40話〜49話

 

― 40 ―


 柚木伏 亜矢は自転車のスタンドを立てると、かごのカバンからナイフを取り出した。そのさやを、かごに戻す。
 「真っ赤なドレスなんか着ちゃってさ……目立ちたいワケ?」
 ぐっしょりと濡れた前髪を、亜矢ははねのける。雨に気をとられまいと、優子を睨む。

 優子はしばらく険しい顔をしていたが、ふっと優しげな顔になる。
 「……柚木伏 亜矢ちゃんか。お姉さん。……そっか、妹のカタキを討ちに来てくれたんだね……」
 「そうかもしれないけど……そうでもない」
 そんなセリフに、優子は気を抜かれる。

 車が水しぶきをあげて来る。2人は離れる。
 車が行き過ぎ、2人はまた視線を交わす。

 「ここじゃ、戦う気にもならないでしょ? 場所、変えない?」
 そんな優子の問いかけに、亜矢は首を振る。「そんなつもりで来たんじゃないよ。アタシはね、ずっと探してたのよ、アナタを。今日、たまたま会えただけ。戦うのはまた、後日にしたいわね」
 「顔が見たかっただけなの? ……あきれた」
 しかし優子は、亜矢を素直に帰す気はない。

 「やけど、ひどいんだって?」
 亜矢はぐっと優子に近づく。優子の方が後ずさる。
 「……まぁね。亜紀ちゃんにやられたわ。胸をナイフでめった刺しにされた後、家ごと火をつけられちゃった」
 そして楽しげに笑ったりする。
 亜矢も薄く笑う。
 「バケモノか……。そんなものがホントにいるなんてね……。結構フザケてるね、この世の中」
 「あ〜ら。バケモノったって大した事はないわ。不死身じゃないもの。高いビルから飛び降りれば死ぬし、銃でめった撃ちされても死ぬわ。……口裂け女なんて、全然大した事のない、バケモノなのよ」
 本気かどうか。その裂いた口が大きく笑みを浮かべると、亜矢は総毛立つ思いにかられる。

 「亜紀ちゃんも面白かったけど……アナタも輪をかけて面白そうね。何人くらい殺したの? この悪党?」
 「バカ言わないでよ。誰も殺してないよ」
 「ウソおっしゃい。そんな風には見えないわ」
 「オマエの底が浅いんだよ。人を殺せばバケモノか? 人を殺すって事は、そんなにドス黒い事なのか? ……違うね。くだらない事でしかないよ」

 雨が急激に弱まってくる。夕立ちの終わりか。
 「ヤミは……人の命なんか、別に欲しがらないよ。そうだろ?」
 そんな亜矢の言葉に、優子は答えられない。
 「アタシの中には、ただ……ドス黒いヤミがあるだけだよ。アタシ自身、それをどう扱っていいのか、わからないでいたんだ……。ただ、苦しんだり、悩んだりしてた。たまに飲み込まれてたし……」

 「あのドッペルゲンガーは……随分と活きが良かったね? 普通の人間が狂ったくらいじゃ、あれだけのモノは生まれない。まして、生身の人間として死ぬなんて……ありえない話だよ? ホント、驚いたね」
 そう言う優子から、亜矢は目をそらす。
 「たぶん、アタシもバケモノなんだろうって事は、わかってるつもりだよ」

 「それを生かす気は……」優子の顔が輝く。
 「ないね」
 亜矢は断る。


 「……いや。なくもない」
 亜矢は顔をあげ、優子を見る。
 優子は、亜矢という人間が何なのか、この一瞬で理解する。そして、触れたい、と願った。
 その願いが、叶うと、感じた。
 ――非常に似た、存在。亜矢は決して、敵ではない。

 優子はカマを落とし、ゆっくりと両手を差し出す。
 「……アヤ。頼む……! アタシのチカラとなってくれないか? アタシの意思じゃなくていい。アンタの意思が支配してもいい! このアタシを……受け入れてくれないか……? なぁ?」
 優子は恐る恐る、亜矢にすがっていく。
 「もうアタシは死ぬんだ。長くない。死んだも同然だ。……カタキ討ちなんか、簡単に終わってしまう。それでジ・エンドだ。どうにもならない……」
 亜矢は、優子を真っ直ぐ見据える。この、衰えたバケモノを……。

 「アタシを……楽しませてくれるの?」
 そんな亜矢の問い。
 「もちろん……! それは間違いない!」
 優子は破顔する。
 「で。アタシの……口を切るの?」
 そう問われ、優子は言葉を濁す。

 「……なら、キレイに切ってね。アンタみたいに、ぎざぎざはヤダ」
 優子は大きく何度も頷く。「わ、わかった! なんでも、オマエの言う通りにする! だから……」
 亜矢はにこりとし、優子の肩に手を置く。
 「今日から、アタシが、口裂け女になるのね。……うふふ。楽しみだわぁ……。どうなっちゃうんだろう?」
 亜矢のとろけそうな瞳。
 優子は身震いしながら、見つめた。


― 41 ―


 自転車を人目につかない場所に置き直し、亜矢はカバンを手に、優子の後に続く。
 潰れた駄菓子屋。裏口から2人は、無言で入る。

 「あぁ、散らかっててごめん……」
 六畳間。何かの入ったビニール袋が3つ4つ。食い物のゴミ。その他タオルなどが何枚も散乱していた。
 優子は片付けに入るが、次第にその動作をのろくしていく。やがて、胸を押さえて前のめりに倒れ込んだ。
 亜矢は冷ややかに見下ろす。
 「……確かに、そんなザマじゃ、カタキ討ちにもならないわね」

 優子は顔をしかめて、汗をふく。
 「柚木伏 亜紀とは、相打ちって事にしといてくれない? だから、カタキ討ちはチャラって事で……」
 そう言う優子に、亜矢は笑いを返す。「……いいよ。それでもいい」

 「で。何ができるの、口裂け女ってのは? アタシが口裂け女になったら、どうなるの?」
 亜矢はかがみ込み、顔を寄せる。
 優子は、自分の大きな口元をユビでなぞる。
 「……この口は……、自分で切るのよ。自分の意思でね。
 それで、人間のツラをしたがっている甘い自分と、決別できる。……完全にね」

 「このアタシは……狂った女、なのよ。何も恐れず、何も悩まず……、好き勝手に、殺す。大きな口を開け、大笑いして、殺す。それが、口裂け女の理想よ……」
 優子は続ける。
 「だけど、今はこのザマでね。できるなら、新しい体に乗り移りたかった。……どうすれば乗り移れるのか、細かい事は忘れてしまったけど、できたハズなのよね……」
 「乗り移る、ねぇ……」
 亜矢は首をかしげる。

