1話〜19話


 
 ― 1 ―


 ――携帯電話の着信音が鳴る。
 他には誰もいない、放課後の教室内。三人の少女達は、嬉しげな声を上げた。

 「……もしもしっ!」
 佐々木は興奮ぎみに着信を受ける。

 『……モシモシ? 私はメリーよ。お電話ありがとう』
 そんなかぼそい声が返ってくる。佐々木の顔は見る間に高潮していった。


 ――怪談。「白いメリーさん」。
 それは電話がからむ、怪談である。
 「メリーさんの電話番号」というものが、ひそかに巷で流れている。その電話番号に電話をかけると、メリーさんにつながるのだ。
 そのメリーさん、というのは人間ではないらしい。世に言うオバケ、なのだ。
 そして、電話をかけたが最後。メリーさんに自分の居場所を突き止められてしまうのだ……。


 「え〜? ホントにメリーさん……? あの……どうしよう?」
 電話向こうの相手が本当にそうなのか、まだ確信は持てない。だが、その心臓は今まで感じた事がないくらい、跳ね上がっている。
 「ちょっと、どうしよう? 何話す?」
 佐々木は隣の友人達に助けを求めるが、二人ともひきつった笑顔で困惑するばかりだ。
 ……そうしている内に、電話が切れた。

 「あれ……切れちゃった……」
 佐々木は携帯電話の液晶画面を、拍子抜けした顔で見つめる。
 「ね〜? ホントにメリーさんなのぅ? アタシも声、聞きたかった〜」
 「アタシも〜……」
 そう友人達は騒ぐ。佐々木は少し深呼吸して、教室内を見回す。そして不思議な思いにかられた。どうして今日に限って、他に誰もいないのだろう……?
 夢を見ているような感覚を覚える。

 「でもさぁ……そんなメリーさん、だなんているワケないよ、絶対。それさぁ、ヤラセかなんかだと思うよ? 誰かのイタズラだよ、絶対」
 そう言われるが、佐々木は首を振る。
 「違うよ!! メリーさんって、絶対いるって。第一さぁ、携帯の番号、非通知にしてあるんだよ? どうして折り返し、アタシの携帯に電話かけられるのよ?」
 「……そういうのはさ、ハッカーみたいのいるんだよ、絶対。非通知でも、相手の番号わかるようなヤツ。そういうヤツのイタズラだよ、絶対……」
 佐々木はムッとする。この友人の「絶対」という断固拒絶する言い方が、以前から気に入らないでいた。だから自分も「絶対」と言い返すクセがついてしまったのだった。


 ピリリリリリ……。

 携帯がまた鳴った。佐々木は一瞬呆けた後、電話に出る。
 「もしもし……?」
 また友人達の顔が近寄って来る。

 『……モシモシ? メリーよ。……今ね、アナタの学校に来ているのよ? 随分キレイな校舎ね』
 そしてすぐ電話が切れた。

 「……学校に来てるってさ、メリーさん……」
 佐々木は首をかしげる。
 「キレイな校舎だってさ。……まぁ確かにウチの学校、新しい方だもんね……」
 その校舎は創立して十年と経っていない。
 次第に佐々木は不安になってきた。
 「もしかするとさ、この電話マジかもよ……? 第一さ、アタシらが学校にいるって、わかってるようだし……。ホントにここに来てるのかもよ……?」

 その時、また電話が鳴った。
 「ちょっとごめん……誰か出て……アタシちょっと怖くなってきちゃった……」
 携帯を二人に差し出す。だが、二人も取れないでいる。

 「ちょっと……! 早く誰か取ってってば!!」
 佐々木は癇癪(かんしゃく)を起こす。
 仕方なく、友達の一人が電話を取った。
 「もしもし……?」

 『……あら、アナタはだぁれ?』

 そう言われた少女は思わず、即座に電話を切ってしまった。
 「……アナタは誰? って言われた……。ちょっと怖かった」
 佐々木は返された携帯を机の上に置き、自分の体を抱きしめる。
 「……まずいな。こんなに怖いの初めて……」
 歯ががちがちと鳴り出した。
 「もうやめよっか、こんなの……」

 ピリリリリリッ!!

 「きゃああああっ!!」
 また着信音が鳴る。やけに甲高く鳴り、三人は悲鳴をあげた。

 「……ねぇ、もうやめようよ……? メリーさんの事、信じるからさ……ホントもうやめようって……」
 「やめるもなにも、向こうから電話かかってきてんじゃないのよ! どうすんのよ、これッ!」
 「いいから、早く誰か取ってよ!!」
 佐々木は、金切り声をあげ、身を縮める。

 「何言ってんのよ……アンタが取りなさいよ! アンタがやろうって言い出したんでしょ!! ちゃんと責任取りなさいよッ!! 佐々木さんッ!!」
 「……イヤよ、もうっ!!」
 佐々木は二人を押しのけ、そこから逃げ出した。


 「何なのよ、アイツッ!! 勝手すぎるよ!!」
 残された二人は、鳴ったままの携帯電話が気になって、逃げるかどうか迷う。
 「……ねぇ、どうすんのよ、コレ……?」

 着信音は、二人を責めるかのように鳴り続ける。
 「ああん、もうッ!! 取ればいいんでしょ! ……もしもしッ!」

 少し、間を置いて返事が返ってくる。
 『……またアナタなの? 佐々木さんはどうなさったのかしら? 佐々木さんは』

 佐々木、という名前をどうして知ったのかも疑問だったが、相手が佐々木にこだわる事に、少女は小さな反感を覚えた。
 そして、恐る恐る、会話を試みた。
 「……メリーさん、ですか……?」
 『……そうよ。私はメリーよ。お電話、どうもありがとうね。……でも佐々木さんはどうなさったのかしら?』
 しつこくそう聞いてくる電話の相手に、少女は顔をしかめる。

 「あの子、逃げちゃったんですよ。凄く自分勝手な子だから……」
 『……逃げた? あら、それはどうして?』
 「メリーさんが……怖くなっちゃったんですよ、きっと」
 そう言うと、メリーはふいに、キーキーとした甲高い笑いを上げた。少女らはギクリとする。

 『キャハハハハ……! だったら、かけて来なきゃいいのに!! お馬鹿さんねぇ……。でも、アナタはそうじゃないのよね。アナタは面白がってくれているんでしょ? こうしてちゃんとお話してくれているんですものね』
 聞いた少女は意味のない笑顔になる。
 『……あ、そうそう。今ね、校舎の中にいるの。今からそちらの教室に行きますからね』
 そこで電話が切れる。
 「……いやぁああっ、ダメッ!!」
 少女は悲鳴を上げた。


 携帯電話を乱暴に机に戻し、少女は席を立つ。
 「ねぇ逃げよう……! 逃げなきゃ絶対、ダメだよ!! メリーさんがコッチに来るって!!」
 二人は押し合うように廊下に出る。
 そして廊下を見渡すが、どう逃げるか迷う。何故か、誰一人、そこにはいない。

 「リリリリリ……」
 ふいに背後から聞こえた声。二人は振り向く。

 教室の中に、白い影があった。
 それは、まばゆいばかりの白いドレスを着た少女だった。
 石膏の像を思わせる、真っ白な姿。そして真っ白な長い髪。その顔も、ドレスから伸びた手足も、ただただ……白かった。

 「リリリリリ……モシモシ? 私はメリーよ。お電話ありがとう……」
 メリーは愛らしく笑ってみせた後、歯を剥き出した。

 叫びを上げ、二人は逃げる。
 メリーはひとしきり笑った後、二人を追いかけた。





 パチンコ店内。佐々木はスロットを打つ手を止め、缶コーヒーを飲む。

 目線を上げると、コインの詰まったドル箱が三つ。ゆうに七万円は越す。今日はこの辺でやめておこう、と納得した。どの道、自分は金に困ってはいない。
 ……そう。あれ以来、自分のツキが異常になった。ギャンブルで、苦い負けを知らないまま、金を稼げている。
 ――白いメリーさん。
 それは自分という人間を、大きく狂わせてしまった。
 
 コイン計数機に持って行き、店員にレシートをもらう。店を出て、換金する。これでまた数日間は遊んで暮らせる。
 外は昼下がり。佐々木は自転車に乗り、涼やかな風を受ける。


 あの時自分は――まんまと逃げたが、友達二人は殺されてしまった。今思えば、夢のような出来事に思える。
 夢と言えば、今も夢のようなものだ。
 ――佐々木には、過去の記憶がないのだ。

 自分の人生の中で、記憶があるのは、一部分だけ。メリーに電話して逃げて、友達二人が殺された。……それだけだった。
 だが、夢と思える部分もある。友人が殺される場面を目にしていないハズなのに、あたかも見てきたかのように思い出されるのだ。それに関しては、記憶の混乱なのか何なのか、わからない。
 ともかく佐々木には、自分という人間の軌跡が、全くなかった。
 自分の名前もわからない。家族の事も家の場所もわからない。わかるのは「佐々木」という姓だけ。メリーに電話した時、友達に言われたからだ。
 数ヶ月前の桜の季節。……気づいた時は、公園のベンチで昼寝をしていた。


 でもおそらく、戻ろうと思えば……家に戻れるのではないか、という甘えはあった。警察に行けば、なんとでもなるに違いない。
 ……でも今は、そういう気が起こらないでいた。元々、自由に生きたかった気がする。名前も家も仕事?も忘れて、今は清々しい気分なのだ。しかもツキが異常になり、ギャンブルでは負けを知らない。実のところ、非常に楽しい毎日なのだ。
 宝くじや競馬も、おそらく当たるのではないか、と思われる。だが大金は不要だし、佐々木はスロットで、ちまちま稼ぐのが好きなのだ。ゲーム性もある。当たればやはり嬉しい。
 今はどこぞと知れない地方の、ホテルに滞在中だ。飽きたら、またどこかへ行こうと思う。免許がないから車に乗れないので、移動は電車と自転車を多用している。


 おかしな記憶だけ、たまに思い出す。
 ――首に下げたペンダント。その中には、繁華街のチンピラから手に入れたクスリが、少量入っている。……通称、「エンジェルダスト」。一飲みで、頭がイカレて死ねるクスリだという事だ。もし生きるのに行き詰まったら、飲んでみるのも悪くない、と思っている。

 全くの自由人、を満喫している。
 友達もいなく、仕事も無く、家族もいない、そんな何も無い自分ではあるが……ツキだけはある。佐々木は、「何も無い可哀想なアタシに、神サマがくれた埋め合わせ」だと理解している。
 街の通りを、自転車で悠々とこぐ。
 ……何があっても、アタシは負けない。なんたってアタシは、神サマに好かれた女なんだから!
 佐々木はニコリとし、声を上げて笑った。


― 2 ―


 ここ数週間、愛用してきた自転車を駅裏に置き去りにして、バッグ一つで電車に乗る。
 ――次の面白い町を探そう。温泉が好きなので、どうせならそういう所に行こう。

 バッグから、読みかけの文庫本を取り出す。……読み終えた所で降りてもいい。
 電車が走り出す。下り電車。北へ向かっている。

 佐々木の出で立ちは、縦縞模様のキャミソールにデニム、そしてサンダル。すべて高級ブランド品だ。美容院に行ってきたばかりなので、髪型も悪くない。……だが、その姿で大きなギヤ・バッグを抱えているのは、やはり難点だろう。
 コーラを飲み、ゆったりとくつろぐ。本はイマイチつまらないが、活字を目にしていると落ち着く。

 ――ピリリリリ。
 携帯電話が鳴る。向かいの席の女子高生らだ。佐々木はそれとなく睨む。

 「え?! もしもし、ホントに?! どうしよ……」
 2人は、楽しげにしている。
 「ねぇ、ホントにメリーさんから、かかってきたよ?!」


 メリー……。
 その単語を聞き、佐々木は顔をこわばらせた。
 ――胸が苦しくなる。
 まさか、こんな所で、そんなものにまた出くわす事になるとは……。 
 ――聞きたくない。
 もし、メリーが現れでもしたら、なおさらだ。

 バッグを掴み、腰を上げる。別の車両に行こう。
 ガクガクと足が震える。だがとにかく、逃げるしかない。





 女子高生らは、携帯電話に夢中になっている。
 「ホント、ホント! もしもし、私はメリーよ。お電話ありがとう……だって!」
 「マジで〜? でもさぁ、そんなのいないよ? 絶対、いるワケない」
 「だからぁ、いたんだって!」
 そこで携帯がまた鳴る。
 「ホラホラ……、じゃぁさぁ、今度はトモちゃんが出てみなよ?」
 児玉は、友達に携帯を渡す。
 「いいけどぉ……」

 『……あら、アナタはだぁれ?』

 「……は? 友達ですぅ。あの〜……貴方は、メリーさん?」
 電話に出た途端、トモは意気を削がれる。電話向こうの声に、不安と不快を感じたのだ。
 『……えぇ、そうよ。児玉さんは?』
 「児玉? 代わりますか?」
 トモは携帯を児玉に渡す。

 「あの……ホントにメリーさんっているんですね? 驚きました……」
 『あ、そう……。ところでさ、私は携帯電話を使っていると思う? それとも公衆電話だと思う?」
 「え……?」
 『オバケが、どうやって電話に出ているのか、想像してみて欲しいのよ……。ねぇ、児玉さんはどう思う?』

 「……公衆電話ですか……?」
 そう答えるなり、電話向こうの声はキーキーと甲高く笑い出した。 

 『私が電話ボックスの中で、テレホンカードでも使って電話していると思うの?! キャハハハハ! 楽しい想像ね……』
 「違うんですか……?」
 『えぇ、違いますとも。私はね、電話なんか使っていない。アナタの耳元でささやいているのよ』

 そう言われ、児玉は携帯を取り落としそうになった。
 『キャハハハハ……!』
 携帯は笑い声を上げる。
 児玉は、どうしようかと迷った挙句、携帯の電源を切った。


 「怖かった……」
 児玉は携帯を、そそくさとカバンにしまう。
 「児玉はさ、怖がりのくせして、そういうの好きなんだよね〜……バカみたい」
 「悪かったね……」

 ――ラララララ……
 今度はトモの携帯が鳴る。

 『もしもし。私はメリーよ。児玉さんが携帯の電源を切っちゃったから、アナタにかけてみたの』

 トモは顔をしかめる。「どうして、アタシの携帯の番号を……?」
 『どうしてですって? ……さぁ。どうしてかしら? お話が途中だったわね。……今ね、私、電車の中にいるの。アナタ方が乗っている電車よ?』
 「バカ言わないで……」
 トモも、携帯の電源を切ってしまう。「やだ、何よこれ……気持ち悪い……」

 しばらく呆然とした後、トモは児玉に食ってかかった。
 「ちょっと! 児玉が変な事をするからでしょ! アタシも巻き込まれてんじゃないのよ!」
 児玉は青ざめる。
 「ごめん……」
 「やだよ、アタシ……そういうオバケとか……ダメなんだからさ……」
 トモは頭を抱え、首を振る。


