余計な事を考える暇がなく、無心になれていいと思う時もある。だがやはり、体に返ってくる反動も大きい。

 そこで一台、検査に引っかかった。今、視界で不具合を見つけるのは難しい。手で触れた箇所に、不具合を見つけたのだ。
 だが、この程度なら自分で直さなくてはならない。多少の苦労の後、そのプラスチックカバーの外れは補正できた。
 他の検査を急いで進める。ラインはそう簡単には止まってくれない。今の補正作業で数十秒、ロスしてしまった。その遅れを取り戻すのは並大抵の事ではない。
 だが、次の車の検査に移った途端。また別の不具合を見つけてしまった。
 「くそっ!」
 思わず声が出る。急いで検査用紙に不具合を書き込む。そしてその車も一通りの検査をこなし、追い詰めてくる次の車に移る。次の工程に足がはみ出しかけている。自分の遅れは、後のライン全体に響くのだ。
 一日中続く、馬鹿みたいな激しいダンス。きっとこの動きは、ハタから見たら相当笑えるに違いない。
 そして今なお、ネガの視界はやまない。自分を嘲笑い続ける。
 ……見えない。見えなくなっていく……。

 気付けばまた汗だくになっていた。
 だがそんなものは些細な事だ。絶え続けないと、自分はまた全てを失うのだ。
 ……もう何度も色々なものを壊しては、逃げて、捨ててきた。場を壊し、人間を壊し。時には放火や場の崩落をも引き起こしてきた。過去、一度も警察に捕まらなかったのは、奇跡的とも言える。

 ……だが今は違う。そんな馬鹿な真似はしない。自分は長く、学習してきたのだ。その成果がある。
 破壊衝動がまた、ひどく自分を突き動かしてきたとしても、今なら充分に耐える事ができる。

 たとえ、理不尽に殴られたとしても……誰も殺しはしない。





 放送の鐘が鳴り、休憩に入る。
 ライン脇の休憩コーナーの長椅子に腰かけ、阿部は一息つく。冷蔵庫から自分の烏龍茶を取り出し、気が済むまで飲む。 
 視界は元に戻っていた。
 (まだクセが抜けきらないようだ……)
 形ばかりでなく、心底から人間になりかけている事はわかる。だが、まだそれも完全ではない。もしかすると、人間になり切るのは最後まで無理なのかもしれない。いつまでも、何らかの尾を引くような気がする。今のネガの視界にしても、またいつくるかわからない。

 そして人間への近づきを実感する度に、阿部は少しずつ、新たな感情が芽生えていくのを感じていた。
 それは……「恐怖」のようなものだと思った。

 自分が殺人鬼だった、という事への恐怖。
 殺してきた人間への、恐怖。自分への恨み、憎しみ。
 ――後悔。
 懺悔(ざんげ)。そして……悲しみ、苦しみ。

 その全てを、今は笑い飛ばす事ができないでいた。ひどい殺しを思い起こす度に、逆に自分はひどく傷ついてしまう。時には長く、立ち直れなくなってしまう。
 ――目を伏せる。
 ほぼ同時に友人に肩を叩かれ、顔をあげた。驚きはなかったが、おどけて目を見開いてみせる。そして人間のように苦笑を返した。


 そこでまた、「苦しみ」が訪れた。
 阿部はたまらず目を伏せる。

 ……呼吸が乱れる。うつむいてじっと耐える。周囲の人間も疲れているから目立つ行為ではない。
 少しの後、落ち着きを取り戻しかける。……だがまたすぐに、大きな反動が返ってきた。
 気付くと足が震えていた。
 背後にある冷蔵庫の上に目をやる。いつも置いてある、自分のタバコが……無かった。更衣室のロッカーに忘れてきたのだ。無念に肩を落とす。

 湧き出た苦しみが、耐え切れるものではなくなってきた。この感情の異常な起伏。……自分の狂い、を感じる。正常な人間になど、化け物がなれるハズがないのだ。初めから。
 口から叫びをあげかける。嘔吐を抑えるように、阿部は口を手で押さえこんだ。
 だが、駄目だった。
 ――殺してきた人間の、血に塗れた無数の肉片が、瞼(まぶた)の裏にはっきりと映った。
 無残な死体を踏み潰し、笑いをあげる。
 ……それはまぎれもなく、この自分なのだ。