 「アヤ。オマエはね、願ってもない理想の体なのよ。……それにアタシならきっと、オマエの中にある大きなヤミを、開放する事ができる。そしてこのアタシも、完全に復活できる……」
 優子は手を伸ばすが、亜矢は身を引く。
 「……で、この口を何で切るの?」
 「自分で考えろ」
 そう言われ、亜矢はムッと来たが、おとなしく辺りを探る。裏口脇の狭いステンレスの流し台の上に、ナイフや包丁、断ちバサミなどを見つけた。

 だが。それらを見ていると、だんだんバカバカしくなってきた。
 (帰ろかな……)
 そして一歩後ずさると、背中にドサリという感触があった。


 目の前の断ちバサミが、つかみ取られる。
 「……バカ、が!」
 そう言う鬼の顔。
 ハサミの刃は、亜矢の腹に突き立てられた。


 「ふぅあぁああ……」
 血。腹を汚し、両足を塗らしていく。亜矢は膝を折る。
 また受ける、にぶい衝撃。腹を蹴られたのだ。
 「……そうそう。思い出して来たわ! こ〜んな感じよ。乗り移る相手を半殺しにして……、キャハハ! ねぇ? 楽しくなってきたでしょう、アヤちゃん?!」
 亜矢は狭い廊下の床に引き倒される。
 亜矢は苦しむ暇もない。

 「ホラ! こっち来て……ゆっくりやりましょうね? 楽しいコト」
 亜矢の頭をつかみ、居間に引きずる。
 「ギィイイイッ!」
 髪をつかまれた亜矢はたまらず、もがく。

 畳の上に投げ出される。
 「こういうのは、一息にね」
 開いた断ちバサミが、亜矢の口元にあてられる。
 「死ね」

 瞬く間に、鮮血が飛んだ。


― 42 ―


 右頬をざっくりと切断された亜矢は、身をもだえさせながら、吹き出る血を両手で懸命に押さえた。
 「キィッハッハ! いいザマだねぇ。ほらほら、動くとそのお腹にもう一回、ハサミを突き立てるよ? 口の両側切らないと、サマにならないでしょ?」
 口裂け女は、亜矢に馬乗りになろうとする。が、亜矢は激しく抵抗する。
 「ハサミじゃダメね」
 口裂け女は居間を離れ、流し台に行く。
 そして、草刈り鎌を手に、亜矢の元に戻ってくる。
 亜矢は顔をこわばらせ、顔と腹を襲う痛みに、立ち上がれずにいる。
 血は止まらない。右肩も真っ赤に濡らす。

 「柚木伏 亜矢。死んで、アタシのものとなれ! オマエを殺して、アタシはオマエとなるのさ!」
 口裂け女は乗り移る方法を思い出したらしい。自信に満ちた顔で亜矢を見下ろす。
 鎌の切っ先が光を帯びている。亜矢の目は吸い込まれる。
 「……そのドス黒いものは一体何だったんだ? 覚えはあるか?」
 亜矢は答えない。
 「……まぁいいさ。オマエを殺した後、ゆっくり味わってみるよ。思いがけないもらいもの、になるかもしれないねぇ……ウフフ」

 「アタシは……」
 「アタシの妄想は……妄想じゃなかったって事だよ」
 「うん?」亜矢の小さな声が聞きとれず、口裂け女は聞き返す。
 「耳が悪いんだな、マヌケ。オマエを殺すって言ってんだよ」

 亜矢の突然の強がりに、口裂け女は目を輝かせる。
 「……これは嬉しいね。少しは骨を見せてくれるのかい? そうだよなぁ。妹があれだけ手こずらせてくれたんだ。お姉ちゃんがフヌケじゃつまらないものなぁ……」

 「痛えよ、バカが……」
 亜矢は頬を押さえたまま、ゆっくりと立ち上がる。
 「黙ってりゃ、素直に口裂け女になってやれたものをさ」

 「そうも行かない。お前が口切って、アタシの後を継いだところで、アタシの意思がどこにもないんじゃ、意味がないんでね。やはり、お前を殺さなきゃならない。その体を、アタシが奪う必要があるんだ」
 「で? このアタシとどうやって戦おうってんだ?」
 口裂け女は鎌をひらひらと回してみせる。
 亜矢は静かに首を振る。
 「何もかも。アタシは普通じゃなかった。
 ……そうなのよ。お父さんお母さん、そして亜紀は、家の中でバケモノに飲まれて死んだ。それは妄想じゃなかったのよ。
 アタシの。アタシの中に取り込まれて……死んだのよ」
 「ドッペルゲンガーとして出てきた亜紀は……、この私の理性。人間でありたいとする私を助けるために、出てきたこの私自身」
 亜矢は頬から手を外す。
 「思えば……こんな血も、止まる」

 口裂け女は、亜矢を凝視する。確かに、血が止まったように見える……。
 「妄想だと思われていた全てが、実は妄想ではなかった。……黒いヤミは、確かに、私の中にある」
 「だから何だって言うんだ? 今、お前はここでアタシに殺されるんだ! それだけの事だ……」
 だが、口裂け女はその一歩を、踏み出せなくなってしまった。

 「悪いけど、ここでお前を殺すワケにはいかない。カタキ討ちは、藤森さんにさせてあげたい気もするしね。……今日は顔見せのつもりだったし。じゃあね?」
 「じゃあねってお前な……」
 口裂け女は呆気にとられて、襲いかかるのも忘れる。
 「亜紀、帰るよ?」

 その途端。道路に面するガラス戸が、すべて割れた。
 「あぁ、クツ……」
 亜矢は口裂け女の横をすり抜け、裏口にあったクツをとってくる。
 また口裂け女の元へ。
 「……お前じゃ、アタシはどうやっても殺せないよ。……ホラ、体が痛み出してきた?」
 そう言われた途端、口裂け女は胸を押さえた。立っていられなくなる。
 「……くそ……!」

 「じゃ、お邪魔さま……」
 亜矢はゆうゆうと、ガラスの抜けた戸を抜け、外へ出ていった。

 後に残された口裂け女は、思わぬ敗北に飲まれ、痛みもあいまって身をよじりながら、苦しみに震えた。
 「無茶しやがって……ガラス代、弁償しやがれ……!」
 そして、可笑しくなって、笑った。


− 43 −


 亜矢は、右頬を深く切られたため、その日の晩から病院に入院する事になった。
 口裂け女の元を去り、その足で自転車で病院に向かい、受付に顔を出したところで……、ちょっと騒がれ、緊急患者として迎えられたのだった。