 ピリリリリ……。
 近くの座席。主婦が携帯に出る。
 その主婦は腰を上げ、女子高生らの元へ行く。

 児玉とトモは、顔を上げる。
 怪訝な顔をした主婦は、携帯を差し出して言った。
 「……あの、電話です。アナタ達に、だって……」

 児玉とトモは、悲鳴を上げてそこから逃げた。


― 3 ―


 次の車両に移る。
 二人ともスライドドア前で目を泳がせている。 

 二人に気づいた佐々木は、様子をじっと見つめる。
 ――メリーを呼び出してしまったのか。もう手遅れなのか。ここに、メリーがやって来るのか……?
 だが、自分の記憶通りに、事が運ぶとも限らない。何も起こらずに、済むかもしれないのだ。第一、あんな事がそう易々と起こられてもたまらない。きっと、あんな事は滅多にないのだ。……そう、思いたい。

 やがて児玉達は空席に腰を下ろす。黙って、青くなっている。
 ――ピリリリリ。
 誰かの携帯がなる。
 「ひああっ!」
 途端に、二人は逃げ出した。


 「はい? 電話を代わってもらうんですか……? 追いかけろ?? ちょっと話がよくわからないんですが……?」
 男は携帯を切り、一人で悪態をついた。

 「キャァアアアアッ!!」
 悲鳴とともに、佐々木のいる車両に逃げ帰ってくる、女子高生達。
 そのまま、次の車両へと逃げる。

 遅れて現れる、白いドレスを着たモノ。
 ――真っ白な。何もかもが真っ白な、少女だ……。
 皆の目が、その少女に注がれる。
 佐々木は指先一つ、動かせない。

 少女は、自分の前を素通りする。
 佐々木は目に焼き付けるように、見入る。
 なびく、白く長い髪。白い顔。白い腕。白いドレス。白い手袋、白い足、白いハイヒール……。
 気が狂いそうになるほど、その少女は……白い。

 ――白い、メリーさん。
 現実のものとは思えない。まるで、死神を思わせる姿だ。
 メリーは次の車両へと移る。
 佐々木はこわばっていた体を弛緩(しかん)させる。
 あの、女子高生達を思う。きっとあのコ達は、殺される。……それで終わりだ。
 だが、自業自得だ。アタシの知った事ではない。
 電車は速度を緩めていた。気づくと同時に、次の停車駅を知らせるアナウンスがのんびりと聞こえてきた。佐々木はそこで一旦、降りる事に決めた。





 佐々木のいる一つ前の車両で、惨劇が起ころうとしていた。
 「誰か、助けてッ!!」
 児玉とトモは足元をぐらつかせながら、泣き叫ぶ。周囲が騒然となる。

 「リリリリリ……」
 白い少女が現れる。
 「私に電話をしておいて、どうして逃げるの? とても失礼な態度じゃないかしら? こうして出向いてあげたのに、歓迎もしてくれないなんて……、なんだか傷心しちゃうわァ」 
 そしてメリーは、キーキーと甲高い笑いをあげた。口を大きく開け、歯が剥かれる。その獰猛な表情を見て、児玉達は一層の悲鳴を上げた。
 トモは、車両出入り口にある、非常用停止ボタンに目がいく。押した方がいいのか、迷う。
 ここは先頭車両だ。もう、逃げる所はない。
 ――ガクン。電車が速度を緩めている。次の駅が近い事に気づく。

 ふいに児玉は、膝をついた。
 「……メリーさん、ごめんなさい……すみませんでした。許して下さい……お願いします」
 頭を下げる。ひどい涙声。トモは胸を突かれる。トモも隣に膝をつき、一緒に謝った。
 メリーはそんな2人をじっと見下ろす。
 「何を許せばいいの?」

 「許してあげたら?」
 背後からの声に、メリーは振り返る。
 オシャレした若い女。――佐々木だった。


 「……アラ? 貴女はだぁれ?」
 振り向いたメリーの顔は、喜びに満ちていた。思わぬ出来事が、好きなのかもしれない。
 「忘れたかもしれないけど……、昔、お世話になった者よ。お陰で今、記憶を無くした状態」
 ギヤ・バッグを置き、腕組みをする。腕の震えが収まらないからだ。

 メリーは児玉達から興味を無くし、佐々木の元へ行く。
 白いドレスがゆっくりと近づいてくる。佐々木は奥歯を噛み締める。
 ――もし、殺されそうなら、クスリを飲む。
 ペンダントを意識する。どうせ生きても死んでも、大して違わない。

 「覚えがないお顔だわァ? 貴方のお名前は?」
 「……佐々木。名前は無いわ」
 メリーはあどけない表情で顔を近づける。佐々木は引き下がる。
 「ふぅん……佐々木さんかぁ。お姉さんはどうして、わざわざ私達の話に入ってきたの?」
 「……見ていられなくなっただけよ。どうせ、殺すんでしょ?」
 そう言うと、メリーは驚いた表情を見せた。
 「アラ! どうして私がそんな事をしなくちゃならないの? そんな事、するハズがないでしょう?」
 そう言うメリーに、佐々木は腹を立てる。
 「……よくもそんな事が言えたものね。私の友達を殺したクセに……」

 「覚えてないわ、お姉さん」
 伸びてくるメリーの手。佐々木はじっと見つめる。
 「……貴女は、何なの? 死神?」

 窓外に、駅のホームが流れ出す。
 メリーは思い立ったように、外に目をやる。腕を下げる。
 「……じゃあ、佐々木さんに免じて、この場は退散してあげる。せっかく仲裁に入ったのにひどい目にあわせちゃ、悪いものね。……また会いましょう?」
 「会わないよ」
 そんな佐々木に、メリーは苦笑を見せる。
 「この駅で降りるわ。一緒にどう? ランチをご馳走するわ」
 「遠慮しとく。それより、いつか記憶を返してね」
 「無理でしょうね。……それにどうせ、要らないでしょう? そんな感じがするわ」
 メリーは背を見せる。

 電車が停車するなり、頭を下げていた女子高生達は、ホームに逃げた。
 メリーが素早く追う。

 「バカ……!」
 佐々木はバッグを掴み、駆け下りた。


― 4 ―


 児玉達は悲鳴を上げ、ホームを駆ける。
 広い下り階段。まばらに登って来る人達を危うく避けながら、二人は必死で駆け下りる。
 その後を追う、白い姿。目にした者はぎょっとする。まばゆい白いドレスに、白い髪。白い手足。大きな人形か、動く石膏像を思わせる。とにかく、ひどく目立つ。
 「お二人さぁん。どこに逃げるのぉ?」
 メリーは優雅に、そして素早く2人を追う。

 その後を、佐々木が追う。重いギヤ・バッグをかつぎ、かろうじて走る。
 息を切らせながら下り階段を降り、構内の地下道に出る。そこで佐々木はメリー達の姿を見失う。
 「あぁんもう! どこ行ったのよ……?」

 南側。男子学生らが騒いでいる。きっとメリーを見たのだ。
 佐々木はそちらへ駆け、突き当たりの登り階段を上がった。

 改札口。
 その前で、メリーが女子高生の腕を掴んでいた。掴まれたのは、トモだ。児玉は少し離れた所で、顔を歪めてわなないている。
 「どうして逃げるのぉ? 電話で私を呼び出したくせに〜?」
 「イヤァアアアッ!!」
 トモはあらん限りの声で叫ぶ。構内にいる人々が、それらを凝視する。

 バッグを下ろし、佐々木は近づく。
 「いい加減に、許してやったらどう? その子達をどうしようっていうのよ?」
 メリーは佐々木を見て破顔する。
 「佐々木さん? 私は貴女を許してあげているんだから……、もう関わり合いにならない方がいいと思うんだけど?」
 「あ〜そうでしょうとも」
 佐々木は、近くにいた男子生徒から、傘を奪い取る。何もないよりはマシだろう。

 「そんな物で私を追い払うつもり?」
 言いながら、メリーはトモの腕をきつく絞る。トモは更に甲高く泣き叫ぶ。
 「やめてええっ!!」
 児玉がメリーに駆け寄る。
 それより早く、メリーはトモの腕に、あらん限りの力を込めた。

 トモの絶叫。吹き出る血。
 トモが、血を撒き散らしながら、崩れ落ちる。
 メリーは手を広げる。トモの切断された腕が、落ちた。


 児玉は目の前の惨劇に、足を止め、その場にひざまずいた。
 佐々木も震える。初めて見る、化け物が作り出した惨劇。
 ホーム全体が騒然となる。

 血に塗れたメリー。仁王立ちして、佐々木を見つめている。
 佐々木には、どうする事も出来ない。
 落ちた腕。切断面は握りつぶされていて、接合はムリだろうと推測する。腕を切られ、泣き叫ぶ女子高生。その痛みは計り知れない。

 メリーはトモの脇をすり抜け、今度は児玉の腕を掴んだ。児玉が力ない嗚咽を上げる。
 「ちょっと、まだやるつもり?!」
 佐々木は傘を手に、メリーに詰め寄る。今度ばかりは意地でも止めたい。
 メリーは首をかしげながら、佐々木を面白そうに見つめる。

 「……ねぇお姉さん、そのペンダント綺麗ね」
 「はあっ?!」
 突然の思わぬ言葉に、佐々木は拍子抜けする。
 佐々木の胸元のロケットペンダント。細いシルバーネックレスで、首から下げてある。行き詰まった時の切り札である、麻薬「エンジェルダスト」入りだ。
 「なんだか、怪しい匂いがするの。欲しいな、私……」
 子供のようなメリーの物言いに、佐々木は混乱する。
 「頂戴、お姉さん。……そうしたら、この子は助けてあげてもいいよ? 貴女も」
 そんな思わぬ言葉。考えるまでもない。

 佐々木は傘を捨て、ペンダントを首から外す。
 「……別に……。こんな物でいいんなら、あげるよ。安物だしさ」
 メリーは児玉の腕を放し、嬉々として佐々木の元へ。佐々木は素直にペンダントを渡す。


 「わぁ! 綺麗……」
 メリーはそれを自分の首に下げる。白い首すじに、銀色のネックレスがかかる。胸元にあずけられたペンダント。円形のロケットだ。
 「どれどれ……」
 ペンダントを開けてみる。普通、中には写真が入っている。
 だがその写真枠はえぐられていて、そこには小さなビニール袋が入っていた。白い粉が見える。
 「お姉さん、なぁにコレ?」
 「小麦粉だよ」
 佐々木は、メリーがそれを口にする事を願ってみる。
 メリーは途端に笑い出した。「お姉さん、おっかしぃ〜! 小麦粉なんかをペンダントに入れているの〜?! え〜でも、コレって違うわ? 全然違う……」

 その時、トモの元に、駅員や警備員達が駆けつけた。救急車の手配。止血手当てを早急に行う。
 その中の一人が、メリーを不思議そうに見るが、佐々木はその腕を掴んでさとした。
 「……手を出したら殺される。どうにも出来る相手じゃないから、やめておいた方がいい」
 駅員はその言葉を真に受け、足をすくませる。

 メリーは袋から粉を少し手の平に落とし、それをなめた。
 佐々木は眼を見張る。……上手くすれば、メリーは死ぬ?

 ややあってメリーは腰を曲げ、苦しみだした。
 ぼたぼたと、泡を足元に落とす。

 泡を吐き終え、メリーは苦笑を見せた。
 「……お姉さん、コレ苦い……」
 「まぁそうでしょうよ……」
 佐々木はやや呆気にとられながらも、軽いあいづちを打つ。

 袋をまた折りたたみ、ペンダントにしまう。
 「コレ、麻薬でしょ? いけないんだぁ、お姉さん……?」
 メリーの顔にほんのりと赤みがさしている。クスリが多少は効いているのだろうか。 
 「……じゃ、さようなら」
 メリーはにこやかな笑顔を見せ、改札口を抜けた。駅員は手を出せない。


 佐々木はバッグを取りに戻る。
 トモはまだ止血手当てを受けているようだ。その側で呆けている女子高生――児玉。佐々木はその肩に手をやる。
 「その子、助けてやれなくて……ごめんね」
 そして佐々木も、メリーの後を追うように、改札を抜けて駅を出た。


― 5 ―


 佐々木は駅を出て、周囲を見回す。
 駅前にはデパートの類が雑多に立ち並ぶ。道は車で込み入っている。全国規模で見て、中堅都市と言ったところか。
 駅前の噴水。佐々木は周囲を囲むベンチに腰を下ろし、少し休む事にする。

 (ここで降りても意味なかったかな)
 メリーを追うつもりなのか、自分でもわからない。まして、この地で降りたところで、メリーの足取りなどを突き止められるような気はしなかった。メリーはおそらく、神出鬼没なのだ。電話で呼び出せるくらいだから、その存在はかなり不確かなものだろう。

 (妖怪かぁ……)
 ずいぶん夢のある話だとは思う。夢とは言え、悪い夢なのだろうが。実際、女子高生がひどい目にあわされた。腕を切断。まるで紙でも裂くように手軽に、その少女の腕は引きちぎられたのだ。この目で見たのだが、思い出しても不思議で、信じがたい光景だ。
 メリーは、この自分を襲う事はしなかったが、襲われていたらおそらく殺されていたと思う。なすすべなく、体を引き千切られてジ・エンド。……簡単なものだ。
 妙な正義感にかられて、出しゃばってしまったのを後悔する。メリーに顔を覚えられたかと思うと……、恐ろしい。


 色々考え、結果的には悲しくなり、佐々木は首を垂れる。そして右肩を見つめる。
 ――自分の中で、一番美しい所。そこには、メタリックブルーに輝く蝶(チョウ)が一羽、いつでもとまっている。

 ……タトゥだ。「オオミドリシジミ」という蝶(雄)を、カラーで彫ってもらったのだ。まず先に、蝶を彫ってもらうと決めて、そして気に入る美しい蝶を、インターネットで調べたりした。
 その透き通るような水色の蝶は、いつ見ても色あせる事なく……、美しい。


 眺めていると、気持ちがだいぶ落ち着いた。昼食をとりに出かける事にする。いつまでもここにいると、さっきの事件の参考人かなにかとして、面倒を食らう恐れがある。

 駅に救急車が到着する。
 担架で運び出される、先ほどの女子高生。佐々木はその様子を見送った後、ギヤ・バッグを手に、新たな街へ足を向けた。今日のランチは……気のむくままに。





 (……あれ?)
 気づくと、児玉は電車に乗っていた。
 周囲を見回す。なんだか、視線を感じる。
 ――握られている右手。白い長手袋。

 そして右隣を見て、目を見張った。
 ――フリルのついた真っ白なドレス。真っ白な長い髪の少女。手足も何もかもが、紙のように白い……。
 髪に隠れた顔を覗き見る。少女は目を閉じ、眠っているようだった。
 児玉は息を飲んで、少女を見つめる。……ひどく、綺麗だ。目鼻立ちの整いは、まるで彫刻のよう。妖精のように、美しい。
 でもなぜ、私は、この少女に手を握られているんだろう……?