 止めたはずの足がまだ震えている。
 もはや、じっとしている事が不可能になった。
 阿部は椅子から体を無理に引き離し、席を立った。ぶつかった他の足に、慌てて謝る。

 ――人間でいる事の苦痛。
 「良心」というひどい重荷に、その身が砕けてしまいそうになる。

 (くそっ! ……くそおっ!!)
 顔を苦痛にゆがめ、阿部は洗面所に逃げるのだった。


― 56 ―


 「あら、須藤さん。……それは?」
 顔を上げると、そこにメリーがいた。いつもの事だが、須藤に驚きはない。無意識に、その訪れを予知しているのかもしれない。

 須藤の自室。ミニテーブルを挟み、メリーは須藤の手の中のカメラを凝視する。それは新品だった。須藤はテーブルの上に、その一式を広げている。
 「前のカメラの保管状況が悪すぎましてね。湿気で、内部にカビができはじめていたんですよ。それにシャッター速度やフラッシュ部分もおかしくなっていましてね。カメラをぶつけたりもしましたんで。それで修理費が結構かかると言われたので……、新しいカメラを買ったんですよ」
 「……あら、そうですか。まさか、わざわざ私のために?」
 「まぁそんなところですね。せっかくのカメラマンですし……?」
 須藤のちょっとした皮肉に、メリーは軽く目を伏せる。須藤はカメラを持ち上げてみせる。
 「一眼レフのデジタルカメラです。こういうものがあるんだ、と阿部くんに教わりましてね。まぁそんなに高いやつではないんですが……」
 レンズを向けると、メリーはにっこりと微笑みを向けてきた。須藤はシャッターを切るマネをする。

 「ところでメリーさん。……そろそろ来ますよ。僕のオリジナルが、佐々木と児玉って子をここに連れて来ます」
 「あら? いつですか?」
 「明日の午前中に、向こうを車で経つようです。……どうでしょうね、ここに着くのは夕方を過ぎるんじゃないでしょうか。まぁもっとも、一晩明けてから、顔を見せに来るつもりかもしれませんが。特に急ぐ事でもありませんしね」
 「……そうですか。驚いたわね。わざわざ来て下さるなんて……」
 メリーはまだ、カメラに見入っている。
 「うまく麻薬の事が聞き出せればいいんですけど……」

 「どうやら向こうは、また違った目的でここに来るようですね。僕のオリジナルは、僕を殺すために。他の二人は、メリーさん、貴女に会いに来るようです」
 「……私に会うのが目的?」
 「そのようですね。阿部くんの事も知っているようです。都市伝承に何か吹き込まれたんでしょうかね」
 都市伝承、という単語に反応し、メリーは顔を曇らせる。殺したのはいいが、まだ憎しみの対象にあるのだった。

 「……で、何が望みなのかしら、佐々木さん達は……?」
 「簡単な事ですよ。おそらく、人間に戻してもらいたいんでしょう。元の生活にね」
 「あぁ、そう……そうかもしれないわね……」
 そう聞くと、メリーの表情が一層暗くなった。そして話題を変える。

 「それで? 須藤さんはどうなさるおつもりなんですか?」
 「……僕ね。今回は……おとなしくしていても構いません。あくまでもヤツをここに呼んだのは、麻薬の件に関してですから。佐々木という女から、麻薬の事を聞きだす。今回の目的はそれだけ、ですからね」
 「……ありがとう」

 その時、メリーの手の中で携帯電話が鳴った。
 メリーの目尻が一転して喜びに歪む。そして液晶画面を恍惚とした表情で見つめる。
 「……また、見知らぬ方からの電話です。阿部さんのお蔭ですね。私の電話番号を、ネットで広めてもらっているんですよ。あくまでもひっそりと。ダミーの番号を数種類交えて、その中で本当に私につながるものを入れてもらっているんですね。……私の都市伝説は、阿部さんが築いてくれているようなものです……」
 そしてメリーは嬉々として電話に出る。番号は非通知できたが、そんな事は問題ではない。
 「……モシモシ、私はメリーよ。お電話ありがとう……。アナタはだぁれ……?」
 メリーは立ち上がり、軽く手を振って部屋を出て行った。





 「すみません。須藤さん、いいですか……?」 
 メリーが出ていった数時間後。阿部はノックとともに、ふらついた足で、須藤の部屋の玄関口に倒れ込んできた。
 「おい……どうしたんだ、阿部くん?」
 阿部の異変に驚き、須藤は慌てて駆け寄る。

 「急に……制御が利かなくなってきたんです。感情のコントロールが……こんな時、須藤さんはどうされているんですか……?」
 阿部の目が宙を泳いでいる。顔も真っ青だ。
 「とにかく、落ち着いて……休んでくれ」
 須藤は取り急ぎ枕を持ってきて、阿部を床に寝かせる。

 「……すみません。急に、なんです。もう視界がおかしくなってしまって……元に戻らないんです……」
 顔を苦痛に歪め、額の汗をぬぐう。須藤は急いで濡れタオルを用意し、額に乗せた。
 「とにかく、休むんだ。何の心配も要らない」
 「すみません……」
 阿部の目尻にうっすらとした涙を見る。須藤はそれを怪訝(けげん)な目で見つめる。
 問いただしたかったが、今はじっと抑えた。