 学校に電話を入れると、その翌日の夕方、クラスの見舞い客を迎えた。
 亜矢の姿を見て、泉美が泣きついてくる。包帯顔の亜矢は笑う。昨晩、右頬は無事に縫いとめられ、当分の間は絶対安静を申し付けられていた。
 顔は目と鼻だけしか出ていない。みんな驚いて見ている。

 <話せない>
 とジェスチャーで伝えると、みんなは後ろに下がって、ただ亜矢を見つめるにつとめたが、泉美は胸ポケットからメモ帳をとりだし、ペンをとる。泉美はメモ魔なので用意がいい。

 <ケガは?>と泉美。
 <実はたいしたことない。重傷患者に見えるけど、ほっぺたをぬっただけ>と亜矢。
 そして、亜矢は続ける。
 <見舞い、ありがとね。学校は当分休みます。で、アレはあきらめるから>

 メモを返し、亜矢は目で笑う。
 泉美は、亜矢のケガが口裂け女がらみなのではないか、と疑ったが、今問いただすのは可哀想だと思った。とにかく、亜矢の退院を待とう……。

 <お大事にね。今度の日曜、待ち合わせしちゃったから、藤森さんには会ってみるよ>
 そして泉美は「また来るよ」と言い、他の子達の背中を押した。
 帰路、泉美がメモを友達に見せる事はなかった。

 口を切られた時はさほどとも思えず、亜矢はすぐにでも行動を再開するつもりだったが……、こうしてケガの治療を受け、患者として落ち着いてしまうと、今後のすべてをあきらめてしまってもいいかな、と思ってしまうのだった。





 そして迎える日曜。
 榊 泉美は藤森 一也と、K市立図書館前で待ち合わせた。
 泉美は自転車。普段着だが、少しおシャレしてしまっている。
 一也は車を駐車場に乗りつけた。ポロシャツ姿だ。

 「あの〜……藤森さんですか?」
 待ち合わせの午後1時ちょうど。現れた男は、眼鏡をかけ、30前後と思われるごく普通の人だった。メガネ、といえば泉美もメガネをかけている。
 「え? はい……。泉美……さん?」
 「そうですぅ!」

 お互い実名を教えあっていたが、泉美は自分が中学生である事を伝え忘れていた。
 一也は呆気にとられる。一見、小学生?と思ったが、せめて中学生くらいかもしれない、と思い直す。だが、出ばなは完全にくじかれた。

 「じゃ、向こうのベンチに行きましょうか?」
 泉美はなんだか楽しさを隠せない。自分が大胆に行動できるのが嬉しいし、男とデートするのは初めてなのだ。……デートではないのだが。

 一也は、にこやかにしている小柄な女の子を前にして、不思議と楽しい気持ちになってしまったりするが……、カタキ討ちの事を思うと、不安になってしまうのだった。この子に何がわかるのだろう?と。





 ベンチに並んで座る。青い葉をつけた木々に囲まれている。
 図書館の庭。50メートル四方以上あると思われる芝地の周りには、レンガ色のアスファルト道が続く。ランニングしている姿もある。
 ここは道沿いのちょっとした休憩場になっている。ベンチは5つ。他に人はいない。

 浮き足立ってしまっていた自分を、泉美はいましめる。
 ――相手は、口裂け女に家族を殺された人なのだ。そして、カタキ討ちをするために、この自分を頼ってきたのだ。その事を、忘れてはいけない。
 
 「私……、口裂け女とつながっているようなんですよ……」
 そう切り出すと、どんどん後が出てくる。
 「藤森さんの事を、サイトに乗せたりしたのは、すみませんでした……。あの頃はなんだか、そうしなくちゃいけない、っていうような変な感じになってて……。口裂け女を言い広める事に、使命感のようなものを感じていたんですよね……」
 泉美は一也を見る。
 「藤森さん。口裂け女の居場所を知っています。夢で、見えるんです、いつも……」
 「夢で見える?」
 一也は目を見張る。驚いたのではなく、夢、という単語に不信感を持ったのだ。
 「えぇ。ここ一連の事件は、だいたい夢で見ました。その真相が、私に伝わってきているんです……」
 そう聞くと、一也の顔色が変わる。
 「じゃ、由美子の事件も?! マヤの事もっ?!」

 そう凄まれて、泉美は面食らったが、落ち着いて首を振る。
 「いえ、すみません……その事件の後みたいです。私が口裂け女の夢を見るようになったのは。ここ2ヶ月くらいでしょうか。でも、由美子さんの事件は……見たような気もします。夢ですから、はっきりとしないんです、記憶が……」

 一也は泉美を刺激しないよう、一旦腰をひく。
 「……夢っていうのが引っかかるけど、覚えている事があったら、なんでも話してほしい。僕は、由美子とマヤを殺した犯人が、本当にそんなバケモノなのかどうか、信じられないんだよ……」
 「わかりませんけど……」泉美は強く、一也を見る。「口裂け女は、本当にいます」


 一也は真顔でうなずく。
 「で、ソイツは今、どこにいるんだ……?」
 「つい先日まで、藤森さん宅から西にいった所の、小さな商店街の中にいました。でも今は……」
 「また、あの住宅地の、自分の家にいます」

 「自分の家……?」
 「鈴木さん宅です。失踪事件がありましたよね? 鈴木 優子さんの。……口裂け女は、その鈴木さんなんです」
 「……」
 一也は由美子が書き残したテキストを思い出す。そこにも、鈴木 優子の名が記されていた……。
 ――この子を、信じるしかない。

 「そうか……。アハハ、ウチの3軒北側だな。そうか……」
 一也は苦笑する。
 そして、息を吸い込む。
 「あぁそうだ。もう一人、カタキ討ちしたがってた人がいた、って言わなかったっけ?」

 「……その人、私の友達なんです。今、ちょっとケガして入院しちゃったんです。だから、藤森さんにカタキ討ちはゆずるって言ってました……」
 「そうか……。ケガしちゃったのか。残念だね……」
 もう一也には、鈴木宅に乗り込む事しか、頭にない。
 「ありがとう。行ってみるよ。たぶん、君の話は本当だと思う。……で、カタキ討ちは僕の好きにしていいんだよね?」
 「そりゃもう……」
 泉美は何と言っていいのか、わからなくなる。「でも、気をつけてくださいね。口裂け女は今、弱っていますけど……、バケモノですから。武器とか、よっぽどのものでないと……」
 「口裂け女が、弱ってる?」一也は聞き返す。
 「あ、はい。あの……火事、知りませんか? あの住宅地の、北側の空家が燃えたヤツ……。あれで、口裂け女は重傷を負ったままなんです」