 そして、児玉はこの少女に見覚えがあるような気がした。……だが、思い出せない。
 (……メリー……?)
 突然浮かぶ名前。なぜか、この少女が、そんな名前であるような気がした。


 自分を見る。……学校の制服姿。それはわかる。だが、他には何もない。自分は全くの手ぶらだ。
 (……学校はどこだっけ?)
 浮かばない。自分の名前。それもわからない。

 ――ちょっと! 児玉が変な事をするからでしょ! アタシも巻き込まれてんじゃないのよ!
 突然浮かんだ叱咤の声。鼓動が早まる。
 (……児玉……?)
 それはきっと、自分の名前だ。

 (……変な事をした……? 誰かを、巻き込んだ……?)
 ……いや。夢を見ただけかもしれない。
 自分はこうして、この少女とずっと電車に乗っていたような気もする。

 ――浮かぶ、悲しげな顔。
 夏服の女性に……、肩を叩かれた。思い出す言葉。「その子、助けてやれなくてごめんね……」

 「助けてやれなくて……?」
 児玉はもどかしい気持ちで、意識を辿る。だが、もう記憶は引き出せない……。

 今一度、隣で眠るメリーを見る。安らかな顔で眠っている。まるで等身大の人形だ。
 でも、この子は……怖い気がする。何かが、怖い。
 なのに自分は、この少女に手を握られ、隣り合って座っている。
 こうなったいきさつが……全くわからない。

 逃げた方がいいのか?
 ……わからない。そして、ここから逃げ出す勇気もない。
 手を伸ばし……、少女を揺り起こす事も出来ない。
 自分はただ、こうしているしかない……。電車に揺られ、少女に手を握られたまま……どこかへ連れて行かれるしかないのだ。

 (もしかしたら……今も夢かも知れないし……)
 児玉も目を閉じる。


 ――佐々木さん。
 また新たに、そんな名前を思い出す。だがもう、児玉は考える事をやめた。


― 6 ―


 軽食店で、昼食のパスタとシーフードサラダを食べ終え、佐々木は道沿いのパチンコ店に入る。
 デパートと見まがう大きさの店だ。外装も高級感が漂っている。
 中に入る。入り口付近には思ったとおり、コインロッカーが並んであった。下段の大きめのロッカーにギヤ・バッグを入れ、身軽になる。
 サイフの中には二十万ほど。更にバッグの中には軽く百万ほど。だが、身元がわからないのでは貯金も出来ないだろうから、と通帳の類は持っていない。よって、これ以上の財産はない。また、これ以上荒稼ぎしたところで、特に使い道もないので、ギャンブルもほどほどにしておく。

 好きな台、「パルテノン」のシマを見つけ、空き台に腰を下ろす。
 スロットにも色々種類がある。この台は、普通の人が打てば、ただの金くい箱だ。波に乗れば、何十万という大金を一日で稼げる可能性があるのだが、いかんせん、その当たりはなかなか訪れない。なすすべなく、金をどんどん吸い取られてしまう。……だが、佐々木には異常なツキがある。この、ギャンブル性が非常に高い台でも、佐々木は痛い思いを知らないできている。この台が痛いという事を知っているのは、周囲で打っている人達を観察しているからだ。
 一般論を言ってしまえば、どの道、ギャンブルはギャンブルだ。ギャンブル性が高かろうが低かろうが、ギャンブルというものを、安心して確実な収入に結びつけるすべはない。ハマッた先に待っているのは、早かれ遅かれ、「破滅」の二文字だ。うまく食っていける者がいても、それはほんの一握りなのだ。

 千円札をサイフからあるだけ引き出し、コイン皿に置く。
 ……どうせ、勝てる。緊迫感は皆無だ。
 少しは苦しませてもらえるかと思いきや……、数千円突っ込んだところで、プレミアムを引き、約九万円の勝ちで勝負はあっけなく終了した。このプレミアムは一発約十万円の当選となるのだ。そういう過激な当たりがある裏には、1日何十万と金を吸い込み続ける魔の面もある。
 プレミアム終了後、佐々木はすぐさま席を立つ。このまま打っても、また何か当てるだけだ。
 勝負の所要時間は1時間もかからなかった。
 隣の席の親父が、不思議そうに右肩の蝶を何度となく眺めてくるのが、笑えた。その親父は佐々木がそこにいる間じゅう、金を突っ込み続けていた。千円札が五分も持たずに消えていく様は、なんだか悲しかった。

 バッグを手に店を出る。やはり自分のツキは尋常ではない、と今更ながら再確認する。今後一生、こうしたふざけた金の稼ぎ方で、無事に暮らしていけるのだろう。一生とは言え、中年になってもまだ生きているかどうかはわからないが。

 「募金お願いしま〜す」
 道の先で募金活動をしている少女達。佐々木は二万ほど小さく折りたたみ、箱の中に突っ込んだ。
 いくらでも稼げるのだから、本当はいくら募金しても痛くはない。だが、モノには程度というものがある。それを自分なりに、考えているつもりだ。
 あまり、世の中に関わってはいけないし、そのバランスを崩す事のないよう、今後も生きたいと思う。





 夜道。
 小石をふんづけ、足を軽くひねらせたところで、児玉は目を覚ました。立ち止まる。

 線路下をくぐる道路脇の、歩道を歩いている。
 「どうかした? 児玉さん」
 前を行く少女。メリーだ。
 児玉は、空虚に落ちる。……何も浮かばない。
 メリーは苦笑し、児玉の元へ足を戻らせる。

 児玉はメリーを見つめる。真っ白だ。この夜道、その姿は幽霊を思わせる。
 「これから……どこへ行くの?」
 児玉はそうおずおずと聞く。
 「……どんな所がいい?」
 メリーは逆に聞いてくる。  
 児玉は考える。そして出た答え。「……家がいい」

 メリーは首を振る。銀のネックレス、その先に付いているペンダントが揺れる。
 「私はおまわりさんじゃないのよ? それにもう、貴方のご両親は、貴方の事を忘れてしまっているわ。真っさらにね」
 「……え?」
 「児玉さん? 人間の記憶って、どうしてあいまいなのか……、考えた事はある?」
 メリーのはぐらかしたような質問に、児玉はまた疑問符しか返せない。
 「記憶は、脳に刻まれると思う? ……じゃあね、記憶を刻む、ってどんなものか想像できるかしら? 脳の中の、記憶領域である細胞の形が変化する? 細胞が、状況やキーワードを、最終的には二進数か何かに置き換えて?原子分子の配列変えでも行って、記憶というものをデータとして保存する? そうかしら? まぁそうでなくても……他に何か想像できる?」

 児玉は答えられない。メリーは児玉の手を引き、また歩き出す。
 「……記憶というのは、五感が受けた刺激ね。それらがまとまって、「イメージ」になる。視覚、聴覚が主かしら? ただ、それらは脳にだけ記憶されるものじゃない。脳は一時的なもの。モバイルコンピュータ並みよ。ホストコンピュータとして、人間には「無意識」という、広大な精神世界があるのよ」
 「……無意識?」

 「人間、というものを根底で理解するための、いわゆる一般常識より、更に通俗なレベルの事象が詰まった世界。……人間そのものの不変情報、とでも言おうかしら。食うとか寝るとか、殺すとか。そのイメージを具体的に、様々な角度から捕らえた情報を、無意識は貯蔵してる」
 「人間の記憶はすべて、その無意識に溜め込まれるのね。……そこには、記憶や細胞などという概念はない。五感で感じたものがそのまま、すべて残るのね。そこから必要な記憶を引き出すのが、脳の役割なんだけど」
 「で、人間に、無意識をいじる事は出来ない。催眠術で多少壊したりは出来るらしいけどね。……でも、私のように自在にはいかない」

 (……自在に?)
 児玉は息を呑む。
 メリーは笑う。「だって私は……、悪魔だもの」

 そう言われ、児玉は面食らう。……悪魔。なんだか久しぶりに聞いた言葉だ。
 「最近は、妖怪都市伝承、って言うのかな? 私は人間の「無意識から生まれた」妖怪なのよ。人間のウワサが形作ったのね。……ふふ、そう言うと、いかにも胡散(うさん)臭い感じがするでしょう?」
 メリーは楽しげに笑う。
 「でも違うの。人間の無意識というのは、現実と結びついている。人間は無意識によって、日々の行動をする。色々考える。……無意識は、無力じゃない。思った以上に、現実に波及を及ぼすものなのね」

 連れて来られたのは、夜の繁華街。
 「そういう難しい言い方は嫌いかしら? つまらないお話だったかな? ……とにかくね、人間の記憶があいまいなのは、「無意識」があまりに膨大で、またブラックボックス過ぎるからよ。完全なる、正確不変なデータで保存されたものでもないしね」

 「で、今の話。私は貴方の無意識を「消した」のよ。それによって、貴方の過去も消えちゃって……、もう貴女は、誰ともつながらない状態」
 「……つながらない……?」
 どうしてそんな事になっているのか。児玉は悲しげに眉間を縮める。確かに記憶もないので、メリーの話を疑いようもない。

 「私は本来、現実を崩す力を持っているのね。でも、私の力は現実には届かないの。……このもどかしさ、わかるかしらね?」
 「でも、貴女のように、現実からアクセスしてきた者に関しては、無尽の力を及ぼせるようなのよ。そういう子を、私は最大限に利用させてもらっているの……」
 そして児玉に近づき、頬をなでる。「……だから、タダでは殺さない。勿体ないからね……」

 街を行く。人目が向くが、メリーには気にならないようだ。
 飲み屋街を歩いていく。メリーは楽しそうに辺りを見回す。
 「……うふふ。いたわ、あそこに……」
 メリーが指差す先。数人がシートを敷いて、アクセサリーなどの路上販売を行っているようだが……。
 
 「こんばんは〜?」
 メリーはその中の一人に声をかける。
 「……あら、お嬢さん。なぁに、真っ白よ? アハハ」
 そう顔をあげた少女を見て、児玉は違和感を覚える。どこかで見た顔だ……。

 メリーは、児玉を指差す。そして、路上販売の娘に言う。
 「アナタは……、あのコのドッペルゲンガーよね?」
 路上販売の娘の顔色が変わる。真顔になり、児玉を見つめる。
 そして言った。
 「……そうみたいね。わざわざ連れて来てくれたの、死神さん?」
 「そうよ。わざわざね……」
 そして二人は揃って、キーキーとした耳障りな笑いを上げた。


― 7 ―


 路上販売の娘が立ち上がり、児玉の元へ歩いて来る。
 「……これがもう一人の私かぁ……最近、記憶を消されたでしょ? 私も少し、影響を受けたわ」
 頭にバンダナを巻き、軽装で、短パン姿の児玉。本物の児玉は足を震わせ、逃げる準備をする。
 メリーも来る。

 「ドッペルゲンガーっていうのも、現実と無意識のつながりから来る、一種の妖怪ね。どの人間にも、必ずどこかに一人いる。自分と全く同じ姿をした、もう一人の自分。いわゆる、「影」と呼ばれる存在ね」
 メリーの言葉に、ドッペルゲンガーも続ける。
 「……そして影は、本体であるオリジナルの事を意識して、生きている。いつか出会えた日が来たら、殺すかその存在を乗っ取る。それが生きている目的。そしてただ一つの悲願よ」
 ドッペルゲンガーが迫る。児玉は弾かれたように、逃げ出した。


 「私が追うわ」
 メリーは息を吸い込むと身を屈め、音もなく飛び出した。
 「キィィィィッ!!」
 歯を剥き悪鬼の形相で、しかし笑いながら、メリーは児玉を追いかける。

 「いやぁあああっ!!」
 児玉は数十メートルも行かない内に、メリーの手に捕らえられた。
 腕をきつく絞られる。児玉はなお一層甲高い悲鳴を上げる。ドッペルゲンガーも追いついて来る。

 「アタシ……人間になれるの?」と、影。
 「ちょっと違うわ。児玉さんの代わり、になるのね。すっかり入れ替わってもらうわ」
 そんなメリーの言葉に、児玉は青ざめる。
 「私の代わりに……?」
 「そう。このドッペルゲンガーに、貴方の存在の空白を埋めてもらうのよ。それで何もかもが元通りになるわ。……そうじゃないと、貴女のご両親は、覚えのない娘の部屋を見て、理解できずに気が触れてしまう」

 そしてメリーは影に言う。
 「人間を殺すのはいいけど……、すぐ警察なんかに捕まってジ・エンドだから、やめておいた方がいいと思うわ。それとなく……、悪意を振りまいていってね。まぁ、やりたいようにやっても構わないんですけど」
 影はいやらしい笑いを返す。
 「どうでしょうね? 今までも結構殺して来ちゃったし……。どうせすぐ、またやると思うよ? ヒハハ……!」
 そんな影のセリフ。児玉は火が付いたようにわめいた。
 「……そんな事!! させないわっ!! ……誰も……殺すだなんて……」
 叫びながら、自分の無力さを知ったのか、声を弱める。メリーに引き絞られたままの腕が痛く、悔しいがそこで涙をこぼした。

 「ヒィアハッハ! コイツ、泣いてるよ〜? やだなぁ、アタシのオリジナルがこんな弱いガキ、だなんてさぁ?」
 影はあくまで児玉の顔で、下卑た笑いをする。
 児玉は歯を食いしばり、一層泣く。気づいたメリーは腕を放してやる。

 「……児玉さん。これからどう生きようと貴方の勝手。……ただ、なるべくなら死なないで欲しいのね。死ぬと、影も死ぬのよ。そうすると、せっかくの私の労力がムダになるのね。……えぇ、今までも何度かあったけど。まぁ、ダメならダメで諦めるからいいけどね」
 そんなメリーのセリフに、影が「え〜ひっどぉい!」と非難の声を上げる。

 メリーは児玉の肩を叩く。
 「そうそう。死なない程度に、貴方のツキはいいものにしてあげているから。お好きな生き方が出来るわよ。……あの佐々木さんみたいに、長く生き続けて頂戴。まぁ、私もいちいち、貴女方の事を覚えてはいないんだけど」
 「……それじゃ。自由の世界を満喫して頂戴ね、児玉さん……」
 メリーは軽く手をあげ、立ち去っていく。影もついていく。

 「……そんな」
 児玉は追う。「お願いだから……私を元に戻して!」
 児玉はメリーの腕を掴む。すると、メリーは途端に冷酷な表情になり、児玉の頬を平手打ちした。児玉は吹っ飛んで、全身を路上に打ち付ける。
 「……聞けないお願いよ、児玉さん」
 そして去って行く。

