20話〜29話
 

― 20 ―


 この日曜。リビングのテーブルで、藤森 一也は、ノートパソコンの電源を入れた。ネットにつないである。

 それは、自分と由美子共用で使っているものの、ほとんど由美子の私物になっていた。一也は特に、家に帰ってまでパソコンをいじろうとは思わなかった。仕事で見飽きているし、幸い、今まで家に持ち込むほどの仕事もなかった。

 よって、家のパソコンを覗いてみるのは、久しぶりだった。特に目的があったワケでもなく、ちょっとした由美子への感傷に浸りたかったのかもしれない。

 立ち上がると、子犬がじゃれあっている写真が出迎えてくれた。ありがちな壁紙だが、可愛い。
 デスクトップの作成フォルダの中には、デジカメ写真などがたくさん入っていた。マヤとその友達の写真が多い。コーヒーをいれてきて、しばらくそれらを見入る事に専念する。一枚一枚、マヤの笑顔を見る度に、胸が苦しくなった。

 ……メール。覗くには気がひけたが、特に心配するようなものはないだろうと、ザッと一覧だけを見て、閉じる。

 ネットに接続し、「お気に入り」を見る。由美子は、どんなものに興味を持っていたのだろう?と。
 設定されているサイトは10程度。……懸賞サイト、CDヒットチャート、料理レシピ、健康に関する相談、……そして自殺サイト。
 まさかそんな事を考えていたのか?と一也はまた胸をひどく痛ませた。そんなものがお気に入り、だなんて……。俺が全然パソコンをいじらないといっても、そんなサイトを隠しもしないで設定しているなんて。

 そんなものの中に、「恐怖の口裂け女」というサイトを見つけ、一也は目を見張った。
 (……口裂け女?)

 思わず、クリックしてみる。
 オカルトサイト、なようだ。真っ黒な背景。歪んだ口裂け女の顔が、トップに飾られてある。悪趣味だ。

 <口裂け女とは?>で始まり、口裂け女の都市伝承をまとめてある。
 そして、<新・口裂け女伝承>という記事を見たところで、一也は目を見張った。
 最新のニュースとして、以下の記事が掲載されていたからだ。



 ――5月26日。昼過ぎ。K市 Sの住宅地内で、殺人事件が起きた。
 殺されたのは、会社員 H.Kさん(32)の妻、H.Yさん(31歳)。胸を鋭利な刃物で貫かれた事による、出血多量死。警察は殺人事件と見て、捜査を進めている。
 犯行時は雨が降っていたものとされ、Yさんが発見された時には、既に死亡していたという。
 警察は、現場付近より見つかった果物ナイフが犯行に使われたものと見て、捜査している。
 なお去年、この住宅地で起きた、H.Mちゃん(当時6歳)の事件の関連についても調べている。Mちゃんの事件もまだ捜査中との事だ。
 真弥ちゃんは藤森 一也さんの一人娘であった。

 (5/27 某地方新聞より抜粋)



 読み終え、呆然となった。
 これはまぎれもなく、自分達の事だ。ウチの家族の悲劇が、こうしてネットで公開されているのだ……。
 イニシャルで伏字にされているものの、この自分が間違うハズもない。これは地元新聞に載った記事を、そのまま載せているらしい。
 いやいや、伏字が最後の一行だけ、されていないではないか。忘れたのだろうか。思わず笑ってしまう。自分の名前がありありと、そこに書かれてある……。

 ひどい話だ。自分は……さらしものに、されていたのか。
 ネットとは……、なんと恐ろしいところなのだろう。
 一也は傷心し、しばらく呆けてしまった。


 しかし何故……、由美子はこんなサイトをお気にいりになど、入れていたのか? しかも、死後その記事をさらされるという憂き目に会っている。

 怒りが湧いてくる。即刻、停止を求めねばならない。
 <掲示板>をクリックする。

 書き込み用テンプレートには、由美子が使ったらしい、ハンドルネームが残されていた。
 ユミか。そのままだな。

 そのユミが何か書き込んでいないか、目を通す。
 一度だけ、書き込みされていた。

> 
 はじめまして。
 「口裂け女」で検索し、リンクをたどって、ここに参りました。
 <新・口裂け女伝承>。興味深く拝見させていただきました。
 ウチの近くにある住宅地でも、そんなウワサを聞いた事があり、もしや、と思っています。管理人さんはもしや、ウチの近くに住む人なのでしょうか? だとしたら、すごい奇遇ですね!

 やはり、口裂け女はいるのでしょうか? その住宅地で殺された女の子はやはり、口裂け女に殺されたのでしょうか?
 怖いですね〜。

 [ユミ]


 そんな由美子の書き込みに、管理人ミミ、が返事をしている。


 はじめまして。
 新規サイトなのに、色々な所にリンクをはらせていただいたお蔭で、アクセスが急増しているようで、とても嬉しいです。励みになります。
 で、<新・口裂け女伝承>をお読みいただきまして、真にありがとうございます。
 私はI県在住です。ウワサに挙げた住宅地の近くは、県内有数の桜の名所があります。そして住宅地南側外れにはビデオレンタル店があります。どうですか、ユミさんご存知の住宅地とあってますか?笑

 私見ですが、口裂け女は、いると思います。……と言いますか、いて欲しいな、と。笑
 その事件の被害者の女の子が、それに殺されたかどうかは判断しかねますけどね。

 もし、ユミさんがその住宅地の方であって、不快な思いをされてらっしゃるのであれば、ご一報ください。即刻サイトを閉じるか、記事の削除修正などを考えておりますので。
 趣味でやっているサイトなので、消したとしても全然痛ましくないもので。笑

 [ミミ]



 管理人の返事はまともで、一也の怒りも多少は収まってしまった。
 他に由美子らしき、書き込みはないようだ。

 しかし、その事件の被害者の遺族がこうして2人とも、このサイトを目にしてしまうとは……、何という偶然なのだろう。
 でも、さっきの記事で、自分の名前が挙げられたまま、というのは解せない。娘の名前も挙げられたままだ。
 それだけは、言わなくてはならない。
 一也は書き込みテンプレートの「ユミ」を空欄にして、書き込みする事にした。



 <新・口裂け女伝承>新聞より抜粋記事の中で、実名が挙がっています。即刻、修正を願います。



 という用件だけを、書き込みしておいた。
 少し、気が済んだ。 

 ため息をつき、<新・口裂け女伝承>記事を今一度読む。
 新聞記事が2つ、挙げられている。

 どこで手にしたものか、1年前のマヤの事件も、伏字で挙がっている。
 そして、その事件がなぜ、口裂け女がらみだと思うのか、私見も述べられていた。



 あれから、その住宅地で聞き込みを続けた結果、以下の話を得られました。

 ●犯人は、赤い服を着ていた。らしい。(ドレス?との話もあり)
 ●被害者の子供が殺された時に、見ていた女の子は、振り向いた犯人の顔が、オバケのようだったと言っているらしい。(その女の子の家は、突き止める事が出来ませんでした……)
 ●以前より、その住宅地には、赤いドレスを着たオバケ(口裂け女?)が出る、とのウワサがあった。夏の雨の日に、その姿がよく目撃されたらしい。

 以上の点をふまえて、そして更に、犯人が未だ捕まっていない事を考えて、私ミミは、その犯人を口裂け女ではないか、と推測するワケであります。


 一也はしばらく、その記事を読み返した。
 もちろん、そんなバカな話をすぐには、うのみにしない。だが、マヤと由美子を殺した犯人が捕まっていないのも事実だし、今後も捕まらないような気がするのも事実だ。捜査が進行した話は、1年前より聞かない。

 一也はまともに考える。
 ――口裂け女、か……。
 なんで、口裂け女、なんだろう? ただの殺人鬼ではなく、どうして口裂けなんだと言えるのだろう?

 今まで、そんな事が言われてきただろうか? この住宅地の昔からのウワサでも、口裂け女、と言われた事はなかったのではなかろうか?
 ただの、赤い服を着た女、だと……。

 ――ゆがめられているのではないだろうか? この管理人ミミによって。


 ……どの道、このミミに罵声(ばせい)を浴びせるつもりはない。一也は、女に弱い。昔から。
 「口裂け女か……」
 まさか、この管理人が事件の真相を突き止めてくれる事になるのではないだろうか? 近所にいるようだし、聞き込みに、この住宅地を何度も訪れているようだ。
 もしかすると、俺も一度くらいは会っているかもしれない。俺でなくても、由美子はどうだったろう? いや、聞き込みも、被害者宅だけは避けるものかな?