 「寝て起きればだいぶ良くなる。構わないからそのまま眠ってくれ」
 阿部はもう虫の息だ。須藤の目は細まるばかりだった。
 「……すみません。もう何だか……自分に押し潰されそうなんです。死ぬんじゃないかと思うほどに……」
 「……わかった。いいから休んでくれ。僕は医者なんだから、君の容態はちゃんと見守ってやる」
 「……すみません……」

 よほど苦しいのか、阿部の顔にあぶら汗がにじんでいる。
 (感情のコントロールが効かなくなった、だと……?)
 まるで、寝言だ、と思った。自分達、化け物が吐く弱音など、聞いた事がない。

 押入れから、布団を引き出す。眠る必要のない須藤は、まだ使っていない。 
 布団を敷き、阿部を寝かせる。ズボンのベルトだけ、引き外してやる。
 部屋の電気を消し、須藤はミニテーブルに戻った。

 つまみなどをかじりながら、静かに阿部を見つめる。
 (どうやら……阿部くんは人間の良心、というものを知ってしまったようだな)
 元々人間臭かった阿部。その人間らしさが化け物にとっての「弱音」となり、表に出てきたのだ。
 (そんなものをまともに受け入れてしまったら、僕らは終わりなんだよ。過去の殺戮を悔やみ、恐れて、フヌケになり、そして潰されてしまう……。人間に近づいていくほど、僕らは弱くなってしまう)

 そして、今の状況をからめて考える。
 (……何もこんな時に狂わなくてもいいのにな。これじゃまるで都市伝承の呪いでも受けたようなものだ。……ヤツらが近々ここに来た時、阿部くんはすっかり役立たずじゃないか……)

 阿部の顔はもう、ただの人間にしか見えない。
 須藤は冷ややかに長く見つめた後、顔を背けた。


― 57 ―


 「た〜かこちゃん? お風呂入ろ?」
 温泉宿。児玉が須藤に一度、自転車ごと送ってもらった宿だ。二人はそこで、最後になるかもしれない夜を過ごしている。
 一風呂の後、夕食も終え、二人は浴衣でくつろいでいる。そうしているとまた、佐々木は風呂への誘いをかけてきたのだった。

 児玉はさっきから、「たかこ」という名を佐々木に連発されていた。先ほどの夕方、児玉の母らしき人から電話を受け、佐々木はその名が児玉の本名なのだと決め付けたのだった。
 児玉は座椅子の背もたれに身をまかせ、TVを観ながら、やや知らないフリをする。初めは反応していたが、佐々木のしつこさに呆れてきていた。
 「ほらぁ。たかちゃぁん? お風呂行こうよ〜?」
 肩をつつかれる。佐々木は今にも噴き出しそうな顔を続けている。人をからかうのが好きなのだろう。
 あんまり無視ばかりもできず、児玉は言い返す。
 「佐々木さん……。まだ、それが私の名前って決まったワケじゃないんですから……」
 「なによ、まだそんな事言ってんの? あれって絶対、児玉ちゃんのお母さんだって! 児玉ちゃんの携帯の電話番号知ってるんでしょ? 娘が書き残しておいたって言ってたんだしさ。それに携帯電話を二つ加入してたってんなら……、話のつじつまがすっかり合うじゃないの?!」

 児玉の影は生前、児玉に連絡用として携帯電話を渡してきた。だから自分の分と児玉の分、二つ加入していたハズなのだ。
 そして「自分の死後も、児玉の方の携帯料金の支払いは切らないでほしい」と母に言付けがしてあった。だからこそ、児玉の携帯電話は今も使えていたのだ。

 「……でも、お母さんだとしても、私はもう死んじゃってる事になってるんだし……」
 先ほどから児玉に笑顔はなかった。佐々木にからかわれるまでもなく、充分に母からの電話について、考えてきたのだ。
 「もしですよ。今、私がお母さんと会話でもしたら……、おかしな事になりませんか? 今の私は、どこの誰かもわからないんです。娘だと言っても通じるワケがありません。……いえ、むしろ、話しちゃったりしたら、変なつながりができてしまうんじゃないかと思うんです。母と他人の関係、です。娘は死んでしまったから、今の私はどうしてもその娘に戻る事ができないんです。……だから、何も話さない方がいいんです、今は……」
 児玉の目が悲しみに満ちていた。児玉は一人で苦しんでいたのだ。そして、被害妄想を膨らませて、恐れていたのだ。
 「だったら早く言ってよ……」
 佐々木は苦笑して、児玉の頭を軽く抱いた。
 児玉は少しだけ泣きそうになったが、目を閉じて、こらえた。