 児玉はその場に泣き崩れた。


― 8 ―


 タクシーを拾い、温泉へ。紹介されたのは地元で有数の、いい温泉との事だ。駅から車で三十分ほどで、温泉街に辿り着く。温泉街、と聞くと佐々木は胸が躍る。
 ――旅の喜びと言えば、佐々木にとっては第一に、温泉だ。ゆったりと温泉につかり、極楽気分を味わいたい。若くして、湯の良さを知ってしまった佐々木であった。
 ……まぁ仮に質素な温泉だったとしても、味があれば問題はない。そして、出される料理が美味しければなおいい。
 五階建ての旅館。お客の姿も多い。
 フロントではとりあえず、一泊だけ頼んだ。数日、この温泉街を渡り歩くつもりになっていた。まぁ中には、宿泊を断られる所もあるかもしれないが。女性の一人客は、傷心旅行と見られ、館内でのトラブル(自殺)を嫌われる風潮があるらしい。幸いにして、今まで宿泊を断られた事はそう無いのだが。夜半過ぎに宿泊しようとして、断られた事はあったりした。小規模な旅館が満員だった事も。

 ここは旅館の規模からして、温泉自体もかなり期待できそうだ。佐々木は部屋に着き、荷物を下ろすと、早速、浴衣に着替える。
 タオルを首に巻き、にこやかな顔で、旅館の廊下をしずしずと行く。
 エレベーターで地下1階へ。降りるとすぐ側に、「湯」の暖簾(のれん)が見えた。

 「広〜い……」
 脱衣所からして、広い。清潔で近代的な造りだ。そこに数人の姿。休める長椅子も5つほどある。腰にタオルを巻いたおばさんが、だらしなく寝ていたりする。
 ――ガコッ。
 桶を転がす音。好きな音だ。
 「……いいねぇ、温泉は」
 そそくさと服を脱ぎ、佐々木も湯へ向かった。





 サラリーマン風の中年男性に連れられ、児玉は交番に着く。泣き崩れていたところに、声をかけられたのだ。
 男はにこやかに去る。
 駅前の交番内。児玉は椅子に座らされ、警官と問答を始める。時間はもう、夜の十時を回っていた。
 児玉は記憶がなく、家がどこなのかもわからないといった事だけ告げた。メリーの事など言ったところで、理解されないに決まっているからだ。そういう常識めいた記憶だけはあるようだ。

 「記憶がない……困ったね。児玉っていう苗字だけはわかるのか……まぁその線で調べてみましょう……。記憶がないって言ったって、話から推測すると、一時的なものだと思うんだけどね……。長年記憶がないのとは違うようだし。……で、持ち物も何もない、と?」
 児玉は制服のポケットを探るが、ハンカチとポケットティッシュしか出て来なかった。
 警官は眼鏡をいじり、児玉の制服を見る。
 「おそらく、ご家族からの行方不明の通知も出てるだろうし、後はまぁその制服なんかで……、居場所が突き止められるとは思いますけどね。後でその上着、貸してもらいましょう」
 「あ、はい」
 児玉は少し笑顔を取り戻す。兆(きざ)しが見えた気がした。
 記憶を無くしてから、どれくらいの時間が過ぎたのかはわからない。記憶を無くした当日、の様な気もするし、数日経っているような気もする。それにドッペルゲンガーの事もあり、家族が行方不明の通知を出しているかはわからない。だが、記憶がなくても、きっと家に帰る事ができる。そう信じた。
 ドッペルゲンガーについては、誠意を持って、話し合いで解決したいと思う。同じ自分、という事だ。話し方次第ではきっと、納得してくれる。……児玉にはまだ、そういう甘えがあった。

 「で、今晩はどこに泊まるの? アテはある?」
 「アテですか……」
 考え込む。あるワケがない。

 「まぁ、未成年だしね。それに今の時間からじゃ、どこのホテルも泊めてくれないだろうから……じゃあ、交番に泊まりなさい。奥の部屋にベッドがあるから。まぁ、今日は入浴などはガマンしてもらって」
 「……はぁ……はい」
 交番に泊まる。なんだか窮屈な話だ。

 警官は、児玉を奥の部屋に案内する。
 寝室、というより、休憩室といった類のものだ。その狭い部屋にはパイプベッドが2つと、本棚、TV、ロッカーなどがある。
 「え〜児玉さん? TV付けていいから。寝たくなったら寝てください。で、廊下の正面がトイレね。洋式ですから」
 「はい……」
 少女の動きが固い。警官はその傷心具合を察して、優しい言葉をかけてやる。
 「まぁ犯罪者じゃないんだから、固くならずに。交番に泊まるなんて事も、そんなにないでしょうからね。……すぐ、家に帰れますから」
 「はい……ありがとうございます」

 警官は机に戻る。
 すると、そこにはバンダナをした若い女がいて、今自分が書いた調書などを手で丸めていた。尻ポケットに突っ込む。
 「……おい! なんだ、君は……何をしてる?!」
 そしてその顔を見て、目をしばたく。今しがた、奥の部屋に通した女子高生と、顔が似ている……。
 女は叫ぶ。
 「おい児玉ッ!! 出て来ねぇと、コイツぶっ殺すよ〜?!」
 机ごしに警官の襟首を掴み上げる。警官の足が宙に浮く。

 「……なに……?」
 恐る恐る、児玉が顔を出す。警官が、自分の影――ドッペルゲンガーに、乱暴されている。
  
 「やめてっ!」
 児玉は駆け寄る。影は素早く警官を机の上に引き上げ、その腹に拳で一撃を加えた。
 「うああっ!」
 警官はそれをまともに受け、机を転げ落ちた。
 足元でうずくまる警官。児玉は言葉を無くす。

 影は机を乗り越え、児玉の正面に来る。
 児玉は声を振り絞った。
 「……どうしてこんな事をするの……?」
 影を真っ直ぐに睨む。

 「……アンタが交番に駆け込んでいるのが見えてね。一言言いに来た」
 「なによ……?」
 自分と向かい合っているゆえ、不思議ながら強気の姿勢をややとれる。

 「……アンタはね、アタシの影になるのよ。現実に関わるのはやめて欲しいのね。それにどうせ、アンタの家なんか見つからない。そこは、私のウチになるからよ。……それにね、自覚して欲しいのよ。アンタはもう、誰かれにも忘れ去られてしまってるの。アンタを探す人間はもう、この世にいないわ」
 「そんな事ない……」
 児玉は歯を食いしばって反論する。自分はきっと助かる。元に戻る事ができる。そう、信じる。

 戸口に白い影。児玉は体を硬直させる。
 「……児玉さん? その気になれば、私は何度でも、貴女の記憶を消す事ができる。貴女が余計な事をするようなら、その人間としての根底の知識も、消してしまうわよ? そうなったら言葉もわからなくなる。トイレの使い方もわからなくなるわよ? それでもいい? ……まぁそうなったら、それなりの施設にでも拾ってもらって、衣食住に満ち足りた今後を送れるのかもしれないけど」
 ――人間としての知識も消す。そう聞いた途端、自分の支えを失った気がした。
 逆らう事など、できない……。

 メリーは机の脇を回り、児玉の元に来る。
 「自覚して欲しいのね。貴女はもう、大手を振って生きられないのよ。貴女はお情けで生かしてもらっている。だから、警察なんかに駆け込まないで頂戴。これから貴女になろうとしている、こちらの児玉さんが、もしかすると迷惑をこうむる事になるかもしれない」
 メリーは影の肩を叩き、児玉の腕を引く。ぐいぐいと引っ張られ、児玉は交番の外へ連れ出される。

 「児玉さん? わかったわね? 貴女が元の生活に戻ろうとするなら、いつでも邪魔しに来るわ。その度に、なんらかの犠牲者が出るだけ……」
 交番内から、男の悲鳴。
 「……わかったでしょ?」

 児玉は頭を抱え、また泣き崩れた。


― 9 ―


 気がつくと、児玉は駅前のベンチに座っていた。
 ――寒い。
 辺りを見回す。田舎の小さな無人駅。見覚えのない所だ。記憶を消されたから、そう思うのかもしれないが。
 ……寂しい所だ。タクシーもいない。誰もいない。
 そして、何もわからない。自分はこんな所で何をしているのだろう?

 寒くて身を震わせる。その時、ぼたりと足元に落ちる物があった。
 ……サイフだ。
 自分のサイフだろうか? 開けてみる。……三万円ほど、入っていた。

 寒い。児玉は立ち上がる。どこかへ行かなければならない。どこか、夜を安心して越せる所へ……。
 電話ボックスが側にある。見つめる。……そして、警察にだけは連絡してはいけない、という事を漠然と思い出す。
 ――何かがあった。何か、警察に行った時、ひどい事が起きた。だから、警察にだけは行ってはならない……。 

 辺りは明かりもさほどない。さびれた自動車修理工場。閉店した喫茶店。家々なども眠ってしまっている。こんな暗い場所はイヤだ。児玉はサイフを握り締め、駆け出した。とにかく、明かりがたくさんある場所へ、行きたい!

 片側一車線の、狭い道路の突き当たり。辺りはさびれた商店街だ。東西に伸びている。西が明るい。明かりはだいぶ遠いが、児玉は無心に駆ける。
 五分も走ると息が切れてくる。だが、体は温まった。
 歩く先に、交番が見える。電気は消えている。駐在所なのだろう。

 やや緊張しながら、その前を通りすぎる。今後も警察にだけは、頼れない。……いや、誰に頼る事も許されないのかもしれない。頼った人間はきっと、なんらかの被害をこうむる羽目になる。
 だが。その被害が何なのか、思い出せない。自分は何故、一人でこうしているのか、わからない。
 ……今はただ、助かりたいだけだ。できぬ願いなら、今晩だけでも。

 商店前の自動販売機。その煌々(こうこう)とした光に吸い寄せられ、児玉は足を止める。
 ――何か、飲みたい。
 サイフの中には小銭もある。震える手で、児玉はコーラを購入する。
 ガコン!
 缶を取ろうとして、目先は自販機前を泳ぐ。……何か落ちている。
 拾うと、それは一万円札だった。
 
 「あはは……」
 気弱に笑う。「もらっちゃおっか……?」
 不幸の中の、幸せ。児玉は妙に可笑しくなる。

 コーラを飲みつつ、明かりを目指す。街の明かりだ。どこか泊まれる場所があるだろう。その時は制服を隠してでも。





 「うぅ、くそ……!」
 佐々木は夢でうなされている。
 ――ギャリッ!ギャリ!
 歯ぎしり。部屋の中で一人、布団をもみくちゃにしながら、佐々木は苦しい睡眠に陥(おちい)っている。

 「う、う、う……! う、う、う……」
 涙すら流している。苦悶の表情で歯を軋(きし)ませ、呼吸もひどく苦しげだ。
 身をよじる。身を縮める。

 ……そしてそれをしばらく続けた後、苦しみ疲れたように、佐々木はうってかわって静かな睡眠を迎えた。
 だが、その安眠は短い。もう夜が明け始めている。そして佐々木は早起きなのだった。

 安眠後、一時間もしないで、佐々木は眼を覚ます。午前五時を少し回ったところだ。
 「ふあぁああ……」
 まくれた布団を足で直し、しばし眠りの余韻を楽しむ。
 「あ〜……見慣れない天井だぁ……」
 佐々木はにこやかに笑う。

 リモコンを探り、TVを付ける。
 「朝風呂、行って来よっ!」
 軽快に起き上がる。
 佐々木はよく眠れたと思っている。自分の歯軋りも、うなされている事も、知らないのだった。


 ― 10 ―


 児玉は目を覚ます。
 薄暗い。まだ、朝の早い時間だろうか。視界にひどい違和感。だが、清楚な空気に包まれている。
 ここは二段ベッドの上だった。室内に、同じベッドが6つほどある。そして床には簡易ベッドが20台ほど、敷き詰められている。そして数人の女性の姿。

 ……児玉は、温泉施設に泊まったのだ。
 昨晩。街の明かりを目指して歩いた先、国道に出た。行き交う車。広い国道。そして眺めた先に、宿泊可能な、この温泉施設を運良く見つけたのだ。
 朝食つきで一泊2500円。お手ごろだ。落ち着くまでここにいようと、決めたのだった。


 ベッドから降りる。着ているのは、この施設のパジャマだ。枕元のタオルで顔を拭いた後、レストルーム(休憩室)を出て、女湯へ向かう。
 「おはようございます」
 フロントの若いお兄さんが、優しい笑顔で挨拶をしてくれる。児玉も挨拶を返し、いい気持ちでのれんをくぐる。寝ぼけていたので気づかなかったが、後頭部に手をやると、大きく跳ねた寝癖があった。

 腕輪のカギでロッカーを開ける。制服と歯磨きセットとタオル。サイフ。……下着の代えがない。フロント側の自販機で売っている下着を、後で買っておこう、と思いつく。
 一通り体を洗った後、軽く、湯へ。


 ――朝風呂。初めてかどうかはわからないが、久しい感覚を覚える。混んでもいないので、清々しい。湯は今つかっている大浴場に始まり、超音波ジェットバス、うたせ湯、サウナなどがある。
 広く、高い天井を眺める。こうしていると、悲しい、という気持ちを忘れてしまう。
 ……だが確かに、自分は悲しい状況に陥っているのだ。その事を忘れてはいけない。

 (……記憶が無い……か)
 TVドラマなどで見る、記憶喪失。まさか自分がそういう事になってしまうとは、想像しなかっただろう。
 記憶が無い、というのはこういう事なのか、と実感する。生活に支障はない。普通に話せるし、物の理解もできる。
 ……だが。両親の事、自分に関わる人間、友達……そういったものを、どうしても思い出す事ができない。
 思い出も、無い。 

 いや。確かに両親はいたし、思い出もあった。それはわかる。……だが今は、それらを詳しく知る事はできない。もやもやと、遠くに残像が見えるばかりだ。
 思い出さないままでいい、とは思えない。児玉は微かな残像を見つめる。
 (……制服を着ていたって事は……登校途中か何かだったのかな?) 
 学生である、自分。
 (……でも、カバンも何も持っていなかった。誰かに取られたとか……? 落としたのかな?)
 マユをしかめて考えるが、何も浮かばない。

 (ところで……私ってどんなコだったんだろ……?) 
 自分の性格がわからない。真面目だったのか、明るかったのか、暗かったのか。友達はたくさんいたのかどうか。そして好きな人など……。
 声が出るほど悩むが、結局、浮かぶものは無かった。

 (でもいいのかなぁ……こんなコトしてて。みんな心配してるんだろうなぁ、きっと……)
 そうなるとやはり、警察に行く事を思い浮かべる。
 (……でも……)
 ――警察に行くと、また記憶を無くす。児玉はそんな気がした。
 だが、そこにこそ、重大な何かがあるんだ、という推測に至るのだった。