 だが。このミミが真相に近づいた時。必要ならば……会って話をする事も可能かもしれない。
 警察の眼中になかろう、ウワサを根底に置いて、この女は事件調査してくれている。……そう思うと、逆にありがたい気持ちすら、湧いてくるのだった。
 ミミとは、どんな女なんだろう?文章はかなりまともなようだが……。
 もちろん、基盤としての「口裂け女伝承」はくだらないものだ。そして、実際の事件の被害者を刺激するような、新聞記事の抜粋をサイトに挙げているのも、いただけない。
 ……だが。管理人の悪意は、感じられない。口裂け女を追うあまり、やむを得ず、実際の事件を挙げている、ような気がしないでもない。
 やっているのは、恐らく高校生。いやもう少し上か。まぁ、オカルトなどというくだらない事に熱心なようだから、そう歳もいっていないだろう、と推測する。

 一也はネットのウインドウを閉じる。
 ……口裂け女など、くだらない、よた話だ。
 だがしかし。自分も、何かできないか、と一也は考え始めるのだった。


― 21 ―


 亜紀の不登校もそろそろ3週間目に差し掛かり、先生方の疑心も芽を出してきた。
 昼休み。また、姉の亜矢は、職員室に呼び出される。そして、亜紀の担任の女の先生より、相談を受ける。

 「……亜紀さんね、まだ風邪治らないの? 病院には行ってるの?」
 ややきつく問いただされ、亜矢も言葉を濁らせる。
 「……まぁ……一旦、治りかけたんですけど、また……」
 「でもね、亜紀さんを街なんかで見かけたって子もいるのよ。……サボリならね、お姉さんであるアナタに、しっかり注意してもらわないと!」
 サボリ、と単なるウワサをうのみにした言い方に、亜矢は少し苛ついたが、抑える。「……はい。言ってきかせますので……」
 「明日ね。絶対連れて来てね。先生だって困ってるんだから」
 そんな言い分に亜矢はまたグッときたが、抑える。「すみません……」


 職員室を後にした亜矢の目は座っていた。
 あの先生は、思いやりと誠実さに欠けている。亜紀に親身になって心配している言葉が聞けなかったし、結局のところ、グチしか言われなかった気がする。
 何が、……先生だって困ってる、だ。フザケた言い方だ。自分は迷惑している。……そりゃそうだろうが、そんな言い方は、教師なら控えるべきだ。
 「バカが……!」
 亜紀ではなく、その担任に怒りが向く。
 しかも、何が、明日連れて来てね、だ。……できるワケねぇんだよ! 第一、いきなり明日はないだろうに……。
 「ク、ソ、が……!」
 亜矢は歯を剥き、きつく歯ぎしりした。


 ……いや。学校を確かにサボッている、亜紀が悪いのだ……。
 でも。亜紀が言って聞くような子ではないのを、亜矢は充分に承知している。
 「……知らないよ、アタシは……」
 廊下を行きながら、亜矢はため息をつき、どうしようかと悩むのだった。でもまたすぐ、忘れるのだった。





 学校も終わり、亜矢は駅に着く。
 電車に乗り、静かに揺られる。

 ――ストレス解消には酒が一番だ。
 家に帰って、酒を買って来よう。亜紀がいたら、明日ぐらいは学校に来てもらうよう、頼んでみるか……。
 亜紀をきつく叱って、ムリヤリ登校させるのもいいだろう。しかし、亜紀にとって学校が無意味だというのも、わからなくはない。亜紀は、普通の人間、普通の女子中学生では、ないのだ。

 もし、それが妄想であって、実は生身の普通の人間だったのだとしても……、価値観などを含めた、亜紀の頭の中身は、少なくとも普通ではない。
 そして亜矢自身、そんなに学校が好きではないので、亜紀に登校を強要する気が湧かないのだった。亜紀が望むのなら、望むままに自由にしておいてやりたい、という思いの方が強い。
 ……なんといっても、記憶の中で、亜紀は一度死んでいるのだから。

 こうして、側にいてくれているだけで……亜矢には正直、夢のようなのだ。
 ――絶対に、亜紀を失いたくはない。
 そのためなら、学校など敵に回したところで、痛くもかゆくもない。


 駅から自転車で帰宅。玄関は開いていた。
 「ただいま、亜紀」
 なんだか優しい声が出てしまい、亜矢は思わず照れくさくなる。
 「お姉ちゃんお帰り〜」
 亜紀はバスタオル一枚で、洗面所の方、髪を乾かしているようだった。相変わらず無防備だ。突然の客が来たところで、その格好のまま、出迎えてしまうような気すらしてしまう。

 「なんでもうフロなんか入ってんのよ。……あのさ、昼休みに亜紀の担任に呼び出されて、怒られた。どうしてくれんのよ?」
 「あ〜あのババーね。言わせとくしかないね〜。くだらない事ですぐ、くどくど怒るバアさんでさ〜。もう顔見ないで済むと思うと、ホント晴れ晴れした気持ちになるわね〜」 
 「あそう……」
 亜矢は早くも、亜紀を説得する気が失せてしまうのだった。

 「酒切れちゃったけど、買いに行かない?」と亜紀。
 「そのつもりで帰って来た。じゃ、今すぐ行く?」
 「そ、ね。でもお姉、その汗臭いまんま行くの? シャワーぐらいしてったら?」
 「い〜よ、別に」
 「やだなぁ、汗臭いお姉ちゃんと一緒に歩くの」
 「……何言ってんのよ」
 そんなくだらない会話のやりとりで……時に、亜矢は幸せの絶頂すら感じてしまうのだった。


 結局、亜矢もシャワーだけ浴びて、出かける。
 薄暗くなりかけた路地を、2人は自転車で行く。2人とも各々ラフな格好で。亜矢は口紅を薄く塗っている。これだけで、背の高い亜矢は中学生には見えない。酒を買うには必要な行為だった。

 
 そして20分ほど走らせ、隣町のコンビニへ。
 お菓子やら何やら買い込み、酒も数本。レジの店員は何も言わない。
 「おばさん、これ追加!」
 亜紀がレジ前のかごに、ヨーグルトやプリンなどを追加する。からかわれた亜矢は、口をゆがめて首を振る。
 「あと、ソフトクリームバニラ2つ」
 その亜紀の追加に、亜矢もいい案だと、うなずいた。


 日は落ち、辺りは暗くなる。そんな中、2人は仲良く、帰路を行く。ソフトクリームをなめながら。
 「……お姉ちゃん、幸せ?」
 急にそう問われ、亜矢はグッとつまる。「……やめてよ。アタシの心なんか読まないで」

 「読んでないって。お姉ちゃんの心はアタシそのものだから。自分で自分がわかる人なんかいないように、アタシはお姉ちゃんの心だけは、本当にわからないんだぁ」
 「またそんな事言って……」
 そして亜矢も、未だに、亜紀が何であるのか、漠然(ばくぜん)としかつかめていないのだった。

 ――死んだ亜紀のドッペルゲンガー(分身)。
 はたまた、本当の、亜紀なのか。いや、実はまったく亜紀とは関係のないバケモノなのか……。

 こうしていると、バケモノという気がしない。
 本当に、バケモノなどではないのかもしれない……。

 でも、時折見せる、奇怪な面。……すぐ忘れてしまうが、確かに過去、そういった色々な奇怪さを、亜紀は見せてきている……。
 「……本当に亜紀って……何なんだろうね?」
 そう、亜矢は問う。
 「……さぁね。アタシもよくわかんないんだ、実は」
 「ウソばっかり……」

 ソフトクリームを食べ終えた亜紀は、話題を変えてくる。2人は交差点を右に折れる。
 「この前さ、口裂け女とつながったよ」

 「え?」
 「……名前ね、鈴木 優子っての。あの住宅地に戻って来てた。外れの空家にいるね。ダンボール敷きの床で、うずくまってメソメソしてた」
 「めそめそ……?」話がよくわからないが、そんな単語に反応してしまう。

 「ヘッタレの口裂け女でさ! ホント意気地なしで、弱々しいの! 見てて腹立ってくるほどに。アレならまだお姉ちゃんの方がよっぽど怖いよ」
 「……はぁっ? ……アタシの何が怖いのよ、バカ……」亜矢は気落ちする。

 「お姉ちゃんの中にある、ドス黒い渦(うず)みたいなものは、アタシも感じるよ。お姉ちゃんはね……、アタシより、よっぽどタチが悪い。すげえ……、そりゃもう見事なバケモノだよぉ?」
 遠慮なくそう言ってくる亜紀に、亜矢は怒る気力も湧かない。何が、見事なバケモノ、よ、まったく……。
 「で、口裂け女とつながって、どうしたっていうの……?」

 「んま。近々、顔出してくるよ。あの軟弱な……」
 そこまで言った亜紀の顔が、急に歪んだ。

 「……う」
 亜紀は自転車を、止める。亜矢も何事かと、立ち止まる。


 亜紀は、顔をしかめ、手を震わせていた。その手のやり場がわからないくらい、急激な前後不覚に陥(おちい)っているようだ。
 「なんか、ダメだ……!」
 亜紀は路肩に自転車を倒す。買い物袋がかごから落ちて、菓子類が道路脇の水路にこぼれ落ちる。
 「ちょっと亜紀ッ!!」
 亜矢も自転車を倒し、亜紀に駆け寄る。両脇が田んぼの、狭い道路。動きのにぶる車のヘッドライト。そしてクラクション。

 「……イ! ……イァアアアッ!!」
 路上にひざまずき、体を折り曲げ、亜紀は苦痛にもがきだした。
 「亜紀!!」
 車の流れが歪む。自転車の倒した位置が悪かった。交通のさまたげになっている。亜矢は慌てて、自転車を路肩より、水路の方へ下ろす。買い物袋は田んぼにまるごと落ちて、無残なナリとなる。
 そして再度、亜紀の元へ。