 「……へぇ……?」
 火事の事は知っている。焼け跡を見に行った。そう言えば、あそこで<声>がしたから、自分はサイトに書き込みをする気になったのだし、こうして今、泉美とも会っているのだ……。
 泉美の言っている事は、こじつけでもあるまい。本当に、夢を通して、口裂け女の事を知っているのだろう。
 「ところで、なんで、君は口裂け女なんかとつながっているのかな?」
 その質問に、泉美は答えられない。わからないのだから。

 「ま、いいや。口裂け女はウチに帰ってるのか……アハハ。帰っても、落ち着かないな。近所だからな。どうしよう……いきなり今日やるハメになるかな……?」
 急激に鼓動が早まる。
 「いや、無理だな。落ち着かないと……計画を練らないと……」
 考え込む。
 「あ、そうだ。また口裂け女が移動するようだったら、教えてほしいな?」
 「はい」泉美は大きくうなずく。

 一也は背もたれに体をあずけ、深く息を吸い込む。
 木々の葉は静かに揺れる。

 「……カタキ討ちか。俺にできるかわかんないけど……とにかく、やってみるよ。もしダメでも、マヤ達の所に大きな顔して行けると思うし。カタキは討てなかったけど、父さん一生懸命やったんだぞ、って……」
 「そんな……」
 泉美は悩む。自分も武器を持って、助けになるべきだろうか?
 「いつ……カタキ討ちに行くんですか?」
 そっと聞く。
 「わからないな……。もしかして、今夜にも行くかもしれないし、それとも戦い方を充分に考えてから、明日にでもあさってにでも行く事になるかもしれないし……」
 「もし、お手伝いさせてもらえる事があったら……」

 そんな泉美の申し出に、一也は身を起こして拒絶する。
 「……おいおい! それはいいよ。そこまでしてもらわなくていい……」

 「とにかく、ありがとう。カタキ討ちできる、とわかってスッキリしたよ。後の事は運まかせだ。負けても……悔やまないよ」
 泉美は泣きたくなった。世の中には、こんな人もいる……。家族を殺されて、そしてカタキ討ちを、命がけでする……。
 そこでこの人が死んでしまったら、一体、世の中とは何なのだろう……?
 ――無慈悲、なんだろうか。世の中とは……。


 「泉美ちゃん。お腹減ってない? 何かおごるよ?」
 一也が顔を覗き込んでくる。涙目をしばたいて、「いえ、大丈夫です」とあわてて断る。
 「そっか」一也は立ち上がる。「じゃ……、ありがとうね。話はこれでいいんだよね?」
 泉美も立ち上がる。「あ、はい。伝えたい事は、それだけでしたので……」

 2人は並んで道を戻る。
 図書館前の駐車場。一也は泉美に手を差し出す。
 「ありがとう。マヤ達のカタキは、きっと討つよ」
 そのまなざしの優しさと、秘めた強さに、泉美は吸い込まれる。
 手を、握り返す。
 「……負けないで、ください……」
 そこまで言った後、大粒の涙が頬を伝っていった。


― 44 ―


 藤森 一也は、榊 泉美と別れた後、自宅へ戻った。泣かれたのには驚いたが、不思議と胸が温かくなった。 
 車から降り、鈴木家前に出向く。すべてのカーテンは閉められている。問題の、鈴木 優子が今いるかどうかはわからない。

 自宅に戻り、パソコンの電源を入れる。
 何もせず、デスクトップのアイコンが並ぶまで、待つ。
 そして、マヤの写真を見る……。

 並ぶ、笑顔。並ぶ、可愛い娘。妻の由美子も一緒になって映っている。その一枚を、拡大して表示する。
 「……行って、来るからな……!」
 思わず出る涙。愛しい2人が笑っている。
 ここにいる、ちっぽけな、チカラのない男は……これからどれだけの事ができるだろう?
 そして、2人の仏壇のある部屋にも出向く。仏壇を見るのは辛い。そこには、「死」しか感じられないからだ。

 蝋燭に火を点け、しばらく呆ける。
 ――あの家に、火でもつけてやるか?
 でもすぐ思い直す。そうじゃない。やはり、カタキ討ちは、面と向かってだ。話が出来るようなら、話をしたい。なぜ、娘と妻を殺したのか……。理由などないのかもしれないが。

 マヤと由美子のモノクロの写真。少し前までは生きていた、2人。はしゃいでいた、2人。
 「天国で……バーベキューはできそうか?」
 そんな呟きに可笑しくなり、一也は一人、笑った。





 夕食。質素だが、それなりに好きな物を食べ、一也は心を決めた。
 生きのびる、気はなかった。でも、カタキを討って、死にたいと望んだ。
 武器は、金属バット。ナイフや包丁などで切りつける、などという事はできそうになかった。あまり血は見たくない。
 まだ日は落ちない。一也は落ち着かなかったが、ソファに座ってTVを観る。ニュースは今日も興味がない事ばかりだ。

 ――やり残している事はないか。考えをめぐらせる。
 ……だが、いくら考えても思いつかなかったので、あきらめた。
 (俺が死んだ後……泉美ちゃんが何とかしてくれるだろ)
 口裂け女とつながっている、という少女、泉美。今日の午後、会った少女。小柄で、眼鏡をかけていた……。そして別れ際、泣いてくれた。
 (俺と口裂け女の戦いも、後で夢で見るのかな……? あまり怖い顔できないな……)
 一也は苦笑するのだった。





 玄関のカギを閉め、バットを持って、冷えた外に出る。
 いい夜だ。
 一也は門を出て、3軒北の鈴木家へ向かう。

 (いるんだろう……)
 チャイムを押してみる。……返事はない。もう一度。そして言う。
 「藤森 一也だ。開けてくれ」

 足音。
 一也の目が見開かれる。足音は、玄関に落ちる。サンダルの擦る、音。
 ドアが開かれた。


 「あら、いらっしゃい。藤森さん? お久しぶりですね」
 出迎えた女。真っ赤なドレスを着た、鈴木宅の奥さんだった。……行方不明中の、鈴木 優子、その人だ。
 口は、裂けていない。

 「驚きましたね……本当にいらっしゃるとは。ははは。行方不明中、じゃなかったんですか?」
 この女が、娘と妻のカタキ……。そうは信じがたい。たまに見た、鈴木の奥さんその人だからだ。だが、ドレスを着ているのは、やはり解せない。
 「ここを、泉美ちゃんから聞いたのね? ……まぁ、どうぞ。あがってくださいな」
 鈴木 優子は身をひく。一也はバットを握り締め、玄関に入った。