 それから数日。
 児玉の影は、児玉と入れ替わり、日常を送り始めている。
 今のところ、両親、知人、友人らとのいざこざは無い。個人の本質である「無意識」ごと入れ替わったものだから、元々児玉はそういう人間だったのだと、周囲は誤認しているのだ。影も目立った行動は控えている。

 そしてその日の日曜。影は、メリーの指示を受け、ネットカフェで書き込みを行っていた。5台並ぶパソコンの、利用者はいない。室内ではマンガを見ている者が数人いるだけだ。
 「まったく面倒くさい事を頼みやがってさ……。それにオリジナルと入れ替わったからって、別に面白い訳でもないし……」
 キーボードを打つ。
 「……私、は、メリーさんの、電話番号を、知っています……と」
 オカルトサークルの掲示板。それを探すのも大変だった。何しろ影は、インターネットなど知らない。だが、「指示通りの事をこなさねば、容赦なく殺す」とメリーに脅され、仕方なく従っている。
 メモを見る。メリーから教わった電話番号だ。それを打ち込む。
 「……はい、よし!と」

 アイスコーヒーをがぶがぶと飲む。「あ、腹痛くなってきた……」
 トイレに行こうとした時、携帯電話が震えた。
 「なんだってんだよ、こん畜生!」
 取ると、メリーだった。唾を飲む。


 「ところで児玉さん? 最近、水色の蝶を目にしてはいないかしら……?」
 「はあっ?」
 ――何言ってんだこの野郎、と言う言葉は飲み込む。
 パソコンやネットがわからず、ただでさえ苛立(いらだ)っている。だがその不満は、即座にメリーに読まれてしまう。
 「……はぁ? じゃないでしょう。ふざけてるの? 殺すわよ」
 「……すみません……」
 影は歯を食いしばりながら、仕方なくそう言う。言っただけで、謝っているつもりはない。

 「知らないなら、いいわ。もし今後見る事があったら、教えて頂戴。たまにチラつくのよ。でもあれがなんなのか、私にはわからないのね……。最近もどこかで見た気がするんだけど……思い出せなくて」
 「……わかりました。ですが、期待しないでください。インターネットの使い方もまだよくわかりませんので……」
 そう言うと、メリーは笑い出した。
 「別にネットで調べろ、とは言っていないわ。……そうじゃない。アレは私達に関係するものなのよ。そんな気がする……」
 「そうですか……」
 電話が切れる。
 影はため息を一つ、トイレに向かった。





 佐々木の影は、右肩を長く見つめる。
 そこにある、ひどい違和感。たまに思い出すと、気になって仕方がなくなる。

 佐々木の両親は、数年前に殺して、山に埋めていた。未だ行方不明、という事になっている。影自身も、その事を忘れかけている。
 今は家を売り払い、アパートで一人暮らしをしている。仕事はしていない。毎日ギャンブル三昧(ざんまい)だ。借金を重ね、その額も数百万に達している。だが、佐々木の影にとって、そんな事はどうでも良かった。
 その影は、今メリーとのつながりは無かったが、昔与えられた指示に忠実に、世に害を及ぼす事を続けていた。ただ、人殺しやおおっぴらな犯罪は、月に何度も行わない。行う時も、慎重に行う。その方が生き延びるすべとして、利口だと思うからだ。
 影はもう人間の生活になじんでいる。基本的な衣食住に加え、趣味や楽しみも覚え、見かけだけは普通の人間となんら変わらない生活を送っている。
 だが、佐々木の影はひどい癇癪(かんしゃく)持ちだった。一度怒れば、すぐに爆発する。

 「ちょっと何なのよ、この野郎ッ!!」
 ノートパソコンがまたフリーズする。頭に来た影は、キーボードに拳を叩きつけた。
 バン! キーボードがひしゃげる。そして両手で引っつかみ、床に叩きつけた。
 無残な轟音の後。……思惑通り、パソコンは修復不能なまでに、破壊された。
 
 「……あんまりにクソだから……またぶっ壊しちゃったじゃないのよ……! お金のムダ遣いよ。バカ」
 半分は自分を戒める言葉か。佐々木の影は、しばらくその残骸を見つめる。
 「じゃ、コイツをコンビニのゴミ箱にでも入れてやるか。こういう悪意も楽しいかもね……」
 ――他人に迷惑をかける。それは佐々木の影が好んでふりまく、悪意だった。家庭内のゴミはほとんど、小分けしてコンビニに捨てている。洗うのが面倒な容器など、特にだ。地域のゴミ収集の取り決めが、近年はうるさいからだ。

 「あとは……、アホでもからかっとくかな」
 電話。フリーコール。
 「佐々木です。会員NO.308」
 案内のアナウンス。伝言ボイス。2をプッシュする。
 「もしもし……初めて伝言してみました。○○市に住む、一人暮らしのOLです。今、彼氏いないので寂しくしています。すごく寂しいんです……夜とか。……よろしくお願いします。お返事待ってます」
 声色を変え、次々と伝言を入れる。
 飽きた後、電話を切る。……これで返信が多ければ、金になる。一つの返信につき、60円入る。テレホンガールのバイトとして、登録しているからだ。毎度の事だが、一つの伝言に返信は約10件。以前はその数倍を越えたりもしたが、最近は声が客にバレてきたのか、食いつきが悪い。「サクラ野郎がふざけるな!」などという脅しの返事もたまに聞く。
 どの道、伝言はマニュアルにある、型通りのものでしかない。その気など、全く無いのだ。その気が出るのは、殺そうと思った時だけだ。
 そして、テレホンガールとしての、月10万ほどの稼ぎも、ギャンブルに消える。

 ……バカな男を食い物にする。そんな悪意も、玄関に立つ頃には苦笑に変わる。その程度の悪意は……、ゴミだという事はわかっている。
 だが、殺しは滅多にできない。すぐ大騒ぎになるからだ。メリーの言う「悪意」を振りまくには、やはりゴミを積み重ねていくしかないのだろう。
 そういった悪意も、数年積み重ねていく内に、なんらかの変化が感じられるようになっていた。

 ――与えた悪意は、広がる。
 そんな実感を、得ている。

 影はパソコンの残骸を紙袋に入れ、アパートを出る。
 歩きながら、新たな悪意の案を描く。……農薬入りの饅頭(まんじゅう)。それをどこぞのペットらに与える。
 「毒饅頭か。……いいね!」
 理不尽にペットを毒殺され、嘆く子供達。憤(いきどお)る両親達の姿が思い浮かぶ。
 ……そう。「誰がやったのか?」という疑心暗鬼を、世に放つのだ。そういう悪意が、望ましい。

 佐々木の影は、足取りを軽くさせた。


― 11 ―


 「……何が毒饅頭よ、こん畜生ッ……!」
 佐々木は歯軋りもきつく、うなされる。

 夢の中で、自分を追いかける。……だが、足が動かない。前に進めない。
 「……誰かっ! お願いだから止めて……! アイツは……アタシじゃないのに、アタシの顔で……ひどい事をしようとしてるんです……」
 泣く。腕を伸ばす。歯軋りが激しくなる。ガチガチガチガチ……


 「お姉さんっ!!」
 揺さぶられて、佐々木は起き上がる。
 「えっ?! ……えぇっ?!」
 泣き顔で、首を振る。そこにいたのは、小さな男の子だった。

 「お姉さん泣いてるぅ〜……どうしたの?」
 赤いボールを手に、子供は不思議そうに佐々木を見る。
 佐々木は、公園のベンチで寝ていたのだ。照れ笑いの後、枕にしていたギヤ・バッグの無事を確かめる。
 「あはは。泣いてたのか〜? まぁ、たまには悪い夢も見るかな」
 顔を手で拭く。ひどい涙に、少し驚く。
 子供は、歯をガチガチ鳴らす。
 「それに、凄い歯軋りしてたよ〜……うるさかった」
 「そ、そうなの……?」
 佐々木は眼をしばたく。自分が歯軋りしていたとは、知らなかった。そういうクセでもあったのだろうか?と驚く以外にない。

 子供は去ろうとする。「それに、毒饅頭食べちゃった、とか言ってたよ? 夢の中で食べたのかな?」
 「……毒饅頭??」
 何から何まで初耳を覚え、佐々木は呆けてしまう。
 (まさか、いつもこんなんじゃないでしょうね……?)
 少し、怖くなってしまうのだった。


― 12 ―


 佐々木の影は、毒饅頭で犬猫を数匹殺したが、3日もすると飽きていた。
 「くだらねぇ……」
 パチスロを打ちながら、そうボヤく。さっきからまるで当たらない。イライラはつのり、爆発寸前にきていた。タバコが切れる。
 「くそっ……」
 タバコは車にあったハズだ。コインを数枚皿に残し、タバコを取りに店を出る。

 ……だが、外に出て気が変わってしまった。もう今日はやめておこう。今日は、店が出そうとしていないようだ。
 車に乗り、駐車場を出る。人でも轢(ひ)いてやりたい気分だ。
 助手席の足元に、プラスチックの容器が3つ。液状の農薬が入っている。盗んできたものだ。

 「あ〜つまんないわぁ! ……死んでやるかぁ〜、こん畜生っ?!」
 農薬を飲み干すイメージ。だが、本当にはやらない。

 しばらく無言でドライブを続ける。国道を南へ向けている。
 (やる事ないね……)
 影である、自分。できる限りの悪事を、行ってきたつもりだ。だが……、それも思い返すと「くだらない」の一言で収まってしまうような気がした。
 「無意味だったのかな……?」
 影は顔をしかめる。

 ――ふいに感じる、右肩の違和感。
 そこには何か、美しいものが見えるような気がする……。

 やや急ブレーキ。
 交差点。車が詰まっている。
 ……暑い。エアコンの効きが悪い。

 信号が青に変わる。だが、車はなかなか流れない。
 聞こえるクラクション。苛立っているのは、自分ばかりではないようだ。……ややあって、また信号が変わる。進めなかった。影は首を振る。

 「こんの……ボケッ!!」
 急激に襲い来る、猛烈な苛立ち。影はブレーキをアクセルに踏み変えた。
 ……ガン。
 鈍い音を立て、前の車にぶつかった。


 途端、若い男が2人出て来る。柄シャツにサングラスをし、金や白に髪を染めている。
 「よぉ姉ちゃん……? ぶつけてくれたねぇ?」
 金髪が、運転席のガラスをノック。むかつく顔だ。佐々木の影はまたアクセルを踏み、車をぶつけてみた。
 「おい! 何やってんだよ……?! ふざけてんの?」
 男達がドアを叩いてくる。信号が変わり、佐々木の後ろの車が、流れ出す。
 「そうよ。ふざけてんだよ」
 影はニィッと笑う。

 妙な笑い。男達は一瞬凍りつく。だが、場の正当性は自分達にある。引き下がる訳にはいかない。
 「姉ちゃんよおっ!! ちょっと降りて来いや、この野郎っ!!」
 ドアを蹴り出す。
 影は心地良さげに、車の揺れに身をまかせる。
 そしてしばらくして、ドアを開けた。

 佐々木の影が身を出すと、男達は言葉を失った。
 ――ひどく、いい女だ。途端に胸がうずく。

 「……えへへ、姉ちゃん……? なんで車ぶつけたの? これってスゲぇワザとらしいじゃん? なぁ?」
 「新手のナンパだったりしてな〜? つっても、手が込みすぎかぁ? でもさ、ムカつくのわかんでしょ? ほら、車って大事じゃん……?」
 男どもは盛り上がる。
 影はいきなり、金髪を拳で殴った。 

 「お……何すんだ、この野郎っ?!」
 もう一人の白髪が食ってかかってくる。影は薄く笑うと、その男も拳で黙らせた。頬を殴ると、一撃で歯が数本飛び散った。
 車に戻り、農薬を持ってくる。そしてうめいている白髪の顔を押さえこみ、その口の中に流した。

 「うぼぼぼぼっ!!」
 男は青い液体を注がれ、呼吸困難に陥る。液体を容器の半分ほど流した後、男の口を手で塞ぎ、その頭をシェイクした。
 ……しつこく、シェイクする。男は目を回し、やがてぐったりとして、抵抗をしなくなった。
 影は次に、金髪にまた足を向ける。
 「うわぁあああっ!!」
 男はきびすを返して車に乗り込み、急発進した。

 「追えば、楽しくなるかしらね?」
 影も素早く車に乗り込み、その後を追った。

 猛スピードで男の車は逃げる。反対車線にはみ出ながら、メチャクチャに走行する。影も、笑いながら追いかける。
 そして、衝突音。交差点で、男の車は数台の車ともみくちゃになった。横転する。

 影は素早く急停車する。
 「……あぁあ。なんだか、ざまぁないね……?」
 大事故だ。交通が留まる。


 ――ズキリ。突然、右肩が痛む。
 「……何よ? 蜂(ハチ)?」
 そうではない。その痛みは、胸に伝わってくる。
 影は思わず胸を押さえる。
 「いてて……なんだってのよ……?」

 ふと、眼前に蝶が見えた。フロントガラスの前を飛んでいる。水色の蝶だ。
 影は呆けて、見惚(みと)れる。今までもたまに、目にしていた。なんだか不思議な蝶に思える。

 小さく、届く声。
 ――よくも。よくも、アタシの顔でそんな事を……!