 うなだれて、座り込んでいる亜紀は、しかして多少、落ち着きを取り戻したようだ。
 「……アイツだ。口裂け女」

 亜紀は目を見開いて、呆然としている。が、ふいに醜く笑みをもらす。「……やってくれるよ、アイツ……」
 亜紀は、その歪んだ顔をあげる。
 「……お姉! 信じらんないよ! あの……弱虫の鈴木 優子がさ、このアタシに……こんなマネを! アハハ……! すげえ笑える……!」
 「……ウギィイイッ!!」そしてすぐさま、亜紀はまた苦痛に身を折り曲げた。
 「亜紀ッ!!」

 「あぁのやろうっ!!」
 目を涙でにごらせ、亜紀は叫びをあげる。「ぶち殺されたいようだなぁっ!! 鈴木 優子ぉおおっ!!」

 ――ガンッ! と、亜矢は何かに弾かれる。そしてふらふらになり、後ろ手に、へたり込んでしまう。


 「おい、どうしたっ! 救急車呼ぶか?!」
 車を止め、親切に様子を見に来た中年の男。亜矢は何度もうなずく。
 が、亜紀は「うるせえよ、このやろう! 向こう行けッ!」と邪険に追い払った。


 車の通りが多少収まると、亜紀の高ぶりも火を消した。
 「……笑える。アイツが思いっきり、アタシに殺意を剥き出しにしてきやがった……。それがこうして……痛い、なんてね……アタシもダメだなぁ……」

 「救急車、呼ぶ?」その亜矢の問いに、亜紀は「冗談じゃないよ」と首を振る。
 「……やってくれたよ……まったく。くそ。……楽しいねぇ……ちくしょうめ」

 こんなに脱力した亜紀を見るのは、初めてだと亜矢は思った。でも、命に別状はなさそうだ……。
 亜紀は手を差し出す。「手、貸してよ」
 亜矢の手につかまり、亜紀は立ち上がる。
 「……気を抜きすぎてたかな? でも、もうアイツも終わりだよ……。このアタシを、本気で怒らせたんだからさ……。ホント、ドバカな奴……」
 そして叫びをあげる。「ゥアアア〜ッ!! わかったかァッ!! クソ口裂け女あッ!!」
 その殺意が、今頃口裂け女本人を直撃して、苦しめているのだろうか? 亜矢はそう漠然と思ったりした。


 「……ねぇ、大丈夫? どっかで休んでく? ホントに病院行かなくていいの……?」
 そんな亜矢の問いかけに、亜紀はやっと毒のない笑いを返す。
 「お姉らしくないね。アタシがどれほど頑丈(がんじょう)かは、わかってると思うけど?」
 亜紀は、しつこく差し出される亜矢の手を振り解き、投げ出された買い物袋を拾い上げ、近くにある汚れていない菓子類を拾い、倒れた自転車を起こす。
 「疲れたから……、もう帰ろう?」
 亜矢はそんな亜紀を悲しい顔で見る。

 仕方なく、亜紀はまた笑いを返す。「もう、帰ろうってば」
 亜矢は力なくうなずき、自分の自転車を起こし、買物袋などをかごに戻す。

 帰路。もう亜紀が苦しむ事はなかったが、亜矢の苦しみと不安は増すばかりだった。


― 22 ―


 翌日。
 亜矢が登校した1時間後、亜紀も家を出た。

 コンビニで軽く腹ごしらえ。サンドイッチと缶コーヒー。外のベンチでむつむつ、食べる。
 自転車で駅へ。この時間になると、学生の姿はない。

 ポーチを手に、電車に揺られる。
 中には、サバイバルナイフ。口裂け女――鈴木 優子を殺すための道具だ。

 いつもは、どんな状況にあろうとも、それを楽しむのが亜紀の信条であった。
 だが今は、真顔を崩す事ができないでいる。
 ――余裕がない。

 今の亜紀の頭の中には、鈴木 優子への殺意しか、なかった。





 K駅に降りる。
 もうどこの学校も、授業が始まっている時間だろうに、なぜか学生の姿もちらほら見える。見た顔に会わないように、と亜紀は視線を下げながら構内を行く。 

 あの住宅地まで、ここから3キロほど。駅の東口より出て、徒歩15分といったところか。
 構内を出て、清々しい空に迎えられる。
 だが、亜紀の心は揺るがない。
 (……殺してやるよ、鈴木 優子)

 その口裂け女を本当に殺せるのか、とか、殺した後、その死体はどうなるのだろう? などという、普段ならいくらでも推測したいような事も、今の亜紀には無意味なものだった。
 ――とにかく、殺意しかない。
 突き刺すか、切り刻むか。どう殺してやれば、より気が晴れるだろうか? 考えているのは、そんな事だけだった。


 「う?」
 北に伸びる歩道を行く途中。視界が急に真っ赤に染まる。
 どろり、と汚れる世界。立っていられなくなり、よろける。突き出した手が、歩道沿いの民家の生垣に飲まれる。
 「ちくしょうっ!」
 バサッ
 生垣に体をぶ格好にあずけ、目をきつく閉じる。
 ――ティッシュ。
 ポーチを開け、手探りでポケットティッシュを取り出し、目を拭く。
 拭き終わると、血で真っ赤に染まった。


 しばらく呆然となる。
 ――どうしてこんなマネができる? このアタシに。

 冗談ではない。アタシはこんなにも、コケにされてしまっているのか。
 ……しかも、簡単に??

 ウソだ。
 この自分を、口裂け女は凌駕(りょうが:超えるの意)しているというのか?
 ――そんな事は……信じられない。いや、信じたくはない……。

 血。
 このアタシは……こんなにも簡単に……血を……。


 もう、亜紀には強がりのカケラもない。
 ――これでは、逆に殺される。
 震え……はしないが、青ざめる。

 ――ちくしょう!
 このアタシをコケに……しやがって……。
 悔しくて、バカになりそうだ。


 だが。亜紀は持ち直し、またすぐに歩き出した。
 ――アタシにだって、チカラはある。
 殺されるもんか! ……絶対に。

 アイサツ代わりに、殺意の返事を送ってやろうと思ったが……、やめておいた。
 超能力合戦などバカらしい。そんなものは、子供だましだ。死に至らせる事はできない。

 ――ナイフ。
 それで確実な死を、与えるのだ。
 コケにされた分だけ、むごたらしく殺してやればいいだけの事だ……。それできっと、気が済む。
 そうなのだ。弱い犬には、いくらでも吠えさせてやろう。
 戦いの最後。ただの一噛みで、そのノド笛を噛み切ってやれば……、事は終わる。
 勝負とは、そういうものだ。どんな目にあおうが、最後に勝てば、それでいい。


 深呼吸を一つ。
 軽く空を見上げる。
 「……いい天気だねぇ、鈴木 優子ちゃん? 殺しあうにはさ、まるでムードがないよね。朝っぱらだし……」

 亜紀に少しだけ、余裕の笑みが湧いた。


― 23 ―


 交差点のコンビニの洗面所で、目と顔を洗った後。亜紀は例の住宅地にたどり着いた。
 ビデオレンタル店より、その住宅地は北にのびている。
 目指す空家は、まだ先だ。

 ビデオレンタル店を少し、真顔で眺める。
 ……まだ、観たいビデオがたくさんある……。
 だから。死ぬワケにはいかない……。
 どんなに重傷を負ってもいい。生き延びて帰るんだ……。

 鈴木 優子に歯向かわなければ、危険はないだろう。
 無意識で見るのをやめ、負けを認めれば、あの女もアタシになど、構わなくなるかもしれない。
 ……でも。そんな負け犬根性に、亜紀は納得などできない。
 死んでも。――殺す。

 小川をまたぐ橋を渡り、アパート前を抜け、授業中であろう小学校を軽く眺め、ひと気のない住宅地をゆっくりと行く。
 楽しくはなかった。
 怒りもおさまってしまっている。
 亜紀はただ、黙々と進んでいく。


 十数分歩いた先に、目的地が見えてきた。
 住宅地の外れ。家がまばらになり、代わりに田畑が増えていく。
 ――カーテンの閉まっている、庭に何もない、平屋。
 ここに、鈴木 優子がいる。ハズだ。
 
 ポーチより、サバイバルナイフを取り出す。
 ポーチを庭に放り投げ、ナイフを皮製の鞘(さや)より引き出す。黒いブレードが顔を覗かせる。
 ――ネットで買った、エアフォースサバイバルナイフ。これで人を殺した事は無論、まだない。

 ナイフを握り締め、玄関へ。チャイムは電源が入っていないだろうからと、戸を数回叩く。

 ……しばらく待つが、返事はない。
 戸はカギが閉まっている。

 「おい! どういうつもりだっ!!」
 亜紀は叫び、なお激しく戸を叩いた。


 「……あらあら。朝から騒々しい人ね」
 後ろから声がかかり、亜紀は思わず飛びのいた。





 ……ジーンズに黒のTシャツを着た、若い女。
 鈴木 優子だ。買い物袋などを手に下げ、やわらかな笑みを向けてよこす。

 「せっかく貴方が来るっていうのに、コーヒーが切れそうだったから、新しく買ってきたの。お茶菓子なんかもね」
 と、袋を上げてみせる。
 亜紀は目を細めていぶかしみ、とにかく気を抜かぬように努める。