 やがて、佐々木が言った。
 「わかったわよ。いじめてごめんね。電話の事は忘れていいから。……でもさ、児玉ちゃんはちゃんと家族の所に戻らなきゃいけない。きっと、戻れるからさ。……だからこそ、メリーに会いに行くのよ。自分を取り戻しにね」
 児玉の背を軽く叩く。 
 「この機会を逃したら、この先またメリーを捕まえる事ができるかどうか、わからないじゃない? だから、今、行くしかない。向こうとつながりがあった、須藤さんに感謝すべきよ」
 「……はい……」

 児玉の背をやや強めに叩いたあと、佐々木は明るい笑顔を見せる。
 「あんまりさ、物事を悪い方に考えないでいこうよ? お母さんと話したかったらさ、話していいと思うよ。それぐらいでどうこうと、話がややこしくなるとも思えないしさ。……まぁとにかく、今の事態っていうものに、押されてちゃダメなのよ。こっちから押していかないと。グイグイ、ってさ」
 佐々木の妙なジェスチャーに、児玉は思わず口元を緩ませる。
 「これからもきっと、上手くいくって。第一さ、弱気な顔でメリーに会ってみなよ? 足元見られるだけだと思うよ。こっちも強気でいかないとさ?」
 「……そうですね」
 そうは言うが、自分に何かできるワケでもない。いざという時、自分はきっと何もできないのだ……。

 「またそんな変な顔しないで……。気分良く、行こうよ。人生、ダメ元で突き進んでいかないと?! そうでしょう?」 
 「……はい……」
 まさか、人生、などという単語が出てくるとは思わなかったが、児玉は佐々木の芯の強さ、というものをここで再確認するのだった。
 後は素直に、佐々木と一緒に、風呂に向かった。





 夜も十一時を過ぎると、佐々木はいつしか寝入ってしまっていた。
 児玉は部屋のTVを消す。そしてふと、テーブルの上の携帯電話に目が止まった。
 迷わず、掴みあげる。そして部屋の電気を消した後、児玉はそれを手に、部屋を出た。

 浴衣姿で廊下を行き、エレベーター前の一角にある、ちょっとした休憩場に腰をおろす。
 (最後かもしれない……)
 今、静かに、そんな思いがつのっていた。そんな唐突な最後を迎えるにあたり、母からの電話が気がかりだった。その時どうして自分が受けなかったのだろう、と悔やみもした。

 小さなつながりを、児玉は求めていた。
 母からの電話の、着信履歴か何かが残っているか、携帯電話を調べてみたかったのだ。児玉ははやる気持ちを抑えながら、ゆっくりと操作していく……。

 あまり詳しく使ってこなかったから、着信履歴などの見方がよくわからない。とにかくメニューを開く。そして調べているうちに、あっさりと着信履歴のボタンが見つかった。
 そして開く。……数行並ぶ履歴の一番上に、目当てのものがあった。

 佐々木が受けた、自分の母からの電話。着信履歴の中にしっかりと、その電話番号が残されていた。通話の時間も大体、記憶通りのものだ。須藤からの電話の後。今日の午後三時過ぎだったハズだ。
 しばらく、その番号を眺め続ける。記憶に留めたい、と願った。この先、もし殺されなくても、メリーにまた記憶を消されたりする可能性がある。携帯電話も取り上げられてしまうかもしれない。その時でも、この番号だけは思い出したい、と強く願うのだった……。

 手を見る。体のどこかにマジックででも、この番号を書いておこうか、とまで思う。でも次の瞬間には馬鹿げた発想だ、と苦笑に変わった。記憶に留めたい事を挙げていたらきりがない。かなり長いメモを、体に残さねばならなくなる。
 それに今は、佐々木の事だって大事なのだ。決して、失いたくはない人なのだ……。
 残したい記憶を選ぶ事などできない。今、自分にある全てを、忘れたくはない……。

 また悲観的な感傷に沈む。
 ――すべてが。明日終わってしまうのだろうか。
 やはり、メリーなどに会いに行かない方がいいのではないだろうか?
 第一、メリーなどという化け物に会って、無事に帰されるワケがないのだ。自分達がやろうとしている事は、無意味なのだ。多分、本当に無意味なのだ……。わざわざ、殺されに行くだけのものなのだ……。

 「お母さん……」
 知らずと、そう呟いていた。
 最後に、母の声が聞きたいと思った。病院で一瞬だけ見た、優しそうな母の記憶を思い出す。
 そして家族。父親もいるかもしれない。兄弟姉妹なども、いるかもしれない……。

 今一度、携帯電話に映し出されている、母からの電話番号を見つめた。
 母、そして家族の声が聞ける最後の機会を、今少しだけ、与えられているのかもしれない、と思う。
 でも、電話をかける勇気はない。ほんの少しも、今の自分にはないのだ……。
 声が聞けたら……どれだけ嬉しいかわからない。きっと嬉しくて悲しくて、ワケがわからなくなるくらい、泣けるんじゃないかと思う。