 「はぁっ?」
 影はわからず、首をひねる。
 蝶は消え去る。

 気づくと影は、歯ぎしりをしていたのだった。


― 13 ―


 追い立てられているかのように、佐々木はその温泉町を後にした。その町のせいではないだろうが、ここ数日の寝覚めがどうも芳(かんば)しくなかった。
 バッグと共にまた、電車に揺られる。

 ――目的のない、旅を続ける人生。テキトウで、行き当たりばったりの生き方。
 そして、遠いようでおそらくはすぐ近くにある、死。……死については、いつでもよく考える。明るい性格のつもりでいるが、実は悩み症なのかもしれない。

 また初めての駅に着く。駅の構内は広い。少し大きな都市なのだろう。
 改札を抜け、駅の外へ出て、町を見渡す。
 駅前を見た限りでは、どこにでもあるような町だ。見える建物はそう目新しいものではないが、駅前はかなり開けていて、近代的な整備がされている。
 「いらっしゃ〜い」
 駅前に屋台が並んでいる。お好み焼き、たこ焼き、焼き鳥屋など。見るとどうやら、祭りをやっているらしい。
  
 タイミングよく、山車(だし)が、駅前に顔を見せる。華やかな賑わい。笛と太鼓の心地よい響き。
 佐々木は笑顔になり、ベンチに腰かけ、焼き鳥とコーラで祭りをしばらく堪能する事にした。


 ――平和で、楽しい日常。
 世の中はおそらく、平和なのだと思う。むごたらしい事件や、悲しい死のニュースがそこかしこに起こっているとしても、全体としては、ほとんど何も起きていないかのように、平和なのだろう……。

 山車には着飾った子供達が大勢、段になって乗っており、小太鼓を叩いている。周囲を囲む大人達も、旗や祭り傘などを手に、賑やかに踊っている。
 (……アタシは……何をしているんだろ……?)
 非生産的な毎日。誰とも関わりのない日々。パチスロをして、食って寝て風呂に入って、電車に乗って……の繰り返し。自由は楽しいが、何も残らないのでは、やはり虚しくなる……。
 ため息が出る。

 世の中を見て歩いても、劇的なものには、なかなか出会えない。ちょっと、見知らぬ人と挨拶を交わす程度だ。
 ――自分は、劇的な人生を求めている。
 その基本はやはり、人との関わりあいなのではないだろうか?
 だが、こうしている今。人と深く関わるという事は難しい。自分は住所不定で年齢不詳で、はっきりと名前もわからない、そんな「形」のない女なのだから。
 山車が過ぎ去り、賑やかさも去る。
 焼き鳥を食い終え、呆ける。
 「何もない女だね、アタシってば……」
 だが、そんな弱音はすぐに捨ててしまいたくなる。天気のいい空。両手を伸ばして、自分を投げ出したい……。

 そこで白いワンピースの子供が目の前を行き去り、思わずぎょっとする。メリーを連想したのだ。
 ――思い出す。
 少女の腕を引きちぎったメリー。麻薬を舐めて、泡を吹いたメリー……。真っ白なドレスに包まれた謎の妖怪、白いメリーさん……。
 (アイツのせいでアタシは……)
 ――記憶を失った。家族、友人、知人らとのつながりも断たれた。

 (でも、探そうったって……アテもないしさ……)
 佐々木は唇を噛む。
 「えい、くそっ!」
 勢いよく起き上がり、バッグを肩にかける。
 (動き出したいのよ……! でもアテが無いんだから、しょうがないじゃない……)
 顔をしかめて、佐々木は町へ出向いた。





 昼。児玉は近くのコンビニまで歩いていき、サンドイッチなどを買い込み、温泉施設に戻った。
 また、レストルームでマンガなどを読む。だが、その怠惰(たいだ)さに、やや落ち着きを見出せなくなってきた。

 お金も、いつまでも続かない。あれから1週間。4万円あった資金は、残り1万と少しまで減った。1日、朝食付で2500円の宿泊料なのだが、昼と夜の飲食代もあわせると、1日3500円はかかる。
 後、1週間とここに居る事はできない。その前に、なんらかの行動を起こす必要がある。
 (やっぱり、警察に行かないと……)
 行けば……、何か起こりそうで怖い。だが、このままでは生きていけない。
 アルバイトなどをするにも、身元不詳ではどこも雇ってくれないのではないか? だから結局は、警察に行かなくてはならないのだ。そうしないと、この先生きていく事すらできない。……そう児玉は自分に言い聞かせる。

 ――交番ではなく、警察署の方へ行こう。そこなら、何か起きたとしても、警官は大勢いるだろうし、きっと守ってもらえる。
 だけど、自分が引き起こすかもしれない「何か」が、警察の力を物ともせずに、そこでひどい惨劇を繰り広げるのだとしたら……。
 そう考えるとやはり、警察に行くのには否定的になってしまうのだった。
 でも。本当に何か起こるのかどうかはわからない。そんな気がするだけで、実は何も起こらないかもしれないのだ。記憶が無いから、頭の中が妙な混乱を起こしているだけなのかもしれない。

 マンガを閉じる。
 (……やっぱり、警察行こうよ……。このままじゃ、何にもならない)
 レストルームを出て、また施設の外へ出る。思い立ったらすぐ行動。そういう活力に体が動かされる。それはやや強迫観念に似ている。記憶があった頃、自分は行動できなくて後悔ばかりしていたような気がする。

 外。眼前には国道。その歩道を歩いていく。警察署の位置がわからない。駅かどこかを探して、町内の案内看板などを見つける必要がある。この温泉施設に来る前、駅で目覚めたのだが、そこまでは歩いてだいぶかかる。そしてそこは無人駅だったはずだ。町内の案内図があるかは微妙なところだ。できるなら別の駅を探したい。
 「自転車が欲しいな……」
 歩いた先に書店があった。汗をぬぐい、呼吸を整えてから、書店に入る。

 高校数学の参考書を買い、近くの交番を教えてもらった。参考書はついでではなく、勉強したかったからだ。自分はまだ、学生なハズなのだから。
 交番まで、歩いて10分もかからなかった。それを前にして、鼓動が早まる。
 (何も起こらないよね……?)
 やはり、自分の身元確認をお願いするのは、警察署にしておくべきか。悩む。
 足を踏み出せない。どうしても、中に入れない……。
 知らずと泣き顔になる。手が震えている。

 (やっぱりダメだ……)
 そうして振り向いた先。女がこちらを見ていた。
 頭にバンダナを巻き、軽装の若い女。
 見覚えがあった。記憶が呼び戻される。……あれは、自分のドッペルゲンガーだ。

 「……ねぇお元気、もう一人のワタクシ?」
 笑顔で近づいてくる。逃げようと思ったが、足を踏みとどめる。
 児玉はその女を、睨んだ。


― 14 ―


 児玉がじっと睨んでいると、影は笑った。
 「睨んでいるより……普通は、逃げない? アンタも変な子ね」
 背には交番がある。何かあっても、きっと大丈夫だ。児玉は足を落ち着かせる。

 「……アンタがね、あの温泉に泊まってるのは知ってた。なんか夢で見えちゃってね。あの時出会った事で、アタシらに何かつながりができたんだね、きっと。……で、ネットで探したらあの温泉、すぐ見つかったよ。それでわざわざ遠出して、ここまで来ちゃったワケ。昨日の夜、来てみたんだ」
 影は児玉に近づき、馴れ馴れしく肩を叩く。児玉はその手を振り払う。
 「……まぁそう邪険にしないでって。アタシはアンタを助けに来たんだからさ?」
 「助けに……?」
 思わぬ言葉だが、警戒は解かないでおく。
 「うん。そんなトコ。……で、あのメリーっての? アイツ、人をこき使うのよね……腹ぁ立っちゃってさ。あ、こんなトコで立ち話もナンだし、サ店でもどう?」
 畳み込むように喋られ、児玉はやや辟易(へきえき)する。
 ――目の前にいるのは、もう一人の自分である。それはわかる。
 そして、おぼろげな記憶では、悪意を持った相手であったハズだ。敵対するものだったハズだ……。

 影は苦笑を見せ、しばらく間を置いた。
 「……児玉ちゃん。アタシの話、聞きたくないのかな?」
 そう言われると、無碍(むげ)に断るのも勿体無い。今、目の前にしている影からは「殺意」や「悪意」といった狂暴な意思は全く感じられない。勿論、油断は禁物なのだろうが。
 「……いいですけど」
 だが、児玉は誘いを受ける事にした。どの道、ここで断ったところで、今後生きるために何か良策がある訳でもない。
 「で、助けてくれるって……、どういう事ですか?」
 そう言うと、影は顔を輝かせた。逆に児玉は顔を曇らせる。
 「いいからいいから……話は落ち着いた所でしましょうよ? おいしい物食べよう?」

 ――自分と同じ顔。面と向かっているだけで正直、気持ち悪い。だが、妙な安心感が湧くのも確かだ。目の前にしている女は確かに、自分の片割れなのだとわかる。おそらく他人より、理解できそうな気がする。
 「じゃ、この先行ってみよう? サ店くらいありそうな雰囲気だし」
 影は歩きだす。児玉はその後をついていく。


 「いらっしゃいませ」
 暗い雰囲気の喫茶店。内装にはレンガ、照明にはランプが使われている。
 席につき、テキトウなものを頼み、話を始める。

 「はっきり言ってさぁ……、つまんないのよね」
 そう影は切り出す。
 「学校とか、友達とか……会話もバカみたいだし、授業は眠くなるだけだし。ストレス溜まるだけなのよね、アンタらの生活ってのは……」
 まるで友達が話す愚痴だ。
 「……その挙句、メリーがアレやれコレやれってうるさいしさ。言う事聞かなきゃ殺す、ときたもんだし……やってらんないのよ、正直」
 「……メリー……?」

 ――記憶の中に微かに見えた、白いドレス姿。

 「そうだよ。白い、メリーさんっての。妖怪だね」
 「妖怪……?」
 いやに現実味のない言葉だ。だが、目の前にしている女も、ドッペルゲンガーなどという、現実味を感じさせない存在だ。そんなものと会話している今、まるで夢にいる錯覚に飲まれる。

 影はコップの水を飲み干し、氷を噛み砕く。
 そして、身を乗り出してくる。児玉は思わずぎょっとする。
 「あのさ、別にメリーには聞かれていないから、大丈夫だって。アイツ、アタシらと意識はつながっていないのよ。絶対、万能なヤツじゃない。だからアイツは、何をするにも電話に頼るのよね」

 「あ、そうそう……。アンタに渡しておく物があるよ」
 そう言って、影は携帯電話をテーブルの上に置いた。
 「アンタとアタシの連絡用。新しく加入しといたから」
 「……え?」
 わからず、児玉は顔をあげて影を見つめる。
 「……わかんない? アタシはアンタの助けになるって言ってんのよ。何か金に困ったりとかさ、そういう事のお知らせ用の携帯だよ」
 「……えぇっ……?」
 「いいから、受け取りなって。プレゼントだよ」
 児玉は震える手を伸ばす。
 「ありがとう……」
 影の真意はわからないが、受け取っておく。

 2人のパフェが来る。
 「アタシのおごりだから」
 影は人なつっこい笑みを浮かべ、どうぞ、と手を差し出す。
 「……ありがとう……」
 児玉もパフェを食べ始める。食べるのは久しぶりだ。


 「アタシには……妙な「甘え」があるようでね。おそらく、アンタゆずりの甘えがね……」
 「……甘え?」
 「そうだよ。何事もうまく行く、っていうような、甘えかな。最悪の事態はあんまり考えていない。結構さ、どっしりしてるんだよね、アタシ達……?」
 児玉は首をひねる。
 「アンタと連絡を取って、相談に乗ってもらおうって根性からして、アタシはどっか間違ってる。影として、2流だね。3流まで落ちるかもしれない」
 そして笑う。児玉も笑ったが、すぐ表情を撫で下ろした。
 「……相談??」
 「うん……、まぁアンタを助ける代わりに、アタシの相談にも乗ってほしくて」
 「どんな事……?」
 「わかるでしょ? ……つまんないから、何とかしてってのよ」
 「……は?!」

 影は顔をあげて見つめてくる。
 「バカみたいなのよ、アンタらの生活。すげぇつまんない。アホくさい。……だからさ、何とかしてほしくってね……」
 「何とかって言われても……」
 児玉は悩む事しかできない。

 「当分はね、あのメリーの言いなりになっておく。でもさ、機会が来たら、なんらかの協力をしてもらいたくって。はっきり言ってさ、あのメリーっての? ……アイツ、殺したい」
 そう言われ、児玉には思い出すところがあった。

 「……アナタ、人を殺したでしょ……?」
 ――思い出される、警官の悲鳴。
 「は? それがどうかした? あの警官の話でしょ?」
 「どうかしたか、じゃないわ! ……それは悪い事なのよ。わかるでしょ……?」
 児玉は顔をしかめる。記憶はそれ以上、戻ってこない。だが、目の前にしているもう一人の自分は、確かに人殺しなのだ、とわかった。
 「……んまぁ……そうなんだろうね。アンタが止めろってんなら、止めてもいいけど?」
 「じゃ、止めて! 今後一切。絶対に」
 児玉に凄まれ、影の方が周囲を気にしだす。
 「……わかりました。神に誓って。神サマなんか、クソくらえだけど」
 「ちゃんと誓って!」
 「うるさいねっ!!」
 影は立ち上がった。

 「アンタさ……、調子にノッてんじゃないよっ!! 金無くて困って、半ベソかきゃあがってたくせによっ! エラそうに……」
 そこでウェイトレスが「お客様……」と来る。影は平手打ちで跳ね除けた。
 「……連絡用の携帯は受け取っとけ。いいなっ!」
 そして、出てくるマスターをも跳ね除け、影は店を出た。

 児玉は2人に謝り、千円札を2枚テーブルに置くと、影を追って店を出た。


― 15 ―


 「待って!」
 児玉は影を追う。
 「なによ、うるさいわねぇ……?」
 歩道の先。影は素直に立ち止まっていた。

 「……ねぇ。誰も、傷つけないで欲しいのよ……! お願いだから……」
 児玉は必死で説得を試みる。だが影の目は冷たい。
 「ムリな相談だね。アタシはやりたい事を、やりたい時にしたいんだから。妙な約束事はできないね」
 「そんな……ねぇ、お願いだから……!」
 児玉は影にしがみつこうとする。影は大きく身を引く。

 「うるさい娘だねぇ。……もうついて来ないで頂戴? アンタなんかに頼ろうとしたアタシがバカだったのよ。何か頼もうにも、アンタなんか役に立ちそうもないしね。……アタシの言う事にさ、もう少しハイハイ言ってもらえたら、アタシも助かったんだけどね」
 影は児玉に背を向ける。

 児玉はその背を強く見つめる。
 ――このまま引き下がるワケにはいかない。
 足を踏み出し、影の腕を強くひいた。

 「ダメよ! ……絶対に、約束してもらうわ!」
 児玉はありったけの勇気を振り絞る。しかし、影は返事の代わりに、児玉の頬を拳で殴りつけた。

 「ああっ!」
 頬に広がる激痛。よろめいて、膝を折る。弾みで、携帯電話を落としそうになる。よろめいた先、道行く人が数人、驚いて立ち止まる。
 「……今度アタシに触れてみろ。殺すぞ」
 影は立ち去る。児玉はその背を絶望の思いで見つめる。

 ――初めて受けた、ヒトからの暴力。
 驚きと痛みで、足がすくむ。だが、どうしても引き下がれない。自分自身に、もう誰かを殺させるワケにはいかないからだ。

 また影の元へ。影は苦笑し、立ち止まっている。
 「……アタシはそんなにしつこい性格じゃないんだけどね? 同一人物にしてはおかしいわね」
 「……約束するまで、アタシは引き下がらない」
 児玉は影を睨み付ける。

 2人はしばらく睨みあう。
 影の目から感じられる殺意を、児玉はじっとこらえる。
 そして折れたのは、影の方だった。
 「……わかったよ。下らない約束だけど」
 そう聞いても、児玉の表情は揺るがない。
 「……わかったって! アタシはしつこい奴は嫌いなのよ! ……その代わり、あのクソいまいましいメリーをいざ殺すって時は、どんな協力でもしてもらうよ? いいね?!」
 児玉はうなずいた。