 居間に通される。
 「ソファに座る、余裕はある?」
 そう聞かれ、一也は首を振る。この女がいつどうやって襲いかかって来るのか、見当もつかないからだ。バットを両手で構える。
 よく見ると、女はずぶ濡れだった。ドレスがだいぶ水を吸っている。その足元がどんどん湿っていく。
 「あぁ、アタシ、水吸ってないともうダメ。今も……」そしてテーブルの氷入れから、氷を取り出し、ほおばる。「あぁ、おいしい……」
 何のデモンストレーションかといぶかったが、泉美の言葉を思い出す。――口裂け女は火傷をしている。弱っている、と言っていた。

 「お前は……口裂け女なのか……?」
 そう言うと、鈴木 優子はケタケタと笑った。「え〜何言ってるの藤森さん……おっかしぃ……」
 一也は眉間にシワをよせ、睨み直す。
 「マヤと、由美子を殺したな……? どうしてだ?」

 「ふぅ」
 優子はソファにドサリと座る。そして氷をまたつまむ。「つまんない話はいいからさ、さっさと殺してよ、アタシを」
 氷を一つ、一也に投げつける。一也の手に当たり、落ちる。
 「マヤと由美子を、殺したのかッ?!」

 優子はにた、と笑う。
 そして、指を口元へ持っていく……。
 「殺したわよぉ……。マヤちゃんは1年前だっけ? あんまり可愛い子だから、興奮して殺しちゃった! 一緒にいた子も殺そうと思ったけど、逃げ足速くてね」
 一也の胸が痛み出す。
 「後、由美子さん? 口裂け女の事をしつこく聞き回ってるようだったから、殺してやったの。アタシに殺されりゃ、本望だと思ってね」

 「……そんなメチャクチャな理由……」
 一也は歯をむき出し、顔をしかめる。
 「ほぉら! 悔しかったらサッサとアタシを殺してみなさいよぉ! ホラ! 逃げちゃうよ?」
 優子はガバッと立ち上がる。一也は思わず身を大きく引く。

 「ほら、よおく見なさい……アタシは、なぁんだ……?」
 優子は、また口元に指をあて、滑らせていく。
 左の口の端。指はまだ止めない。口が少しずつ横に広がり……指はどこまでも頬を上っていく。口の端が、どこまでも広がっていく……。
 「ほぉら……どうかしら? 信じる? 妖怪、口裂け女を」
 優子の口の端は、耳付近まで裂けた。


― 45 ―


 藤森 一也は、優子の裂けた口から目が離せない。
 優子は悦に浸りながら、もう片方も裂ききる。
 だらりと下がる顎(あご)。笑いで固まるその表情。まるで、鬼女だ。

 ――殺される。
 それが、実感として突きつけられる。一也はバットにしがみつく。
 「あらあらお父さん? 震えてない? そんなんで、カタキをちゃんと討てるのかしら?」
 優子はまた氷を掴み、ほうばる。ガリガリとかじる。

 一歩踏み出せば……何とかなるかもしれない。後はバットでうまく殴りつければいい。……口裂け女は手ぶらだ。やるのは、今だ。
 ――バットで人を殴る……。
 もちろん、そんな事はした事がない。カタキ討ちだからといって、そんな行為が正当化できるとは思わない。これからやる事は、卑劣な行為だ。人殺しなのだ……。
 (……マヤ! 由美子……)
 手足が震えているのがわかる。どうにもならない。顔をしかめるだけだ。

 「う、動くなっ!」
 口裂け女がまた氷をかじる。
 「……大してさぁ、楽しませてくれないんでしょ、貴方なんか……。いつまでも、つきあってらんないのよ、私……」
 そんな冷たい言葉。挑発か、といぶかる。

 ドレスの裾。水のしたたりはもう既にない。
 ――水。なぜ、口裂け女はズブ濡れになっていた?
 回らぬ頭で、必死に考える。
 ……そう、火傷だ。口裂け女は、火事で重傷を負ったままだ、と泉美が言っていた。
 もしや、水に浸っていなければ、相当辛いのではあるまいか……?

 「あ〜〜! この軟弱男っ!! 見ててイライラするよっ!! アタシが殺してやるっ!!」
 口裂け女は急激にわめき、居間続きのキッチンへ。一也は動けない。焦る。今、踏み出すべきかどうか。
 ガチャリ、と金属音。口裂け女は、鎌を持って顔を出す。
 「ホラ、死ねえっ!!」
 いきなり襲いかかってきた!

 ――焦っているのは、口裂け女の方なのだ。
 一也は足元を固め、バットを振りかぶる。奇声をあげ、口裂け女が迫り来る。
 凄まじいバケモノの顔。醜い、殺人鬼の顔。
 「マヤと、由美子のカタキだっ!!」
 一也はバットを、口裂け女の脳天めがけて振り下ろした。


 甲高く、鈍い音。バットは口裂け女の横っ面にぶち当たる。
 勢い余って、一也はバランスを崩す。口裂け女は悲鳴もなく、床にバウンドした。

 しばらく、荒い息を吐き続ける。
 口裂け女は、髪を振り乱し、床にうつ伏せになったまま、ピクリとも動かない。
 バットについた微かな血。不思議な思いで見つめる。

 涙が出てきた。
 「マヤ……お父さん、カタキを討ったかもしれないぞ……アハハ」
 公共的な正当性はない。そこにあるのは、個人の怒りなのだ。恨みなのだ。

 長年生きてきて、この世で……一番大切なものができた瞬間がある。それは……、娘だ。
 初めて、「家庭」を実感する。毎日のマヤの笑顔で、どんな苦しさもゼロになる。優しい人間になれていく……。そして由美子とも、よりわかりあえるようになっていく……。お互い、ささいな事でケンカもしなくなる。
 ――幸せを、確かに掴んでいたのだ。

 その娘を、理不尽に殺した、このバケモノ。俺から幸せを奪った、このバケモノ。……それを野放しのまま、許すワケにはいかなかった。こうしてカタキを討つ場ができて、泉美には本当に感謝している。
 こうして今、一矢報いる事ができた。口裂け女は動かない。もしかすると、一撃で死んだのかもしれない……。

 ――とどめを刺すべきか?
 完全に、死を確認しておかない事には、このバケモノによって、更なる被害が続くかもしれない。ここでとどめを刺すのは、自分の果たさねばならない、役割なのかもしれない。
 だが……そんな行為は卑(いや)しいと思えた。できない。きっと、マヤも由美子ももうたくさんだと思っているハズだ。それに、どこかで泉美も見ている。無抵抗の者など、殴れるワケがない。
 「そうだな……」
 一也は大きくため息をついた。俺の役割は果たした。これでいいんだ……。
 「後は、警察にまかせよう……」
 口裂け女が動かないのをしばらく確認し、一也は部屋を出た。


 その首を。
 後ろから口裂け女の鎌が、切り裂いた。


― 46 ―


 翌朝。泉美は体をこわばらせて、目が覚めた。
 いつもの夢。口裂け女の殺戮の場面……。

 シーツがひどく乱れている。パジャマもしっとりと、濡れている。
 (……一也さん……)
 ――死んだ?