 児玉はやや身を縮める。胸が、押さえなければならないほど、きつく痛んでいた。
 そして少しだけ声を上げて、泣いた。


 やがて児玉は携帯を閉じた。電話をする事はやめにした。
 家族にとって自分は、事件に巻き込まれて死んだ事になっている。そんな時、妙な電話で悲しませたくはない。何か話をしたところで通じるとも思えない。
 ――メリーに会い、元の自分に戻してもらう以外、道はない。
 話が通じなくて殺されるのだとしても、それは仕方ない。今まで生かしてもらっていた事の方が奇跡なんだと、思う他はない。

 深く、椅子にもたれかかる。
 その夜の重みを、児玉は静かに、受け入れるのだった。



― 58 ―


 「あ、おはようございます……」
 気が付くともう朝。児玉は昨晩の寝つきの悪さからして、充分には眠れていない気がした。
 もう慣れた、旅館での朝。新鮮な驚きはもうないものの、和室の赴きはやはり、落ち着いた清々しさを与えてくれる。
 「はい、おはよう。……児玉ちゃん、少し顔むくんでるよ? うははっ」
 佐々木は音を低めにテレビを見ていた。着替えも済ませ、その艶やかな髪を見るからには、もう朝風呂を済ませてきたのだろう。
 「ちょっとシャワー浴びてきます……」
 部屋のバスルームに入り、児玉は汗を洗い流す。

 今朝、須藤から電話が来る。そして迎えの車に乗って、メリー達に会いに行くのだ。
 その後はどうなるのか、まるで想像がつかない。本当にただ殺されてしまうのか、それとも話ぐらいは聞いてもらえるのか……。ただ、あまり甘い展開は期待できない、と児玉は思った。メリーは自分の友達の腕を引きちぎったのだ。それは記憶として残されている。

 着替えを済ませ、少しくつろいでいると、朝食のお膳がまわってきた。
 質素ながらも品を感じる品揃えに、二人の目が少し輝く。この宿は料理がいい、と言えるかもしれない。
 「とりあえずさ、フロントで聞いてみるから。自転車置かせてもらっていいかどうか。ここ数日で決着つくだろうしさ。もし戻って来なかったら差し上げます、って事にして」
 「そうですか……」
 児玉は鮭の切り身をぽそぽそと食べ始める。硬くなく、食べやすい。
 「あ! また児玉ちゃんのだけ、何か多いって事はないわよね〜?」
 佐々木は身を乗り出して、児玉の膳を見る。
 「いえ、特に……。アタシの運なんて、何の役にも立ちませんでしたし……」
 「またそんな事言って……。でも、須藤さんと会えたってのも運の内じゃない? 会わなきゃアタシら、メリーに会うきっかけ、ってものがつかめないままだったと思うしさ。もしかするとその運ってのはさ、児玉ちゃんの意思にある程度影響されて、効果を出すんじゃない?」

 「そうですか……? でもあのハムエッグとか全然違いますよ? アタシ、卵とかそんなに好きでもないんで……」
 そう聞いて佐々木は大笑いする。
 「あれは傑作だったね〜! 卵三つも入っててさ。皿からはみ出そうなのね。間違って入れた、としか思えない大きさで。それが二回くらいあったよね?」
 「そうですね……」

 その時、電話がかかって来た。児玉の携帯電話だ。
 「アタシ、取ろっか?」
 返事を待たず、テーブルの上の携帯を、佐々木は掴み取る。
 「はい、もしもし?」

 『やぁおはよう。僕だ、須藤だけど。……朝食は、済んだ?』
 「今、真っ最中です」
 わざとたくあんをかじって、音を立ててみせたりする。
 『あぁ、それはごめん。じゃあ、また後からかけ直す?』
 「いえ、別にいいですよ。用件はわかってますから。で、アタシ達、あの旅館にいますので。来たらフロントに連絡して下さい。待ってますから。……すみませんね、ご足労おかけしちゃって?」
 『いやいや、了解しました。じゃ、メリーに会うって事で納得なんだね?』
 須藤は確認を入れてくる。佐々木は児玉を見る。会話を察した児玉は、しっかりとうなずいた。

 「……えぇ。アタシ達、二人とも了解です。須藤さんを頼りにしてますから」
 『え? あはは……そう頼りにしてもらっても困るけどね。じゃ、今から行くから。実はもう、途中まで来てるんだ。ここからなら後、一時間かからないと思う。じゃ、悪いけど準備してて』
 「はい。じゃよろしくお願いします」

 通話を終え、携帯電話をテーブルに戻す。
 「後、一時間くらいで来るって。朝風呂入る時間、あるね?」
 「また入るんですか?!」
 思わず背筋を伸ばすほど、児玉は驚く。 
 「……いいじゃない。いくら入っても料金同じなんだし。それに、これが最後のお風呂になるかもしれないんだしさ〜?」