 「あら? なにその短剣? それで私を殺そうと?」
 鈴木 優子はこうして見ると、ただの主婦だ。今は口を縫っているようなので、なおさらそう思えてしまう。
 「……短剣? サバイバルナイフだよ、マヌケ」
 そう言うと、優子はキャハハと笑った。「気が強い子ね〜!」


 「……でね、悪いんだけど、ここに住んでいるのを誰にも知られたくないのよ。早いトコ、中に入りましょ? 裏口が開いているから」 

 「そんな事、今となっては、無意味だろ?」と亜紀。
 「……?」優子は目をしばたく。
 「アンタはアタシに今、殺されるんだ。今後の事なんか心配する必要はないよ」

 すると優子はからかうように、頭をくねくねと動かし、苦笑してみせた。 
 「そうかもしれないわね」


 優子は裏口へ行き、中に入る。
 亜紀は少し悩んだ後、仕方なく中に入った。





 「狭くて汚いけど、あがって?」
 優子は臆面もなく、亜紀を家の中にあがらせる。亜紀もやや面食らうが、素直に従っておく。殺すのは、家の中でもできるだろうから。ひと目につかなくて、都合がいいかもしれない。

 キッチン。テーブルの上には花が飾られてある。
 優子はダンボール敷きの居間に、亜紀を手招く。ナイフを握り締めたまま、亜紀は従う。

 「ガスも水道も電気もないからさ、カセットコンロでお湯を沸かしてるの」
 優子は座り込み、小型のやかんを乗せた三脚の下にある、コンロに火をつける。「さ、どうぞ。座って」そして、コンロを挟んだ自分の正面に腰かけるよう、すすめる。

 亜紀は座らない。
 「……ずいぶん余裕があるようだけど……アタシなんか眼中にないっての? 簡単に殺せるとか?」
 亜紀は顔をしかめ、ナイフをきつく握りなおす。
 「そうは思ってないわ。アタシは別に、生きる事なんかどうでもいいから。今、貴方に殺されたとしても、大して悔しくはないわ」
 「……なら、殺されてくれない?」と亜紀。
 優子は首を振る。「悔しくはないけど……楽しくもない。でも、ここで貴方を殺せば、楽しくなりそうな予感がするのよね……」

 亜紀はため息をつく。「結局、アタシを殺したいのか……」
 「そりゃそうよ! 貴方は目障りだもの! ……アタシの無意識を覗きこんでくるしさ。うっとうしい」
 亜紀は奥歯を噛む。「じゃあ、ノンキにお湯なんか沸かしてんじゃねぇよ……」

 優子はニコリとする。「殺しあうのは後でもいいでしょ? せっかくだから貴方と話がしたいと思って。殺しちゃったら話しもできなくなるしさ。もったいないもの」
 亜紀は首を振る。「……余裕があるな。くそ」

 居間には座らず、キッチンの方のテーブルのイスを引き、亜紀は腰を下ろす。だが、気を許したワケではない。


 「……アナタは、何者?」
 真っ直ぐに、優子は亜紀を見つめる。
 「……さぁね」亜紀はそっぽを向く。

 「……柚木伏(ゆきぶせ) 亜矢。それは誰?」
 そう問われ、亜紀の顔色が変わる。
 「アタシの……心を覗くな!」

 優子は亜紀を見つめたまま、質問を続ける。
 「……アナタは、本当は亜紀という子じゃない。その子は昔、死んでいる。……アナタは、亜矢ね?」
 「うるせえっ!!」
 亜紀は思わず、立ち上がる。「このマヌケッ! アタシを怒らせるんじゃねぇよ!!」


 優子は真顔のまま続ける。「柚木伏 亜矢……のドッペルゲンガーか。なるほどね。亜矢自身が、妹をなくしたと思いたくなくて、そして亜矢の影であるアナタは、それに応えているのか……ふぅん……」
 亜紀は正体を見抜かれ、泣きそうな顔になる。
 「うるせぇ……よ。なんでテメエなんかに……そんな事を言われなきゃなんないのよ……」

 「亜矢は、精神が崩壊している? アナタがいなくなったら、死ぬ?」
 亜紀は悔しくて歯を剥く。
 「……そうかい。やっぱりオマエは殺されたいらしいなっ!!」
 亜紀は、座っている優子に足を踏み出す。


 すると、優子がサッと立ち上がった。そして両の手の平を見せる。
 「まぁ、待ちなさいよ! ……悪かったわ。アナタ達の事情を考えないで、少し言い過ぎたようね。……謝るわ。できればまだ、アナタと戦いたくはないのよ」
 亜紀は首を振る。「……ダメだ。殺す」


 すると、優子は目を見開いて笑った。
 「アラ! そんなのムリよ! ……あのね、最近わかったんだけど、アナタのチカラは、さほどでもないのよ! アタシを殺すなんて、絶対にムリ! キャハハハッ!! 絶対に、ムリなの!」

 そう言い終わるや否や。亜紀はナイフで、優子に鋭く切りかかった。
 優子は素早くよける。そして居間から廊下に逃げる。
 「待て、この野郎ッ!!」
 亜紀も追う。

 廊下の先。優子は口を開いて笑っていた。
 ――大きな、口。
 思わず、亜紀は身震いする。

 「このガキめっ! アタシを殺せるものなら、殺してみなぁッ!!」
 その手には……カマが握られていた。刃が湾曲(わんきょく)している、草刈り鎌だ。

 「用意がいいわねぇ……」優子の変わり身に、亜紀は感心してしまう。
 「でも。アンタは生きたくないんでしょ? ……だったら、アタシに殺されなさいよ。アタシはね、まだまだ生きたいのよ。お姉ちゃんともっと酒飲んで騒ぎたいし……、観たい映画もね、たくさんあるのよ……。人間としてね、まだアタシは当分、生きていたいの……」

 「だったら、帰んな!」
 優子の口調は荒い。
 亜紀はここでやっと、笑いを見せる。「……いいえ。どうしても、ここでアンタを殺したくなったのよ! ……どの道、ドッペルゲンガーは、他人に正体を見抜かれたら終わりなのよ。ソイツを殺す以外に、主人を生かす道はないの」
 亜紀の目に狂暴さが宿る。

 ――狭い廊下。
 数メートルを挟み、2人は力強く、睨みあった。


― 24 ―


 亜紀はきつく、口裂け女を睨む。
 ナイフのハンドル(グリップ)を握る手が汗ばむ。しかし、握り心地も良く、滑るような気はしない。安物のナイフとはワケが違う。

 ナイフは滑らないが、足元が滑りそうだ。
 亜紀は優子から目をそらさず、すばやく靴下を脱いだ。足にチカラが入らないと、戦いにならない。この板張りの廊下はやや滑る。
 優子は薄ら笑いで見ている。


 「アタシを呼んでくれた子は……元気にしてる?」
 「……誰の事だ?」
 「……榊 泉美。柚木伏 亜矢のクラスメートなのよね……?」

 そんな話に、亜紀はため息をつく。「何もかもお見通しだと言いたいのか……? だから何だってんだ?! オマエみたいな軟弱なバケモノはな、アタシみたいな高等なバケモノに殺される、と相場が決まってるんだよッ! このデカ口女めがっ!」
 そのセリフは何の根拠もなく、亜紀自身メチャクチャだと思う。ただ亜紀は、ここでわめきたかっただけなのだ。力強く。

 優子は裂けている両の口元を、指先でなぞる。
 「この口は。伊達に裂けているワケじゃない。それをね、今からオマエに、たっぷりと教えてあげるからね……」
 その声色は、聞く度に低くなっていくように思える。
 亜紀は次第にのしかかってくる……恐怖に、耐え続けねばならなかった。

 「榊 泉美は、アタシにチカラを与えてくれた! アタシはその存在すら、今まで危ぶまれていた。昔……、20年前か。その頃のアタシは……誰にも気づかれないような……、確かに貧弱な存在でしかなかった。……人間だったからな。あの頃は」
 「アタシはチカラもなく、ちょっとガキを殺してみただけで、すぐに警察に捕まった。そして獄中、舌を噛んで死んだ。また一からやり直したくて、な……とは言え、改心したって事じゃないぞ?」
 そこで亜紀は、優子にいきなり切りかかった。しかし、それは空を切る。
 切り返しとばかりに、今度は優子のカマが、亜紀の頭を襲う。亜紀はすばやく頭を起こし、カマも空を切る。

 「……あぁん、落ち着かない子だねぇ……少しは話を聞いてくれない? アタシはさ、アンタみたいな仲間を、ずっと待ってたんだから」
 「だったら殺すなよな」亜紀は言葉と裏腹に、また優子を襲う。
 「うあっ!」
 亜紀はナイフを握ったその手首を、素早く優子に捕まれた。