 目をつぶり、今の夢を逃がさないよう、意識を集中する。
 一也さんを……迎える、鈴木 優子。居間に通す。濡れている自分。氷をかじる……。
 鎌を持って、襲いかかる。しかし、バットで殴られ……一瞬、意識が飛ぶ……。
 音に集中する。しばらくして、一也さんは立ち去る。そこでガバッと跳ね起きて……

 泉美はため息をついた。殺されたのだ、藤森 一也さんは。
 ――優しそうな人だった。
 顔をしかめる。やっぱり、この世は理不尽だ……。神さまは、何もわかっちゃいない。

 部屋を出て、階下に下りる。洗面所で顔を洗う。
 「あら泉美。今朝は早いのね〜!」
 母の驚きの声。ムリもない。いつもは学校に遅刻するか否かの時刻に、慌てて起き上がるのだから。

 ――平穏な日常。口裂け女の殺戮とは関わりのない、傍観者がここにいる。
 (痛かっただろうな、一也さん……無念だったかな? そんなのもわからないくらい、一瞬で死んだのかな……)
 顔をしつこく洗う。泣いていいものかどうか、わからない。ここで泣いても、偽善者のような気がする。偽善者でもいいから、泣くべきかもしれない、とも思う。
 どの道……ひどく細い縁、だった。藤森 一也さんとは。

 そこではた、とひらめく。匿名で、警察に電話だ。すぐにでも、しよう。学校に行く途中、公衆電話で、だ。





 事を済ませ、電話ボックスから出る。
 わからないだろうが、まくしたててやった。
 「行方不明中の鈴木 優子は生きています。藤森 一也さんを、その自宅で殺しました!」
 受付が無能なら、誰にも届かなかったかもしれない。それはそれで仕方ない。

 この後。どうなるのだろう?
 自転車をこぎつつ、泉美は考える。
 亜矢は病院。そして、鈴木 優子は……じきに死ぬか、それとも他の体を見つけるか。一也の体を乗っ取っていないとも限らないが、優子に限ってそれはない、と泉美は踏む。自分が優子でも、一也の体には入らない。だったら、死を選ぶ。
 「その通りだよ。生きていりゃいい、ってものじゃないからね」
 いきなり、口から突いて出て来る声。泉美は自転車を止める。

 辺りを見回す。……何もない。ただの町裏通りだ。
 (きっとまだ、生きてる……)
 自転車をまたこぎ出す。
 ――心細い。
 「亜矢ちゃん……」
 泉美は思わず呟いた。





 入院から6日目を迎えた今朝。亜矢は顔の包帯を解かれた。
 (うわ〜……)
 ひどい目ヤニ。ひどい、顔の油。なにもかもが最悪だった。
 看護婦が顔を洗ってくれる。右目が開かない。目ヤニでくっついてしまっている。
 「う、う、う……」
 歯も磨きたい。汚いのはもうイヤだ……。
 「今、先生が見に来ますからね〜もうちょっと待っててね〜」
 看護婦に、いちいち幼児に言い聞かせるような口調をされ、亜矢の自尊心はここ数日で完全に打ち砕かれていた。今に至っては顔まで拭いてもらい、目ヤニをこすりとってもらっている。頭が上がらない。

 「そろそろ、ご飯食べられるかな〜?」
 看護婦の問いに、「たぶん」と答える。点滴にはもう飽きた。寝すぎで体が痛い。
 (あ〜あ。泉美ちゃんの方、どうなってるだろうな……)
 口裂け女。せっかく関わりを持てたのも束の間、途中で放棄する形になってしまった。ひどく悔やまれる。

 とにかく、泉美が来るのを待つしかない。病院だから、携帯のメールも使えない。電話をしようにも、泉美の番号は知らないのだ。
 昨日の日曜、泉美は藤森 一也と会ったハズだ。その報告を聞きたい。
 (まぁ……、近々来るでしょ。アタシも包帯取れたから、少しは自由に動けるようになるし)

 医者が顔を見せる。
 カルテを取り、「柚木伏 亜矢さん? 変わった苗字だね〜……どこの出身? あ、包帯取れて良かったね〜。顔はちゃんと洗ってもらった?」
 「あ、はい。おかげさまで……」
 そしてそれなりの会話を交わす。
 ……完全に、平和ボケしてしまっている。こんな事ならあのまま、口裂け女になっていれば良かった、と亜矢は思ったりするのだった。


― 47 ―


 それから不毛な一週間が過ぎた。通算2週間だ。
 右頬の抜糸は、今日で全て終わった。だが、傷口が開きそうで怖い。ご飯を食べるのも恐る恐るだ。お粥(かゆ)はひどくまずい。
 「そろそろ退院できるね」
 病室内。そんな医者の言葉を、亜矢は「えっ?」と聞き返す。
 「後は通院で済みます。……お薬出るからね。消毒薬、化膿止め……後、熱さましも出しとくから。……そうだね〜、でも後2日くらい、様子を見ようか? でもね、入院費もバカにならないだろうし。……やめとく?」
 「あぁ、はい……」
 どっちともつかない返事をしてしまう。だが、この医者は信用できるのを知っている。面白い先生だ。
 ……待ち望んではいたが、いざ退院となると残念な気もする。
 また、今回は緊急入院だったため、数日入院手続きにまごついてしまった。保険証を親戚に頼んで持って来てもらい(その時不本意ながら、自らの入院を告げるハメになった)、そこで入院費支払いのメドもつき、やっと一息ついた……と思っていたところだった。
 この2週間で、なんだか太ってしまった気もする。あまりカガミは見たくない。

 医者の回診が終わり、看護婦が傷の消毒をしてくれる。まだかなりしみる。口内の消毒は苦々しい。
 「寝てばっかりだった……」
 亜矢のそんなぼやきに、看護婦は笑いを見せる。
 「勉強遅れちゃうね。がんばんないと! ……あ〜そろそろまた、体洗いたいよね? 準備してくるから」
 「はぁい……」
 優しい、母親のような看護婦だ。なじんできた頃だったので、退院が少しだけ惜しまれる。