 冗談のつもりなのはわかっていたが、児玉はそこで言葉を失ってしまった。
 「そうかもしれませんね……」
 苦し紛れに、そんな返答をしてしまう。だが、その態度が佐々木のカンにさわった。
 「は?! そうかもしれませんね? ……そんな弱気でどうすんのよ? メリーにバカにされて終わりだよ? こっちもさ、対等にいかなきゃ! 倒してやるぞってな勢いでさ」

 ……倒せるわけがない、という言葉を、児玉は呑み込む。
 そして「そうですね」と、無理に笑顔を作って見せた。
 ご飯も無理に食べる。味もわからない。ハシを持つ腕が、だんだん重くなってきた。こんな事をしているのなら、また布団にもぐり込んで気が済むまで寝ていたい、とすら思えてくる。
 口を動かしながら、考え続ける。……やはり自分は、母親と言葉を交わしたかった。一言でいいから、つながりが欲しかった気がする……。

 ふいに全身を襲ってくる寒気。
 これは、現状への拒絶なんだと思った。本当は、メリーに会う事などどうでもいい。どうせ殺される以外にないのだ。今、自分が本当にやりたい事は、違うのだ。この最後に与えられた、ほんの少しのチャンスを生かしたいのだ……。

 ――自宅の電話番号が、着信履歴として携帯に残されている。
 自分は自宅に、電話を入れる事ができるのだ。
 電話を見つめ、児玉の思いはどうにもならなくなった。

 「あの、アタシ……電話を……」
 立ち上がって、震える手で携帯を掴む。そして逃げるように、部屋を出た。

 佐々木は呆けて児玉を見送ったが、やがて笑顔になった。
 「……そうそう。素直になって、思いっきり泣いてこい! ……たかこちゃん?」





 携帯電話を両手で掴んだまま、廊下を行って、昨晩座った休憩場の椅子に腰かける。幸い、近くに人はいない。
 祈る気持ちで、着信履歴を覗く。自宅の電話番号は、変わらずそこに残されていた。
 心臓が跳ね上がっている。何を話していいのかわからない。でも、後悔だけはしたくなかった。

 児玉は考えるのを止め、通話ボタンを押した。携帯を耳に押し当て、母の声を待った。
 『はい、もしもし……』
 野太い声が返ってくる。父親の声か……。
 面食らってしまい、その途端、言うべき言葉を失ってしまった。

 ……でも、自分の父親であると思った。他人では、ないのだ。児玉はうろたえるのをやめた。
 「……こ、児玉さんのお宅ですか……?」
 『はい、そうですが……どちら様でしょう?』
 そう聞かれ、児玉は苦笑した。いつしか、目に涙が溜まっていた。
 「あ……、アタシも児玉なんです。……この声、わかりませんか……?」
 口元も震える。全身が熱くなって、何が何だかわからなくなる。

 『……さぁ……』
 そういう父親に、児玉は思いをぶつけた。
 「……娘の声がわからないなんて! アタシ、娘の声でしょ?! ……わかんないの?!」
 声は途中から、急激にうわずった。
 電話向こうの声は返ってこない。

 「ちょっとお父さん! 娘がね! 今、死ぬかどうかの瀬戸際にいるのよ! その最後、どうしても家族の声が聞きたくて、電話をかけたの!! わかる……?」
 興奮しすぎて、頭に血が上っている。少し、受話器をテーブルに置いて、ポケットティッシュで鼻をかんだ。早くもひどく泣いてしまっていた。

 『冗談はやめて下さい……。娘はこの間、死んだばかりなんです。まだ私達も気持ちの整理がついていませんので、そんな冗談はとても……』
 「冗談じゃないの! アタシは本当に、タカコなの!! ……死んだアタシは、本当のアタシじゃないの。アタシは、ここにいるの……」

 返事はない。理解できないのだろう。
 「……お父さん。後できっと帰るから。その時、わかってもらえると思う。でさ……お母さんとか、傍にいない? あと、アタシにキョウダイはいない?」
 『お母さんはすぐそこにいる……。じゃ今、代わるから……。キョウダイはいないけど……?』
 父親は理解できないまでも、母親に電話を代わってくれる。
 「そっか。アタシは一人っ子なんだ。へぇ……」
 また鼻をかんで、母の声を待つ。

 『……もしもしっ?』
 やや息があがった声。父から多少の説明はされたものの、理解できずに驚いている、としたところか。
 今度はやや落ち着いて話ができそうだった。
 「あぁ、お母さん? アタシ、タカコだよ。……今ね、天国からかけてるんだ……」
 自分で言って笑ってしまう。ちょっとした冗談のつもりだったが、今はそういう事にしておこうか、と思った。
 『タカコ?! ……本当に、貴子なのっ?! 冗談じゃありませんよね……?!』
 「……冗談じゃないわ。アタシね、もう少ししたら、そっちに帰れるかもしれないんだ。でも上手くいくかどうか、わかんないの。だから最後に、お母さんとかの声が聞きたくてね……」