 「おい……話ぐらい黙って聞けないのか、最近のガキは。……え?! 自分勝手すぎるんじゃないのか、オマエらは? そうやって他人をバカにして、コケにして生きるのが……、そんなに楽しいのか?!」
 優子の形相に、亜紀は肝を冷やすが、ムリヤリ腕を引き戻す。そして距離をまた置く。

 「……このババア。アタシに、てめえのストレスをぶちまけんじゃないよ。……あのね? ババアのお話はいつもくだらないから、聞く耳を持ちたくないだけなのよ? わかる?」
 そう言う亜紀に、優子は「まいった」と首を振る。

 「でもまぁ、聞け。
 こうしていても、アタシなんか……、幽霊同然なんだ。……だがな、この世には、幽霊が見えてそれを心底恐れてくれる人間も、たまにいる。そんなヤツらに食いつく事ができれば……アタシらはチカラを得るんだよ。そこで初めて、存在する事ができるんだ……」

 「だから何だってんだ」
 亜紀は苛立つ。

 「アタシらバケモノは、人を凄惨(せいさん)に殺し、人に恐れられてこそ、その存在意義があるんだ。
 ……なのに、キサマらは一体何をやっているんだ? 人間どもとママゴトか? オマエは今まで、人間をただの一人も殺していないだろう? ……何故だ?」

 「何故? ……何言ってんだマヌケ」
 そこで優子は大声で、亜紀の言葉を遮った。「アタシをバカにするのはやめろっ!!」


 亜紀は目を輝かせ、ニヤニヤと笑い始める。
 「……こりゃあ……驚いた。アンタはバカにされるのが嫌いか? だったらもっと怒らせてやろうか? この……くそ、まァァぬけ。そのド間抜けに、馬鹿デカイてめえの口は……、赤ずきんちゃんでも食うための口なのか?」
 そう言うと、優子は奇声をあげて頭を掻き毟った。
 「キィィィィアアアアッ!! ギィアアアアアッ!!」
 怒りが、抑え切れない様だ。
 亜紀は冷静に見つめる。
 ――ここで、襲い掛かって来る! 気を抜いたら……、終わる。
 

 亜紀は、先に飛び出した。
 ……あのカマを、落とすんだ!

 優子がカマを握っている左手首を狙う。
 しかし、それは先に振り上げられる。……ナイフは届かない!

 「うああっ!!」
 行く先を失いそうだったナイフを胸に引き戻し……亜紀は両手で握りなおす。
 引いて、勢いよく優子の懐(ふところ)に入り込み……、ナイフを突き立てた。


 その後、亜紀の背を襲う痛み。カマか……。
 だが亜紀はひるまず、ナイフに全身の力を込める。


 もつれて倒れる2人。
 優子は胸を血で濡らし、亜紀は背を血で濡らす……。
 ナイフが胸から外れ、亜紀は再度振りかぶって、また深々と突き刺した。

 「イギアアアッ!!」
 優子は腕にチカラが入らないながらも、カマを執拗(しつよう)に振るい、亜紀の背に何度も突き刺す。
 ――あまりの激痛に、亜紀の目からぶわっと涙があふれ出た。
 しかし、歯を食いしばって、とにかく優子の絶命を願う。血だらけの手の中から、いつしか滑っていたナイフを慌てて探り、握りなおしてまた、優子の胸元に深く、突き立てた。
 心臓をえぐるように。

 だが。
 亜紀の意識は早くも、朦朧(もうろう)としかけていた。
 またナイフが滑る。口をわななかせて、またナイフを突き立てる。

 「ギィッハッハッ! キィッハッハ」
 口裂け女の笑い声に、亜紀は不審(ふしん)をいだきながらも、何度もナイフを突き立て直す。
 ――早く死ね。頼むから……。

 ドンッ!!
 亜紀は背に強い衝撃を受けて、痙攣(けいれん)する。
 ナイフがこぼれる。
 その震える手が、ナイフを探る。しかし今度は、それを手にする事ができなかった。

 「話が全然途中だろう……が。まったく中途半端なガキ……だ」
 優子は歯を食いしばり、カマをまた、亜紀の背に突き刺し、恨みを込めて、えぐった。





 「ウァアアアッ!!」
 授業中。柚木伏 亜矢が突然悲鳴をあげ、イスから転げ落ちた。
 何事かと、クラス中、騒然となる。

 「イアアアッ!!」
 ビクン、と亜矢は大きく痙攣(けいれん)して、また苦痛に体を折り曲げる。
 「どうしたっ!」
 先生が集まる生徒らを押し退け、亜矢の元へ駆け寄る。

 そして、ギクリとした。
 亜矢の体から、床に真っ赤な血が流れ出していたからだ。

 「……おい! 誰か!! 救急車だっ!! 早くッ!!」
 廊下側の生徒が数人、廊下に飛び出す。

 「ギィ……アアアッ!!」
 また亜矢は苦しげに叫ぶ。その背中が血で、どんどん濡れていく……。
 「傷を! 誰かタオルッ!」
 先生は亜矢の制服を脱がし、傷を見ようとする、が、亜矢は痛みに暴れて、手がつけられない。

 「アタシ、何もやってないっ!! やってないッ!!」
 亜矢の後ろの席の子が、そうみんなに訴える。「アタシじゃないっ!!」
 そう言われなくても、見ている皆はわかる。
 ――亜矢は見えない何かに、切りつけられているかのように、見えるのだ。
 
 また亜矢は激しくうめく。身をよじり、床を転げる。
 皆は誰かの助けが来るのを、待つばかりだ。――保健の先生。救急車! 誰でもいい!


 亜矢は突然、虚空に顔を向け、叫んだ。
 「亜紀ッ!! ……アキッ!!」


― 25 ―


 「いつまでそうやって、抱きついてんのよ……どいてもらえる?」
 優子は憎しみをこめて、また亜紀の背にカマを突き立てる。だが、仰向けになっている上、亜紀が覆い被さっている。力の入る体勢ではない。切っ先のみが、亜紀の背に突き刺さる。
 「うグッ!」
 亜紀は大きくのけぞり……、また体を弛緩(しかん)させた。
 もう、息絶え絶えだ。

 「まったく……ひどい事をしてくれるね……。ホント、死ぬ寸前だよ、ちくしょう……」
 優子は亜紀よりは意識がはっきりとしている。だが、亜紀をどける事はできなかった。
 「このやろう……!」
 カマを握り直そうとした優子だったが、血で手が滑り、カマを落とす。
 それは、障子の外れている、廊下沿いの座敷に転げていく。手を伸ばしたが、届かなかった。

 「うぅっ……」
 今度、優子は亜紀の体を起こし、自分の血まみれの胸元に差し込まれているナイフを取ろうとした。が……それも途中で力尽きた。
 「ダメだ……!」
 優子は、亜紀に乗られた格好のまま、抵抗するのをやめ、静かに目を閉じた。


 2人の血が混ざり合い、優子の背に流れていく。そして廊下をどんどん濡らしていく。
 「言っとくけど……この程度じゃアタシは死なないからね? 亜紀ちゃん」
 目を閉じ、眠っているような亜紀の顔を間近にして、優子はそう言う。
 亜紀は反応しない。

 「……亜紀ちゃん。アンタ人間並みだね。こうして見ると……、どこがバケモノなのかわからないくらい。
 不思議だよね……。あれだけアタシを、コケにしといたクセにさ……」

 「アタシは……」亜紀がかすれ声を出す。「ほとんど生身でね……」
 「生身?」と優子。
 「……あぁ。そうだよ……」亜紀はもう、声を出すのも辛いようだ。


 「……そうなの? それは残念ね。
 アタシはもっとさ……とんでもないバケモノを想像してたのよね……。怒らせちゃったら、一睨みで、消されちゃうような……アハハ」
 「バカ言ってんじゃねぇよ……神サマじゃあるまいし」
 亜紀は苦しそうに身を少しよじる。「おい……背中痛ぇよ……この野郎……。背骨壊しやがったんじゃ……ねぇか? くそめ……」

 「アンタこそ……アタシの心臓を何だと思ってんのよ……穴開けてくれたんじゃない? 心臓移植しなきゃぁね……キャハハハ……」
 「ふん……よく笑えるよ……。想像以上の、見上げたバケモノだな……」
 そして亜紀はまた目を閉じ、優子にもたれかかる。「抱きつきたくないけど……もう動けないんだ……てめえが死ぬまで、こうしててやる……」

 その時、2人は遠くで沸騰する水音を聞いた。
 「……お湯沸いてるってか……? そういや、コーヒー……ごちそうしてくれるんだったな?」亜紀は痛々しげに苦笑する。
 「……悪いけど、アタシ今、手が離せなくて……良かったら自分で淹(い)れてくれるかしら……?」優子も苦笑する。

 「つまんねぇよ、ババア……」
 ゴロッ。
 亜紀はようやく、優子から離れる。
 2人は並んで仰向けになる。どちらも……もう、動けない。

 「アタシの方が……ひどい傷だよ。胸の原型がなくなっちゃったんじゃない? ……さすがに……痛くて気が遠くなりそうよ……」
 本当に痛みを感じているのか疑問に思えるほど、優子は淡々と喋る。
 ……が、動けないのは本当なようだ。両腕を小刻みに痙攣(けいれん)させ、動かす事が今はできないらしい。両足もだらりとしたまま、力が入らない様子だ。