 別の看護婦が、今度はシーツを換えに来る。
 「あの……すみません。アタシ寝てる時……、誰か来ませんでした?」と、亜矢は聞く。
 「残念だけど、アタシは見なかったな……」
 「そうですか……」
 亜矢は憮然(ぶぜん)とする。
 ――泉美の事だ。一度来たきり、音沙汰がない。それどころか、誰も見舞いに来ない。来るのは、入院手続きなどをしてもらった、親戚のおばさんだけだ。
 (腹立つ……)
 ……やはり、アタシは一人なのか。きどってみても強がってみても、秀才ぶってみても。結局は一人、なのか……。
 そしてまた、頼りにしたくない親戚にも、今回は頭を下げねばならなかった。入院費の支払いもする、という。後で返すつもりだが、手ぶらの今は、甘えるしかない。亜矢は理由もなく、その親戚を毛嫌いしていたのだ。……いや、
 今まで……何もかもを、嫌っていたのかもしれない。

 気持ちのやり場を失って、糸の抜けた頬を、おずおずとさすってみたりする。これで元通り、だ。
 気が抜けて……バカになってしまっている。何を考えていいのかも、たまにわからなくなる。

 何もかも、遠ざかってしまっている。
 無念にまた、何をするでもなく、目を閉じた。





 3日後。退院を迎える。
 「ねぇ、ティッシュの箱、ちょうだい?」
 隣のベッドの若い女が、そうせがんでくる。やや気さくな女だった。
 亜矢はうなずく。そういうしきたりを聞いた事があった。退院していく人は、縁かつぎとして、何かを渡していく。

 「お世話になりました」
 荷物をまとめ、病室を出る。親戚のおばさんが、車で迎えに来てくれている。自転車があるので断り、荷物だけ自宅に運んでもらう。

 自転車で生ぬるい風を受けながら、夏を肌で感じる。
 ――また新たに与えられた、自由。広大な世界。何でもできる、場所。
 また元の生活が始まる。

 自宅に着くと、先に到着していた親戚のおばさんも、車から降りてくる。
 「カギ、あずかってたね」
 手渡され、玄関を開ける。
 「本当に……お世話になりました」
 亜矢は頭を下げる。トゲはない。
 家に上がってもらい、少し話をする事にした。座布団を差し出す。

 「両親の話を……聞かせてもらえますか?」
 お茶をいれもせず、いきなりそう切り出す。「今まで、正面向いて聞けなかったので……ぜひ」

 おばさんは呆けた顔をしたが、「いいわよ」と承諾する。
 「……3年前? 貴方のご両親は、交通事故で亡くなられたわよね……」
 「違います」いきなり、亜矢は遮る。おばさんはもう、言葉を失う。

 「そっか……やっぱりね。それで、亜紀の葬式は、今回が初めてですよね?」
 「当たり前でしょう……」
 おばさんの顔色が悪くなる。亜矢をいぶかっているのだ。
 「すみません。それだけ聞けば、もう充分です」
 亜矢は満足げに微笑んだ。満足しないのは、おばさんの方である。

 ――聞いても、ムダだ。やはり何もかも、歪められている。
 亜矢の結論は早くも出てしまった。3年前の亜紀の葬式は、確かに行っている。それが無かった事にされているのだ。
 「どうかしたの? 急にご両親の話を聞きたがるなんて……?」
 亜矢は答えない。
 だが、こうしている今も、現実に押し潰されそうになる。
 「残念だけどね……見つめ直さないと。ほら、そんなに辛いなら、おばさんトコに来てもいいのよ? もう息子も都会の方に出てしまってるから……ね? 亜矢ちゃん一人じゃ、これから暮らしていけないよ……?」
 ――もう言うな。狂う!

 現実は、「当たり前の事」を、提示してくる。巨大な正当性を持っている。絶対に、現実は覆(くつがえ)せないようにできている。
 しかし亜矢は、現実を疑っているのだ。そのちっぽけな一つの体で。
 自身の(悪夢のような)記憶を正当なものとし、現実をゆがんだものと決め付ける。それは、周りから見たら、バカげた話でしかない。
 でも亜矢は、信じている。――自分を。
 自分はまだ、狂ってはいない。狂っているのは、現実の方なのだ……!
 そうだ。狂っているから、あんな口裂け女、なんていう「歪(ひず)み」が生じるんだ……。


 それからしばらく差しさわりのない話をし、おばさんは帰っていった。
 思い立ったように、亜矢はカバンから携帯を取り出し、電源を入れた。メールは入っていない。
 「……何なのよ?」
 泉美に対する怒り。今まで放っておかれた事実に、脱力してしまう。
 それでも、メールを打った。

>今日、退院しました。一也さんの事はどうなったの? 口裂け女は?! 教えてね。

 そうメールすると、気持ちは多少落ち着いた。でも、泉美にはだいぶ失望した。
 溜まっていた新聞を読む。――先週の月曜。何か、ないか? 泉美と一也が会った翌日だ。
 何もない。丁寧に読んでいく。翌日、翌々日……。だが、それらしいニュースは何もない。
 TVを流すが……、もう事は数日前に終わっている可能性が高い。

 それから、何をするでもなく、夜を迎える。
 泉美からのメールの返事は、その日、ついになかった。


― 48 ―


 久しぶりの登校。今朝は朝から暑い。
 K駅に着く。徒歩でゆっくり、学校へ向かう。

 泉美の事を考える。きっと何かあったのだろう。どんな事かは想像しかねるのだが。
 とにかく、教室に行けば会える。どうしてメールもよこさなかったのか、話を聞いてみれば、納得の得られる答えが返ってくるに違いない。いやもしかすると、なぐさめてやらなきゃならない事態が、待っているのかもしれない。


 教室に着く。――泉美がいた。
 「ずいぶん……早いのね?」
 泉美は一人、窓際で外を眺めていた。
 「……うん」
 振り向いた泉美の顔。表情が見えない。

 「で、どうなったの? 一也さんの事とか。口裂け女とか……」
 鼓動が早まる。
 「何もかも、終わったみたい……」
 「終わった?」
 カバンを机に置き、泉美の元へ近寄る。

 泉美を見る。
 「何か……元気ないようだけど?」
 青白い顔をしている。
 「一也さん……死んじゃったのよ。口裂け女に、殺されちゃったの……」
 その事で、悩んでいたのか。ここ数日、その事で罪の意識を感じていたのかもしれない。
 やはり、会ってみればわかる事だったのだ。亜矢はほっと胸をなでおろす。
 「……そうなんだ……」
 そして、全てを許した。