 「……じゃあ、もうアタシは帰るから。電話あげたんだからさ、旅の途中にでも、なんか面白い話があったら聞かせてよ?」
 「旅をする必要はないよ。アタシもウチに帰りたい」
 児玉はそう訴える。だが、影は首を振る。
 「アンタの事は誰も忘れてる。アタシが元々アンタだったって事に、世の中書き換わってしまってるんだ。家に帰ったところで、気持ち悪いそっくりさん、としか見られないよ」
 「じゃあ、近くにいる……どうせ、行く所ないもん……」
 「やめといた方がいいね。アタシは電話でメリーとつながっている。アイツはいつでもアタシの所に現れる事ができるのよ。アンタが近くにいる事がバレたら、更にひどい目にあうわ」
 そう言い、影は違和感に巻き込まれた。
 「……だよね、よく考えると」苦笑を広げる。「アイツはいつでもアタシの所に……」
 影は青い顔で、周囲を見回す。

 「……軽率な行動だったかもね。ホントにもう、別れるわ。アイツに感づかれたら終わりよ」
 影の足取りがおぼつかない。
 「……ねぇそう言えば、携帯の充電器、ウチに忘れてきたのよね。当分は携帯ショップででも充電してもらって? また、アタシに電話をするのも必要最小限にして頂戴」
 影の弱々しい口調。
 影が恐れるメリーを、児玉も恐れ始めた。





 電車内。児玉の影はマンガを読みながらも、落ち着かないでいた。
 いつメリーが現れても不思議ではない。そしてその力は未知数だ。人間の記憶を書き換える事ができる、というだけで底知れぬものを感じる。一人の存在をねじり潰す事など、きっと造作もない事なのだろう。

 (いい迷惑だね、まったく。メリーなんて化け物と知り合いになっちゃうし、人間の生活に摩り替わったところで、いい事は無いしさ……)
 だが。自分の存在感、というものを得た気がしていた。今までは生きている実感がなかった。家族も友人もなく、生活する場もなかった。腹も減らなかった。そして自分の存在というものは、時に消えたりもしていた。眠る、という習慣も無かった気がする。

 「穏やかな事でも考えてる?」
 通る声に、正面を向く。
 「うわぁああっ!」
 影は悲鳴をあげ、マンガ本を投げ捨て、飛び上がる。そしてそのまま逃げ去った。

 「何よ? そんなに驚く事はないでしょう……? わかってた事なんでしょ?」
 白いドレスの少女は、影をゆっくりと追う。どうせ電車内だ。逃げられはしない。
 「非常に人間臭いところが残っている娘ね。めずらしいわ」
 ドアを開き、次の車両に向かう。
 児玉の影はその先の車両へ逃げているところだった。
 「バカな娘……」

 (くそ、どうすればいいのよ……?)
 影は考える。このままでは殺される。
 ――出入り口のドア脇に、消火器。
 手に取る。
 「コイツでもぶっかけてやる?」
 
 メリーが来る。
 「何やってるのかしら、児玉さん……? ゆっくりお話もできないの?」
 影はわめく。
 「何がお話よ! アンタなんかと話す事は無いわ! ……アタシはねぇ、アンタを殺そうと思ってるだけなんだから! 人間なんてつまんないのよ。……まったく迷惑な事をしてくれたよ、アンタは!」
 そう言うと、メリーは首をかしげた。
 「アラ、おかしいわ。貴方は人間になる事が、何よりの悲願だったハズよ? オリジナルと摩り替われて、とても満足しているんじゃないか、と思ってたわ。もしかすると……記憶を書き換えたばかりだから、少し支障が出ているだけなのかもしれないわよ? 人間の生活に対して倦怠感(けんたいかん)を持っていたのは、オリジナルの記憶のなごり、かもしれない」
 「ふん……どの道、3日で飽きたわよ、あんな生活。クソ面白くないだけ」

 メリーは児玉の影になおも近づく。影は消火器を床に置き、安全栓を外して、ホースをメリーに向ける。
 「アタシは火じゃないんだけど?」
 メリーはクスクス笑う。
 「……あのね、アタシのやった事に不満があるんなら、なんでもおっしゃってくれて構わないのよ? どうとでもできるんだから」
 影は、そう言うメリーをじっと見つめる。
 「どの道、私を殺そうなんていう考えは、無謀以外の何物でもないわ。貴方方にはちょっと無理でしょうね? ましてや、そんな消火器なんかで……クスクスクス……」
 「死ね、どバァカ!」
 影はレバーを握った。

 勢いよく吹き出る白い粉。
 車内が騒然となる。
 「アハハハハッ!」
 影は笑うが、後の事は考えていない。きっと殺されるんだと思い、すぐに酔いは覚めた。
 数秒で粉の噴射が終わる。

 粉に塗れたメリーが眼前に立っている。その顔がひきつっていた。
 「児玉さん。他のお客さんにご迷惑でしょう……? どうしてこんな事をするの?」
 消火器を奪い取り、それを振り上げる。
 「うわぁあああっ!」
 それは影の頭上に叩きつけられた。


― 16 ―


 「うあぅっ!!」
 突如、頭に受けたひどい衝撃。児玉は無人の歩道で倒れこむ。

 「痛ったい……」
 顔をしかめ、周囲を見回すが、何もない。誰も近くにはいない。……見えない所から、石でも投げつけられたのだろうか? そう思い、怖くなって、早く安全な所へと急ぐ。
 目の前にはコンビニ。痛い頭をさすりながら、とにかく入る。

 「いあっ!!」
 思わずまた出る悲鳴。レジ前でうずくまる。
 「どうされました?!」
 店員が駆けつける。

 「すみません、頭が急に痛くなって……」
 そう言いながらもまた受ける鈍痛。どっと涙があふれてくる。
 「あの……救急車、呼びますか?!」
 そう言われ、うなずきかけた頭を横に振る。……自分はもう、人間じゃない。住所や名前を聞かれたところで、何も答えられない。保険証もない。病院へ行ったところで支払える金もそんなにない……。
 「いいです……すみませんでした……うぅあっ!」
 身をよじってその場に倒れこむ。
 別の店員が様子を見に来る。
 「……救急車、呼びますよ?!」
 だが、児玉は立ち上がり、そこからよろよろと逃げた。





 「おい、何してるんだ、やめろっ!」
 消火器騒ぎで粉を浴びせかけられた乗客らが、自分の顔などをほろいながら、メリー達の乱闘を止めに入ろうとする。だが、白煙が立ち込め、よく見えない。
 「窓開けろっ!」
 快速電車ではないため、窓は開閉式になっている。やがて薄くなる煙の中、メリーは数人の男達に押さえつけられ、凶器の消火器を奪われた。

 「何だってこんな事をするんだ……? 2人ともっ!」
 そう言うが、消火器で殴られた少女は、床に突っ伏して意識も無さそうだ。
 「おい誰か! 車掌……乗務員に、ケガ人が出たと伝えてくれ!」
 そこで恐る恐る、周囲を見回しながら一人、主婦が立ち上がる。
 「早く!」
 急かされ、主婦は駆け足で前の車両へ。

 「なんなんだ、お前は……ガキのくせして、こんな乱暴な事をして……!」
 中年のサラリーマン。メリーはにっこりと微笑みを返す。
 「ほら……真っ白になってしまって……。でも、いくらなんでも、消火器で人を殴るなんてやりすぎだぞ……?」
 親切心でメリーの頭や顔をほろうが、一向に白さは変わらない。
 メリーはなおも笑う。サラリーマンはほろうのを止め、後ずさる。

 主婦とともに、乗務員がその車両に現れる。
 「ケガ人ですか?!」
 まず視界に入った薄く立ち込めた煙に目を見張り、そして白いドレス姿の少女にぎょっとする。だが、ケガ人が出たと言うのであれば、その具合を見るのが何より先決だ。
 ケガ人の少女を確認する。頭から血を流して倒れている。重傷だ。
 「この消火器で殴られたんだよ、この白いガキにさ……」
 いかつい男は、メリーを顔をしかめて見やる。メリーはすました顔だ。
 乗務員は上着を脱いで枕代わりにし、少女の頭をそっと乗せ、床に落ち着かせる。
 「最寄の駅まで後数分ですので、しばらくお待ち下さい。駅に救急車を向かわせますので」

 「グワァアアアッ!!」
 その時、突如あがった叫び。乗務員が跳ね除けられる。
 児玉の影は、白い塊、メリーに襲いかかる。
 気を緩めていたメリーは、その頭をつかまれる。影はそのまま強引に、床に叩きつけようとする。

 「ウアーーーッ!!」
 メリーがあげる叫び。2人はもつれあって、乗客らの上に倒れ込む。
 「死ねぇええっ!!」
 メリーの頭を両手で掴み、床に押し付ける。だが倒れている客達が邪魔で、ダメージを与えられない。
 「このクソッ!!」
 拳を握って、その顔を殴る。死に物狂いだ。――ここでやらねば、殺される。
 数回殴る。やがて、メリーは口から白い液を吐き出した。影はぎょっとする。だが、それはメリーなりの血なのだろうと解釈し、なおも力の限り、殴り続ける。
 「やめろっ!!」
 乗客らが、今度は影の方を抑え込む。だが、影は払いのける。
 「わかんないの?! コイツは化け物なのよ?! アタシは退治するヒトッ!」 
 都合よく、そういう事にしておく。

 だが、それも長くは続かない。
 メリーが放った渾身の平手打ちで、影は軽々と弾き飛ばされた。客をなぎ倒し、影は座席に腰からぶつかり、床に転がった。

 メリーは荒い息を吐きつつ、顔を押さえ、うらめしそうに児玉の影を見る。
 「……いたい……」
 震える足を立たせる。そしてよろめきつつ、後ずさる。
 影は思わぬ効果に目を見張る。殴打ぐらいでメリーにどれだけの衝撃を与えられるか、特に期待はしていなかったのが……、こうして見ると、後ほんの一息に思えた。
 ……メリーは思った以上に、かよわいのか?

 電車の速度がガクリと下がる。次の駅が近い。
 影は顔を輝かせて、起き上がる。――本当に、殺せるかもしれない。

 影は嬉々として、メリーに近づく。
 メリーは突如表情を変え、歯を剥き出した。


― 17 ―


 メリーの獰猛な顔。
 影はギクリとして、向いた足を止まらせる。

 メリーは口元を押さえ、影を睨んだ。
 「よくも……こんなマネを……」
 静かだが、強い怒りを向けられている。その眼差しの鋭さに、影は思わず目をそらす。

 メリーが来た。
 床を踏み鳴らしながら、真っ直ぐ、影へと近づく。
 ――襲い来る、死の予感。
 「畜生っ!」
 影は次の車両へと逃げる。だが、その背を見せた途端、腕をメリーに掴まれていた。

 「わぁあああっ!!」
 振りほどこうとするが、がっしりと掴まれて、離れない。
 ――指が腕に食い込む。筋が悲鳴をあげる。今にも、へし折られてしまいそうだ。
 「グワァアアアッ!!」
 怒声を上げ、影は空いている腕で、メリーの横っ面を殴った。
 よろけるかと思いきや、メリーは顔を殴られた通りに動かしただけで、今度は痛がる風でもなく、ニヤと笑ってみせた。

 「ぎゃぁあああっ! 畜生ッ!!」
 影はもう抵抗もできずに、苦痛に身をよじるしかない。
 バキッ。
 振り絞るような、影の絶叫。腕の骨が折られた。その音とともに、周囲の客達が硬直する。誰も、助けに出る事ができない。
 メリーは手を放す。影は折られた右腕を押さえ、倒れこんだ。苦痛に身をよじり、うめくしかない。

 メリーは客達に目を向ける。
 客達は逃げ腰になる。この白い少女の人並み外れた怪力を見せ付けられ、犠牲者にはなりたくない、と願うばかりだ。 
 そのまま、電車は駅の構内に滑り込んだ。

 ややあって、駅の構内に電車が停まる。電車内で怪我人が出たという、緊急事態を告げるアナウンスが周囲に響いている。
 白服の救急隊員が3人、担架とともにホームで待機していた。

 電車内から始めに姿を見せたのは、白いドレス姿の少女だった。全身が真っ白だ。隊員達は視線を止まらせ、事情の想像を試みる。誰かのタチの悪いイタズラで、白いペンキでも被せられたのだろうか?
 少女は口元を押さえ、痛がっている。通報のあったケガ人とはこの少女なのだろうか、と隊員達は駆け寄る。
 「大丈夫ですか?!」
 だがその矢先、少女に射抜かれるような目を向けられ、隊員達は疑問に言葉を失った。

 そうしている内、主婦が顔を出し、隊員達を呼ぶのに気づいた。
 「コッチです! 早くっ!」
 担架とともに、隊員達が車内に入る。

 ケガ人と見られるのは、若い娘だ。右腕を押さえて、床にうずくまっている。その頭部も血に濡れている。
 1人の救急隊員が周囲の客からの聞き込みに入り、他の2人は応急手当を開始した。





 メリーは駅を出、顔を曇らせながら、路を行く。
 「……いたい……」
 言葉はそれしか出てこない。今は気力も失いかけ、殺意も何も浮かばなかった。
 ――血が止まらない。
 白い血はとめどなく、口内を溢れさせる。何度も吐き捨てる。
 襲いくる言い様のない不安に、メリーは飲まれている。血を流したのは、初めてであるような気がする。メリーに月経は無い。
 ――考えた事も無かった、自分の死。それがこういう形で、突如として訪れたというのか……?