 「アタシの背中も痛いよ……。燃えてるみたい。意識もそろそろなくなるかも……」
 亜紀はまた、目を閉じる。
 「あぁあ……ここにお姉ちゃんが来てくれたりなんかしたら……アンタのトドメをさして、一件落着になるものを……!」
 優子は笑う。「そりゃあ残念ね……」


 「ところで亜紀ちゃんはさ……もろいよね。アタシだったら、その程度の傷で動けなくなりはしないわねぇ……?」
 「言ってろよ……ボケ。アタシはね……ほぼ人間だから。たぶん……、いつの間にか人間になってたんだな……」
 
 「人間に?」と優子。
 「お姉と一緒にいたからだよ、きっと……。
 あの子もずいぶん変わってた。初めて顔出した時かな。喜ばれちゃってさ……。普通、ドッペルゲンガーなんか見たら、怖いハズなのに……。んで、「やっぱり亜紀、生きてたんだ!」なんて……抱きつかれたんだよね……」
 「……」優子は黙って聞く。
 「それから長い事……長くもないか……まぁ一緒にいて……、楽しかったね……。あの子はすごく寂しくて……、いつも死ぬギリギリのところにいて……。で、アタシも同情しちゃったのかな。あの子のペースにあわせてみたり……。
 ……そして、いつの間にか妹にされちゃって……本当の妹みたいに、なってたんだな……」
 亜紀はため息をつく。

 「だから……、人間になってしまったの?」と優子。
 「……アタシも気づかないウチに、そうなってしまってたんだよ。アタシはお姉に……良くしてもらって、バケモノなりにでも、芽生えるところがあったんだね、きっと……」
 亜紀は静かに微笑んでいる。
 「口裂け女……最後に一つだけ、バケモノとしての奇跡を見せてやるよ……」


 亜紀は目をカッと見開き、全身の力を放った。
 優子も真顔で何が起こるか、耳をそばだてる。


 ――カタン。

 向こうで、何かの音。

 「ほんじゃ、さよなら、かな。お姉ちゃん……」
 亜紀は一度満足げに笑った後、口をわななかせて、涙をこぼした。





 優子は何が起こったか、すぐに気づいた。
 ……火だ。居間が燃え始めている。
 亜紀は、カセットコンロを倒したのだ。


 「くそっ!」
 ――まだ、起き上がれない。背中が廊下に張り付いてしまったかのようだ。

 だめだ。くそ!
 起きなければ、火にまかれて死ぬ。
 だが……そんな余力はない。

 足の指先に力を込める。
 なんとか……動かさないと!

 「……あきらめろよ。アタシと一緒に、死のうぜ」
 亜紀は腕を起き上げ、優子の胸元にドサリと被せる。
 「うぐアッ!!」
 優子は激痛にまた、うめく。

 火は煙を巻き、居間から這い出てくる。
 炎の塊が、吹き荒れる。ミシミシと、家全体が泣く。

 「ウグアァアアアッ!!」
 口裂け女は叫びをあげる。
 火が廊下に迫る。

 「アタシはねぇ……中途半端が何より嫌いなんだ……! こんな……何もしていないまま、死ぬワケにはいかないだろうがッ!! まだ全然、殺し足りないんだっ!!」
 口裂け女は悪鬼の顔で、勢いよく半身を起こした。
 火はもう、そこにある。

 「柚木伏 亜矢。……妹のカタキは、ちゃんと討たせてやるよ……」
 口裂け女は起き上がる。
 ナイフが、その胸元からこぼれ落ちる。
 それを拾い、亜紀を見る。

 「……なかなか……楽しかったわ。でも、こうなる運命だったのよ、きっと。あのさ……人間に成り下がってしまったのに、それを泣いて喜んでいるようじゃ……やっぱりまだまだガキなのよ」
 そしてナイフを逆手に持つと……、仰向けになっている亜紀の、心臓めがけて振り下ろした。

 「ぐぶッ!」
 亜紀は小さく反応し、やがてまた、静かに弛緩(しかん)していった。

 口裂け女は冷ややかにそれを見終えると、ゆっくりと立ち上がった。


― 26 ―


 どこかの草原で、夜の月を、亜紀と静かに眺めている。
 微かな風を感じる。手足にかさかさとした草の感触。
 ――美しい、時間。

 冷たい息を吸い込む。
 心地よくて、思わず微笑む。

 「……妄想から、覚めるのよ、お姉ちゃん」
 そんな事を言う亜紀を、亜矢は驚いて振り向く。
 制服姿の亜紀は隣に座っている。

 「お父さんも、お母さんも。そして亜紀も。……ただの事故死よ。早く夢から覚めなよ、お姉ちゃん……」
 そのセリフの後、亜矢は寒気を覚える。急に、寒くなってきた……。
 「アタシももういなくなる……。ドッペルゲンガーなんていうものは、結構弱かったのね。アナタの影でしかなかったんだから……非力なものよ」
 亜矢は顔をしかめて、そんな亜紀を見る。
 亜紀もようやくこっちに顔を向ける。
 「……さよならね。アナタといて、面白かったわ。
 ホントはさ、アナタを殺すバケモノだったのよ、アタシは。ドッペルゲンガーというのは、見た人間を死に至らせるものなの。あの口裂け女がいなかったら……、アタシはその役目を遂行(すいこう)してたでしょうよ」
 亜紀は目を伏せる。

 「泉美ちゃんが……カギを握ってる。あの子に協力してもらって。そして、口裂け女を殺して頂戴……。それが、アタシの願い」
 亜紀は腰をあげる。そして、強く亜矢を見る。
 「……この世は、ありのまま。何も変わったものなど、ない。……でも、人間の精神世界は、そうでもない。そしてまた、人間はどちらの世界も共有しているから……。結局人間が、現実を無意識と、つなげてしまうのよ」

 「無意識?」と亜矢。

 「目に見えるものじゃないけど、アタシ達の基盤となるものよ。人間のココロってヤツね。その無意識が、現実をどんどん変えていく。まして、変えたとしても、不思議に思われない。無意識は、人間の根底にあるものだから、よ。不思議、という概念を、感じさせない」
 真顔だった亜紀は、表情を取り戻す。
 「……アタシは、口裂け女に殺されたわ。
 お姉ちゃんとつながったままだと、お姉ちゃんも死んでしまうから、別々のモノとして、切り離した。もう、お姉ちゃんはアタシを感じる事はできない。アタシもね」
 「殺された?」
 そう言うやいなや、体に激痛が走り、亜矢はうめいた。

 「……そう。だからさ、アタシという妄想と付き合うのも、これで終わりにしなよ、って事。現実に目を向けてよ。
 いい? アナタの黒い妄想は、ヨタ話よ。とても、くだらない事。
 アナタの描く、冷たく暗い自分像は……、とても意味のないもの。
 アナタはそろそろ……現実へ目を向けなきゃならない頃になっているのよ」
 あくまでも優しく、亜紀は亜矢に言う。
 亜矢は泣き顔になる。

 「妄想は、何にもならない。
 行動してよ、お姉ちゃん。……明るくなれ、とか、みんなに優しくなれ、なんて言わない。そういう事じゃない。
 家族みんなが死んだ事を、ありもしないもののせいにしないで、受け止めるのよ。……しっかり、するの。気持ちを。
 そして、思うがままに、生きて。暗いままでもいい。でも、ウジウジするな、って事よ!」
 亜紀は破顔し、すがすがしい笑みを見せる。
 亜矢は笑えない。……でも、亜紀の気持ちは痛いほど、伝わってきた。

 「……さよなら、お姉ちゃん。アタシという妄想と、これでキッパリ決別しなよ?」
 亜紀は手を振り、立ち去っていく。
 ――追えない。

 亜矢はどうしていいかわからないながらも、目に涙を浮かべ、「さよなら」と言う。
 もう一度言う。「亜紀、さよなら! ありがとう!」
 手を振る。

 亜紀は振り向いて、大きく手を振ってみせる。
 亜矢も立ち上がり、手を振る。

 次第に草原が解けていく。
 月が急速に傾く。世界が白くにごっていく……。





 亜矢は、病室のベッドで目覚めた。窮屈(きゅうくつ)なうつ伏せになっていた。
 「いてて……」
 そう声を上げると、看護婦らしき人が声を張り上げる。医師が近寄って来る。
 「え〜……柚木伏 亜矢さん。意識が戻りましたか?」
 亜矢はウンウンとうなずく。
 「そりゃあ良かった。で、突然、授業中に倒れたんだってねぇ? ……その傷だけど、誰に?」
 亜矢はまだ頭が回らない。「……いえ、急に……」

 医師は顔をあげる。「まぁいいや。まだ休んでなさい。少し落ち着いたら、普通の病室に移動するからね」
 そして医師は看護婦達に指示を与え、足早に立ち去る。
 亜矢は横目で辺りを眺める。
 物々しい機材類。――ここは、集中治療室、という所らしい。