 「でも……一也さんもカタキ討ちに臨めたんだからさ。ヨシ、としなきゃ? 仕方ないよ」
 ……ブルッと、窓ガラスが揺れた。
 亜矢は気をとられる。
 「……で、口裂け女も、死んだの?」
 その問いに、泉美は首を振る。生きている? それともわからないのか。

 「本当に、終わったのかな……? なんか呆気なくてさ。ちょっと信じられない気持ち……。入院なんかしちゃったしさ。その間に全部終わってた、なんて……なんか残念……」
 泉美とともに、外の景色を眺める。
 いつの間にか、本格的な夏に入っていたのかもしれない。額に汗が浮かぶ。
 「……で。本当に、何もかも、終わったのかな……?」
 泉美の快活な答えが聞きたくて、また問う。だが泉美の代わりに、窓ガラスがまた揺れを返す。風のせいでもない。そこだけ、小刻みに震える。震えている……。
 (……亜紀?……)
 亜矢がガラスに触れると、それはピタリと止まる。
 ――何かを、伝えようと?
 亜矢は表情を暗く落とす。……何かが違う。何かが、あった……。

 
 「ねぇ! ホントに、どうなったの?! 何か、あったの?! まだ終わっていないの?!」
 泉美の両肩を掴み、亜矢は問いただす。
 泉美はゆっくりと顔をあげる。
 「生きてるよ、口裂け女はまだ……生きてるのよ……」

 ガラスの揺れがひどくなる。まるで暴風にさらされているように。地震のように。
 「亜紀ッ!!」
 叫ぶが、止まらない。
 泉美の顔が近づく。
 「で、亜矢ちゃんは……こういう、想像はしなかったのかな?」
 「え……?」

 泉美は亜矢の手をほどく。
 「……こういう、想像……」
 泉美は、口元に両手をもっていく。
 亜矢の目が、見開かれる。

 「ほぉら……アタシは、だぁれだ……?」
 泉美に、真っ直ぐ見すえられる。下あごにかけた両手を、泉美は一息に引き下ろす。両頬に広がる切断面。弾ける糸。
 その口が、大きく縦に……裂けた。


― 49 ―


 「キアーッハッハ! ……どうよ? 驚いてくれた?!」
 泉美が狂笑する。
 亜矢は言葉を失う。泉美を見つめたまま、後ずさる。
 見ているものが、理解できない。なぜ、こうなっているのか、わからない……。

 どこからか、泉美は鎌を取り出す。口裂け女が愛用していた、草刈り鎌だ。
 「こうして、アタシはまた新鮮な体を手に入れたワケよ。……これからまた新たに、人間どもを殺しまくってやる。それが、アタシの長きに渡っての、悲願だったのかもしれない」
 知っている、泉美の目ではない。
 ふいに、亜矢は頭を両手で抱え、うずくまってしまった。

 ――泉美が、口裂け女に?

 心が砕ける。意思が保てない。もう、どうにもならない。
 「……亜矢。そんなにショックだったとは、ウレシイねぇ……。泉美を殺すのは実に簡単だったよ。自宅はわかっているし、ヤツとはつながっているからな。どこへも逃げられなかったのさ、アイツは」
 亜矢は、泉美の顔を見る。
 大きく裂けた口。別人の顔。――もう、泉美は元には戻らないのか?

 <殺すしかない>
 頭の中でそう、誰かが答える。――<戻りはしない>

 だが、体にまるでチカラが入らない。震えている。どうにも、ならない。
 泉美はゆっくりと近づいてくる……。
 「亜矢ちゃん。いつまで夢みてんの? ……ここは現実よ? 早くアタシを何とかしないと? 今にも、クラスメイトがどっとやって来るよ? ソイツら、皆殺しにされたいの?」
 ――皆殺し。
 泉美を祈るような目で見る。……泉美に、そんな事はさせたくない……。もう、泉美の意識はどこにもないのだとしても。
 「ホラ。殺すよ?」
 鎌を振り上げる。
 亜矢は消え入りそうな呼吸だけを繰り返し、それを見つめる。
 ――もう、チカラはない。どこにも、チカラはない……。

 ガラスの激しい振動は続いている。亜紀の叫びだ。
 だが。もうどうでもいいのだ……。皆が殺されたところで、アタシには関係のない事だ。アタシは正義の味方じゃない……。皆を守る義務もない。アタシこそ、いつか皆を殺していたかもしれなかったのだ……。
 なんせ、アタシは昔から、狂っていたのだから。

 「目を覚ましてやるよっ!」
 鎌が、亜矢の左腕を襲った。
 「ぎゃああああっ!!」
 大きく裂ける肉。亜矢はたまらず、転げまわった。辺りの机と椅子が乱れる。
 「ヒヒヒッ! ほぅらっ! この能ナシめっ! フヌケめがっ!! 死ねええっ!!」
 口裂け女は亜矢を容赦なく切りつける。脚を切りつけ、腹に突き刺す。その度、亜矢は激しくのたうち回る。
 「あああ亜紀ぃいっ!!」
 涙声で、叫ぶ。

 「お姉ちゃんっ!!」

 そう言葉が返ってくるのと同時に、教室の窓ガラスが轟音とともに砕け散った。
 それらは狙ったように、口裂け女に降り注ぐ。
 「ウギアアアアッ!!」
 無数のガラスの破片に切り刻まれ、口裂け女はたまらず逃げ去る。
 「ちくしょうっ!」
 教室から廊下に転がり出る。血しぶきがあたりを濡らす。

 「きゃあああっ!」
 廊下にいた生徒らの悲鳴。口裂け女は立ち上がれず、しばらくうめき続けた。


 室内。亜矢は激痛と悲しみにまみれ、小さくうずくまっていた。
 「お前がいないと、アタシは何にもできないんだね……」
 泣きながら薄く笑う。
 「ホント……どこにいるんだろうね、亜紀は……」
 だがゆっくりと、亜矢は立ち上がる。
 胸にあかりが一つ、灯ったような気がした。

 「泉美ちゃんに、あんまり人殺しさせたくないしね……。アタシが殺すよ。それしかない」
 ズキズキと痛み、容赦なく流れ出る血。血で湿った制服。
 「血を止めないとね……死ぬかも」
 ――保健室。
 泉美が気になるが、まずは手当てをしないと戦えない。
 亜矢は足を震わせながら、教室を出た。




 (50話に続く)



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