 しばらくの沈黙の後、すがりつくような声がかかってくる。
 『……貴子……? 生きてたの? 助かったの? ……死んだのはやっぱり、人違いだったの……?』
 そう聞き、罪悪感が少しだけ芽生えた。自分はこの先、生きて帰れるとは限らないのだから。
 「あのね、お母さん。最後にね、ちょっとだけ声が聞きたかったの。これから、天国に行くんだけど……もしかしたら、戻って来れるかもしれないんだ……。だから、その時は驚かないで……ちゃんと出迎えてほしいんだよね……」
 暖かな気持ちで、そう伝える。

 『ねぇ貴子! お願いだから、戻って来て!! ……お願いだから!!』
 ふいに強く叫ばれて、児玉は胸が痛んだ。
 「……うん。戻って来る。頑張って、戻って来るから。……ごめんね、混乱させちゃって」
 『貴子……今すぐ、戻ってきてぇ……』
 母親の嗚咽。児玉はまた涙が溢れてきたが、歯を食いしばって耐えた。
 「……もう行かなきゃなんないの。でもアタシ、お父さんとお母さん、大好きだから。今までありがとうね……」
 『貴子!!』

 児玉は通話を切った。電源も切っておく。
 これでもう、満足だ。……思い残す事は、何もない。

 鼻をかんだティッシュを丸め、席を立つ。そして近くのトイレのゴミ箱に捨てる。
 洗面所で目元を拭き、顔を整える。
 情けない表情を一度くしゃりと歪めて、目元を広げた。そして、鏡に映る自分を強く見つめる。
 (もう一人の私……お姉ちゃん。やれるだけ、やって来るから。……見てて)

 そして晴れた顔で、児玉は部屋に戻った。


― 59 ―


 朝食の後。湯船から上がって、佐々木は部屋に戻る。
 そしてそれとなくベランダから外を眺めると、下に須藤の車が停まっているのを見つけた。須藤は以前見た時と同じく、冴えない姿をしていた。車から降りて、辺りを少し眺めたりしている。
 「あ、須藤さんもう来ちゃったみたい。荷物まとめないと!」
 佐々木は少しゆっくりしすぎた、と後悔する。
 「そうなんですか? アタシはもう準備はいいですけどね。あ、それと、フロントの人に自転車の事、頼んでおきましたから。オッケーもらいましたよ。とりあえず数日中に戻って来なかったら差し上げます、って言っときました。笑ってましたけどね」
 「あ、そうなんだ? ありがと。旅館もよく引き受けてくれたよね。……あ〜それはいいけど、ゆっくり化粧するヒマないじゃん?」
 思ったより須藤が早く来てしまったので、佐々木は軽いパニックに陥っている。

 「じゃあ、下でコーヒーでも飲んで待ってますか?」
 と児玉は提案する。
 「う〜ん……。じゃ悪いけどそうして。あんまり時間かけないからさ?」
 「じゃ、下行ってます」
 児玉は手荷物のナップザックを手に、部屋を出た。


 旅館の玄関を出て、須藤に駆け寄る。
 「おはようございます、須藤さん」
 「あぁおはよう。……少し早く着いてしまったみたいだけど。朝飯は食べたんだっけ?」
 「えぇ、食べました。それで佐々木さん、まだ準備に少しかかるみたいですので、下の喫茶店でコーヒーでも飲んで待っててほしい、との事です」
 「あぁ、そうなんだ? じゃ、そうしようか」
 須藤は車を離れ、児玉の後について旅館に入った。


 席に着き、とりあえず二人はコーヒーだけ頼む。
 「まぁ……覚悟、と言ってはナンだけど、その辺は大丈夫なんだね? 僕に会った事で妙な流れにいってしまった、と思われちゃあツライからね?」
 「いえ! とんでもないです……。私達もメリーさんに会わないと、どうにもなりませんでしたから……。佐々木さんもこのままじゃいけない、って言ってましたし……」
 「そう? ならいいんだけどね……」
 須藤は児玉の返事を受け、満足げに口元を緩ませる。気持ちの確認だけ、とっておきたかったのだろう。

 「で、車さ、汚いけどまぁガマンしてね。安物だから。一応は掃除しといたんだけどね……?」
 「いえ! そんな……。乗せてもらえるだけですごく助かりますから……」
 そこでふと須藤は児玉を見つめてくる。
 「ところで……君らも思い切ったよね。どうしてメリーさんに会おうとしたの? 最悪の事態については、あんまり考えていないワケだ?」
 そうややきつく聞かれ、児玉は返答に詰まった。