 背中の痛み。亜紀の夢。
 そして――さよなら。

 また泣きそうになる。
 アタシは……弱い。
 亜紀がいなくちゃ……笑う事すら出来ないのに……。

 でも。落ち着いたら、やる事があるようだ。
 現実に目を向けて……そして、榊 泉美と話をしよう。

 口裂け女に殺された……、もう一人のアタシだった、亜紀のカタキを討つために。


― 27 ―


 葬式。
 亜紀の葬式を、亜矢は不思議な気持ちで行っている。

 親戚と葬儀社の社員にサポートされながら、亜矢は中学生ながら、喪主を努める。
 亜紀と共に背中に受けた傷は、亜紀にとっては致命傷であったが、亜矢にとっては数針縫う程度の軽傷で済んだ。入院も必要なかったので、亜矢は喪主を強く望んだのだった。

 今は、親類達20名ほどと、亜紀のクラスメイト、先生らを含めての、告別式の最中だ。寺を借りている。
 亜矢はその空気を、全身で感じている。
 ――現実はここにある。
 亜紀は……人間として、死んだ。その焼死体は、チリとなって消えうせたりはしなかった。生身の人間として、亜紀は死んだのだ。
 現実が歪んでいた。亜紀が死んだのは、これで2度目。でも誰も、不思議がらない。
 ……現実は確かに、歪(ゆが)むものなのだ。記憶は確かに、歪められるものなのだ。
 亜矢は真摯(しんし)な気持ちで、それを受け止める。


 ――3年前。両親と妹の亜紀を一度になくした時。ただワケがわからずに、泣いていただけの自分。
 ……あれは確かに、交通事故だった。今はそう、納得できる。
 両親達は闇に飲まれて死んだ、などという夢物語は……、その後に見た悪夢か、それとも両親の実際の死を認められずに、現実逃避していただけだったのだ、きっと……。


 亜矢はまた唇を噛む。
 ――妹は、殺されたのだ。口裂け女に殺されて、死んだのだ。
 それを……、忘れてはならない。





 葬式の一切を終え、亜矢は翌週の月曜から、学校にまた登校する。
 ――暗いままでもいい。ただ、ウジウジするな、って事!……
 月夜の下での亜紀の言葉を思い出し、温かく受け止め直す。

 ……亜紀は、アタシ自身。アタシの中に、きっといる。
 ワタシは、狂わない。どんなに苦しくても、亜紀のために……ワタシのために……狂うワケにはいかない。
 泣き叫んで、発狂して……涙まみれに自殺する明日があるんだとしても。
 せめて、亜紀のカタキ討ちを成し遂げなければ、そういう最期を迎えるワケにはいかない。
 ――中途半端なマネは、もうしない。
 自由翻弄で、中途半端な生き方に憧れていた自分の「分身」は、こうして死んだのだから……。


 早い朝。一人で電車に乗る。
 (これからは……退屈になりそうだな)

 胸が押し潰されそうなほど、時に痛むのに。
 ――まだ、泣けない、と思った。
 まだ、信じたくないとか、受け入れられないとか。神経がマヒしているとか。自分はやっぱり悪魔かもしれない、とか。
 そういう思いも混ざって……、亜矢はまだ亜紀のために、素直に泣く気になれなかった。





 つまらない授業中。
 やっぱりいつものように眠くなり、亜矢は少しだけおかしくなった。
 大切な妹が死んだのに。生理的なものはどうにもならない。人間はそう、悟る事はできない。体がついていかない。
 ――やはり、自分というものは変えられない。
 人間は……聖人にはなれない。
 どんなつらい事があっても。


 ちら、と泉美を見る。窓際の方。真面目に授業を受けているのが、ひしひしとわかる。
 でもやはり、優しい子だ。
 朝、「亜矢ちゃん……」と話しかけてきて、結局何も言えないままだったあの子。
 ――巻き込みたくはない。
 でも……協力してもらうしかない。あの子がカギを握っている、と亜紀が言っていたから。

 だけど、どう切り出そうか。
 口裂け女に亜紀が殺された、と知ったら、泉美はどんな顔をするだろう?
 自分の「口裂け女」のサイトに嫌気がさし、やめてしまうかもしれない。
 
 そうなったら、口裂け女はどうなるだろう? 力を失うだろうか。まさか、とは思うが……。
 でも。泉美が本当に、なんらかのカギを握っているのであれば。その動き次第で、口裂け女の動きも変わってくるかもしれない。
 ――とにかく。泉美と親しくなろう。
 あの子はなんだか話しやすいし、親しくなるのはさほど難しい事じゃない。ただ、周囲におかしく思われない程度には留めておこう……。

 でも。泉美は一体、どんなカギを握っているのだろうか。
 ……そしてなぜ、カギを握っているのが、泉美なんだろう?

 今の亜矢には、わかるハズもなかった。


― 28 ―


 単刀直入ができない亜矢は、泉美に頼れぬまま、日々を送っていく。
 むやみに話しかけてみたところで、どう話を切り出せばいいのか、わからない。
 ――亜紀は、アナタが口裂け女のカギを握っているって言ってたんだけど……、何か思い当たる事はない?
 そんなセリフは、ただ間抜けでしかない。

 口裂け女をつづった、泉美のサイトをパソコンで見てみたが……、ひと月ほど前より、更新が停まっているようだった。熱が冷めたような具合に見える。
 口裂け女がらみで、書く事が見つからなくなったのだろう。まして、亜紀の事などを書かれたのであれば、それこそ泉美には憎しみを覚えるだろう。サイトが黙っていて、ありがたくすらある。 

 それはどうあれ――手を、ひっかける所がない。
 今は何も、つかめない。

 亜紀をただ、思うだけ。
 何もしてやれない……。


 昔から、自分は行動的ではなかった。今も変わらない。
 亜紀のカタキを討たねばならないのに……そうわかっているのに、毎日をただ無為に重ねていく。
 ――人間は、そう簡単には変われない。どんな事があっても。
 一時的に激しく気持ちが高ぶったり、揺らいだりしても。
 結局、元の自分に返ってしまう。

 でも。
 今度ばかりはそうあってはいけない。
 今、自分に何かをしようという気力が湧かないのは……、亜紀を失ったばかりだからだ。いくら、自分がやる気のない人間だとしても……、自分はそうも冷たい人間ではないハズだ。

 亜矢は、自分を信じたい。
 ――今は、きっかけを探しているのだ。
 むやみに動いた方が、きっと失敗する。

 心に留めておけばいい。刻んでおけばいいのだ。
 亜紀の事を。しっかり、と。
 そして時が来たら、やる事をやればいい。
 そういう事なのだ。





 榊 泉美は昨晩見た夢を、また理解できなかった。
 最近は、あまり人には言えない夢ばかり見てしまう。
 最近、と言うが、夢の記憶はあいまいなもので、その夢が数ヶ月前からなのか、数週間前からのものなのか、いまいちハッキリはしない。

 とにかく――口裂け女になった夢を見るのだ。
 普通の主婦として暮らしているが、自分は口が裂けているのを知っている。そして、胸の中はどろどろとした憎悪のようなものに巻かれている。
 それがいくらか続いた後、自分は夫を殺し、一人になった。バケモノとして、新たに動き出す。

 ……その口裂け女の夢は継続し、たまに続きを見る。

 ――柚木伏 亜紀を知り、憎むようになる自分。 
 そして数日前は、亜紀が炎に焼かれる夢を見た。自分はそこから逃げた……。


 断片的で、場が理解しかねたり、理屈にあわないと思える部分も多くある。
 だがしかし、そんな事はどうあれ、気味が悪い。口裂け女の夢は……、続くのだ。確実に。断片的ではあるが、なんらかのストーリーを帯びて。

 ……初めは喜んだ。口裂け女のサイトをしている手前、名誉な事だとすら、思った。
 しかし、段々に怖くなってくる。同じような夢を続けてみるなどという事は、今まで無かった事だ。


 そうしている内、度胸も萎え、サイトを更新する手も鈍ってきた。今では消そうか、とすら思っている。
 口裂け女に関する熱は、冷めていた。柚木伏 亜紀が死んで、それは決定的なものとなった。
 ――もう、ふざけるワケにはいかない。
 もう、口裂け女など、ゴメンだ。


 ――しかし。夢を避ける事はできない。
 また、今日にでも明日にでも、その夢を見てしまうのだろう。
 口裂け女、なんていうサイトを作ったおかげだろうか? まさか。その程度でこんな事になるハズはないだろう。
 ……いや。
 本当の口裂け女が、あのサイトを目にして……、ワタシは目をつけられてしまったのではないだろうか?
 だとしたら……笑える。

 どの道、もうあのサイトを更新する気はないし、口裂け女など、もう考えたくもない。

 しかし。
 ――逃げられるのだろうか?
 という不安が、泉美を強く襲うのだった。





 藤森 一也はその日、体調がすぐれない理由で、会社を休んだ。
 最近は仕事もメチャクチャだ。やる気が湧かないから、同僚の信頼もどんどん失ってゆく。
 昔は――土日も喜んで出勤したものだ。
 娘のマヤに、「パパがんばって!」と励まされ、小躍りしながら。