 ふいに、メリーは足を大きくよろめかせた。
 体がグラリと横に倒れ……そのままメリーは消えた。





 ――人を殺すと見える、水色の蝶。
 佐々木の影はその正体を掴むべく、人を無差別に殺し続けた。

 蝶は時に、人間の言葉で嘆きを見せる。そして、佐々木の影はそれとの強いつながりを感じていた。
 今は、人間としての生活を当分放棄するつもりで、車を思うがままに走らせていた。無論、蝶とは関係の無い、検討違いな所を走っているのだろう。だが、その事は深く考えないでいる。殺人を続けるゆえ、一定の場所に留まるのではやりにくい、との判断からだった。

 この夜もホテル街の裏道で、半裸姿の娘をナイフで切り殺したばかりだった。殺すのは慣れすぎて、もう何の感情も湧かない。抵抗されると少し嬉しい、と思える程度だ。どの道、殺すのは一瞬で、長々と時間をかけたりはしない。
 影は女を殺した後、ナイフの血をハンカチで拭き取り、鞘におさめた。それをハンドバッグに入れる。影は、OLの姿を装っていた。それ一着で、大概の場所へ行けるからだ。
 ハンカチを捨て、その場に座り込み、周囲を眺める。

 汚れたビルの壁面。落ちているゴミの類。髪を鮮やかな金髪に染めた、この若い半裸娘はこんな所で何をしたかったのだろう?と影は考えてみる。
 死体を見ていると、こちらの方が惨めな気持ちになってくる。

 ――すい、と空から蝶が現れた。
 影は目を輝かせる。その蝶はやはり、美しかった。夜空に夢を描くように、光り輝いている。まるで妖精だ……。
 「ねぇ……アタシの手にとまって?」
 影は両手を差し出す。蝶は首を振るように、影の背後に回る。影は笑みを浮かべて、その姿を追う。

 「ねぇ、アンタは何なの……? アタシの路しるべ? ……もっと殺してほしいの??」
 そう言うと、蝶は影の眼前に留まった。
 何らかの答えを期待して、影は言葉を待つ。

 だが気づくと、蝶は消えていた。





 ギリッ。
 ひときわ甲高い歯軋りの後。佐々木は目を覚ました。ここはまた新しい旅館の一室だ。

 涙を拭く。そして布団の中、肩を強く抱いた。
 「……悔しい事だけは覚えてるのに……」 
 夢の、おぼろげな記憶を辿る。だが早くも、思い出せる事は……何も無かった。

 「なんですぐ、忘れてしまうのよ……?」
 見ていたのは単なる、悲しい夢であったのかもしれない。それとも何か、本当に大事な事であったような気もする……。
 寝起きに、涙を流している事はめずらしくない。きっと、夢の中の自分は、度々ひどく悲しいものを見ているのだろう。

 浴衣姿。半身を起こしてため息をつく。
 「……白いメリーさん……」
 自分の人生を狂わせたモノ。数年の時を隔て、数週間前に再び会った、あの白い少女。そのメリーによって、自分は夢で苦しめられているのかもしれない……。
 
 ぼんやりと、部屋内を眺める。……毎晩、旅館暮らし。落ち着いた居場所も無く、転々とし続ける。金のムダ使いだ。……だが自分は、金を湯水のように使ったところで、いくらでも好きなだけ稼ぐ事ができるのだ。……ギャンブルで。
 「こんな人生で良いワケがないのはわかってるよ……」
 ――働きもせず、誰とも関わる事もなく、生き続ける。気づけばやはり……、虚しい人生なのだ。

 顔を思いっきりしかめた後、体をほぐす体操を始める。
 「また自転車で旅行するかな……?」
 運動をすると、気分も冴える。早速、自転車を購入する事に決めた。
 そして何らかのキッカケを掴むまで、できるだけ怠惰な生活はしないようにと、心に刻むのだった。


― 18 ―


 高速道路を運転中、急にひどい眩暈(めまい)に飲まれ、佐々木の影は次のパーキングエリアに入る事にした。眩暈は断続的に起こり、影は休憩の必要を感じたのだ。

 パーキングに入る。広大な駐車場に、車はあまり停まっていない。
 車を降り、外を眺める。
 携帯電話が鳴った。また金貸し業者だろう、と顔をしかめる。今や借金も数百万と大きく膨らんでいる。仕事もせず、勝てないギャンブルを続けているお陰だ。どの道、利息だけで月に10万近くいく。これでは働いたところで、どうにもならない。
 だが、電話はそうではなかった。その番号を見て、先ほどの違和感が何なのか、佐々木の影は理解した。その番号は……、メリーだった。 

 「……さ、佐々木です」
 「佐々木さん。お久しぶりね。お元気でした?」
 メリーの声は明るい。だが佐々木の影の緊張は緩まない。
 「……お蔭様で……」
 言葉が口を突いて出てこない。頼まれもしない大量殺人をした事を、咎(とが)められるのだろうか?などと推測する。
 「最近の貴方はどうしてます? 近況を教えてほしいんですけど」
 何のつもりだ?といぶかしむが、素直に答えるしかない。

 「……近況ですか。あの……ここ数日、自宅を離れておりました。少し、気になる事がありまして……」
 「気になる事って?」
 「……はぁ。特にどうという事もないとは思いますが……蝶を見るんですよ。人を殺した時など、よく目にします……」
 「……あら……?! それは思わぬ収穫だわ! ……実は、私もそれを探していたのよ」
 「そうだったんですか……?」
 「今からそちらに行くわ。私、詳しい話が聞きたいの」
 ――来るな、と言えるはずもない。佐々木の影は腹を決め、車に乗り込みエアコンをまたかけ、悪魔を待った。


 ほどなく、助手席側のドアがノックされる。佐々木の影はロックを外し、メリーを車内に迎え入れる。
 「いいお車ね? 高かったんじゃない?」
 久しぶりに見る、真っ白なその姿。あでやかな白いドレス姿の妖怪。佐々木の影は逃げ出したくなるのをこらえる。

 「この間、貴方のオリジナルに偶然会ってね。電車で。元気そうだったわ」
 「私のオリジナル……ですか。まだ生きてたんですか……」
 「そりゃあそうよ。オリジナルが死ねば、影である貴方も死ぬもの。その逆は成り立たないけどね。貴方が死んでも、オリジナルは死なない」
 影はつまらなさそうに、うなずく。
 「で、蝶のお話を聞かせて? 本当は別のお話があったんだけど、この際、後回しにしておくわ」
 「別の話……?」
 「いいからいいから……早く、聞かせて?」
 メリーは幼女の様に目を輝かせる。

 「最近……人を殺した後、蝶を見るようになりまして。以前からかも知れません。ですが、気になりだしたのは最近です」
 影はシートに背をあずける。

 「……水色の……綺麗な蝶です。なんて言うんでしょう……あれを見ると、夢を見ているような、いい気持ちになって……。たまに、人間の言葉で、私に怒りを向けてくる事もありますが……」
 「今、私のオリジナルの話を貴方から聞いて、もしかすると、と思い当たりました。あれは、私のオリジナルが見せているものなのでしょうか……?」
 「そうかもしれないわね……」
 メリーは冷ややかに虚空を睨んでいる。影の推測に同意し、疑問がやや氷解し、気持ちが落ち着いた風だ。

 「貴方のオリジナルの居場所はわかる?」
 「……いいえ……」 
 「……そう、残念ね。でもそれは悪い事じゃないわ。貴方の優秀さは私、感じるもの。貴方は俗物に溺れないヒト。貴方は私の言いつけに忠実に従ってくれている……。そういうヒトは、オリジナルとの接点が逆に弱まるのね」
 影は首を弱々しく振る。
 「じゃあ、次は私のお話。……ちょっとね、協力してもらいたい事があるのよ」
 「協力……ですか」
 「そう。協力してくれたら、貴方の望みをひとつ、叶えてさしあげるわ」
 「ほ、ほんとですか…?!」
 佐々木の影の願いは、借金の返済。それしかない。どうせなら、宝くじか何かで何億円と当ててもらってもいい。影はがぜん、乗り気になる。

 「アラアラ、現金な人ね。でも、あんまり大きな事はできませんからね。地球を破滅させる、とか。世の中のバランスがあんまり崩れない程度の事しか、できないのよ」
 そうしてメリーは笑う。
 「で、ちょっと殺すのを手伝ってもらいたいの。児玉さん、っていう方のドッペルゲンガーなんだけど、この間、返り討ちにあっちゃって」
 「返り討ち? ……まさか」
 佐々木の影は、メリーと張り合える者がいるなど、考えた事もない。
 「オリジナルと入れ替わったばかりの子でね。ドッペルゲンガーという妖怪を、私あなどっていたのかしら? 殺されそうだったのよ?」
 「信じられませんね……メリーさんがそんな……」
 「あんまりね、私も戦ってきた事がなかったから、何とも情けない話なんですけど。やっぱり人間じゃないものを相手にするのは、骨が折れるみたいね」
 佐々木の影は、唾を飲む。かと言って、ここでメリーを殺したところでメリットはない。
 「で、協力してもらえるかしら?」
 
 影は深く考える様子もなく、うなずく。「できる範囲でなら。何なりと」
 「じゃ、決まりね。このまま、車を走らせてもらえるかしら? 案内するわ」
 「わかりました……」
 影は、車を走らせた。





 「畜生め……」
 ギプスによって固定された右腕を眺めながら、児玉の影は小さく毒づいた。
 病室内。他の患者らとともに、ここ数日はぼんやりとした暮らしを送っている。

 今は母親が付き添い、疲れたのか、椅子に座ったまま頭を垂れている。
 悪くない母親だと思った。自分は愛されている。
 (ゴメンな、児玉……)
 今。自分のオリジナルはどうしているだろう。影はぼんやりそう思うのだった。

 そんな時。病室のドアから現れた人影を見て、影は思わず短く叫んだ。
 「なにっ……?!」


 現れたのは、児玉だった。
 「どうしてお前が……?」
 その右腕のすそから、包帯がのぞいている。だが、自分ほど重傷ではないようだ。
 「……貴方が、見えたの。夢で……。で、どこにいるか、わかったから……来ちゃったの」
 そして、ベッドの側で眠りこけている中年の女を見て、児玉は胸を熱くさせた。
 「……お母さん……?」

 児玉は足を震わせながら、近づく。影は思わず苦笑を漏らす。
 「お前の母さんだな。確かに」
 近づく度に、児玉は目に涙を溜めていく。ベッド側まで来ると、それはどっとこぼれ落ちた。ハンカチを取り出し、鼻水を抑える。
 「……お母さん……」

 小柄な体つき。パーマをかけたその頭。優しそうな母親……。
 児玉は長く見つめ、やがて耐え切れなくなったのか、小さく謝り、病室を飛び出した。
 「おい、児玉……!」
 だが、自分は今、たやすく起き上がれる体ではない。ため息をつき、諦める。どうせ、そう遠くへは行かないだろう。またすぐ、顔を見せる。
 そして、母親をみやる。
 「のんきに寝てんじゃねぇよ、この野郎……」
 その額を、軽く小突いてやりたい衝動にかられたのだった。


― 19 ―


 夕方。母親が病院を出てから、児玉はこっそりと顔を見せる。
 影のベッド脇へ行き、椅子に座る。

 「どうして来る気になったの?」
 影の問いに、児玉はしばらく考え込む。
 「今、頼れる人がいなくて……」
 「アタシを頼るのはスジ違いじゃない?」
 そう言われ、また黙り込む。だが、影は笑いを見せる。
 「……冗談だよ。何? もう金が無くなったっての?」
 児玉は首を振る。「まだ後、1万円くらいあるから……」
 「でも、いずれすぐ無くなるでしょ。ちょっと待ってなさい……後でやるからさ。約束だもんね、面倒は見てやるよ」
 「ううん。そんな面倒はかけたくない。とにかくアタシは、アナタに誰も殺してほしくないだけだから……」
 影は神妙にうなずく。
 「だけど、必要があったら殺すからね。ソイツは覚えといて」
 児玉は顔をしかめる。「そんな必要……どこにも無いわ……この先も」

 しばらく睨みあう。だが、お互いすぐ表情を緩和させる。
 「まぁあんまり……アタシに会おうとしないで頂戴。オリジナルと影が会って仲良くなるなんて……、自然の摂理に反しているんだからさ」
 影は目を伏せて、思いついたようにそう言う。「アタシとアンタは、分かり合えない。お互い同一人物なんだろうけど、心の中にどこか、確実に正反対なものを持っているハズだからさ」
 児玉も分かった、とうなずく。

 「アタシ、この近くにいるから……。何かあったら電話する……」
 そういう児玉に、影は強く首を振る。
 「やめといた方がいいね。アタシはもう、メリーに目をつけられている。いつまた殺しに来られるか、わからない状態だよ。こうしている今にも……ね」
 そう言う影だが、児玉は逆にメリーに会いたかった。会えば、また元に戻してもらえるかもしれない……。
 「とにかく、アタシはいる場所がないし……。お金の事も……助けてもらわなきゃならなくなるだろうし……」
 児玉の歯切れの悪さに、影は気づく。児玉は自分より、本当はメリーに会いたがっている、と。

 「……あのねぇ。メリーに会ったところで、助けてもらえると思う? そういう自分に都合のいい考えは、身を破滅させるだけ。ただ一つの甘えた考えで、死ぬ目にあわないとも限らない」
 「でも……」児玉は、助かりたい。その鍵はやはり、メリーでしかないのだ。

 「落ち着きなさいよ。まぁとにかく、近くにいるのはいいけど、できるだけ離れて頂戴。アンタに辺りをウロチョロされたら、変な噂が立つでしょ。児玉ちゃんのソックリさんを見たよ〜とかさ」
 「うん……」
 「ところで、腕の怪我は……どのくらい? 包帯巻いてんじゃん。病院行ったの?」
 児玉は首を振る。「薬屋から買って、自分で……」
 「すごいじゃん。見せて?」
 「やだ……」
 児玉は右腕を隠す。「でも、大した事なかったから。痛いから、シップだらけなの。それを隠すだけの包帯だし……それより、アナタの方が……」
 児玉は影の腕のギプスを見る。器具で固定され、痛々しい。
 「折れちゃったみたいでね。メリーにやられたのよ。で今さ、アタシの事がちょっとした事件になってるみたいね。犯人わかんないままだし。ちょっと前、警察とか来たよ? 犯人は白いメリーさんだ、って言ってやったのに、通じなかったわ、やっぱり」
 「メリーさんに……」
 児玉は自分の友達がメリーに腕を引きちぎられた光景を、ここで思い出す。
 メリーは、怪物なのだ。

 「話して通じる相手じゃないよ。アイツを殺す以外にないね。……助かりたいんなら。元の生活に戻りたいんなら」
 そう言う影を見つめる。
 「その辺はアタシら利害一致してる。アタシも元の方が生き易い気がするしね。学生の身分なんてつまんないよ。この先、退学するよ、アタシ?」
 「やめてよ……」児玉は顔をしかめる。
 「とにかくさ。メリーを殺そう。それしかないよ、アタシらには」
 影の声の大きさに、児玉は周囲を振り返るが、影にうなずきを返す。


 それからしばらく何の事はない話をしていたが、児玉は段々と気分が悪くなってくるのを感じていた。同じくして、影が軽口のように言う。
 「アンタの顔見てたらさ、吐き気がしてきたよ……。もうそろそろ帰ってくれない?」
 「うん……」気づくと視界も狭まっているような気がした。椅子からよろり、と立ち上がる。

 「やっぱりアタシら……友達になるとか、無理だよ。神サマがそう言ってる」
 と影。少し、残念そうに。
 「とにかく、またね。お金がない時は遠慮なく言ってよ? 野宿なんかして、レイプでもされたらつまんないじゃん?」
 「う……まぁ……はい」
 影の物怖じしない言い方に、児玉はギクリとしたが、受け入れておく。

 「でさ」児玉が背を向けかけた時、影が言う。
 「アンタ妹。アタシ、姉。……それでいいでしょ?」
 やや驚いたが、児玉はうなずきを返す。
 「わかった。じゃあね、お姉さん……?」
 児玉の返事に、影は満面の笑みを返した



 (続く)



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