 コーヒーが運ばれてきたのを幸いに、児玉は落ち着いた返答を探った。
 「……結局、メリーさんに会わなければ、私達に先は無いんです。話し合いで決着がつく、とはとても思えませんが、会わないと話すらできませんからね。最悪の事態になったら、それはそれで仕方ないと思うしかありません……」
 そう落ち着いて言ったつもりだったが、言った後で、その言葉が須藤にもあてはまる事に気付いたのだった。
 だが須藤は意外な事に、同意を見せなかった。
 「……そりゃ少し甘すぎるかもしれないな。僕じゃ君らを助けてやれないしさ。もう少し、策があるのか、と思ってたんだけどね……」
 そう冷たく言われ、児玉は少し傷心した。
 逆に須藤には何か策があるのか、と問いたかったが、やわらかく聞ける自信を失い、児玉はそのまま口を閉ざした。

 須藤はこの間会った時と少し違って見える。
 言ってしまえば、優しさが少し感じられなかったのだ。でもそれは、須藤に何かしらの固い決心があるからだろうか、と児玉は思った。須藤は自分達より、生きる決意が固いのかもしれない。それは家族の事をまだ、あきらめていないからだろう……。

 「おはようございますー」
 そこに化粧を済ませた佐々木が顔を見せた。これからデートにでも行くかのような、華やかな顔をしている。児玉はここで、やはり佐々木は理解できない人だと改めて思った。
 「あれ、須藤さん、今日はブレてませんね?」
 「ん? ブレるって何だい……?」
 佐々木も席につき、ギヤ・バッグを足元に下ろす。
 「……うん? 須藤さん、ドッペルゲンガー化が進んじゃって、その顔の輪郭とか微妙にブレているように見えたんですよ。この前ね」
 そう言われ、須藤は感心したような顔になる。
 「ほう? そりゃあ気付かなかったな……」

 「で、ここから何時間くらいかかりそうです? 数時間じゃ済まない?」
 「……あぁ、どうだろうね。高速道路使って、五〜六時間、というところかな。まぁ半日みてもらえばいいね」
 「あぁそうなんですか。車の中で寝ちゃってたらすみませんね〜?」
 「いや、寝てていいよ、別に……」
 佐々木は注文を取りに来たウェイターに、要らない、と手を振る。
 「じゃあもう行きましょ? コーヒー代払っとくね」
 「あぁ、いいよ、僕が……」
 「いいですって」
 佐々木は伝票を素早くつかむと、レジへ行ってしまった。


 そして三人は旅館を出て、須藤の車に乗り込んだ。
 助手席に荷物を置き、佐々木と児玉はリヤシートに並んで座った。黒い皮シートだが、年代物のようでかなり色あせている。室内も何だかカビ臭かった。
 「じゃ、ホント寝てていいから。長時間かかるしね」
 「は〜い」

 ――ドンッ!

 須藤がエンジンをかけた直後。背後から妙な音がして、佐々木と児玉は顔を見合わせた。

 ――ドン! ドンッ!

 立て続けに、軽い振動とともに聞こえてくる音。
 「いや〜悪いね。古い車なんで、マフラーがいかれてるんだよ。気にしないでいいから?」
 須藤の言葉に安心しかけた二人だったが、音はなお激しくなるばかりだった。
 須藤は構わず、車を走らせた。

 車は市道から県道に出る。町並みを越し、平日の朝の渋滞を終えた通りは、やや閑散として見えた。
 高速道路の料金所を抜け、車は大きな流れに入った。
 背後からの音は、時折思い出したようにまだ続き、止む様子は無かった。

 「あの……ホントにマフラーの音ですか……?」
 青い顔で佐々木が須藤に問う。
 「じゃないとしたら……何だと思う?」
 逆にそう聞かれ、佐々木は返答につまった。

 「お二人さん。……まぁ、気にしない事だ。僕は僕の用事を先に済ませただけなんだよ。君らの送り迎えはちゃんとしてあげるからさ。……いやもっとも、形ばかりだけどね。用事はすぐに済むんだよ。……たった今ね」
 「……え?」

 何を言われているのか、わからない。
 次の瞬間、助手席の荷物を乱暴に押し返されていた。突然の事に、二人は声も出ない。
 そして入れ替わるように、そこに白い影が湧いて出た。
 ――ドレスだ。それは華やかに助手席に息づき、その場の空気を一変させた。
 佐々木と児玉は目を見張り、きつく息を詰まらせた。

 「お二人さん、おはようございますね。……須藤さんが事前に動いて下さったので、わざわざ遠いこちらにまで来ていただく必要も無くなったんです。ですから、こちらからお出迎えさせていただきました。オホホホ……」
 振り向いて笑ってみせるその白い少女は、まぎれもなく、メリーだった。



 (続く)



トップへ
戻る