 それが今は……何もかも失って、壊れていくだけ……。
 仕事などする気がまるで起きない。
 自分はひどい被害者だ。特別悪い事などしてこなかったハズなのに……最愛の娘と妻を殺され……今ではボウフラのような、ゴミのような人間に成り下がっている。
 ――もう自分には、価値などない。

 会社を休んで、する事もなくパチンコなどをし……、しこたま金を取られて気力をなくし、夕方前、家に戻って寝ようと思った。
 その帰宅途中、近くで火事があったのを思い出し、寄ってみた。


 住宅地外れの、空家の焼失跡。一也は少し離れた所から、眺める。
 ここで数日前、少女の遺体が発見された。柚木伏 亜紀という、中学生だ。

 どうしてこんな所にいたのか、誰にもわからないようだ。色々な推測が近所では飛び交っていた。空家でタバコでもふかしていたんだろう、というのが大方の説だ。放火したのでは?いや、自殺したのでは?などという見方もある。

 一也はこの住宅地で、あまりに人が死にすぎる事に、心を痛めていた。
 自分の娘、マヤ。そして妻の由美子。
 鈴木さん夫妻。奥さんの方は一応、行方不明という事になっているようだが……。
 そして今度の中学生の焼死。

 みんな、口裂け女がらみなのではないか、と思うと空恐ろしくなる。
 あのサイトは停まっていて、そういった推測なども描かれていない。事件に胸を痛めているのかも、と思ったりする。

 マヤと由美子のカタキを討てないまま、自分はただ毎日を虚しく送っている。
 あまり寝付けない。
 時に無性に悔しくなり……安らかには眠れない。
 今でも、悔しい。真相がわからないまま、というのは。

 ――誰でもいいから、真相を教えてほしい。そう一也は力なく、願う。
 そうでないと、どんどん俺はダメになっていくだけだ……。
 いや。このまま泣き崩れてしまいそうなほど、自分はもうダメになっているのだ……。


 「あのサイトに」
 どこかから、急に声が聞こえ、振り向く。

 ……辺りには、誰もいない。
 一也は目をしばたき、そして肩の力を抜く。

 「あのサイトに書き込むのよ。あの子を、叩き起こして」

 今度はそうハッキリ聞こえ、一也は念入りに辺りを見回した。
 ……しかし、誰の姿もない!


 「……ウソだろ?」
 幻聴なのか? なんなのだ?

 「あのサイトに……書き込めって? 何をだ?!」
 強く問う。しかし、返事はない。

 誰の声でもない……。これは、自分の願いなのか? 指針を、自分は心の中で知っているのか? 女の声だったが……。
 ふいに一也は苦笑する。俺にとっては、神の声かもしれない。

 そうだな。何か書き込んでみよう。あのサイトの管理人はきっと、そう悪い人じゃない。口裂け女の話題にただ飽きたのかもしれないが、でも、違う可能性もある。
 ――その管理人は、口裂け女の事件に深く関わり、何かしら胸を痛めているのかもしれない。

 一也は車に乗り込む。家に帰って、早速あのサイトに書き込もう。
 少しだけ、意気が湧き始めた。 


― 29 ―


 藤森 一也はリビングで、ノートパソコンの電源を入れる。そして、ネットに接続する。
 出て来る、子犬の壁紙。思わず微笑んでしまう。きっと由美子もこれを見て、少しは心が癒されていたんだろう、などと思ったりする。

 ――たくさんの、マヤの写真が詰め込まれているフォルダ。それを見つめる。
 ふいに悔しくなり、顔をしかめるが……、思い出に浸るのはまた後だ。今は、行動する時なのだ。
 ――「お気にいり」の中の、「恐怖の口裂け女」をクリックする。


 以前見た時より、さほど変わっていないようだ。出迎えてくれる、ゆがんだ顔の口裂け女。……やはり悪趣味だ。
 「……?」
 BBSを見て、一也はマユをひねる。
 1週間ほど前に、アダルトサイトの広告が書き込まれてある。それが、野放しにされている。
 ……つまり、管理人は、ここを見ていない??
 サイトは、停滞しているのか。

 だが……そうとも言い切れない。1週間程度で停滞とも決め付けられないだろう。
 とにかく、ここに書き込むのだ。……そう、「声」は言った。

 ……何を書き込めばいい?
 一也は首をひねって悩む。
 まずは思うがままに、キーボードを打っていく……。



 初めて書き込み致します。
 私は、口裂け女が出ると言われている、このサイトで紹介されている住宅地に、いる者です。
 恐らく、管理人さんのいう住宅地に間違いない、と思います。管理人さんは以前の書き込みの返事に、

 「私はI県在住です。ウワサに挙げた住宅地の近くは、県内有数の桜の名所があります。そして住宅地南側外れにはビデオレンタル店があります」

 と書かれてありました。I県が岩手県だとしたら、すべて合致致します。
 そして、私は事件の被害者の遺族なのです。

 ……ですが、このサイトの悪口を書きに来たのではありません。
 管理人さんに、お力を借りたくて、書き込みしたのです。
 どうか、この私の探している「口裂け女」の情報を、お聞かせ下さい。
 その口裂け女は、私の家族を殺した者なのかもしれないのです。

 馬鹿な話かもしれませんが、私は真剣です。
 もし、口裂け女がデタラメなのであれば、あきらめもつきます。
 どうか、知っている情報をお聞かせ下さい。お願いします。



 そして、何度も文章を読み直し……、祈る思いで送信した。

 「口裂け女か……」
 そう一人ごちる。
 口にすると、なんと馬鹿げた響きになるのだろう。そんなものに、マヤと由美子が殺されたなどと、思いたくなくなってくる。

 「わからんよ……」
 一也はネットを切り、パソコンの電源も落とした。

 ――果たして、動きはあるだろうか。
 あのサイトの管理人は、口裂け女の事をどれだけ知っているのだろうか。
 そしてまた、そんなものは本当にいるのか……。
 今の一也には、何もわからなかった。





 その頃。口裂け女――鈴木 優子は、新たな空家に場所を移していた。
 当の住宅地から、2キロ離れた所にある、さびれた商店街の中の、潰れた店の一軒だった。店の入り口は厚いカーテンが引かれ、中の動きはわからない。誰も、そこにヒトが住んでいるなどと、夢にも思わない。優子も他人に姿を見られないよう、細心の注意をはらっている。無論、音は一切立てない。

 今は、亜紀にやられた傷と、やけどの治療におわれていた。
 手ひどくナイフでえぐられた胸の傷も、ただの人間なら即死していただろう。しかし、優子はバケモノである。そう簡単には死なない。
 優子も自分自身がなぜ死なないのか、よくわからなかった。ただ、死なないから生きている、というだけの事だ。

 皮膚の再生はあまりかんばしくない。
 胸の傷も、治ろうとしているのか、そのまま治らないのか、わからないくらいだった。
 死なない、というだけで、どうやら再生能力はそんなに優れているワケではないようだ。

 ――だとしたら、やはり自分に「死」はある。
 優子はここにきて、気づかされた思いがした。

 「クソが……!」
 痛みがひかない。だいぶ耐える事はできるが……あまり、よく寝る事ができないでいた。

 胸はいつも焼けているよう。
 傷口はえぐれ、包帯とガーゼで止血しているものの、そこがふさがらないから、「肉」に、直接それらをあてがわねばならない。その時の激痛は、言葉にならない……。
 しかも、肉が変色しはじめているようなのだ。
 ――要は、腐りかけている?

 優子は亜紀を憎み、その姉の亜矢をも憎む。
 だが今は、どうにもならない。
 ……このままでは、本当に死ぬ。


 だが。病院などには行けない。こんな傷でのこのこ行ったら、生きている方が不思議がられる。
 いや……でも、行った方がいいかもしれない。きっと、今よりマシな治療をしてくれるだろう……。瀕死を装って、行こう……。

 いやダメだ。自分は死んだ事になっている。鈴木 優子は、夫との事故後、行方不明なままなのだ。せっかくそうして、存在を消しかけているのに、シッポを捕まれるワケにはいかない。


 このまま。瀕死のまま……亜矢と会い、なんとか殺して……、バケモノとしての最期を飾ったらどうか?
 今が、動ける最後かもしれない。この先、どんどん力を失っていくばかりだとしたら……、動けるウチに、動いておきたい。

 やけどの跡も、ミジメなものだ。
 両手両足。その大半がケロイド状に醜く腫れあがり、感覚はまだ焼けているような状態だ。

 柚木伏 亜紀には……本当に、やられた。
 優子は悔しいのとおかしいのが一緒になり、大きく苦笑する。


 ――夏になる。
 もう、夏になりかけている。

 自分はどれだけ生きられるかわからないが……、自分の恐怖の伝承を、あの住宅地に刻んでやろう。……深々と。

 ――「赤いドレスの口裂け女」。

 その伝承を、後に揺るぎないものとするのは……これからなのだ。
 今受けている傷は、自分を急かすものだ。――停滞する事なく「動け」と、神が命じているのだ。

 薄暗い室内。
 優子は虚空を、きつく見つめた。




 (30話に続く)



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